命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「異物混入疑惑」と「聖書デフォルメ疑惑」についてのブログ記事を紹介
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     昨日の記事は好評であったようです。昨日の記事で伝えたかったことの中心は、「教会の量的成長を願うあまりの福音からの逸脱」です。そして、「説教者を襲う異物混入の誘惑」と「巧みな異物混入を好む私たちの肉性」を指摘したつもりです。しかし、それとの関連で、福音理解の歪みや説教観の問題にも触れていているつもりです。さっそく川向氏が、昨日の記事に応答して、ブログ記事をアップして下さいました。大変、有益な記事だと思いますので、ご紹介申し上げます。

     ブログ「一キリスト者からのメッセージ」
    日本のキリスト教の一部の残念さ加減


     この記事は異物混入の結果としての「和魂洋才キリスト教」を取り上げています。これは、日本に生きるキリスト者であるなら、心得ておきたい歴史的認識であり、現状分析です。「和魂」を守れば、福音受容のハードルは下がるでしょうが、「一部聖書的価値転換不要の福音」となります。

     私が取り上げたように、封建的「親孝行」「亭主関白」などが、新たに聖書的根拠を得て定着化したら、クリスチャン家庭に福音の光は届きません。故に家庭でみことばに生きないキリスト者が大量生産されます。子どもはそれを見て育つのですから、信仰継承が困難となるのは当然でしょう。このことは「家庭」に限らず、多くの分野で見られる課題かと思います。


     また、「異物混入疑惑」に留まらず、極端に聖書の真理の一部が強調され、他の真理が無視されかねない「聖書のデフォルメ疑惑」について実に、的確な考察をされ、リアルな指摘をしておられると思います。教会や団体の使命がありますから、一部の真理が強調される必然性はあるでしょう。しかし、一部の真理によって、聖書の真理全体が再構築されること、一部の真理に従属するように他の真理が捻じ曲げられることは、聖書全体の包括的な真理を逆に見失わせているのではないかと、個人的には常々、余計なお世話だろうと思いつつも、勝手に心配をしております。

     結論に相当する大木先生の文章の引用は、痛すぎますが、謙虚かつ真摯に受け止めるべき言葉だと思いました。じっくり、読み返して考察したい優れた記事として紹介しました。福音を正しく包括的に理解し、従っていくために、きっとお役に立つでしょう。
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 22:39 | - | - | - |
    「チキンナゲット異物混入」の類似問題としての「礼拝説教異物混入」
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       先日から、マクドナルドのチキンナゲットにビニールなどのしており、食の安全を脅かす問題となっております。廃棄すべき鶏肉を使用していたことが発覚した中国工場からタイへと製造拠点を移したばかりだけに、同社も消費者もショックは大きいようです。

       そこで考えたのです。「神の言葉100%」である聖書を原材料とする礼拝説教にもし、異物が混入していたとしたら、霊的食の安全を脅かす大問題ではないかと。そして、さらに考えたのです。では、礼拝説教における「異物」とは何を意味するのかと?「説教がチキンナゲットなら、何が異物に相当するのか?」と。

       さっそく異物疑惑がかかるのが、ジョークやギャグの類です。礼拝の中では、それを「異物」として混入を許さない厳格な教会もあることでしょう。でも、そこまで厳格な礼拝でなければ、ジョークやギャグも、適量であるならば、これはナゲットの肉に擦り込まれた「スパイス」ということで、お許しいただけないでしょうか?

       スパイスは本来原材料の味を引き立たせるはずなのですが、逆効果の場合もありますよね。時代遅れの昭和ジョークは、賞味期限切れのスパイスで、寒くて苦笑するしかないおやじギャグは、素材の風味を損なう入れ間違えたスパイスと言うことで、説教の質を低下させることもありますが、そこはまあ、大目に見てやってください。


       次に異物の疑いをかけたのは、「説教者の自身の考え」です。「説教とは説教者が語るのでなく聖書に語らせる行為」などと言われます。私自身の説教観もそうです。厳格な説教観ですと、説教者自身の考えは、極力排除すべきとされます。私も、それに近い主義で、一定の必然性効果がある場合に自分の思い、考えだと明示した上で、混入?します。「聖書が語っているように見せて、説教が語るのは、詐欺行為に準ずる」と考えているからです。

       そういうわけで、説教者自身の考えや思いなどは、「入れるべきでない」という意見から、「入れてもよい」という意見まであるので、まあ、これは「食品添加物」に相当するということで、どうでしょう?いれるべきではないとの考えは、「無添加食品」のような硬派な説教観なのでしょう。入れることが説教をよりよくし、会衆の益になるとの考え方もあるので、いよいよ食品添加物に似ているかと思うのです。

       ただ、原材料より食品添加物が多くなってしまうと、やはり体に悪いです。そうした説教を続けて摂取すると霊的健康を害する恐れがあるように思います。聖書箇所を読んだ読書感想文のような礼拝説教は、神の言葉でなく説教者の言葉の伝達となり、会衆は、「神のみこころ」より、「牧師のおこころ」を受け取り、それに従うことになりかねないと危惧します。

       「説教者の信仰理解が中心的に語られる説教は説教に非ず」(み言葉への応答の範囲で「奨励」としてならOKかな?)と私自身は考えるのですが、これは、厳格すぎる説教観で、排他的で独善的なのでしょうか?「礼拝説教はみ言葉の解き明かしであるべき」とのある意味、偏狭な説教観を前提とした意見ですので、失礼はお赦し下さい。とにかく説教者の考えは、「異物」ではないでしょうが、「食品添加物」に相当するなら、過剰摂取による健康被害も予想されるので、使用については一定の慎重さも必要かなと思ったりします。

       個人的基準ですと、このレベルで「異物混入」と説教者を責めるのは、酷かと思われます。「先生、会衆の霊的健康のために、食品添加物の使用はもう少し控えていただけませんか?」とお願いするくらいが適切でしょうか?


