命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
自己愛性信仰障害の時代(9)〜不健全自己愛、その内的原因
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     昨日は、古美門研介を不健全自己愛者のモデルとして提示して、その幼児性を指摘しました。また、大切なこととして、その幼児性は、親子関係に起因し、ナルシズムと全能感となって現われることを記しました。そうです。不健全自己愛は、幼児性を伴うのです。ある意味、幼児性を残してしまうことが、不健全自己愛を生み出すようです。

     大渕先生は「満たされない自己愛」の中で、発達心理学の定説を、読者に分かりやすく説明してくれます。フロイトは自己愛を、精神発達における乳幼児期の一段階と位置づけ、それを「克服されるべきもの」と見なしました。やがて、成長するに連れ、母子分離によって、幼児性の特徴である万能感に彩られたナルシズムから、人間は脱却をします。それは、苦痛を伴いますが、万能感を失う代わりに、もっと重要な欲求人間関係の中で満たすようになります。密接な愛に基づく人間関係の中で、根本的な欲求が満たされていきます。これが、人間の正常な精神的成長であり、それは、自己愛から他者愛(対象愛)への移行となって現われるのです。

     このようにフロイトは、「自己愛」→「その克服」→「他者愛」と主張しますが、大渕先生は、フロイトの説のように単純に、自己愛が他者愛に取って代わるのではないとの見解です。成長しても、自己愛は持続し、より現実的で機能的になり、その上に他者愛(対象愛)が成立すると主張します。そのようにして、健全な自尊心が満たされた人間は、自己愛へのとらわれから解放され、その関心や愛情は、他者へと向かうというのです。

     当たり前のことでしょうが、私はキリストの愛を受け止めるとは、単なる心理的作用などではないと考えています。信仰とは、決して心理現象ではないでしょう。単に、自己愛や自尊心を満たすなら、多くの宗教や人の愛など、福音以外のものにも可能だと思います。神の愛は、それよりもっと根源的な部分を満たしていると、聖書的には考えるべきでしょう。それは、アウグスティヌスが「人の心には神しか満たすことのできない空白がある」と表現した霊的空白でしょうし、「神のかたち」というジグソーパズルの最後のワンピースなのかもしれません。

     いずれにせよ、人間にとって最も根本的な部分が満たされるなら、それが、より表面的な部分である自尊心の健全な充足につながり、それを基盤にして、クリスチャンは、自己愛を克服し、神と人を愛する対象愛へと移行するのでしょう。神様は人の霊や心のシステムをそのように創造されいるのだろうと、勝手に推測しています。

     ところが、幼児期の万能感を伴うナルシズムが、成長過程で温存されたり、成長後も、そこに退行することがあります。万能感に満たされて、至福の表情で勝ち誇る古美門弁護士などは、不幸な親子関係によって、幼児期のナルシズムが温存されてしまったと推測される典型と言えるでしょう。

     母子密着からの脱却が、幼児的自己愛からの脱却を可能にします。というこことは、母子密着関係が、幼児期後も継続すれば、子どもは、幼児期の自己愛を温存してしまいます。私個人の見解としては、長時間労働による父親不在や夫婦より親子を優先する価値観によって、母子密着傾向が強い日本の家庭では、子どもが、幼児的自己愛を温存しやすいと思うのです。特に、母にとって異性の子どもである男子は、母子密着が続きやすく、そのため、成人後も自己愛が成熟せず、幼児期の特徴を残してしまい、不健全自己愛者になるのでは?と考えています。

     大渕先生も、甘やかされて育った子どもは、幼児期のナルシズムを持ち続けやすい傾向があるとの見解です。さらに先生は、ただ親の甘やかしだけではなく、親の側の投影されたナルシズムによって、子どもの問題を助長している場合もあることを指摘しています。具体例としてあげているのが、「子どもを自由にさせたい」と願う親に隠された問題です。大渕先生は、以下のように鋭い指摘をしておられます。引用しましょう。

     「子どもなんだから何でも好きなようにさせたい」「子どもには嫌な思いとか、不自由な思いをさせたくない」という親たち、あるいは「自分ができなかったことを子どもにはやらせてあげたい」という親もいる。実は、こうした親たちは、自分の自己愛を子どもに重ねており、こどもがわがままに振る舞う様子を見ることによって自分の自己愛が満たされたような気分になっているのである。

     これには、私自身もドキッとさせられました。親なら多少なりとも抱きやすい思いでしょう。特にいまどきは、「子どもを思う親として当然の気持ちだよねー」と賛同されかねません。子どもの時に不自由や厳しさの中で育った親は、本当に子どもの幸せや主体性を願ってそう思っているのか?を自己検証する必要がありそうです。実は、無意識のうちに、子どもを利用して、親である大人が、子ども自体に奪われた自由を満喫し、自らの幼児的自己愛を満たしているということがないでしょうか?

     厳格なクリスチャンホーム不自由さを覚えて育ったため、自らの子どもには、極端なまでに自由にさせる親を時々お見かけします。私はそれを、極端なのは問題だが、反動だろうし、親の気持ちとしては理解できることとして、受け止めていましたが、この大渕先生の文章を読み、今は、考え直す必要を覚えています。

     度を過ぎた宗教的厳格さの中で、極端な不自由さを覚えて育った親は、その反動ではなく、満たされなかった幼児期の自己愛の取り返しを、子どもを代理として、子どもをスポイルしながら、実現しているのではないか?そう思うと、人間の罪のあまりの根深さに恐ろしくなりました。どうか、自覚のある方々は、自己検証をされますよう強くお勧め申し上げます。それは、大切なお子さんを不健全自己愛者にしないためです。神と人を愛していきられる健全な大人に育てるためです。

     もう一つ、子どものしつけとの関連で、大渕先生は、これまたドキッとさせられる文章を記しておられます。これも以下に引用します。

     しつけの段階で突然厳しい扱いを受けた子どもは、とまどい、混乱し、無力感や不安のために、むしろ、幼児的万能感にしがみつき、そこに閉じこもろうとする。外面的には大人しく従順でありながら、内面的には現実離れした誇大妄想的自己感を持つという潜在的タイプの自己愛が強められる。

     どうでしょう?クリスチャンホームの子どもで、このタイプは珍しくないのでは?厳しいしつけが悪いのではないでしょう。子どもの発達段階や応答におかまいなしで、一方的に「この子を神様のもとに」「子育てで神の栄光」などの動機で、また、愛情実感できない表情や語気で、しつけをするなら、こうなりやすいのは当然かもしれません。私の体験でも、親の言うことをよく聞き、大人しいクリスチャン子弟の中に、びっくりするような不健全自己愛を見る事は少なくありません。

     このシリーズの(6)で指摘したように、「何でも自分に関連付けて、勝手に傷つきながら、親や教会に憎しみと怒りを蓄積している」わけです。どうか、「教会に来ているから、洗礼受けたからもう、大丈夫」などとは、判断されず、その子どもの心の深みにある思いを観察して、読み取っていただければと願います。

     その反対に、しつけが甘すぎた場合については、大渕先生は、こう記しています。

     一方しつけが、甘すぎて過保護に育てられた子どもは、幼児的万能感を温存させ、自分中心の幼児的関係パターンを抜け出すことができない。いつでも自分が人から注目され、特別扱いされないと気がすまない、いわゆる顕在タイプの自己愛へと成長する。

     これは、既に記したことかと思います。しつけについては、厳しい家庭も甘い家庭もあるでしょう。多分、大渕先生は、普通の厳しさや甘さを問題視しているわけではないでしょう。極端な場合に、幼児的自己愛の温存が起こるという見解だと思います。ですから、親である方は、自己検証は必要ですが、過敏にならないで頂きたく願っています。ただ、クリスチャンホームの場合は、残念ながら信仰があるがために、「ほどほど」という感覚を失い、残酷なまでの厳しさ周囲が呆れるような過保護両極端に向かいやすい傾向があるように思いますので、くれぐれも自己検証だけは、されますようにと願います。

     また、親はもちろんのこと、恩師、親友、恋人、配偶者などの親密な関係において、失望、裏切りなどによって、深く自尊心を傷つけられると、幼児期の自己愛への後退が起こるそうです。そうなると、相手が自分の要望に応えてくれない、見捨てられる不安があるなど、苦痛に満ちた現実の人間関係の中で、自尊心を防衛するために、幼児期の自己愛の世界に閉じこもることになるのだとか。大渕先生によれば、精神分析家たちは、「自己愛性人格障害」をこうした退行状態として解釈しているのだそうです。幼児期、児童期以降も、思春期などに親から深く傷つけられ、信頼していた人物に裏切られ、恋人に冷たく捨てられるなどの経験は、その人の自尊心を深く傷つけ、精神的発達の逆行をさせて、その人を不健全自己愛者にすることがあるのでしょう。

     サイトなどで、病気の粋に達している「自己愛性人格障害」について、読みますと、その原因の一つとして、親子関係や家庭環境がよく挙げられています。あるサイトでは、家庭内で「世代間分離」ができてないことが、原因として記されていました。世代間分離とは、「祖父母ー両親ー子ども」という世代で、心理的分離ができていることです。つまり創世記2:24が示す「父母を離れ」という精神的親離れ、自立の問題であります。

