命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
育てよう、健全信徒(18)〜山本リンダクリスチャン
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     山本リンダ・クリスチャンとは、山本リンダさんのヒット曲を体現したクリスチャン。「高飛車肉食系女子」を描いたと思われる斬新な歌詞とそれに合致したへそ出しファッションと楽曲は社会現象となり、ちびまる子ちゃんのような小学生までが歌って踊った程でありました。

     山本リンダクリスチャンの第一の特徴は、「どうにもとまらない」の歌詞どおり。その基本姿勢は、「いつでも楽しい夢を見て生きているのが好きなのさ」と歌詞の主人公の如し。それは、主からの夢でなく、自己実現の夢。神様が喜ぶ夢でなく、自分を楽しませるための夢

     その夢を見ながら、「蝶になり、花になり、もうどうにもとまらない」状態です。周囲は何とか止めて、自分と神の関係を見つめて欲しいと願っているですが、当人の衝動的性格もあって止められないのです。御霊の実である自制の実も結実しておらず、御言葉に従うという基本姿勢も欠如しており、聖書の言葉による静止もが効きません。それどころから、衝動的な自己実現の夢のため、御心を従わせ、都合のよい聖書の言葉を引用する本末転倒。

     この状態が継続して、症状が悪化すると、次は、ヒット曲「狙い撃ち」の歌詞の如しであります。「この世はわたしのためにある」という恐るべき自己中心。この世どころか、神様さえも自分ためにあると思っているのではないかと心配になるほどのトホホな信仰姿勢

     「磨きかけたこの体そうなる値打ちがあるはずよ」の歌詞のように「自分の賜物は素晴らしく用いられ、、自分の夢は実現し、自分の生涯は祝福される」との仮想優越感に浸ってしまいます。自分の罪や神と人とに対しての過ちなど「自分に値打ちがない」と思える事実は、あっさりスルーして、
    「自分に値打ちがある」と思える事実ばかりに目を向けます。もはや、本当の自分から目を逸らし、自らを偽るかなりの重症。

     こうなると、周囲のクリスチャンも、三つ目のヒット曲のごとく、「きりきり舞い」であります。

     「どうにもとまらない」衝動と自己実現の夢、「狙い撃ち」の自己中心と仮想優越感、「きりきり舞」となる周囲のクリスチャン達・・・・。

     願わくは、「リンダ困っちゃう」のように当人が困っていただき、行き詰まりの中で、自己変革の必要性を悟り、神様からのお取り扱いを願っていただきたいもの。周囲ができる援助は、それを祈り続け、手伝っていくことくらいでしょうか?
    | | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 17:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
    育てよう、健全信徒(17)〜ダチョウ倶楽部クリスチャン
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       今や、バラエティー番組には欠かせぬ存在となっているのがダチョウ倶楽部の三人組。一方、教会に生息が確認されているのが、「ダチョウ倶楽部クリスチャン」であります。それは、ダチョウ倶楽部のお約束のギャクを教会内で体現するクリスチャンのこと。

       まずは、奉仕をお願いすると、「どうぞ、どうぞ」とばかりに、右手を差し出しお辞儀をしてのご辞退。奉仕や労苦は自分以外の方にお譲りしますという基本姿勢。

       次には、「〇〇しましょう」と勧めたり、アピールすれば「今、やろうと思ったのに〜」と、ダチョウ倶楽部のように、為すべき事をしない責任を他者に転化。チャレンジ、お勧めに応答するのでなく、即座にそれをした人物に責任転嫁しての拒否的態度。「明日からしようと思っていた」「来年から始めるつもりだった」「いつか、やらなくてはと考えていた」と言いながら、「いつまでもしないという現実」だけが続くわけです。

       終始、そうした自己中な信仰姿勢でいれば、教会生活に限界が訪れるもの。牧師に向かい「先生に一生ついていきます!」と宣言したのに、「先生には失望しました」と決別宣言。当初は「この教会でいのちをかけて仕えます」と誓ったはずが、「この教会では自分が活かされない」と離脱宣言。この変わり身の速さはダチョウ倶楽部のギャグ「くるりんぱ!」の如しであります。