       多分、礼拝説教において、最も混入しがちな異物は、非聖書思想でありましょう。聖書の言葉でスタートながら、語られているのは聖書ではなく、思想家や学者の見解ということもなきにしもあらずです。聖書の特定のテキストが説き明かされているはずが、事実上は、別の価値観や思想の紹介となっているケースもあったりなかったりです。

       たとえば、聖書が命じる「父母を敬いなさい」は「親孝行奨励」ではないし、「夫に従いなさい」は、「天主関白の勧め」ではありません。聖書の言葉をもって、民族や文化の伝統的価値観を、聖書的な検証もせずに、無批判に肯定して実行を勧めるなら、それは、「異物混入疑惑」の対象でありましょう。

       さらに、聖書から語られたのが、結局、聖書の言葉を根拠とした成功哲学やカウンセリング理論、はたまた怪しげな自己啓発セミナーだったとしたら、「それって異物でしょう!」と指摘されてしかるべきかと思いますし、そうした説教に触れ続ける中、疑問を持ちながら、苦悩・葛藤している信徒もおられるようです。

       最も恐ろしいことは、異物の混入によって、聖書の言葉が、非聖書的な思想や神以外の人物の言葉に置き換えられてしまうことです。そうなると、たとえば、成功哲学や牧師の言葉を信じて従うことが、聖書を信じて、神に従うことに、なってしまうわけです。ここまでいくと「礼拝説教がマインドコントロールの一手段に転じている」との辛辣な評価を受けかねません。

       都合のいい教えを好み、真理より空想話が好きなのは、第二テモテ4章が示している私たち人間の残念な本性です。クリスチャンホーム子弟やミッションスクール出身者ではない、聖書的な価値観に触れていない未信者は、そうした説教に魅力を覚えて集まっていくことでしょう。いいえ、第二テモテ4章は、クリスチャンたちまでもが、そうした教えを提供する教師を求める時代の到来を予告しています。

       そうです!異物の怖さはここにあります。巧みに混入された異物は、異物として認識されないばかりか、おいしいのです!世の声や人の言葉ばかりを摂取してきた罪人は、その偽物のおいしさに惹かれてしまうのです。味覚が破壊されている罪人には、とりあえずその味がインスタントでインパクトがあるのです。浅くて即効性があるのです。

       そして、そのおいしさは、素材自身が持つ自然のうまみではなく、人工的に造られたうまみ成分によるもの。言い換えるなら、「神に信頼し従い、自由と責任に生きるおいしさとは異なる「人に依存し、自由と責任を放棄して生きるおいしさ」。ファーストフードに譬えるなら「自由と責任セット」ではなく、「自由からの逃亡と責任放棄セット」であります。

       私は思います。大会衆を教会に集める最も効果的な方法は、皮肉にも「巧みな異物混入」だと。それが、罪人にとっては即効性とインパクトのあるおいしさだからです。

       教会の量的成長を願うあまりこの「禁断の異物混入」に手を染めてはならないでしょう。時に、一部の大規模教会で語られている礼拝説教に「異物混入疑惑」がかけられます。それは、第二テモテの4章という一定、聖書的な根拠もあるわけですから、まったくの言いがかりとは言い切れないでしょう。


       今日の記事のタイトルは、「チキンナゲット異物混入」の類似問題としての「礼拝説教異物混入」です。近年問題視されているカルト問題や信仰理解の逸脱などは、チキンナゲットの異物混入に、なぞらえて礼拝説教を考えてみると、意外とその本質にたどり着けてしまうのではないでしょうか?
      | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:40 | - | - | - |
      悪事を働く者の類型、教会内では?
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         昨日の記事で示した類型を教会内に当てはめてみようというのが、今日の記事の趣旨です。まずは昨日のおさらいです。安易な類型化であることは百も承知ですが、話を分かりやすくし、イメージしやすいように、以下のように四つの分類しました。

        1.「悪事を働く悪人」タイプ  悪事の原因:悪意   例示となる会見者:佐村河内氏

        2.「悪事を働く善人」タイプ  悪事の原因:弱さ   例示となる会見者:新垣氏

        3.「悪事を働く小人」タイプ  悪事の原因 :幼児性  例示となる会見者:号泣議員

        4.「悪事を働く病人」タイプ  悪事の原因 :病的人格 例示となる会見者:小保方氏


         どうでしょう?これらはお互いにとって、自分自身や周囲にいる悪事を働く者についてだいたい網羅していないでしょうか?