     父親が未信者の場合などは、クリスチャンホームゆえに母子密着が起こりやすい日本の教会です。夫が未信者であっても、親子関係より夫婦関係を優先するのが、聖書の原則ではないでしょうか?また、信仰的に熱心であるが故に、子どもを親の思い通りにしてしまい、親からの精神的自立を阻害しやすい面もあるように思います。聖書が記す「親に従う」とは、「親の言うなりになること」ではないことを再確認したいものです。改めて、親たるもの、「父母を離れ」との福音の真理を持つ者として、子どもの親離れを阻害する両極端の厳しさと過保護だけは、避けたいと願います。

     どうも、内的にはこうした原因で、人は不健全自己愛者になるようです。何より、親にとっては、子どもの幼児期の接し方が大切なようです。ずっと、若い世代を中心としたクリスチャンに見られる自己愛傾向を扱ってきましたが、よく考えていただきたいのです。教会に集っている若者たちは、誰が育ててきたのですか?いったい、どのような家庭で育ってきたのですか?多くの場合、教会にいる若い世代は、そのほどんどがクリスチャンホームで育ち、少なくとも片方はクリスチャンの親が育ててきたはずです。

     教会の大人たちやベテラン信徒が、教会の若者たちの自己愛性に呆れて、愚痴るのは、「ちょっと違うのでは?」と言わざるを得ません。明日、記しますが、若年層の強い自己愛傾向は決して、家庭や親だけが原因ではありません。しかし、第一の原因としては、やはり、親子関係である場合が多いのは間違いなさそうです。どうか、そのことを覚えて、自己愛性の強い教会の若者を非難するより前に、教会内の親の世代の子育てやクリスチャンホームの課題に向き合っていただけたらと願っています。

    | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 15:25 | - | - | - |
    自己愛性信仰障害の時代(8)〜不健全自己愛者モデルとしての古美門研介
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        このシリーズを書きながら、不健全自己愛者のモデルとして例示できそうな人物を思い巡らしておりました。そこで、思い至ったのが、テレビドラマ「リーガルハイ」の主人公、堺雅人演ずる「古美門研介」であります。

       そう言われてもさっぱりお分かりにならない方は、wikpediaの「リーガルハイ」に記された「主要登場人物」の「古美門研介」をご参照下さい。wikipedeia「リーガルハイ」
      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4

       この人物設定は究極まで誇張された「不健全自己愛者」と言えそうです。現存しそうもないキャラ設定ですが、その設定は、見事なまでに一貫性と整合性があります。このシリーズで、テーマにしている「不健全自己愛者」の特質を網羅しているのです。このシリーズを記しながら、思ったのです。原作者は、古美門研介のキャラ設定のために、心理学か精神医療について、ちゃんと初歩的なことを学んだに違いないと。

       いつくかその特質をあげてみましょう。

       不健全自己愛者は、自尊心を満たすものが大好きです。古美門研介も地位とお金と女性が大好きという設定です。
      不健全自己愛者はあきれるほど自己中心ですが、古美門研介は、弁護士であるにもかかわらず、自分のことしか頭になく、他者の人権、。社会正義、真実は何か?、依頼者の本当の幸福などどうでもいいのです。
      底なしの自己愛は、クルーザーを買い、自家用ジェット購入、さらには潜水艦まで考えるというエスカレート振りに示されています。
      格的信頼関係が築けないことは、バツイチという設定、信頼関係のない事務所のメンバーに現われています。

       しかし、私は原作者が心理学か精神医療を学んだはずだと確信しているのは、古美門研介の持つ全能感とナルシズム、さらにそれを包括する幼児性であります。
       ドラマは、見事に古美門が、全能感に酔いしれている様を描いています。何しろ、受けた裁判は全戦全勝で無敗なのです。しかし、これも、勝ち目がない事案は、高額の弁護士費用を吹っかけて、断っているからにすぎません。つまり、自尊心を満足される状況と周囲の評価を、弁護士の良心を捨ててまで、でっちあげているわけです。不健全自己愛者は、実は、幼児期の全能感を大人になっても、残していると大渕先生は説明しています。これは、もともとフロイトの見解らしく、発達心理学では基本的な学説のようです。

       既に記した自己中心性すなわち「ナルシズム」、そして、「全能感」。これは、まさに「幼児性」を示す二大要素と言われています。古美門研介は、その両者を持ったまま、大人となり、無敗神話を誇る著名弁護士として、世間の注目を浴びて、自尊心を満たし続けているわけです。

       私が感心するのは、ドラマの中で見事に、その幼児性が暴露された場面です。初めての敗北を喫し、全能感が破綻した古美門研介は、PTSDを持つに至ります。その唯一の敗戦相手と戦う裁判で、苦戦する中で、古美門研介は、PTSDを発症します。古美門は、「パパにいいけてやる」と小学生男子のように発言したり、現実逃避をするために、子どもの時に暗記したウルトラマンに登場する怪獣を放送順に暗証し始めます。ドラマの登場人物はこの古美門の異常な言動を、はっきり、「退行」と指摘、説明していました。

       つまり、全能感が破綻し、自尊心が深く傷つけられたため、その辛い現実を受け止めきれずに、現実逃避の手段として退行現象を起こしたのです。言い換えるなら、子どもの時の全能感とナルシズムの世界に戻って、自尊心を守らざるを得なかったのでしょう。

       「この著しい幼児性は、きっと親子関係の問題に起因しているはず」と架空の人物である古美門研介の生育歴を調べますと、wikipediaにあるとおり、父親との関係が悪かったのだと判明。厳格な検事の父と規格外の天才児では、良好な父子関係は、確かに困難であったことでしょう。ここまで、一貫性と整合性のあるリアルなキャラ設定には、脱帽であります。

       「なぜ、人は不健全自己愛者になるのか?」古美門研介という架空のキャラクターはまさにそれを体現しているかのようです。親子関係の問題、ナルシズムと全能感、それを統括する幼児性・・・・。実は、これが不健全自己愛者を作り出す土壌であるとのこと。そのことは明日の記事で記すとしましょう。
       
       一度、不健全自己愛者の典型キャラとして古美門研介を解釈して、リーガルハイをご覧になってみてはいかがでしょうか?誇張部分を取り除けば、現代日本においては、それ程、珍しい人格ではないのかもしれません。

      | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 21:27 | - | - | - |
      自己愛性信仰障害の時代(7)〜霊的リーダーにおける不健全自己愛の現われ
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         すべての人間は自己愛者であります。健全な自己愛者であるクリスチャンは、キリストに出会い神の愛を受け止めれば、その自尊心は満たされ、それが、心理的基盤となり、信仰的向上心をもって、神と隣人を愛する歩みへと向かいます。しかし、不健全な自己愛者は、その自尊心が最優先であり、底なし沼状態であるため、自尊心の僕となり、自尊心充足自体を信仰生活の目的としながら、なおかつ自尊心は決して満たされないという空しく悲惨な歩みへと向かうわけです。

         そして、この両者は、牧師、宣教師、宣教団体の働き人、クリスチャン実業家など、霊的なリーダーについても、全く例外ではないはずです。リーダーになっていくのは、もちろん神様の召しによるものでしょうが、人間側には、純粋な動機だけでなく、混ぜ物がありがちです。そして、それは自尊心と関係する場合も少なくないと思うのです。

         あるリーダーは、自分の学歴や家柄や職歴などに劣等感を持っています。キリスト教界という舞台なら、自分もリーダーになれて、その劣等感を解消し自尊心を満たすことができます。また、牧師子弟である男性牧師の献身の背景には、父親に認められて、両親の意向を実現して、自尊心を満たしたいとの強い思いが認められることもあるでしょう。さらに、人から尊重され、他者に対して権力を行使できることで自尊心を満たしたい思いが、それを実現できる霊的リーダーの地位を目指した動機に潜んでいる可能性もあると思うのです。

         そして、「リーダーシップのダークサイド」を読んでの私の見解ですが、これらの混ぜ物があるからといって、「召しが偽物」「リーダー失格」と判断してはならないでしょう。私は「不純物混入=偽物→失格」とは考えません。混ぜ物の方が主成分(本物かつ中心動機)でそれを「召し」と虚偽申請しているなら、確かに偽物で、リーダー失格でしょう。というか、そもそも召されいないわけです。

         しかし、多くの場合、神様はそうした混ぜ物というというダークサイドをも用いて、人を働きに召し、主の働き用いて下さるのです。混ぜ物は克服され、献身の動機は純化されるべきでしょうが、「混ぜ物の存在自体が、召しの真偽や適正の有無を決定するものではない」というのが、今の私の見解です。

         「リーダーシップのダークサイド」が示す類型の中で、自尊心充足というダークサイドを持つリーダーに相当するのが、自己陶酔型リーダーです。聖書中の典型例はソロモンです。同著の著者は、ソロモンを「不自然な王位継承過程」、「若く経験不足であること」「伝説的成功を治めた父」、「誕生後に罰を受けて死んだ自分の兄か姉の存在」が、ソロモンに強い劣等感を与えただろうと推測します。そのために、彼の努力の焦点には、自分自身があることを聖書は「私」という言葉の連続で示しており、ソロモンが父親以上の存在になろうとしてたと考察します。

         著者のよれば、若く臆病なソロモンは、成功を経て、自己意識が肥大しすぎたため、「王は自分のために、馬と妻と金銀を増やしてはならない」という聖書の三原則を破ってまで、自己実現に向かいます。それでも満足を得られなかったのです。最後は、ご存知の通り、ソロモンは偶像礼拝にまで逸脱して、国家を衰退と混乱に陥れます。