       「どうぞどうぞ」で神と教会に仕えようとせず、「今、やろうと思ったのに」で為すべきことを先送りにし続け、自ら教会生活に限界を招いおきながら、挙句の果てには「くるりんぱ!」で、離脱、教会転会であります。

       こうした自己中、独りよがり、自己完結型の「ダチョウ倶楽部クリスチャン」は、何とかご聖霊の働きによって、みことばを通じて、神様のあふれる恵みが分かって、上島竜平さんのごとく、その恵みに見事なリアクションをしていただきたいと願うばかりです。
      | | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 19:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
      育てよう健全信徒(16)〜ギリシャ風クリスチャン
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         「ギリシャ風クリスチャン」と言いましても、ギリシャ彫刻のような均整の取れた肉体とお顔をお持ちの美男美女クリスチャンのことではありません。また、ギリシャ哲学者のごとく、思索的なクリスチャンのことでもありません。では、「ギリシャ風クリスチャン」とは、どのようなクリスチャンでしょうか?それは今日のギリシャ国内の経済状況のようなクリスチャンであります。

         膨大な借金を隠してのEU加盟。それが明らかになってもEU諸国の寛容さに支えられ、莫大な援助をいただきながらの再生の途上。にもかかわらず国民の皆様は、財政緊縮策に反対しておられる様子。実際の生活の厳しさが予想され、当事者である国民の心情は分からんでもありません。しかし、EU諸国やグローバルな経済の立場からは、こうしたギリシャの状況は、「おい、おい」となるでしょう。

         同じようにギリシャ風クリスチャンは、膨大な借金ならぬ膨大な罪を隠したままで、教会の一員となります。少なくとも指導者にだけは、お知らせすべき重大な罪を知らせず、悔い改めもなく、洗礼を受けての教会生活継続。やがて、その膨大な罪の借金が明らかになります。しかし、教会は、愛と赦しの共同体。その罪の事実を受け止めて、その方を決して排除せず回復に向かわせようと、悔改めを願い労します。

         しかし、財政緊縮策は御免とばかりに、悔改めや謝罪、悔改めに専念するための奉仕や交わりの制限も、受け入れたくないとのわがままぶり。それどころか、愛の故に悔い改めを願う周囲に「教会は愛がない」「あるがままで受け入れるのが愛」との逆切れ悔改めなき赦しの脅迫であります。。残念な罪の事実に心痛めながら、深い愛をもって受け止め、回復のために祈り、労している周囲のクリスチャン達にとっては「おい、おい」であります。

         ギリシャが今後EU脱退するかどうかは不明ですが、こうしたギリシャ風クリスチャンが、その愛と義に満ちた聖書的対処をする教会を脱退してしまうのは、残念ながら、よくあること。罪の無自覚やどうしようもない自己中心、それらに由来する教会の混乱、よく考えてみれば、これは古代ギリシャのコリント教会以来のギリシャ風。古代ギリシャ人はコスモポリタンだったようですから、21世紀の日本にギリシャ風クリスチャンがいても不思議はありません。

         こうしたギリシャ風は時空を超えた普遍的な課題であることを覚えて、聖書が記す使徒たちの葛藤や対処を読み取りながら、そこから指針を得て、向き合って行きたいものです。
        | | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 15:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
        育てよう健全信徒(15)てるてる坊主クリスチャン
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           明日が晴れるように願って、天候をも支配しておられる創造主なる神様ではなく、てるてる坊主に願いを託す・・・・そんなクリスチャンのことではありません。それは、てるてる坊主クリスチャン、それは童謡「てるてる坊主」の如き信仰姿勢のクリスチャンのことであります。

           皆様ご存知の一番の歌詞は以下の通り。

          ?てるてる坊主 てる坊主
          あした天気に しておくれ
          いつかの夢の 空のよに 晴れたら
          金の鈴あげよ

           願いを叶えてくれたら、褒美を与える神様、どっちが「主」でどっちが「従」なのでしょう。願いを託し、実現したら、褒美をつかわすのは、王様と家来の関係。これはどう見ても、人間が上でてるてる坊主が下です。そのように自分の願いを実現してくれたら、忠実に信仰生活を送るというのが、てるてる坊主クリスチャンの基本姿勢。