        1.通常、クリスチャンが明確な悪意をもって悪事を働くことはないように思いますが、そうでもないでしょう。時にそれは起こります。その代表的要因は嫉妬、妬みであります。カインを始祖として、人は他者を妬み、相手の破滅や失敗や時には死を願うものです。

         また、「無意識の悪意」というのもあります。自覚をしていない悪意です。無意識に他者を利用して自己願望を実現しようとするような潜在的悪意は、誰にもありうることでしょう。

         さらに、クリスチャンの場合、ややこしいのでは、「善意という名の悪意」です。クリスチャンは、信仰を持つが故に自己義認に走りやすく自分を義として、相手を不義と決めつけて対します。本当に相手のためを願うのでなく、自分が信じる主観的な正義によって行動するので、その動機は主観的には善意でも、客観的には悪意としか思えない場合があります。

         言い換えるなら「ひとりよがり善意」「主観的善意=客観的悪意」「自分の善意=本当の善意との妄想」であります。相手のためと思いながら、実際は相手の人格を否定する言動、教会のためと言いながら、教会を傷つける言動などは、身に覚えのある読者も多いのでは?


        2.一般的にクリスチャンが手を染めてしまう悪事の多くはこのタイプでしょう。世と調子を合わせての悪事、誘惑に負けてしまっての悪事、み言葉と信仰に立ち切れず手を染めてしまう悪事。もちろん、弱さからでも罪は罪です。「神様は弱さを分かって下さるから赦しておられる」と自己完結して悔い改めなくてよいとの考えるなら、それは大間違いです。神様は弱さを分かって下さり、赦して下さる」からこそ、悔い改めるのです。そして、赦され、豊かなあわれみを受けて、回復へと向かうのです。


        3.愛と甘えが、悪気もなく混同されてしまうのが、日本の文化の問題です。「」は成熟した大人の世界です。逆に「甘え」は幼稚で依存的な子どもの世界です。幼児性を温存したままで、大人になったクリスチャンにとっては、教会は格好の甘えの場となります。職場や学校、家庭や地域では、甘えが赦されません。一週間のたまったストレスを、教会で甘えることによって解消するのです。その結果、教会が幼児的な欲求を満たす場となってしまうわけです。

         もちろん、教会で「甘えさせろ」とは大のおとなが言えるはずがありません。また、「自分を愛しなさい」と偉そうに言うわけにもいきません。ですから、「教会には愛はない」「牧師は愛が足りない」とか他者を批判して、自分が甘やかしてもらえるように誘導するのです。そして、日曜日に幼児的な甘えの欲求を満たして、月曜からは、甘えが許されぬストレスに満ちた世に送り出されていくのです。この場合の教会批判や牧師批判は、「幼児性による悪事」に過ぎません。周囲は間違っても同調してはならないのです。

         また、幼児が親の関心を引くために、悪事を働くのと同様に、牧師や周囲を困らせて、自分に関心を引き付けるクリスチャンもいないわけではありません。「傷ついた」との叫び、自分の不幸をことさらに訴えること、礼拝を休むことなど、様々な手段を通じて、意図的に人に心配と迷惑をかけ、関心を引き付けて甘えの欲求を満たそうとします。

         このタイプの悪人は立派に家庭を持ち、子どもを育て、社会的にも責任を果たしているクリスチャンにも、見られるものです。大人として責任を果たしているから、必ずしも、幼児性を温存していないとは限らないようです。立派な大人が、「幼児性のはけ口」、「甘えの欲求の実現の場」として、教会の交わりを利用する中で、悪事が起こるわけです。


        4.病的人格による悪事に牧師や教会全体が振り回されることは、今日、少なくありません。私自身も、何度も経験してきました。ここではまず、「平気でうそをつく人」パターンに限定して例示をしましょう。若い女性のクリスチャンで、最初は「純粋で、熱心な模範的クリスチャン」に見えたりします。信頼関係ができると、やがて、犯罪被害や不幸物語を始めます。

         当然、事実だと思って聞いて、対処しますが、やがて、疑問が生じ、矛盾が見えてきます。家族や教会外の友人に聞いてみると明らかな嘘と判明します。しかし、そのことを暗示したり、時には確認しても、事実だと言い張ります。自分が作りだした主観的事実があたかも現実であるかのように、矛盾や疑問を否定して、整合性を持たせていきます。

         それを受けて、白黒をつけて関係を絶ってしまわぬよう配慮しての牧会となることもあれば、牧師などに疑われたのをきっかけに彼女が教会を移動する場合も。犠牲を払って愛し、支えても、課題は解決に向かわないか、教会を去って行くので、周囲の徒労感と教会全体の疲弊は、かなりのものとなります。

         それ以外でも病的な人格に対人操作を受けて、純粋な愛をもって献身的な犠牲を払った挙句に、牧師夫妻が倒れてしまう、指導者やリーダーが心を病んでしまうなどの事例も時にお聞きします。これもある意味で「悪事を働く病人」のタイプと言えるのでは?

         
         というわけで、教会内部の悪事に当てはめてみました。1と2は分かりやすいのですが、3と4は、気が付くことが困難で、気が付き始めた時には、既に問題が深刻化している場合もあるようです。ですから、早めの発見、判別が大切かと思います。その意味で、本日の記事が役立てばと願っています。


         3と4のタイプについては、私からはこれといった対策や対処の知恵はありませんので、以前に取り上げた「牧会相談の実際」を再度紹介します。

        あめんどう出版サイト「牧会相談の実際」
        http://amendo.ocnk.net/product/33


         同著と関連した本ブログの記事も参考までに。

        「牧会相談の実際」を今、読める神学生、若手牧師は幸いである!