         著者は自己陶酔的リーダーの特徴を、ある引用を用いてこう紹介しています。「それぞれ、強烈な出世欲と、大げさな空想と、劣等意識と、外的評価と賞賛への過剰依存を、さまざまな組み合わせで持っている」と。また、もう一つの特徴として「他者から搾取する点であり、自分の欲望を満たし、自己を顕示するために他者を利用する」との引用をしています。私が思うに、これは不健全な自己愛者の特徴と全く同じです。これは、程度は違うのでしょうが、ネット上に記されている自己愛性人格障害の特徴とも非常に似ています。

         リーダーシップのダークサイドはジム・ベーカーについて「自己陶酔的な人格障害の典型的犠牲者」と評しています。この記述が、「専門医が、彼を診断したら自己愛人格障害と診断される」という意味かどうかは分かりません。しかし、このシリーズのテーマである自己愛とか自尊心充足という視点から見ると、ジム・ベーカーの成功と破綻は、まさに、「自己愛性信仰障害」に相当するでしょう。有能でカリスマ性があるので、多くが彼に心酔し、働きを支持し、エスカレートし続ける彼の自尊心充足を多大な犠牲を払ってまで、実現してしまったのだろうと思われます。

         どうも、ソロモンは最初は、劣等感もあって謙遜に神様の御心に沿ってスタートしながらも、やがて、成功と名声を得たために、不健全自己愛者に転じてしまい、神の戒めを破り、国民を利用してまで、底なし自尊心を満たすに至ったわけです。一方、ジム・ベーカーが、医学的に「自己愛性人障害」であるなら、牧師になる前から、強烈な不健全自己愛者であったわけです。リーダー就任の前であれ後であれ、主に立てられたリーダーも、自己愛の持ち主であり、それがもたらすリスクを完全には免れてはいなのです。

         いいえ、リーダーは、神様から委託された立場や権威によって、自尊心充足のために支持者と財政を利用できるからこそ、より一層、誘惑が大きいのです。牧師にとって、教会が急成長し、多くの心酔者を得て、冷静で主体的判断ができる信徒は既に去り、自分個人の決定が即教会の決定という状況は、どんなにか自尊心充足に好都合でしょう。自尊心のために教会を利用する誘惑は、計り知れないものかと想像します。

         そして、実際に、その誘惑に負けて自尊心充足を目指して、イエスマンばかりの役員会を形成し、主体的判断可能で愛の忠告ができる信徒や部下には去っていただき、自己決定=教会決定となる状況を作り出そうとするケースも時折耳にします。さらに、人権侵害やマインドコントロールの手法を用いてまで、信徒を支配、利用、搾取して、自尊心充足を目指し、教会を小帝国化していくなら、それはまさにカルトでありましょう。

          牧師の「自己愛性信仰障害」の最悪のパターンの一つは、ソロモン王と同じです。ソロモンが、「馬、妻、金」についての戒めを破ってまで、自己目的実現を目指したように、最終的に「地位、女性、金銭」についての逸脱を犯し、働きを去っていくのです。その意味において、ソロモンの成功と失敗は、現代において、リーダーシップを学ぶ際の最高の反面教師と言えるでしょう。そうなれば、一教会の問題ではすまなくなります。地域のキリスト教会全体や所属団体全体への信頼を損ないかねません。

         牧師の「自己愛性信仰障害」と信徒のそれとは、それがもたらす影響の深さ大きさが桁違いです。牧師の地位と権威は時に、いとも簡単に教会内に、信徒搾取構造を構築することを可能にしてしまいます。短期間で教会全体を私物化し、自己目的に奉仕する組織への変質させてしまうのです。特に、ある能力に秀でているかカリスマ性のあるリーダーが眼に見える形で成功を治めた場合は、上に記してきたような誘惑は極めて強烈で、一定の成功後や引退を考えるべき晩年に、教会を私物化するような逸脱に走る危険性はかなり高いように観察しております。

         さらに残念なことに、信徒の多くは、眼に見える形での成功を神様の承認と祝福と解釈するので、無謀で不健全と思える牧師の意向や計画に対して、反対や慎重論を唱える事は、神と権威への反逆のように感じてしまいます。もはや、ストップができない状況になってしまいます。それを牧師の権威乱用と判断できる教職と信徒は既に教会を去っているからです。牧師の不祥事や破綻でストップしないなら、信徒は教会に留まっている限りは、その後も牧師の個人目的のため、「聖なる御名」を名目に、利用され搾取され続けることとなります。これは、まさにソロモンやジム・ベーカーの再現です。

         今後もこうした事例が繰返され、キリスト教会全体が、一般社会と教会内の若い世代から信頼を失い、著しい衰退傾向に向かわないために、少しでも止めることが可能になればと願い、今回の記事を記しました。一連の牧師不祥事カルト問題、あるいは教会の権威主義化や私物化の中には、「自己愛」をキーワードにすると読み解けそうなケースも多いように感じています。

         もともとの不健全自己愛者が、霊的リーダーになっていくこともあるでしょうし、自尊心充足に好都合な立場ゆえに、リーダーとなってから、不健全自己愛者に転ずるケースもあるでしょう。そして、その果てにあるのが、様々な形となって現われるリーダーの不祥事、逸脱行為なのかもしれません。

         この種の問題に重荷を持つ方、真剣に取り組みたい方、その危険と被害の中にある方々には、「リーダーシップのダークサイド」と「満たされない自己愛」など自己愛を解明する書物を、読まれることをお勧めします。

         そして、考えていただけたらと願うのです。自らが為すべき意識変革を、今の立場でできる具体的努力を、リーダーのためにささげるべき執り成しの祈りの言葉を。

         そう、主がお立てになった尊いリーダーを「21世紀のソロモン」や「日本版ジム・ベーカー」で終わらせないために。
        | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 20:11 | - | - | - |
        自己愛性信仰障害の時代(6)傷つきやすさに現われる潜在的自己愛
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           ずっと取り上げている著書「満たされない自己愛」によれば、自己愛者は必ずしも尊大で、わがままな要求をして、周囲を困惑させるとは限りません。同著は、自己愛には大きく二つのタイプが存在するとするP.ウィンクという心理学者の見解を紹介しています。その二つのタイプと言うのが、「自己愛顕在タイプ」と「自己愛潜在タイプ」です。実はこれまで取り上げてきたのは、前者だけでした。後者は自己愛が潜在的で、外からは、自己愛者には見えないタイプです。

           大渕先生の説明によれば、潜在タイプは、自己顕示や尊大さはなく、むしろ、大人しく控え目で傷つきやすく、そのため人付き合いを避ける傾向があるそうです。一見、自己愛的に見えないのですが、深く付き合うと強い自己愛の持ち主であることが判明するのだとか。特徴としては、自分にとらわれすぎなことと、強過ぎる自己関心が上げられます。

           実は、内向的なのは、自尊心が傷つけされるのを避けるため。傷つきやすさも、自意識が強いためで、他者の言動を自分の評価が含まれているものとして解釈することによるのだそうです。たとえば、上司が自分以外の部下を褒めれば、自分はけなされていると感じ、友人がファッションの話をすれば、自分のセンスが問われているように受け取ります。自己愛潜在的タイプの場合も、隠された自尊心は、常に満たされることを願い、それが自意識過剰や他者の言動への過敏さに現われているのだそうです。

           内向的で傷つきやすい人間に実は、強い自己愛が宿っていることは、不勉強な私にはちょっとした「眼からウロコ」でした。これまで、ずっと疑問に思っていた二つのことで、解決を見出したからです。一つは若い世代に見られる極端な「傷つき回避傾向」です。拒否されて傷つくのが怖いから、愛する女性に告白しようとしない男性たち、不合格が怖いので就活も大学院の受験もせぬまま、大学を卒業する学生たち、結婚後の濃密な関係で傷つけあうことや結婚破綻で深く傷つくことを恐れて、結婚を先延ばしにする青年たち・・・・。

           この傷つきやすさを、私は「弱さ」「未熟さ」「繊細さ」「純粋さ」だと考えていたので、納得できなかったのです。この傾向の背後に自己愛の影響があると仮定すると、大いに納得がいったのです。自己愛が強く、自分にこだわりすぎて、自尊心に最高の優先順位を置くからこそ、傷つ回避が、他のすべてに勝るのでしょう。最重要の自尊心を傷つけるくらいなら、「彼女なし、社会参加なし、結婚相手なし」の惨めさや劣等感や寂しさの方を選ぶのでは?と考えたのです。また、実態以上に肥大した自尊心を満たすような、就職先、異性でなければ、傷つくリスクを犯してまでチャレンジはしないのでしょう。

           もう一つは、「傷つけられること」に関して、これまで多く見聞きしてきた現象が解明できたのです。それは、「傷ついた」とよく言う人に限って、人を平気で傷つける言動をするという意外な現象です。これが、なぜなのか?納得できる解釈がなかったのですが、この自己愛潜在タイプで知って一件落着となりました。傷ついたとよく言う人は、極めて自己愛が強いのです。その本質は弱さや繊細さではなく、自己愛の強さなのです。そして、自己愛の強い人は自己関心も強すぎるあまり、他者への共感が乏しいのが特徴です。相手の心情を想像しての言動が困難なのです。そこで、自分がされたら、傷つくような言動を平気で他者にしてしまうのだろうと納得できました。

           考えてみれば、「やさしく内向的で傷つきやすい人物は、背後にナイフを隠し持っている」などの表現で、これまでも同様のことが指摘されていたことに気がつきました。秘められた自己愛の強さはきっと、顕在タイプと大差はないのでしょう。傷つきやすいのは、心の弱さどこから、自己愛の強さであり、隠されている自尊心は、かなり尊大なのでしょう。実績も根拠もなく、自分はもっと賞賛され、認められ、価値が認められるべきとの思いとそうならないことへの怒りや憎しみが蓄積され、ナイフを隠し持つに至っているのでしょうか?