           この同様の怖いのは三番です。人間の本性というか、偶像礼拝の本質が描かれていて怖いです。

          ?てるてる坊主 てる坊主
          あした天気に しておくれ
          それでも曇って 泣いてたら
          そなたの首を チョンと切るぞ

           人の願いの実現のための手段、それが偶像礼拝です。自分の願いを祈っても、それが実現しなければ、信仰を離れる、教会を変る・・・。それは、偶像礼拝と本質的に大差ないでしょう。

           クリスチャンですから、信仰対象は正しいのです。しかし、信仰姿勢が間違っているのでしょう。いいえ、きっと正反対、主と従逆転であります。一見正しい信仰対象と信仰姿勢の逆転、それが、てるてる坊主クリスチャンの特徴。

           偶像礼拝とは、仏像や神棚に手を合わせ拝むことだけではないのは、聖書をお読みの皆様はご存知の通り。自分の願い通りに働いてくださる神だけを神とし、そうでない神を認めないければ、それは立派な偶像礼拝。聖書が「おのが腹を神とする」と表現している通りです。

           この繁栄指向の時代と社会にあっては、自己実現が神実現にとって代わり、おのが腹を神とし、神に仕えず神を自己実現のサポーターとし、人に仕えず、人を自己実現の召使としかねない、そうした誘惑は絶えずあり、誰もがその危険に面している自覚を持ちたいと思うのです。

           軒下やベランダにてるてる坊主を目撃したら、ノンクリスチャンの偶像礼拝として、受け止めるだけでなく、自らの信仰姿勢のチェックとするよいチャンスにもなるのでは?
          | | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 22:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
          育てよう健全信徒(14)蝶々クリ?
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             蝶々夫人は有名ですが、今回考えたいのは、蝶々クリスチャン、失礼ながら略せば「蝶々クリ」であります。蝶々クリスチャンとは、童謡、「ちょうちょう」のごとき信仰姿勢のクリスチャンであります。

            ちょうちょう ちょうちょう菜の葉にとまれ菜の葉に飽(あ)いたら桜にとまれ桜の花の 花から花へ とまれよ あそべあそべよ とまれ」

             この歌詞、真偽の程は明らかではありませんが、浮気常習犯の父親のことを母親の立場から子ども伝えているのだという説があります。当然、「花」は女性をたとえているのでしょう。

             ちょうちょうが菜の葉にとまるように、ある教会にとまります。しかし、菜の葉に飽くように、そこでの教会生活に飽きてしまい、桜のように魅力的に見える教会に移動。では、その桜教会で忠実に歩むかと言えば、桜の花から花へと、目新しい魅力を求めて、教会を移動し続けるのです。

             教会を移動することが一概に悪いというわけではありません。移動の動機やその信仰の本質に問題があるのです。また、この「蝶々クリスチャン」は、一昔前の「ジプシークリスチャン」とも異なります。ちなみに近年は「ジプシー」なる呼称も差別語とされるのが一般的で、「ロマ」と訂正されるようになっております。ただ、帰属意識が薄いことが原因ではないのです。当人に、人間関係形成が苦手であったり適応力の欠如などの欠点があるわけではないのです。

             蝶々クリスチャンは、まさに蜜を吸いに教会に来ているのです。「自分にとってのおいしい蜜」をいただくこと、それが、蝶々クリスチャンの教会生活のモチベーション。自分が教会を通じて神様に仕えるとか、教会を建て上げるために自らを与えるなどの発想はございません。

             教会は「霊的サービス業」で自分はそのサービスを受ける「顧客」であるかのような信仰理解、教会論、自己中発想であります。こういう発想であれば、当然、おいしい蜜に飽きれば、別の花に移ります。別の教会から目新しいおいしそうな蜜の香りがすれば、そちらに移動して蜜を吸うわけです。やがて、それも飽きて、さらに新たなおいしさを求めて移動を繰返します。これではグルメの食べ歩きと大差ありません。