        個人的に?待望の「牧会相談の実際」が出版!!
        | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 16:27 | - | - | - |
        今こそ、受け止めたい小平照夫先生の言葉をご紹介
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           昨日は、小平照夫先生のお誕生日で、米寿をお迎えになられたそうです。照夫先生は最近、「燃えて輝く灯台」という題名の書物を出版されたそうで、その内容を川向氏がブログで紹介しておられます。何でも、この書物は非売品で、よく入手されたものだと感心します。

           その記事がこちら。

          ブログ「一キリスト者からのメッセージ」
          小平照夫著「燃えて輝く灯台」を読んだ 


           先週は、小平牧生先生の言葉を掲載しました。照夫先生は牧生先生のお父上にあたります。
          「日本を愛するキリスト者の会」について、小平牧生牧師のコメントを紹介します。

           このブログ記事を取り上げたのは、川向氏が、「日本を愛するキリスト者の会」を通じて、突きつけられている課題を考えるのに、最高の指針となる言葉が、小平照夫先生の著書の中に、いつくも記されているからです。川向氏は記事の最後で三つに絞って転載しています。それを紹介しておきます。

          「真の謙遜というものは、進んで自己を他に知ってもらい、自分も他を知っていくという広い心の中にある。」

          「西欧化されたキリスト教の目をもって無批判的に日本文化のすべての打ち捨てることはよくないし、その反対に内村鑑三、中田重などに見られる西洋キリスト教への対決姿勢にも日本人的閉鎖性の影を見せられるようである。」

          「主の福音を民族主義、伝統主義、文化、風俗、習慣によって縛ってはいけない。」


           どんな偉大な主の器にも、失敗はありますし、そのまま継承すべきではない一面や要素はあるものです。そのことは聖書に登場する信仰のリーダーのほぼ全員が該当者と言えるでしょう。内村師も中田師も同様で、それらのマイナス要素は、部分的なものであって、全体の偉大さの否定材料とはならないと思うのです。むしろ「先駆的な試行錯誤」によって、後に続く者たちが同じ過ちを避けられるように遺産を残して下さったと評価すべき面もあるのでしょう。

           詳細は、どうぞ、冒頭でリンクしたブログ記事をお読みください。文脈の中で三つの引用を読んでいただけば、さらに深く教えられること間違いなしですから。燃えるような熱い救霊の心と共に、過去の試行錯誤に学びうる冷静な頭脳を持って歩んでこられた先輩の言葉は、「後世への最大級の遺産」と言うべきでしょう。今こそ受け止めたい言葉としてご紹介申し上げます。
          | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 22:13 | - | - | - |
          「未来をイメージする世代」と「それをつなぐ世代」と「その姿をメッセージとして受け止める世代」
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             昨日の報道によれば、ノーベル賞の授賞式を終えた天野浩教授は、メディアのインタビューに応えて「受賞については、未来をイメージした赤崎教授と、それをつないだ自分たちの共同受賞であり、それ自体が若者への メッセージだと思う」と語ったそうです。

             この言葉には大変、感銘を受けました。ここでは、三つの世代について言及しています。

            まず、未来をイメージした第一世代、

            それをつないだ第二世代

            その姿をメッセージとして受け取める第三世代


             この世代関係を思い巡らしていると、「戦後のキリスト教会の世代関係と酷似しているな」との思いに至ったのです。


             敗戦後の日本にあって未来をイメージした第一世代です。

             イメージしたのは、リバイバルのヴィジョンや成熟した教会形成の幻、あるいは福音によって変革された日本社会の姿であったことでしょう。既にその実現を見ることなく、天に帰られた先輩方も多いことを思います。

            「つなぐべきもが何かを示してきたか?」
            「つないでくれる人材を育ててきたか?」
            「つなぐ使命と責任を委譲してきたか?」

             そんなことが第一世代は、問われてきましたし、今でも問われているのでしょう。


             それをつないだ第二世代が、今やリーダーとなっているようです。

            「自分たちは正しくつないできたか?」
            「つなぐべきものを誤っていないか?」
            何をつなぐべきなのか?」
            「つなぐ努力をしてきたか?」
            「つなぐ使命を忘れていないか?」

             今、第二世代はそんなことを先輩や周囲から問われたり、自問しているのかもしれません。


             そして、次世代がいます。第二世代にとって、今、最も問われるべきことはこれでしょう。

            「先輩世代が抱いた未来のイメージを、つないでいる姿を、次世代に見せているか?

            「見せられているとしたら、次世代は、そのメッセージを受け止めてくれているのか?」

             上の世代に対しては、継承責任、下の世代に対してはモデル提示の責任があるはずです。

             そして、それは教職か信徒かに関係なく、すべての信仰リーダーに求められていると思うのです。


            未来をイメージする世代」と「それをつなぐ世代」と「その姿をメッセージとして受け止める世代」

             赤崎教授と天野教授の共同受賞は、戦後のキリスト教会の信仰リーダーにおける世代間関係のあるべき姿のように思えてなりません。
            | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 23:50 | - | - | - |
            似て非なるもの、「使命」と「生きがい」(2)〜その本質的違い
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               二回目ですが、今回は似て非なる「使命」と「生きがい」を、その違いを明確化するために、シンプルに比較対称してみます。