           どうも、近年の自己愛傾向の現れは、仮想優越感や愛されたがりだけでなく、内向性と傷つきやすさも、もう片方の現われだったのだと気がつきました。もし、そうだとすれば、顕在タイプに潜在タイプを加えなくてはならず、若い世代の自己愛傾向の浸透度は、予想される二倍に及んでしまうことになります。どうも、問題は一般に思われているより深刻化しているのでは?

           ここで、誤解がないように断っておきます。性格の一部としての傷つきやすさは、「繊細さ」「感受性の強さ」「純粋さ」など、よい性格の裏側かと私は考えています。ですから、傷つくようなことに普通の人より傷つきやすいのは、正常であって、自己愛の強さによるものではないでしょう。この記事で取り上げているのは、本来傷つく原因にならないようなものにまで、過剰に傷つき、円満な人間関係や深い信頼関係を構築できないレベルの傷つきやすさとして、受け止めていただければと願います。


            さて、この自己愛潜在タイプが教会生活を送るとなると、どのような自己愛性信仰障害の症状が予想されるでしょうか?

           教会生活で他者の言動を、自分と関係ないのに、自分のことと受け止めて傷つくことが起こります。例えば、牧師が公の場で、優れた奉仕をした信徒個人を褒めたとします。すると、潜在タイプの自己愛者は、自分は教会で正当に評価されていないと解釈し、自尊心が傷つきます。牧師が説教中に聖書箇所に沿って、あくまで一般論として、ある罪を取り上げて、悔い改めを勧めても、潜在タイプの自己愛者は、自分個人へのあてつけと受け止めかねません。

           周囲はそのクリスチャンに何ら悪い事はしてないのに、当人は一方的に傷ついていきます。兄弟姉妹に少し心情を漏らすと、「そんなので、傷つくのはおかしい」と言われて、その言葉にさらに傷つくことも。勝手に「教会の人たちは自分を理解せず、傷つけ続ける」と的外れな評価を下します。あるいは牧師の耳に、人づてに、その信徒さんが「説教で傷ついた」と言っているとの情報が入ります。そこで、牧師は、当人に対して、「そうした意図はなかったが、結果的に傷つけて申し訳なかった赦して下さい」と謝罪したとしましょう。 そして、表面上は赦しと和解が成立したかのように見えます。

           するとある牧師は、また、傷つけてはいけないと過剰に配慮をします。よい奉仕をした信徒を励ませなくなり、聖書から大胆に罪を示し悔い改めを勧めることができなくなります。この時点で既に牧師は、自尊心にコントロールを受けています。

           また、別の牧師は、赦しと和解が成立したので、大丈夫と判断して、以前と同じ言動をします。しかし、自己愛体質は何ら変化していないので再度、傷つきます。そして「この牧師は謝罪しておきながら、同じことを繰り返し何度も自分を傷つける」という誤解による一方的判断をしかねません。そうして傷つけられるたびに怒りと憎しみを蓄積し、背中にナイフを装備していくのです。

           時が満ちて、大人しく静かな信徒が突如、ナイフを牧師の胸に突き刺すような言動に至る場合もあるようです。それは、ネットへの匿名の書き込みやある日突然送られてくる一方的かつ主観的な批判メールかもしれません。大人しく内向的な信徒からのいわれのない誹謗中傷。そこに至って牧師夫妻はようやくその信徒の本質を知り、大ショックを受けたりします。

           言うまでもなく、同じようなことは信徒間の交わりにも起こります。傷つきやすいクリスチャンを、周囲は自己愛者だと思わないので、配慮します。自己愛者も交わりを避けたがるので、当然、その人物の交わりは表面的にならざるを得ません。そうなると、自分の本当の問題や悩みを打ち上けて祈り合うことはありませんから、教会の交わりの中にあっても孤軍奮闘状態となります。教会生活は団体競技でなく個人競技となり、教会生活継続は困難に。ただでさえ、教会生活のなかで、周囲からすれば、いわれのない主観的な傷つき方をし続けるのですから、そもそも教会生活の継続自体が、かなりの苦痛となるのでしょう。

           最も牧会上で困難を覚えることは、こうした自己愛潜在タイプは、傷つきやすさを用いて、自己防衛をしてしまうことです。周囲はどうしても、傷つけないようにと願うあまりに、罪の指摘や悔改めの勧めを躊躇せざるを得ません。以前に記したように自尊心が傷つくので、不健全自己愛者は、どうしても、自らの罪を認め悔改めて回復と成長に向かうことが困難です。さらに、周囲がそれを躊躇してしまうのですから、当人は、罪を犯しながら自覚できず、悔改めもできず、罪の結果として様々な恵みを失っていきます。

          コロサイ3:16はこう記しています。
           「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
           このように聖書は、励まし合いだけでなく、互いに戒め合う交わりをも命じています。

           また、ヤコブ5:16はこう教えています。
          「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
           同じく聖書は、赦し合いだけでなく、互いに罪を告白する交わりをも命じています。この文脈では、癒しの恵みを受けるためですが、他の恵みも同様で、それを受けるためには、罪の告白と悔改めは必須であるはずです。

           こうして、傷つきやすさによって、人を牽制し、罪や本当の問題に触れないように周囲をコントロールするのに成功するわけです。こうなると、聖書が命じる「罪を告白しあい、戒めあう交わり」はどこへやらですコントロールを受けてしまった周囲は、「弱いから仕方ないよね」「神様赦してくれるよ」で、終わり、後は放置です。教会の交わりが、罪と課題については、「傷の舐めあい体質」「あたらずさわらずの無難路線」に変質します。そうなれば、当人は罪の自覚も、悔改めも、回復もなく同じ歩みが続くのは当然でしょう。結局は、逆切れして攻撃してくる自己愛顕在タイプと同様の結果となります。

           せめて、傷つきやすい心に寄り添いながら、「弱さを理解してくださる神様のところへ持って行こう」とか「赦してくださるからこそ、悔い改めましょう」とやさしく語りかけるチャレンジくらいは、したいものだと私は常々考えております。指導者として兄弟姉妹として、傷つきやすく接し方に迷う方を愛していくとは、具体的にはこういうアプローチもその一つかと思うのです。

           ある程度、自己愛が強く、傷つきやすく、自己防衛的なのは、現代人には一般的な傾向でしょう。それは、教会生活では、マイナスに作用するので、気をつけるべきしょうが、自己愛性信仰障害には該当しないと思うのです。ポイントは、「客観性と必然性のある傷つき方かどうか?」です。言い換えれば、第三者から「それは傷つくよね」と言ってもらえるかどうかです。「そんなので傷つくのはおかしい」と言われて傷つくことがよくある方は、それが強すぎる自己愛、自己関心、肥大した自意識、過剰な自尊心によるものではないかを、ぜひ内省し、御検討いただければと願います。

           長々と記してきましたが、今回は、「傷つきやすさに現される潜在的自己愛」についての問いかけで終わります。

          〈教会の交わりに関して〉
           大人しく傷つきやすいクリスチャンの「傷ついた」に自分は、支配コントロールされていないだろうか?
           その人の発する「傷ついた」は客観的な必然性や因果関係を持つものだろうか?「言った者勝ち」になっていないだろうか?
           その自己防衛によって、示すべき罪や向き合うべき課題を扱えないまま、放置せざるを得なくなってはいないだろうか?
           そのことは当人の問題に留まらず、教会全体の交わりから、罪の告白と悔改めを喪失させ、教会の聖さを損なわせていないだろうか?
           いつのまにか自分もそうした不健全な交わりを形成する一人になってしまってはいないだろうか?

          〈自分自身について〉
           自分の傷つきやすさは「それは傷つくよね」と他の人にも同意してもらえる性質のものだろうか?
           相手の立場からは、「どうして?」「ありえない」と応答されるいわれなのない主観的で一方的な傷つき方となっていないだろうか?
           心の中には、自分はもっと尊重され、認められるべきという強い思い、そうでない現実への怒りがないだろうか?
           傷つくことを恐れるあまり、正直に問題を話せないまま、教会生活の中で、さらに傷ついてばかりになっていないだろうか?
           その結果、自分を傷つけた信徒、指導者、教会全体に対して、怒りや憎しみを蓄積してはいないだろうか?