             こうした教会生活においては、神の家族の形成はできません。家族なら嫌なこと不都合なこと、不満があっても簡単にはその場を去りません。しかし、蝶々クリスチャンにとっては教会の交わりは神の家族でなく、神のサービス業とその従業員なのですから、サービスに不満があれば、別の店に移動は、顧客、つまり信徒としての当然の権利となるわけです。

             はたから見れば、問題は明らかなのですが、当人はそれが、正常だと思っていることが多いようです。悲しいことに自己充足と顧客満足度の追求が、信仰の成長に置き換えられていることも。「自分を喜ばせることは中心としたおいしい蜜を求め続ける信仰生活」、それは信仰の中心である神を愛し、隣人を愛する歩みとは、正反対のように思えてなりません。

             どうもこうした教会生活は、「とまれよ あそべあそべよ とまれ」との歌詞の通り、遊び、レジャーの類ではないかと心配です。それは、目指しているのが、「神に従う生活」でなく、「神の恵みを利用して自らが楽しむレジャー」であるかのように観察するからです。
             
            | | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 16:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
            育てよう健全信徒(13)民主三首相クリスチャン
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               一旦、同様を離れて、思いついたので、記事にしました。今回考えみたいのは、民主三首相クリスチャンであります。つまり鳩山元首相、菅前首相、野田現首相のお三方ようなクリスチャンであります。「つまり」と言いながら「もっと」、分からなくなってしまいました。

               そもそも、これを思いついたのは、野田総理の所信表明演説に対しての小渕優子議員の質問にあります。その中に次のような名プレーズが。

               民主党政権が誕生してから、「できもしないことを言う元総理」、「思いつきを言う前総理」と続きましたが、今は「何も語らない総理」というのでは、言葉を武器にする政治家としてあまりに悲しいことです。

              「できもしないことを言う元総理」
              「思いつきを言う前総理」
              「何も語らない総理」

               もう、かつて総理候補を「軍人」「変人」「凡人」と断じた田中真紀子議員を彷彿させる辛辣なフレーズであります。

               でも、これって教会の中で起こっているなーと思うのです。

              「できもしないことをヴィジョンとか信仰とかの名目で言うクリスチャン」

               神様に由来するのをヴィジョンとか信仰というのだと思うんですけど。自己欲求に由来する自己実現を神様にも周囲のクリスチャンにも、支持応援していただこうとして、ヴィジョンとか信仰とか称するのは困るんですけど。一つ間違うと、聖書が示す「大言壮語」の罪なのではないかと心配。

              「思いつきをみこころとか、導きとか称して表明するクリスチャン」

               聖書を読んで、祈って思いつたこと=御心、導きではねー。「おこころ」を「みこころ」に置き換えて自己欲求を正当化されてもちょっとねー。自己実現のために、自分が神様を導いているのを「導き」といわれてもねー。自分が神様に導かれるのが導きだと思うんですけど。

              「発言責任を問われるのを恐れ、本物の信仰や御心でも何も語らないクリスチャン」

               本当に神様からのものなら、時には、大胆にヴィジョンを宣言し、信仰に立って発言し、御心や導きに従うことを表明するのは、教会の徳を立て、周囲にも信仰の励ましになるはず。こうしたことにおいて、慎重であることは大切ですが、臆病になってしまっては残念ですね。

               私も含め、多くの読者は、大なり小なりこうした未熟さや肉性に由来する失敗を通過しているのでは?