              「使命」は神様からのもで、究極的には、神様のためのもの。

              「生きがい」は、自分の必要からのもので、究極的には自分のためのもの。


              「使命」に生きる者は、そのアイデンティティーを、使命の与え主である神との関係で確立する。

              「生きがいに」に生きる者は、そのアイデンティティーを、対象となる人物や自分の業に置く。


              「使命」が完了となり、使命がなくなっても、その人のアイデンティティーは、揺るがない。

              「生きがいが」が完了となり、それがなくなると、その人のアイデンティティーは、混乱したり、喪失となったり。


              「使命」は、完了するし、同じ使命をずっと持ち続ける必要はない。

              「生きがい」は、生きていくためには、必要なので、完了させないようにする。


              「使命」は依存対象とならないし、使命に生きる者は、神との関係において自立度が高い。

              「生きがい」は依存対象となりやすく、神以上にそれに依存をしてしまい、自立を失いやすい


              「使命」は、偶像化されることがない、与え主の神を意識しているから。

              「生きがい」は偶像化されやすい、神より自分の充実感、自己価値、自己効力感を意識しやすいから。


              「使命」を果たせば、当人には主にある充実感と平安がある。

              「生きがい」を果たしてしまうと、喪失感と不安が訪れる。


              「使命」に生きる者は、神の業を妨げ、周囲と教会に迷惑をかけてまで、使命に執着しない。使命の担当を外れていることが自覚できるから。

              「生きがい」に生きる者は、神の業を妨げ、周囲と教会に迷惑をかけてまで、「使命」という名目実質上の「いきがい」にしがみつく。


               どうでしょう?使命と生きがいは似ているようで、その本質においては、正反対ではないでしょうか?時に、自分自身でも「使命」と「生きがい」の判別がつかなくなるものです。外側の類似性に惑わされて、本質を間違えないお互いでありたいと願います。
              | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 00:08 | - | - | - |
              2050年時の日本の教会〜迎えるチャンスとクライシス
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                 かつて私が勝手に「南国のブログ王子」と名付けた久保木牧師が「2050年日本の教会」と題して、シリーズ記事を書いておられます。的確な将来予想に立ちながら、優れた先見性と神学的考察によって、将来のあり方の一例と指針を示唆しています。信頼できる資料に基づく予想なので説得力もあり、描く教会や信徒の姿も実にリアルで現実感があります。これらの記事は、将来の教会を考える上で大変有益であると思いますので、全四回分をご紹介申し上げます。

                久保木牧師のきらきら探訪〜ゆるりと生きる〜
                 四つの記事を読んで、思ったことを少し記してみます。

                 既にに起こっていることですが、日本の教会の多くは、変化を強いられることでしょう。あと10年から20年で、大半の教会は現状での継続が不可能になると予想されます。教会内は、社会全体の移行以上に極端な少子高齢化を受けて、何よりリアルに経済面で成り立たないと思うのです。牧師夫妻の二人ともが働かなくて生活可能なのは、都市部の一定規模の教会か、富裕層を集めた教会か、現時点で青年をかなり多く集めている教会などでしょう。

                 教会を形成する人々も、かなり変化しているでしょう。「大卒で、日本国籍を持ち、社会参加し、経済的に安定しおり、結婚し、子どもを与えらえ、妻は専業主婦で、離婚はせず、両親で子どもを育て、精神疾患を患っていない」という条件に該当する教会員が多数派であったのは、20世紀で終わっています。健全な家庭で育った教養のある若者が、真面目に純粋に真理探究をして、教会を訪ねることは、なくなってきましたし、多くの教会は信仰継承に苦戦を強いられています。

                 クリスチャンホーム子弟が教会に留まらず、逆に、未信者家庭に育ち、求道する人たちのタイプは大きく変化しています。現在でも既に起こっている変化ですが、「学歴面での挫折経験者、日本以外の国籍、社会参加が不可能な方、貧困生活者生涯未婚者不妊に悩む夫婦、共働き夫婦、離婚経験者、片親家庭、精神疾患を患っている方」という条件の二つ以上を持つ方が教会の多数派となっていくでしょう。

                 「クリスチャンの夫たちが社会で働き、妻たちは専業主婦で教会で交わりや奉仕、教養や社会的地位のある教会員が地域の信頼を得て、教会員はそれなりに健全な家庭生活を送って、証しをしている」という理想像は、もう既に崩壊しています。いいえ、それは、本当の意味で「理想像」ではないでしょう。集まっている人々にとって、都合と居心地がよいだけで、それは「理想像」というより「偶像」に近いと私は思います。そもそも、聖書が描く教会はそんな「優等生集団」でも「勝ち組共同体」でも「同質者限定サークル」でもなかったはずです。

                 ですから、間違った理想像を偶像として持ち続けていくなら、あるいは、理想の名残りを残す教会の現状を今後も維持しようと願うなら、その教会は2050年まで、大きなクライシス(危機)を迎えてしまうでしょう。その結果、閉鎖や合併、吸収に至る教会も多く出るでしょう。(繁栄の神学のような信仰理解によって量的・外面的に栄える教会もあるかもしれません)


                 しかし、久保木先生が示唆されるような新しいあり方や方向に舵を取るなら、クライシスはチャンスに転ずるのは?と思うのです。人口減少と貧困の中、多様な人々が教会に集ってくる中で、教会はむしろ、それを「現状維持を破たんされるクライシス」としてでなく、「より聖書的な教会のあり方に変化するチャンス」として受け止めるべきではないかと思います。久保木牧師が書いておられるように、貧しさと弱さこそが、教会本来の愛の交わりをもたらすからです。