            これらの問いかけが、課題の自覚につながり、為すべき対処につながれば感謝なことです。
          | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 22:04 | - | - | - |
          自己愛性信仰障害の時代(5)〜自尊心に仕える教会生活
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             前回は、不健全性自己愛者は、欲求の階層の最上階に自尊心欲求が位置しているとの仮説を紹介しました。この仮説を、自己愛性信仰障害に当てはめると以下のようになることも記しました。

            〈自己愛性信仰障害の病理〉
            仕えているのは、主なるキリストではなく、キリストの代わりに主となっている自らの自尊心。
            我を忘れて職業や奉仕に打ち込む事はなく、常に自尊心充足志向で、自我に執着し続ける。
            人生を導く五つの目的」などありません。人生を導く目的はたった一つ、自尊心の充足のみ。
            現すのは神の栄光でなく、自らの栄光であり、最終目標は、自己栄光による自尊心の満足。

             こうした病理に犯され、自尊心の僕と化したクリスチャンは、あらゆる手段を講じて、「環境保護」ならぬ「自尊心保護運動」に励むわけです。「聖霊に満たされた歩み」ではなく、「自尊心を満たす歩み」を目指していくのです。

             この信仰姿勢は、神様と教会を自尊心充足の手段にしているのですから、言うまでもなく本末転倒です。これは、神と教会に仕えているのでなく、神と教会を自尊心充足のために自分に仕えさせているという構造です。また、不健全自己愛者は、神とその言葉に従い続けることができません。なぜなら、神と聖書の言葉に従うには、一定自尊心を犠牲にする覚悟が必要だからです。前々会は罪について記しましたが、どの教理についても自尊心を損なわないレベルまでしか、受け入れませんし、ましてや従うことなど期待できないでしょう。

             不健全自己愛者神と深く交わることもできないようです。本当の意味であるがままで神の前に出られません。絶対者である罪なき肩の前で、自尊心が傷つくような自分を見せられるからです。さらには、自尊心充足のため、常に他者からの承認や賞賛を必要とするために、人や組織や所属に依存する傾向が強く、信仰者として自立できません。

             困ったことには、自分の失敗や過ちや不十分さを認めると自尊心が損なわれるので、自分の非を他者に責任転嫁します。あるいは、人前で自分を責めて「あなたが悪いのではない」との声を勝ち取ります。こうした態度は、責任感のない態度と評価され、教会の中でいつまでも信頼を得られません。結局、自尊心が傷つかない程度でしか、罪と失敗を認めず、より本質的な罪を認めて悔改めないので、本質的に変りません。同じ失敗、過ち、罪を繰り返しやすくなります。

             やがては、教会内で「困ったちゃん」や「トラブルメーカー」的扱いを受け疎外感を覚えたり、周囲が自尊心を満たしてくれず不満を抱くようになります。そうなるといよいよ、不健全な自己愛は暴れ出し、非常識な要求やそれが適わぬ場合の逆切れなどで、周囲に迷惑をかけはじめます。攻撃的ではないパターンですと、逆にうつ的になったり「傷ついた」との言葉を漏らしたりで、無意識のうちに教会をコントロールするようです。

             かくして周囲は、自尊心の保護と充足に利用されたり、振り回されたりし続けるです。いいえ、きっと神様も利用され続けるのでしょう。牧師は、自尊心保護と充足のために献身したのではないので、いいようのない徒労感を覚えます。愛をもって助けようとする兄弟姉妹たちも、途中から愛を注いでも何の効果もがないことを悟り、これまた困惑と徒労感を覚えます。

             それはそうでしょう。自尊心の僕は、牧師夫妻や兄弟姉妹から受けた愛を全て、自尊心という主人の満足のために献上するのですから。注がれた愛は全部、当人の成長、自立、悔改め、愛への応答のためには用いられず、自尊心充足目的に使用されるのです。

             ちょうど、先進国から貧困国に提供されるODAの多くが、貧困と飢餓に苦しむ庶民には届かず、独裁者や支配層に搾取されているように、牧師と兄弟姉妹の献身的な愛さえも、自己愛性信仰障害に苦しむ当人には届かず、独裁者であり支配者である自尊心に搾取されているのです。かつて日本国民の血税からフィリピンへODNとして送られた大金の多くは独裁者マルコスの一族に中間搾取され、その象徴的風景として、イメルダ夫人のありえない靴のコレクションが報道されました。そのように牧師夫妻や献身的な兄弟姉妹の血を流すような愛さえも、当人の人格と魂の奥底に届く前に、独裁者である自尊心中間搾取されるのです。

             クリスチャンの心の中で、そんなことが起こっているとは、普通は思いません。ですから愛情深い牧師夫妻は、忍耐と寛容をもってその人が教会を離れることなく、成長するようにと願い続けます。真面目なクリスチャンたちは、距離を置くことが愛に反するように感じるので、効果がないことを悟りつつも、同じような愛の支援を継続します。その結果、さらに自尊心充足に利用され続けて、一種の「霊的搾取の被害者」となっていきます。いつまでも関係性を変えることなく、エスカレートする要求に応答することが、献身的愛だと考え違いをするなら、ついには愛する側が破綻します。ひどい場合は、牧師夫妻は心身の病になり、真面目信徒は自分の愛の乏しさを責めて信仰的ダウンとなります。

             そうなれば、自己愛性信仰障害者は、別の牧師、交わり、教会に移り、同じことを繰返すのです。自分を信頼してくれそうな牧師がいる別の教会に集うようになり、自分がいかに愛されず、受け入れられず、冷遇されてきたかを牧師に語ります。こうした場合は、すぐ真に受けずに、前の教会の牧師に連絡を取り、両方の言い分をお聞きになり、判断されるべきでしょう。当人なりの本気の訴えを安易に信じたら、大変です。前にいた教会の牧師と同じ苦しみを味わうからです。

              一方、すべての不健全自己愛者がこのように破綻に向かうとは限りません。中には、自己愛が高慢さにつながらず、熱心さにつながり、教会内で信頼を得て、やがては、教会運営に決定権を持つ場合があります。特に教会会計に大きな影響持つほどの経済力、社会的地位や高学歴の持ち主ですと、それに惑われ、周囲は熱心さが自己愛に由来することを見抜けないままになりやすいようです。

             このタイプの自己愛者が同じ教会に留まり続け、歴代牧師夫妻を何人も破綻させながら、自尊心充足の歩みを継続していくケースも稀にお見受けします。つまり、自己愛が自分自身の教会生活を破綻させるのでなく、自己愛充足のネックとなる牧師を破綻させるのです。結果として、破綻をさせるのでなく、自分が教会内での実権を握り、牧師を自己愛充足の僕として仕えるように支配するケースもあるようです。

             こうなると、この自己愛者信徒に、理不尽な言動や逸脱行為があっても、他の信徒は、あたらずさわらず状態となり、牧師の指導も及び腰になりがちでです。それが、教会全体の問題となりながらも、対処できぬままになります。牧師が数年毎に異動になるのが恒例の教会には、この手の課題をお見受けすることもしばしば。教会が一旦、こうした体質に陥ってしまうと団体の支援や教団の介入もなかなか功を奏しません。余計なお世話とは思いますが、この記事をお読みの神学生あるいは伝道者志望の読者の方々におかれましては、こうした厳しい現実を想定され、現場に出て行かれますようお勧め申し上げます。

             そこで、提案です。お互いは、聖書が命じるように、知性を用いて愛そうではありませんか。「仕える」とは相手に「利用されること」ではありません。「惜しみなく与える」とは、相手に「無制限に搾取させる」ことを意味しません。「あるがままで愛する」とは、「他者からの愛を利用し搾取し、主の体を苦しめるその罪あるがままで容認し、放置し、戒めず、悔改めに導こうとしないこと」とは、全く異なるはずです。

             知性をもって、思索して、前者と後者を混同しないことかと思います。区別した上で、後者とは異なる前者とは何かを聖書から思索して、実行に結び付けていくことかと思うのです。とりわけ教職の皆様におかれましては、その尊い献身の生涯を、不健全な自尊心充足に捧げ、浪費されることのないよう、賢明なご判断をと願ってやみません。

             罪は神への応答性を喪失させ、自尊心を主とし、当人も教会も神様さえも、これに仕えさせ、今日、主の体である教会を混乱させ、弱体化させているのかもしれません。悪魔はそのように、時代の文化や情報を用いて、そうした罪の働きによって、自尊心を肥大化させているのでしょうか?今回の記事が「今、教会で何が起こっているのか?」「これまでにない理解不能なクリスチャンをどう理解すればいいのか」の一助になればと願っています。

            | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 19:37 | - | - | - |
            自己愛性信仰障害の時代(4)〜自己愛における健全と不健全の境界線
            0

               このシリーズを始めたらアクセス数が増え始め、2000を超えるようになりました。やはり、切実な課題に切り込むとお読みくださるのですね。今日は、某出版社から電話をいただき、某誌に、このテーマでの記事執筆をとの依頼をいただきました。光栄至極です。掲載が決まりましたら、ご案内申し上げます。

               大渕憲一著「満たされない自己愛〜現代人の心理と対人葛藤」(ちくま新書700円、品切れ)を読んで教えられたことを、昨今のキリスト教会で見られる自己愛の強いクリスチャンたちに当てはめながらのこのシリーズであります。図書館で借りたのですが、買うことにしました。品切れだということです、amazonで中古を購入しました。

               同著は、罪がいかにして、人を自己中心にして、神様が人間に本来与えておられるであろう神への人格応答性を破壊しているか、そのシステムを解明するような仮説を提示してくれています。聖書が示す「罪」、「自己中心」、「神からの離反」、「肉性」、「神のかたちの破壊」などを、まるで、人体解剖のように見せてくれているように感じました。聖書が示す人間観を心理学で再構築するのではなく、聖書が示す人間観を、より分析的に理解し、課題を具体化する助けとして、ぜひ、読まれることをお勧めします。

               一連の記事では、「健全自己愛者」と「不健全自己愛者」を区別してきました。生まれながらにして、人類は皆、自己愛者であります。聖書の「自分自身を愛するように隣人を愛しない」も、そのことを大前提としているのではないでしょうか?この戒めが自己愛の他者愛への転化を命じているとしたら、自己愛は隣人愛の資源、前提ですらあるわけです。その意味で、自己愛は必ずしも全面的悪ではないでしょう。そこからは、善も悪も生み出すことが可能なのかもしれません。健全な自己愛は神との出会いによって、神と隣人を愛する愛への転化が期待できますが、不健全な自己愛は、神との出会い後にも、そうした転化が期待できないのです。では、健全と不健全を分けるものは何か?今日は大渕先生の見解を紹介した後に、それを近年の自己愛性信仰障害に適用してみます。