               このことは、牧師や役員なども例外ではないでしょう。リーダー的立場の方が、、民主三首相クリスチャンですと日本国民の政治不信ならぬ、牧師不信や教会不信につながりかねませんから、ご注意を。

              「できもしないことを言う元総理」
              「思いつきを言う前総理」
              「何も語らない総理」


              うーん、辛辣です。お互いは政治批判をする前に、聖なる自己批判をする必要があるのかもしれません。
              | | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 17:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
              育てよう健全信徒(12)ウイークリーどんぐりころころクリスチャン
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                 今回のシリーズは童謡をネタということで第12回目は「ウイークリー・どんぐりころころクリスチャン」であります。つまり、前回の「どんぐりころころクリスチャン」の別バージョン。

                 教会では主日礼拝がささげられ、クリスチャン達は祝福の基として世に遣わされていきます。どんぐりの木を離れて、「どんぐりゾロゾロ」と教会から証しの生活への派遣されるわけです。しかし、残念ながらどんぐりの中には、「礼拝から世に派遣されている」という意識ではなく、「世から礼拝に遣わされている」との「逆派遣意識」で信仰生活を送るどんぐりも。

                 そうしたどんぐりは、一週間単位で、「どんぐりころころ発・お山が恋しい着」のローテーション生活に。派遣意識があれば、ころころとお池に遣わされても、大丈夫。戦いや葛藤を経て、たとえ敗北や挫折があっても悔改めて、恋しいお山に帰ってくるのです。

                 しかし、逆派遣意識に基づくライフスタイルですと、「どんぶりこ」と、恐れも躊躇もなく、すっかりお池にはまってしまいます。これは「お池にはまってさあ大変」なのです。お池という神なき人間中心ワールドで、ドジョウ距離を置いたり、戦うことがありません。ドジョウと共に泥水に浸かり、世と調子をあわせまくりで、ドジョウと遊んでしまいます。

                 派遣意識のあるどんぐりならば、そこで、悔改め、立ち返りますが、逆派遣意識のどんぐりは、それが「定番の平日生活モード」なのです。およそ悔改めの必要を感じません。そのような使い分けダブルスタンダードが、自分のクリスチャンとしてのライフスタイルなのです。

                 では、すっかり、神様のことを忘れて、教会から離れてしまうかと言えば、週末になると「やっぱりお山が恋しい」のです。神様や教会の交わりからの離脱に至ることは、ありそうでないのです。

                 こうして、「どんぐりころころお池にはまってさあ大変→ドジョウと遊んでも悔改めず→やっぱりお山が恋しくて→主日礼拝出席→また、どんぐりころころ」というパターンを一年52回ほど繰返す、それが、「ウイークリー・どんぐりころころクリスチャン」。その根底にあるのは、逆派遣意識やダブルスタンダードの正当化

                 神様の派遣命令とは言え、どんぐりの木を離れて、お池に遣わされるのは、怖いです。辛いです。そこには葛藤や戦いがあるのですから。パウロでさえ、こころの片隅には恐れや恥を持っていたようです。ですから、お互い「どんぐりオロオロ」や「どんぐりソロソロ」あるいは「どんぐりトロトロ」でも良いので、正直に恐れや恥を認めながらも、どんぐりの木からお池に遣わされたいと願います。

                 そう、たとえ、「どんぐりボロボロ」になっても、悔改めるなら、恋しいお山に受け入れられ、神様は再派遣して下さる!その恵みに生かされていることがクリスチャンであることの喜びであり特権なのでしょう。
                | | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                育てよう健全信徒(11)どんぐりころころクリスチャン
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                   久しぶりのこのシリーズ、過去を振り返れば、こんなクリスチャンたちの課題を扱ってきました。

