命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「あるがまま詐欺」を考える(上)
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     7月の記事「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」には、何名かの方から、応答をいただきました。

     「あるがまま愛される恵み」が「キリストを主とする実生活」「みことばへの従順」「よい行い」「献身的歩み」になぜ、つながらないのか?

     私自身は、「愛と戒めを対立的に考える非聖書的信仰理解」や「十字架の愛さえも自己防衛目的に用いる罪深さ」や「愛への応答が困難な人格的欠損」などが、原因だろうと思っていました。


     そんな時、本ブログの記事に応答して書いて下さったこのエッセイを拝読し、「なるほど!」「そうだったのか!」「そうだよね!」が連発でした。是非ともお読みいただきたい内容です。

     「ロゴスミニストリーのブログ」より、エッセイ「神の戒めと愛」
    http://www.logos-ministries.org/blog/?p=4538

     根本的原因を「無条件の愛に十分触れられていない」としています。裸の自分を神の前に持っていっていない、偽りの自分で神の前に出ているに過ぎないとの見解です。それを「あるがまま」と称しているわけです。そもそもあるがままで出ておらず、「あるがままのちら見せ」程度で受容されたのを「あるがままの愛」とされてもねーと思うのです。

     どうも「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」の多くは、罪の自覚が乏しいように観察します。あるがままの自分に絶望したり、呆れたり、心から悲しんでいるようには見えません。むしろ醜い罪人の自分を隠した自分を神の前に差し出し、「罪のちら見せ」で様子見をして、OKだと知ったので、そんな自分が愛されていることを「あるがままで愛されている」と称している面もあるのでは?結局、本当の意味でのあるがままの自分で神様の前に出ず、自分自身もあるがままの自分を見ようとしない、残念な自分の現実に目を閉ざしたままのように思えてなりません。

     福音の本質を「恩寵先行・従順後続」と説明するのをお聞きしたことがあります。そもそも、「全てさらけだしてもあるがままで愛された」という恩寵体験がないのですから、キリストとみ言葉に従う「従順」が後続しないのはある意味当然なのかもしれません。

     また、「わがままクリスチャンと律法主義クリスチャンとは表裏一体」との見解は、私にとっては。目からウロコです。明け渡さない自分で生きれば、当然「自分の世界」で生きることなり、聖書とは別の「自分ルール」で生きるしかありません。これは、まさに別の形の律法主義です。

     聖書が明確に示している「戒め」「命令」「従順」「献身」を語れば、それを「律法的」として、拒絶する自分が、実は、「自分ルール」という「自己内律法」で歩んでいる自覚がないのです。ここにあるのは、神にあるがままで愛されていながら、あるがまま自分で神の前に出ず、その一方で「あるがままで愛されている」を根拠に、自己防衛をしているという構図であります。言い換えるなら、神の真実な愛に偽りで応答し、その真実な愛を自己防衛に利用しているのです。そうした信仰者にとっては、「従う」「捧げる」「よい行い」など神様の恵みの言葉である「戒め」は、排除するべきものとなります。

     このエッセイは、そうした福音理解を以下のように整理してくれています。

    「愛」 = 「自我の受容
    「戒め」 = 「規則

     愛というのは、「自分をあるがままで受け入れてくれること」でしかありません。しかも、それは、「あるがままで受け入れる神の愛に対して、偽りの自分のまま神の前に出てもOKの愛」なのです。つまり、「不真実で偽善的な自分を永久保存するお墨付きに利用するための愛」なのです。一方の戒めは、神が愛の故に与えた恵みでも、愛の応答として従うべきものでもなく、愛のガイドラインでもなくなります。なぜなら、「あるがままの自分を認めないもの」は、すべて愛に反するからです。

     「もしあなたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」とイエス様はおっしゃいました。ですから、以下のように言えるのでは?

    「愛」 = 「戒めへの従順
    「戒め」=「愛ゆえの恵み

     ところが「あるがままクリスチャン」は、こうはならないのです。愛と戒めは統合的であり、愛の故の戒めなのに、両者を対立的にとらえてしまいます。そうしないと「あるがままで神の前に出ていないそのままの自分」に対しての自己防衛ができないからです。

     この優れたエッセイを拝読し、「あるがままクリスチャン問題」は以下のような論理で説明できるかな?と思いました。

     「そもそもあるがままで神の前に出ていない、チラ見せ程度。」
    →「そのため実は、あるがままの愛に十分触れられていない」
    →「そこで偽りの自分を守らなくてはならない」
    →「そのために神のあるがままの愛を自己防衛に利用する」
    →「さらに、自己防衛のためには自己内ルールが必要となる」
    →「そのルールは愛と戒めを対立的にとらえて都合の悪い教えを排除するもの」
    →「かくして、神の愛を根拠として、律法的と他者を非難して、自己防衛を継続
    →「あるがままの愛を深く体験しないので、その愛に真実に応答することなき信仰生活の継続」
    →「結果として、いつまでも、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」


     つくづく優れたエッセイだと感心します。そして、ここまで、書いてきて思うのです。うーん、これって一種の詐欺行為ではないだろうか?と。今日は長くなりましたので、「何が詐欺的か?」は明日記します。
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