               大渕先生は、マズローなどで知られる欲求階層説によって、両者を区別します。「飲食足りて礼節を知る」と言われるように、生理的欲求が満たされて初めて人は社会的欲求を持つものです。より基本的な欲求が満たされると人はより高次元の欲求実現に向かうという人間理解は、一般的に受容されているものでしょう。マズローの有名な見解では、こうなっています。

               「基本的欲求(生理的欲求、安全)→社会的欲求自尊心欲求自己実現

               大渕先生はこの古典的な見解に異論を唱えます。自尊心欲求を基本的欲求に含めるのです。その根拠として、民族紛争を研究する社会心理学学者の主張を紹介します。民族的アイデンティティーという自尊心が脅かされるなら、人は極度に残酷になり、近隣民族が殺し合うが、それは、民族紛争の本質が民族的アイデンティティーという自尊心にあることを示し、なおかつ自尊心が基本的欲求であることを示すというのです。そして、大渕先生は以下のような欲求段階モデルを主張します。


              〈大渕憲一氏の欲求段階モデル〉
               基本的欲求(生理的欲求、安全+自尊心欲求)→より高次の欲求(社会的欲求+自己実現

               自尊心欲求が一定満たされて人は、社会的欲求や自己実現に向かうのだと、大渕先生は、自尊心欲求が一般に考えられているより基本的なものであることを主張します。私自身もマズローの説を信頼していたのですが、「なるほど、これは、修正の必要があるのでは?」と思いました。親からの愛情実感を受けられず、社会で差別され、友人からいじめを受けるなどして、子ども時代に自尊心欲求が極端に満たされないで育った少年少女は、向上心や夢や理想をもてないし、そのために努力する意欲自体が起こらないのはよく知られている事実です。

               健全な自己愛者は、自尊心が一定満たされると、それが社会的欲求と自己実現に向かいます。それは有名になりたいとか、立身出世とかモテたいなどの自己中で単純なものもあれば、「世のため人のため」のような利他的高尚とされるものまであるわけです。つまり、自己愛が下位で、社会的欲求と自己実現が上位なのです。

               ところが、それが上下逆転するのが、不健全自己愛者であるというのが、大渕先生の著書の大きなポイントなのです。自尊心欲求が頂点にあって、社会的欲求も自己実現も、その下位にあるのです。図示するとこうなるわけです。


              〈大渕憲一氏による自己愛者の逆転した欲求階層モデル〉
              基本的欲求(生理的欲求、安全)→社会的欲求自己実現自尊心欲求

               健全自己愛者は、富や名声や賞賛を得ること自体が目的です。しかし、成功のためにありえない努力をする不健全自己愛者男性にとっては、富も名声も賞賛も目的ではなく自尊心を満たす手段です。ファッションにエステに励む健全自己愛者は、素敵な男性と交際したり、結婚することが目的です。しかし、ある不健全自己愛者女性が異常なまでに美容に励むのはモテたいから、素敵な男性と恋愛を楽しみたいからでなく、彼を通じて自分が周囲の賞賛を得ることによって、自尊心を満たしたいからです。自尊心が頂点で、自己実現も社会的欲求充足も、目的ではないのです。

               大渕先生は、健全な自己愛は、自尊心が基本欲求であり、心理的基盤であり、他の欲求実現のための手段だと主張します。そして、自尊心が手段でなくなり、自尊心を満たすこと自体が目的になっているのが、不健全なのだとしてきます。誰にとっても、社会参加し、向上心をもってよりよく生きるためには、自尊心が一定満たされる必要はあるのですが、それが、最終的目的になってしまっているところに、不健全があるわけです。

               以上のことを信仰生活に当てはめてみましょう。健全な自己愛者は、神様にあるがままで愛されている事実を受け止めて、自己価値確認をし、正常なアンデンティティーと本来の居場所を得て、自尊心が充足されます。クリスチャンの場合は、その自尊心充足が土台となり、世間一般の社会的欲求や自己実現とは、一味違い、関心や目標が自己から神と他者に向かいます。神を愛し、隣人を愛する聖書的ライフスタイルに移行します。そのように神に愛されての安心や自己価値確認は、その後の神と人を愛する歩みの基盤となるのです。

               それに対して不健全自己愛者の場合はこういうことかと思うのです。神様からのあるがままの愛を受け止めて、自尊心に一定の充足を得ます。ところが、自尊心充足が究極の目的なのは変りません。救われた後も、さらなる自尊心の充足を求めるのです。神様だでなく、兄弟姉妹、指導者、周囲のクリスチャンを総動員して、底なし沼のような自尊心の充足を図ります。

               健全自己愛者のように、神に愛されての自尊心充足が、その後の神と人を愛する歩みの基盤とならないのです。どれだけ神と人に愛されても、自己への執着から解放され、神と人のために生きる歩みへは転換しないのです。なぜなら、健全な自己愛というは、コンクリートで埋れば土台となり、建造物を建てられますが、不健全な自己愛という沼は、底なしで、生コン車を何台動員しても、埋め尽くすことのできない沼になっているからです。そうした不健全自己愛者が示す自己愛性信仰障害の病理をまとめるとこうなりそうです。

              〈自己愛性信仰障害の病理〉
              仕えているのは、主なるキリストではなく、キリストの代わりに主となっている自らの自尊心。
              我を忘れて職業や奉仕に打ち込む事はなく、常に自尊心充足志向で、自我に執着し続ける。
              人生を導く五つの目的」などありません。人生を導く目的はたった一つ、自尊心の充足のみ。
              現すのは神の栄光でなく、自らの栄光であり、最終目標は、自己栄光による自尊心の満足。

               人は皆、自己愛者です。誰もが自己愛傾向を持っています。そして、自己愛それ自身は、決して悪いものではなく、神によって正しく満たされるなら、人を神と隣人を愛する本来の歩みに導きます。しかし、不健全自己愛者は、そうなりません。入信時には自己愛的に見えても、その後、成長し変えられていくクリスチャンがいます。逆に入信時にはとても献身的で熱心に見えますが、残念ながらそれは強い自己愛によるものであり、そのことが問題として後日、露になってくる場合もあります。

               健全と不健全、その違いが生じる原因は、大渕先生の見解では、自尊心にいての欲求階層における順位の逆転だということです。この仮説の是非は私には分かりません。ただ、「近年教会で起こっていることを、うまく説明できるよな」と素直に受け止めているところです。読者の皆さんが、福音の心理学的再構築としてではなく、現代日本教会のおける罪の働きの一現象を、分析解明するものかどうかを御検討いただければ幸いです。

              | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 22:00 | - | - | - |
              自己愛性信仰障害の時代(3)〜一般論・観念論止まりの罪認識
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                 5年ほど前でしょうか?比較的若い世代が多く集う教会の牧師夫人からお聞きしたお話です。最近は、「こんなちっぽけで罪深い私を、神様は愛しておられるのです。」というフレーズに拒否感を示す若者が増えてきたと言うのです。このプレーズのどこに拒否感を持つかといえば、「ちっぽけで罪深い私」という言葉なのです。つまり、この箇所に、自尊心を傷つけられ、自分を否定されるように感じるので、受け入れられないというのです。牧師夫人のお話しを聞いて、正直、心の中でこう思いました。

                「おいそっちかよ!」
                「神様の愛より、自尊心?そんなに自分が大事かよ」
                「反応すべきは罪深い私でなくて神様の愛の方でしょー」
                「そんなの説教に対しての言いがかり、クレーマーだぞ」
                「説教者の意図に反しての被害妄想か過剰反応でしょう」

                 近年の若年層に現われたこの傾向は、私にとっては理解不能で、ずっと、受け入れられないと感じていました。しかし、今回、「満たされぬ自己愛」を読む中で、ようやくこの現実を納得して受け入れられるようになりました。もはや、理解不能とかありえないとか文句を言っている場合ではないと気がついたのです。この時代と社会では、そうなるべくしてなっていると分かったのです。

                 そして、こうして、稚拙な論説であっても、自分の体験や見解を通じて、私と同じく、現実を理解し受け止めて課題に向き合う読者が起こされたらと願ったのです。特に、これまで通りに導いても自己執着を続け、成長と自立を拒否するクリスチャンたちに戸惑い、理解不能で、徒労感や限界を感じ、失望しておられる指導的立場の皆さんの一助になればとの思いに至ったのであります。

                 さて、本論です。聖書の重要かつ本質的教理の中で、不健全自己愛者が、最も受け入れがたいのが、罪の教理です。健全自己愛者にとって、罪とは「悲しみをもって認めるべき事実」です。しかし、不健全自己愛者にとって、罪は、「自尊心が傷つかない程度で認める教理」に過ぎません。そう、自分個人にとっての「事実」でなく、キリスト教の「教理」なのです。「みんなのこと」であって、「自分個人」のことではないのです。罪の教理は、人間理解の一つであって、歴然たる事実を指し示すものではないのです。