                  (1)押尾クリスチャン
                  http://blog.chiisana.org/?day=20090820

                  (2)ゴミ屋敷クリスチャン
                  http://blog.chiisana.org/?day=20090821

                  (3)子泣き爺クリスチャン
                  http://blog.chiisana.org/?day=20090822

                  (4)ゆっていクリスチャン
                  http://blog.chiisana.org/?eid=1322767

                  (5)ムーディークリスチャン
                  http://blog.chiisana.org/?eid=1322839

                  (6)ニンニク醤油だれクリスチャン
                  http://blog.chiisana.org/?eid=1322840

                  (7)結論先行型クリスチャン
                  http://blog.chiisana.org/?eid=1325103

                  (8)旗本退屈クリスチャン
                  http://blog.chiisana.org/?eid=1407895

                  (9)鑑定士・予想屋クリスチャン
                  http://blog.chiisana.org/?eid=1407897

                  (10)ブツブツ・ベッタリ・クリスチャン
                  http://blog.chiisana.org/?eid=1407898


                   そして、今回から数回は、童謡をネタに、お送りすることとしました!第11回目として扱いますのが、「どんぐりころころクリスチャン」であります。

                   教会というどんぐりの木が一人の宣教の実を結びます。それはどんぐりの実。しかし、木を離れて地面へ落下。何かの理由やきっかけで、教会生活を離れてしまいます。落ちた地面が平地だと思ったら大間違い。木の下の地面には傾斜があります。それは、罪と堕落への斜面なのです。

                   教会の交わりを離れ、祈りと聖書からも離れれば、その傾斜に負けてしまい「どんぐりころころ」が始まります。「どんぐりころころ」の次は「どんぶりこ」。ついには「お池にはまってさあ大変」となるわけです。お池とは神なき人間中心ワールドであります。そこで、出てくるのがドジョウです。ドジョウといっても某国の総理大臣ではございません。水清ければ魚住まずで、罪汚れという泥の中で生きるドジョウ、つまり罪への誘惑者であります。

                   ドジョウは甘い言葉で誘います。「坊ちゃん、一緒に遊びましょ」と。ドジョウは神の家族の坊ちゃんやお穣ちゃん罪の楽しみの享受と共有へと誘うのです。そして、2番の歌詞との通り残念ながら「しばらく一緒に遊んだら」という段階に。

                   しかし、神の救いの恵みは一方的です。人が神を捨てて離れても、神様は見捨てません。どんぐりころころクリスチャンも、「しばらく一緒に遊んだら」に続く、次のステップを神は備えておられたのです。罪の喜びに心満たされぬことを自覚し、「やっぱりお山が恋しいと、泣いてはドジョウを困らせた」となるのです。

                   クリスチャンたるもの、どんぐりころころで、お池にはまりドジョウと遊ぶまで堕落しても、神様はその者を我に変えらせ「やっぱりお山が恋しい」と神様のところ、教会の交わりへの帰還を願って泣くのです。

                   泣かれたドジョウはいい迷惑。「なんだ、おまえクリスチャンだったのかよ?だめだろ、クリスチャンがこんなことしてちゃー」とノンクリスチャンにごもっともなお説教をされて、山へ帰っていく思いを募らせます。

                   こんなとき、山の方から「帰って来いよ」との声やお便りがあれば、帰りやすいですね。教会生活を離れたどんぐりころころクリスチャンのために祈りがささげられたり、訪問がなされたり、手紙やメールがあったりすると、お山が恋しいと泣いているどんぐりころころクリスチャンは、お山に帰りやすいのでは?

                   どんぐりころころクリスチャンの発生は、ある程度、避けられないかもしれません。しかし大切なことの一つは、「やっぱりお山が恋しいと泣いてはドジョウを困らせ」ているクリスチャンに、「お山はいつでも大歓迎」とのメッセージが届いていることかと思います。
                  | | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 13:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                  キリスト教会イロモネア(5)デシャバル・バイオレット・No.1
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                     本日の色はバイオレット紫色であります。元ネタは、桑名正博の歌った「セクシャル・バイオレット・No.1

                     そこのお若いの、桑名正博をご存じないってか?この方、金持ちのボンボンです。いろいろあって、ロックミュージシャンになりました。メジャーヒットもあります。薬物でパクられたことも。その後、アン・ルイスと結婚し、やがて離婚。二人の長男である美勇士(みゅうじ)は、最近テレビ出てるようですね。両親が、桑名とアン・ルイスですから、生まれも育ちもロックです。現在、桑名さんは、会社を継いで社長さん。実は、かなりの社会慈善活動もしておられるとか。
                     
                     前置きはここまで。「デシャバル・バイオレット・No.1」であります。これは自分が一番でないと気が済まないクリスチャンのこと。あるいは自分が中心であったり、自分が注目をあびないと喜べない信仰者のこと。逆にいえば、他者が用いられ、評価されるために、支えたり、助けられないクリスチャンです。他者が用いられ評価されるとをそれを素直に喜べなかったりします。
                     