                 ある教会は、今後、予想される貧しさと弱さを恐れて、その回避を願って強行突破的現状維持を貫き、衰退・破たんをするのでは?と私は危惧しています。逆に、ある教会は、強いられてでも、貧しさと弱さを受け入れて、より聖書的な教会のあり方へと移行して、本当の意味での教会成長を遂げるだろうと期待しています。


                 私は後者の教会が、貧しさと弱さの恵みの中で、こうなることを期待しています。


                お金はあっても信仰がない教会が、お金はなくても信仰にあふれる教会となることを。

                愛が語られても、愛し合う交わりのない教会が、愛が語られなくても、愛しあう交わりに生きる教会となることを。

                「神の家族」という言葉に白々しさを覚える教会が、神の家族を実感する教会となることを。

                片親家庭の親子を支えきれなかった教会が、片親家庭を補う神の家族として機能する教会となることを。

                弱さや傷を持つ人々が疎外感を覚えていた教会が、それらの人々が安心を覚える教会になることを。

                貧しく弱い者に劣等感を与えていた教会が、貧しく弱いことの中にある深い恵みを実感させる教会となることを。

                同調圧力で居心地の悪さを与えていた教会が、多様な人々が受け入れられていると実感できる教会になることを。

                在留異国人に溶け込めめない抵抗感を与えていた教会が、愛し受け入れられる喜びを与える教会になることを。

                牧師に依存し、牧師にばかり負担を強いてした教会が、信徒も教え合い、助け合い、共に成長する教会になることを。

                貧しさと弱さの回避を願っていた教会が、貧しさと弱さを強いられて、より聖書的な教会へと成長することを。


                 今後、予想される、いいえ、多くの教会が強いられる貧しさと弱さが、日本の教会に大きな恵みをもたらすことを期待しています。もちろん、貧しさと弱さには、苦痛も戦いも試練も伴うでしょう。しかし、与えられる恵みはそれを補ってあまりあるものとなるのではないでしょうか。

                 年齢を考えると、2050年の日本の教会を私は見ることが難しいかもしれません。悲観材料も多いですが、私は失望していません。むしろ、高度経済成長期のような繁栄や成功とは異なる「成熟した教会成長」が、貧しさと弱さのなかで、実現されるだろうと希望さえ抱いています。

                 現在の2014年時点において、既に、2050年を未来展望して、「前例踏襲」と「現状維持」と「成功体験再現指向」から、より忠実に「聖書の愛と交わりを実践する教会」へのシフトチェンジが迫られているように思えてなりません。クリスチャン個人も、教会が経験する貧しさと弱さを「強いられた恵み」として受け止めるか、「回避すべき災い」として受け止めるか?が問われるに違いありません。久保木牧師の四つのブログ記事から、2050年時の教会に大きな希望をいただくとともに、いよいよそのことをリアルに感じています。
                | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 17:49 | - | - | - |
                「神に愛されているから、価値がある」と神に背いた罪人が簡単に言っていいのか?という問い掛け
                0
                   シリーズの途中ですが、よいタイミングで、最高のブログ記事に接したので、今日は、そのことを記します。 

                   「価値があるから(神様に)愛されているのではない。(神様に)愛されているから価値があるんだ。愛が先で価値が後」などと、金曜日はTCUのシオン祭でもメッセージしてきました。いつも、こうしたメッセージをしながら、聖書的真理との確信はありますし、一つのメッセージとしては適切だと確信しています。しかし、心の片隅で「こればかりだと、一面的だよなー」とも思ってきたのも事実です。

                   これまで本ブログでは、「あるがままで愛されている止まりの福音」とか「自己愛性信仰障害」とか、これにまつわる昨今の信仰理解の歪みや信仰者自身の課題について何度か記してきました。「神様にあるがままで愛されている、だから、価値がある」は、真理だけれども、常に福音全体の中で、受け止められるべきだと思っていました。

                   そんな私にとっては、TCUから帰ったばかりのタイミングで、お読みしたG先生のブログ記事は、まさに最高の内容とタイミングでした。以下がその記事です。


                  ブログ「どこかで泉が湧くように」より   

                   「神にあるがままで愛されているから価値があると神に背いた人間の側が言えるのか?」との問いや「神の一人子より罪人の方が価値があるはずがない」という自明の理などは、大変、納得がいきました。ありえない恵みの前に本来「知るをえず」と応答すべき罪人が、明るく「自明の理」と言い切ってしまえることに対して持っていた違和感が、スッキリしました。

                   光の中でのみ十字架を見て、語るばかりで、闇の中でそれをしないその一面性が、自分自身も含めて、福音理解の乏しさや信仰者の課題を産んでいるのだろうなと思わされます。もしかしたら、こうした明るい一方の十字架理解は、(暗いのが嫌いなアメリカ人気質による)「アメリカ教」に由来しているのかもしれません。ただ、そうだとしても、それを取り入れたのは、日本の教会の側の責任でありましょう。「神様にありのままで愛されている」とのメッセージに「神に愛されているオレってスゲー」と応答する一部の新世代のクリスチャンなどは、まさに自らの罪や神の御苦しみなどの闇を取り除いた「ピカピカ十字架」なのでしょう。

                   いずれにせよ、このブログ記事は、自分自身が語りながら、「これだけだと、一面的だよなー」と感じてきた事が言語化され、理路整然と明白化されたようで、感謝至極です。同時に、自分自身の十字架理解の一面性を言い当てられたようで、悔い改めるばかりです。ここは素直に、自らの浅薄さを認め、悔い改めて、信仰理解を深めるしかないと思っています。