                 救いの証しを聞くとある程度、その傾向がわかります。浅い罪認識であっても、健全自己愛者の場合は、「自分の罪が分かって、その罪の身代わりにイエス様が死なれた」などのフレーズが登場します。ところが、不健全自己愛者の場合は、「自分の罪が示され」、「自分が罪人と分かって」などのフレーズが出てきません。自尊心が傷つくからです。出てきても「お約束」として、義務的形式的に言っていて、心がこもっていないのが見ていて分かります。
                 
                 逆に登場するフレーズは「神様に愛されて」と「私・自分」です。証しを聞いていると「罪深い私と愛して下る神」ではなく、「愛されて自尊心が満たされた私」ばかりが登場します。証しの主人公は「」であって、まるで神様は「私」を満たした「脇役」扱いです。ストーリー展開は「満たされなかった自分だったが、イエス様信じて満たされた」というものです。どうも、「自尊心を満たし高める要素のみ」を、判断材料として信仰決心をしているように観察できます。「罪人への神の愛」でなく「自尊心充足必要者への神の愛」が入信動機なのです。すでにこの時点から、続くクリスチャン生活が、どのようなものかが、ほぼ決定的になっています。

                 罪とは人類が神を離れた状態にあることだと教えられます。それは正しい罪の定義の一つでしょう。これを聞いた不健全自己愛者は、「自分も人類の一人で神を離れていたから罪人だ」程度の認識で、自尊心を傷つけずに、信仰決心に至ります。つまり、その罪認罪は、「一般論、観念論どまり」なのです。そこで止めておけば、自尊心が傷つかないのです。不健全自己愛者にとって、「罪についてのOKとNGのリスト」は以下のとおりだと考えます。


                 「人類みな罪人」はOKで、「あなたは罪人」はNG。

                 一般論としての罪はOKで、個別的な自分の罪はNG。 

                 観念論としての罪の教理はOKで、具体的な自分の罪の事実はNG。

                 言うまでもなく、前者は自尊心を保つことができますが、後者はできないからです。そういうわけで、不健全自己愛者は、自分の思いと言葉と行動と怠惰においての具体的罪は向き合うことを嫌います。聖書が示す具体的な罪のリストを読み、自分がそれに該当するかどうかは問いません。「本来の罪の故に呪われて滅ぼされるべき存在」という罪人意識は持ちたがらず、「神に愛されているすごい自分」という特権意識のみを持ちたがります。しかし、その一方で他者の罪や失敗は批判します。時に正しい罪認識がないので、まるで自分が罪人なき特権階級のように、未信者を見下します。周囲は「未信者のこと言えるか?」と呆れます。

                 もっとやっかいなのは、罪を指摘されると、自尊心を守るために、「愛がない」「さばいている」と防衛的逆切れをすることです。この言葉を発すれば、相手はひるんで、罪の指摘を間違いと認めて、めでたく自尊心を保つことができるのです。これは攻撃タイプです。防御型タイプですと、わざわざ自分を責めて苦しむ様を周囲に見せて、「あなたは悪くないよ」との言葉を引き出すのです。他者にお墨付きをもらって、傷つきそうだった自尊心は、そうならずに守られます。

                 もう、お分かりだと思います。取捨選択の基準は自尊心です。傷つかない深さでしか、罪の教理を受け入れないので、結局、実存的で当事者感のある罪認識には至らないのです。そのことは洗礼後の歩みを決定付けます。


                健全な自己愛者である若者は思います。

                「オレってもう、ゴミだよな。つくづく思うよ。」

                「私ってホントーに最低よね!どうしようもないわ。」

                 多くの場合、クリスチャンとして歩み始めた後にこそ、さらに罪認識を深め、こうした言葉を心の中で発するものです。罪認識が深まれば、恵み認識も、神愛認識も深まります。「こんな自分が罪赦されている!」「こんな私を愛し、イエス様は身代わりになられた!」と信仰決心時より静かだけれども、遥かに深い感謝や喜びが訪れます。それは、神の恵みと愛への応答となり、自己執着を離れ、神と人を愛し仕える歩みに導かれていくものです。

                 しかし、残念なことに、不健全自己愛者は、受洗後に、自分をゴミとも最低とも、思えないのです。自尊心に不都合な事実は、神の目からみての事実であっても認めようとしません。「自尊心の僕」は「主人」に逆らえないのです。かくして、罪認識を深められない不健全自己愛者は、いつまでも自己に執着し続けて、一向に成長と自立へ向かうことがありません。やがて「自己愛性信仰障害」が疑われる症状が周囲に明らかになっていき、牧師夫妻は困惑し、周囲は理解不能となるのでしょう。

                ちっぽけで罪深い私」というフレーズに自尊心が傷つき、その「私」を愛する神の愛に応答できないクリスチャンたち。

                罪を具体的で個別的な自分についての事実として認識しようとしないクリスチャンたち。

                罪を指摘されれば、あらゆる手段を講じて、相手に指摘を撤回させるクリスチャンたち。

                そのように一般論・観念論止まりの罪認識で、信仰生活を継続していくクリスチャンたち。

                 クリスチャンになる前から、そうした自己愛傾向を持つ人々を、この病める時代と病める社会は、いいえ、私たち罪人が生み出しているのです。正直、あまりに重く深刻なことだと感じています。しかし、自己愛性信仰障害者に失望したり、腹を立てたりで、この現実を拒んでいる限りは、何も起こりません。繰返しになりますが、正しい現実認識をして、このことを現代の日本の教会における主からの課題として受け止めようではありませんか。
                | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 20:21 | - | - | - |
                自己愛性信仰障害の時代(2)〜愛についての受け止めと応答
                0

                   昨日に続いて、大渕憲一著「満たされない自己愛ー現代人の心理と対人葛藤」を読んで考えたことを記します。この書物に触発されて、不健全なまでに自己愛が強く、信仰理解と信仰生活に著しい困難を生じる霊的病理を「自己愛性信仰障害」と命名してのシリーズ、第二回目です。どうも、私たちが信仰生活を送っているこの時代は、「自己愛性信仰障害」の時代となりつつあるのかもしれません。自己愛が正常な信仰理解と信仰生活を妨げる事例として、最も分かりやすいのは、愛についての受け止めと応答だろうと思います。

                   「昔は、あるがまま愛されたと分かると、その愛に応答し、愛してくださった方に従い、その方の栄光のために生きる献身的歩みへと向かったのに、今は、まったくそうならない・・・・」そんなボヤキや苦悩を、牧師夫妻や超教派の働き人から、お聞きすることもしばしば。そうした現象の一因には、この「自己愛性信仰障害」もあるように思うのです。

                   それまで神様の愛を知らなかったものが、あるがままで自分が神様に愛されているという事実を知ります。健全レベルの自己愛者は、「こんな罪深い者、ちっぽけな者を愛される神の愛はすごい」と応答します。しかし、不健全レベルの自己愛者は、「こんな大きな愛で神様に愛されている自分ってすごい」となるのです。

                   健全な自己愛者は「この神の愛に応えて生きて行きたい」と願いますが、不健全自己愛者は、「この愛を受け続けるすごい自分であり続けたい」と願うようです。

                   さらに、健全な自己愛者は成長し、「愛して下さった神に従い、献身的な歩みをしたい」と願います。一方、不健全自己愛者は、「一生あるがままでOKのお墨付きを神様からいただき、24時間自己実現サポートを受け続けたい」を願います。

                   そのように健全な自己愛者は、不徹底や失敗を経ながらも、自己中心から神中心の歩みへと転換していきますが、不健全自己愛者は、あるがまま愛してくださる神様の愛を根拠に、自己中心の歩みをいよいよ徹底してゆきます。それどころか、愛をもって、自己中心を罪と指摘する者や成長させようとする人々を、「愛がない」と攻撃しかねません。

                  図にするとこうなるでしょうか?

                  〈健全自己愛者の場合〉
                   あるがままで愛されている事実
                  →こんな罪深いものさえ愛する神の愛はすごい
                  →この愛に応えて生きたい
                  →神に従い献身的に生きる願い
                  神中心の歩みへの転換。

                  〈不健全自己愛者の場合〉
                  あるがままで愛されている事実
                  →こんな愛で神に愛されている自分ってすごい
                  →この愛を受け続けて生きる自分でありたい
                  →神に永遠の現状肯定と自己実現サポートを願う生涯
                  自分中心の歩みの徹底(それを戒める者への逆切れ)。

                   大渕先生は社会心理学者だそうです。そして、自己愛の本質を「自尊心」だと特定します。意外にも「自己関心」や「自己中心」、「自己顕示」や「自意識」(他者からの自己評価など)、そして「自益認知」(事実を自分に都合よく歪めて認識すること)ではないのです。(このことは、後の記事で紹介します) 確かに不健全自己愛者が健全な場合と異なるポイントが「自尊心」だとすると納得できるのでは?「自分には価値がある」「自分ってすごい」が、永遠にそして、底なしに続くわけです。

                   大きな愛で愛する神の価値より、その愛で愛される自分の価値が大切なのです。そこに執着し、そこから視点を離せないのです。神や人や教会や社会に視線を移せないのです。間違っても、この愛に応えて、自分の価値を下げ、自尊心を犠牲にしてまで、神様に従おうとはしません。ましてや神の栄光など、目標にしません。そのために自尊心を傷つけられるリスクなど犯しません。どこまでも目標は不変、自尊心を満たし続けることです。そして、その自尊心は底なしですから、どんな愛も恵みも、その自己愛を満たしきることはありません。絶対に、自己愛の貯蔵池が満タンになり、あふれ出して、神と他者へ向かうことなどありません。

                   神様に出会い神様の愛を知って受け止める前に、この愛に応答できないまでの「強い自己愛体質」にされてしまった人々が存在し、それは年々増加しているのかもしれません。いつくもの教会にお邪魔し、現場での苦悩や葛藤の声をお聞きし、そのように推察しています。不健全自己愛者クリスチャン、それは病める現代社会の犠牲者とも言うべきでしょう。

                  神に愛されてるオレってすげー!