                     教会はキリストの体、ひとりひとりは各器官ですから、教会の交わりや働きにおいて、個人はチームプレイが当然。自分でヒットやホームランを打つでなく、送りバントを喜んで確実にできることが大切。ところが、デシャバル・バイオレットNo.1は「ここは送りバントでしょー」という場面で、一発長打を狙うのです。自分がお立ち台に立って、ヒーローインタビューをうけることをチームの勝利以上に願っているのです。キリストの栄光のために、送りバントできないクリスチャンは、一器官として機能しないばかりか、体全体の機能を低下させます。
                     
                     ある学校のブラスバンドでのこと。優秀な成績をあげながらも、伸び悩んでいたとき、顧問の先生はそれまでファーストを吹いていた生徒とセカンドやサードを吹いていた生徒を、役割交代させました。最初は戸惑い、全体の表現も調和を欠きました。しかし、しばらくすると、元ファーストの生徒たちが、自らの役目を自覚し、優れたバンドになったそうです。その後、しばらくして元のパートに戻したとき、そのブラスバンドは、飛躍的に優れた演奏をし、それまで以上に高い評価を受けたのだとか。
                     
                     言うまでもなく、各楽器で最も力量の高かった生徒が他の生徒を活かすための演奏や表現、心構えを獲得したからでしょう。自己表現を捨てて、控えめな演奏で全体としての音楽表現を高めることを体得したということに違いありません。

                     そう考えますと、紫色で目立ちたがりの方は、黒子に徹するように神様に導かれたり、そのように強いられることもあるのでは。でも、それは、本当の意味で活躍し、用いられるために必要不可欠なプロセス。

                     そうです。「デシャバル・バイオレット・No.1」は、卒業すべき一過程であって、神様が願われるクリスチャンの継続的なあり方ではおよそないことを覚えたいものです。


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                    | | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 13:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                    キリスト教会イロモネア(4)不幸せの黄色いドンパチ
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                        このシリーズ、まだ終わっていません。いろとりどりです。今日は黄色。念のために申し上げておきますが、これ「幸せの黄色いハンカチ」のパロディーであります。

                       教会にとってもそこに集うクリスチャンにとっても不幸なのは、黄色いドンパチであります。「ドンパチ」と言っても、銃で撃ち合うわけではありません。銃撃戦の如き論争や言い合いであります。それが熱いものであっても、怒りや憎しみがなければ、有意義なものですし、建徳的な場合もあるでしょう。

                       よろしくないのは「黄色いから」であります。それは怒りや憎しみや敵意などを示すカラー。対話を通じて、相手を尊重理解し、一致に向かおうとするのでなく、自分の言い分の正しさを主張し、自分の思いを実現しようという時に、「黄色く」なるのでしょう。黄色は注意信号の色です。聖書にもこんな言葉がありますね。

                        「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」(?テモテ2:8)

                       「聖書的男前」は「男は黙って〇〇ビール」ではなく、「男は黙って手を上げお祈り」ということでしょうか?祈り不足で論争ばかりというのは、どうも「聖書的いけてない男」らしいですぞ。聖書が示すのは柔和さ、それは反論もできず、相手の意に沿う軟弱さではなく、どのような相手も受け止めながら、自分は折れない柔らさ、ぶつかり合わぬしなやかさ、しなう竹のような強さであります。

                       「拍子木は、両方が硬いから音が出る、一方が柔らかければ音は出ない

                       そんなたとえを聞いたことがあります。「そうだよなー、片方が拍子木でなくちくわなら、音出ないよなー」と漫画チックなイメージを思い描いたことがあります。

                       「黄色いドンパチ防止」のためには「ちくわクリスチャン」になることでしょうか?

                       「でも、ちくわクリスチャンって、芯がないから、柔和でなく単なる軟弱なんじゃない?」との反論が聞こえてきそうです。その反論、正しいと思います!
                       



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                      | | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 10:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
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