                  「神にあるがままで愛されているから、自分には価値がある」と神に背いた罪人の側が簡単に言っていいのか?という問い掛け

                   私の頭の中では、こんな翻訳がされました。

                  「言ってることは正しいけど、それ、お前の側が言うことかよ?神様の側におっしゃっていただくことと違うんか?」

                   この問い掛けを受けながら、自分が十字架を軽量化しているように思えました。

                   昨今の福音理解、とりわけ福音派の十字架理解について、極めて有益な記事だと思いますので、ご一読を強くお勧めします。
                  | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 19:52 | - | - | - |
                  「若者を教会へ」と願う方々のための「たとえ話」
                  0
                     昨日の記事が好評であったようなので、もう、一つ。学生・青年の活性化をテーマとした研修会では、「若者への宣教は、タラントのたとえと同様ではないか?」と問いかけて、「ある当たり前のこと」の実行を呼びかけました。今回はそれをブログで紹介します。ここでは、趣旨は同じながら、研修会とは違って「福音書風」にアレンジして掲載します。
                     

                    1.若者の活性化は、マタイ25章に記されている「タラントのたとえ」のようです。


                    2.主は、おのおのその能力に応じて、ある教会には五人、別の教会には二人、もう一つの教会には、一人若い魂を任せて、それから、教会の結実を願って、見守り祈っておられた。
                     

                    3.五人の若い魂を任せられた教会は、すぐに愛し、教え、育て、さらに五人の若い魂を獲得したわけではないが、着実に成熟に向かわせた。


                    4.同様に、二人を任せられた教会も、二人を自立した信仰者へと育てていった。


                    5.ところが、一人を任せられた教会は、すぐに、一人でも多くの若い魂を獲得しようとし、救われたばかりの若い魂に、多くの奉仕をさせ、証しの生活ができない未熟さを放置する一方で友だちを教会に連れてくるように強く勧めた。その結果、教会生活に疲れ、信仰生活の目的も見失い、二年後には教会を去って行った。


                    6.さて、よほどたってから、教会の主が帰って来て、諸教会と結実の評価をした。


                    7.すると、五人の若い魂を任せられた教会が来て、五人の結実報告書を差し出して言った。「主よ、五人を任せて下さいましたが、ご覧ください。五人は、み言葉に生きて、職場や学校で証しをしています。最近は家族や友人が、教会の交わりに加わっています。」

                    8.教会の主はその教会に言った。「よくやった。良い忠実な教会だ。あなた方は、わずかな若い魂に忠実だったから、私はあなたにたくさんの若い魂を任せよう。主の喜びをともに喜んでくれ。」
                     

                    9.二人の若い魂を委ねられた教会も来て言った。「主よ、二人を任せて下さいましたが、ご覧ください。二人は信仰的に自立をして、牧師と共に教会を建て上げて、今は、結婚して、主の栄光を現すクリスチャンホームを形成中です。」


                    10.教会の主はその教会に言った。「よくやった。良い忠実な教会だ。あなた方は、わずかな若い魂に忠実だったから、私はあなたにたくさんの魂を任せよう。主の喜びをともに喜んでくれ。』
                     

                    11.ところが、一人の若い魂を任せられた教会も来て、言った。「主よ。あなたは、多くの魂が救われ、教会が大きくなることを願っておられる方だとわかっていました。


                    12.私たちは熱心になり、その若者に多くの奉仕をさせ、友だちを連れてくるように励まし続けました。そうしたら、2年後に教会を去ってしまいました。昔はそれで教会が大きくなったのに、最近の若者は、草食系でダメですね。」


                    13.ところが、主はその教会に答えて言った。「悪いなまけ者の教会だ。私が多くの魂が救われ、教会が大きくなることを願っていることを知っていたというのか。
                     

                    14.だったら、おまえはその若い魂を、そこまでの奉仕も伝道もさせず、とりあえず教会の交わりに留めておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、一人減らずに済み、それなりに恵みの中を歩んでいるのを見ることができただろうに。


                    15.だから、次に任せるはずだったその若い魂を、その教会から取り上げて、十人を任せた教会にやりなさい。


                    16.もしかすると、若い魂が育っていく教会は、与えられて豊かになり、若い魂が離れていく教会は、集うはずの魂までも取り上げられているのかも?


                    17.今、任せられている一人の若い魂を愛し、向き合い、育てようとしない教会は、次世代の結実から追い出しなさい。そこで「少子高齢化だ、教会存続の危機だ」と泣いて歯ぎしりするのです・・・と言われるのだけは、避けたいですね。



                     そこで、締めの一句、いや三句です。これが冒頭に記した「ある当たり前のこと」です。

                    若者が いないいないと 嘆くより、今いる 若者 育てましょう

                    神様に 若者送れと 祈るより、育てる教会 祈りましょう

                    若者の 救霊本気で 願うなら、求められるは 忠実さ



                    〈記事に関連して宣伝〉昨日と本日の記事のような辛辣で危険な?内容を含んでいてもよろしければ、教会、団体などで、青年宣教、次世代育成の講演もさせていただいております。ご依頼をお待ち申し上げております。