                   これが、不健全な自己愛者クリスチャンを象徴するフレーズでありましょう。私たちは、好むと好まざるにかかわらず、こうした時代と社会に生き、証しをし、宣教し、教会形成をしていくのです。こうしたクリスチャンを嫌悪し、批判し、よき時代を回顧していても、何も変りません。逃げることなく、理解し、受け止めるしかないのでしょう。まずは、この現状認識と自覚を持つことかと思います。

                  | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 20:03 | - | - | - |
                  自己愛性信仰障害の時代(1)〜今、教会の中で
                  0

                    今日から、真面目に記事を書こうと思っております。第一弾は「自己愛性信仰障害」について。これは以前、好評であった「あるがまま、ずっとわがままクリスチャン」の続編に相当します。

                     まずはこの記事から。「あるがまま信仰告白」が受けたのか、多くのいいね!をいただきました。

                     育てよう健全信徒(28)あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン
                    http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3579

                     その後、記事への応答を受けて「あるがまま詐欺」について二度記しました。

                    「あるがまま詐欺を考える(上)」
                    http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3599

                    「あるがまま詐欺を考える(下)」
                    http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3602



                     続編を書こうと思ったきっかけは、今、読んでいる一冊の書物です。それは、大淵憲一という方の「満たされない自己愛ー現代人の心理と対人葛藤」というタイトルの新書。著者によれば、現代人の心理を理解する大きな鍵の一つが「自己愛」とのこと。巷でも「自己中」なる言葉が、使われ始め、既に定着をしています。それ程、自己愛が、露骨に表現されたり、従来にはありえないような自己愛の逸脱・暴走で周囲が困惑するケースが増えているのでしょう。

                     大淵先生は一般的に持たれる自己愛者のイメージを以下のように列挙しています。

                    自分のことにしか関心がない」
                    これは、逆に言えば、他者とか、教会とか、社会に対しての著しい無関心でもあるでしょう。

                    「人から愛されることを求めるが、人を愛することはできない
                    愛されたがりほど、自分から愛せないものですが、そういう方々が増えていますね。

                    「あきれるほど自分に自信がある」
                    実績や才能など客観的な根拠がないのに、自信があるのは、仮想優越感でもあるでしょう。

                    自分の魅力に酔い、客観的に自分を見ることができない」
                    いわゆるナルシストなのでしょうが、自己客観視ができないことは、ある未熟さを意味すると思います。

                    どうでしょう?これって、若年層を中心に、ここ10年ほどで、キリスト教会の中でも、増えてきたタイプの人たちだと思いませんか?

                     かつては、強い自己愛というものは、恥ずべきものでした。少なくとも社会の中でそれを露にすることは、信頼を失い、関係を壊すことを意味していました。誰にでも自己愛はあります。しかし、それをコントロールして社会生活を送るのが大人なのです。それができない事は、未熟さであり、幼児性を示し、人格と社会性での欠損を意味することでした。ですから、強い自己愛の持ち主はそれを隠したり、抑圧したり、適切に出しながら、社会生活を送ってきたのでしょう。

                     ところが、現代はこの自己愛が強すぎてコントロール不能な方々が増加しているようです。自己愛が不健全レベルで強い方がクリスチャンになると、どうも、信仰の土台が自己愛で、その上に神様の愛が乗っているような信仰の構造になるようにお見受けします。その根底にあるのが、自己愛であって、神の愛さえもその自己愛に奉仕するという構造なのです。クリスチャンになる前にそういう精神性をもっているわけです。

                     そうなると、クリスチャンになり、聖書のことばを聴き続けても、価値転換も生き様の転換も極めて困難となります。なぜならそのクリスチャンの根底にある自己愛が、神様に代わって主人となり、みことばを自己都合や好き嫌いで取捨選択するからです。「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」の信仰構造は、もしかしたらこうなっているのでは?と思い至りました。

                     今回、強すぎる自己愛が、福音の光を閉ざし、信仰的成長を著しく阻害するこの症状を「自己愛性信仰障害」と名づけました。自己愛が不健全なまでに強く、社会生活に困難を覚え、人間関係を築けない症状があれば、その人は「自己愛性人格障害」と診断を受けることがあります。同様に、自己愛が不健全なまでに強いために、聖書的な信仰理解を拒否し、正常な教会生活を送りえず、信仰的成長と自立を放棄していしまう症状があれば、それを「自己愛性信仰障害」と呼びたいのです。

                     病気呼ばわりしておいて、何ですが、該当者を批判したり、断罪することが、このシリーズの目的ではありません。病者だからこそ、尊重し、愛し、その回復を願うのです。人間の罪がもたらす一種の信仰上の病としてこれを位置づけて、むしろ愛をもって正しく理解して、暖かく受け止め、その克服を支援するために、このシリーズを記して行きたいと思っています。特に指導的立場にある方々が、理解不可能ゆえに失望してしまわないために、お力になれたらと願っています。

                     次回からは、実例や事例、その原因、自己愛のメカニズム克服支援の可能性などについて4,5回程度で書いていきます。
                     

                    | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 18:20 | - | - | - |
                    「あるがまま詐欺」を考える(下)
                    0
                       少しだけ、昨日の復習です。「なぜ、あるがままクリスチャンになるのか?」について以下のように仮説を立ててみました。 

                       「そもそもあるがままで神の前に出ていない、チラ見せ程度。」
                      →「そのため実は、あるがままの愛に十分触れられていない」
                      →「そこで偽りの自分を守らなくてはならない」
                      →「そのために神のあるがままの愛を自己防衛に利用する」
                      →「さらに、自己防衛のためには自己内ルールが必要となる」
                      →「そのルールは愛と戒めを対立的にとらえて都合の悪い教えを排除するもの」
                      →「かくして、神の愛を根拠として、律法的と他者を非難して、自己防衛を継続
                      →「あるがままの愛を深く体験しないので、その愛に真実に応答することなき信仰生活の継続」
                      →「結果として、いつまでも、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」


                       そして、ここまで考えて、気がついたのです。うーん、これって一種の詐欺行為ではないだろうか?と。神様との関係を、異性との関係に置き換えて考えてみましょう。異性の真実な愛に偽りの応答をして、逆にその愛を自己目的に利用するのは、犯罪ではなくても、詐欺的行為でしょう。

                       本命の彼女がいるのに「おまえだけだよ」と偽りながら、純情な女性に大金を貢がせる悪徳ホストがいます。自分にぞっこんなのをいいことに、「家族が病気」「実家が借金」と偽り、真面目サラリーマンに横領をさせてまで、自分に貢がせるキャバクラ穣がいます。これらは、たとえ、法的には犯罪者とはならなくても、詐欺行為者であります。

                       「あるがままクリスチャン」とは、同様のことを、神様に対してしているように思うのです。男女間では、すべてを捨てて愛してくれる相手に対して、自分は、全てを見せず、偽りの自分で応答して、自己利益に利用します。同じように、いのちを捨ててまでして、あるがままで私たちを愛してくださったイエス様の愛。その愛に対して、罪のチラ見せ程度の様子伺いをして、偽りの自分を差し出しながら、一方で受けた愛を自己保防衛に利用していく。これは、男女間なら、「サイテー」と言われる行為です。

                       これが今回思いついた「あるがまま詐欺」であります。言い換えますなら、「あるがままクリスチャン=悪徳ホスト・キャバ穣説」となるでしょうか。だからと言って、「あるがまま詐欺実行犯」に対して「それは神様に対しての詐欺行為でしょ」と叱ったり、「悪徳ホスト・キャバ穣と同じだろーが!」と責めたり、「そんなのサイテーだぞ」と言い放ったりすることのありませんように。余計に心を頑なにして自己保身を強めるだけですから。

                       「あるがままクリスチャン」が、いつまでも「今のまま」で「ずっとそのまま」になってしまう理由の一つは、そもそも「あるがままと偽って神の前に出ていること」にあるのでしょう。醜く汚れたどうしようもない罪人として、あるがままで神の前に出て受容されたら、その愛に応答せずにはいられないでしょうから。

                       ですから、あるがまま詐欺実行犯には、叱ったり責めたりするより、本当の意味で「あるがまま愛される」体験に導くことも一つの有効なアプローチかと思うのです。あるがまま詐欺実行犯の多くは、悪人というよりは、弱さや恐れの持ち主のようですから、他者の助けや励ましが必要なのです。ですから、深い考察と暖かい理解をもって、自己防衛の必要がないとの安心を与えながら、そうしたアプローチができればと願うのです。

                       「あるがままクリスチャン」を卒業に導くポイントはもしかすると、福音理解の訂正よりも、「本当の意味で、あるがままで神の前に出る」ように、「神様の前に裸になること」を励ます、あるいは、(親子関係や生育歴など)それを妨げている本当の問題を扱うことなのかもしれません。

                       今回は二回にわたり優れたエッセイに教えられたことから、怪しげな仮説を記してみました。現代の教会に蔓延するこの課題の克服に少しでもお役に立てれば感謝です。
                      | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 11:47 | - | - | - |
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