                    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 20:57 | - | - | - |
                    「若者を教会へ」と願う時、問われるべき動機
                    0
                       以前、ある団体から、「青年・学生の救いと成長」をテーマに講演を依頼されたことがあります。深刻な少子高齢化状態にある教会も多い団体であったで、ストレートに原因解明をして、意識変革を訴えることに躊躇がありました。「原因解明と意識変革のような真っ向勝負に応答できるだろうか?失望に終わらせてしまい、建徳的でないのでは?」と不安を持っていたわけです。

                       感謝なことに、その講演の一週間前に、若者への宣教で実を結んでおられる牧師に、お会いする機会がありました。正直に「何を話すのがよいだろう」と相談すると。「なぜ、若者に教会に来て欲しのか?教会を続けるためなのか?それとも、若者の魂を愛して、その救いを願っているのか?だと思います。」との返答。

                       「そう、そう、やっぱりそこだよなー!」と私も思ったのです。「そもそもの動機が問われなくては!」と確信をいただきました。「若者を教会存続という聖なる目的のための手段としているのか?純粋に愛の対象としているのか?」を問うことなしに、上の世代が、下の世代に対して、御心にかなう姿勢や意識を持つことは困難だろうと思ったのです。

                       この励ましをいただいて、講演の中では、恐れずに、はっきりそれを問いかけました。年配の信徒の方、何名もの方から、「一番痛いところを突かれた」「動機が問われて、悔い改めをしました」「そこから始めなくてはいけませんね」との応答をいただき、少し安心をしました。


                       そこで、今回は本ブログでも、同様のことを問うことで、教会の次世代活性化のお役に立てればと願い、問い掛けをしてみます。


                       今日、少子高齢化状態にあって、ベテランクリスチャンたちが、「教会に若者が来てほしい」と願う、その本当の動機は何でしょう?

                      滅びゆく若い魂の救いを願っているから」でしょうか?それとも、「教会組織を存続させたいから」でしょうか?

                      若き魂への「愛」でしょうか?それとも、代々続く老舗存続の「願望」でしょうか?


                      教会に集う若い魂が救われ、教会に集い続けることを願うその本当の動機は何でしょう?

                      教会が「神の家族」として、下の世代を愛する故でしょうか?それとも、「伝統文化保存会」として、後継者を求めているからでしょうか?

                      その世代が祝福され、成長し、教会を建て上げることを願ってでしょうか?それとも、教会存続のための機能・役割を果たすことでしょうか?


                       親から愛されているとの実感がなく、家業の後継者としての期待を受けて育ってきた子どもたちの心の内はどうでしょう?「自分はこの家族の中愛されるために生まれたのではなく、家業を継ぐ機能として生まれてきた。自分でなくてもいいはず。他の誰かでも役割を果たせばいいんだろ?自分は何なのか?自分は何のために、この家族にいるのか?」と葛藤するでしょう。

                       愛で結ばれているはずの家族が、「機能>愛」「家業>家族」となれば、親の期待に潰れてしまう子どももいるでしょうし、多感な少年であれば、ぐれて家出してしまうかも知れません。私たちは、教会という神の家族をそのような家庭にしてはなりません。

                       中高生や青年に「将来の教会を頼むよ」「10年後の役員」「未来の信徒代表」「教会を支えるクリスチャンホームを」と年配のクリスチャンが期待の声をかけるのはよいことでしょう。でも、それとともに、中高生や青年への愛の言葉人格として尊重する言葉をかけなければ、どうなるでしょう?上の世代から人格的な愛の言葉は皆無である一方、機能的な期待の言葉だけを受け続けて、教会生活を送っていく若い世代の心の内は、どのようなものでしょう?「もしかして、自分は頭数、奉仕の手、献金の資金源としての存在?」と疑いを抱きかねません。

                       教会の中で「機能>愛」「家業>家族」を感じ取ってしまうなら、若い世代の中には、親からの愛情実感を持てず、後継者の期待だけを受ける子どもたち同様の葛藤を持ち、癒しがたい傷を受けてしまう者もいるのではと心配します。その中で、教会からの過大な期待に潰れてしまう若い魂はいないでしょうか?教会の交わりの中で、愛を実感できず、ぐれて神の家族から家出をする若者はいないでしょうか?


                       上の世代の動機は、何らかの言葉や教会のあり方となって、下の世代に伝わっているのではないでしょうか?下の世代は実はそれを敏感に感じ取っており、その動機に対しての応答として、上の世代を失望させるような姿勢やあり方をしているという面も無きにしも非ずと感じています。


                       少子高齢化する教会の中で、自分自身を含めて、ベテランクリスチャンこそ、自問しなければと思わされています。

                       自分が、「教会に若者を」と願うその本当の動機は何か?

                       若者へのか?教会存続の願望か?

                       「神の家族」として下の世代に接してきたか?「伝統文化保存会」として、接してきたか?

                       下の世代に注いできたのは、その人への「人格的愛」か?それとも他の人でも果たせる「機能的期待」か?

                       教会に集う下の世代は自分にとって、「愛すべき対象」か?それとも「機能・役割を果たすための手段」か?

                       これまでに、自分たちの間違った動機の故に、教会から去って行った若い魂があるのではないか?

                       
                       的外れな問い掛けであったら、お赦し下さい。しかし、もし、適切な問い掛けであるなら、次世代の救いと成長、また、将来の日本の教会のために、真摯に受け止めていただければ幸いです。
                      | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 15:09 | - | - | - |
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