命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
愛こそが決め手〜All We Need Is Love.(1)
0
     毎月礼拝奉仕をさせていただいている教会があり、そこでは第一コリント13章を連続で取り次いでおります。その第一回目のメッセージを4回にわたって掲載します。タイトルは「愛こそが決め手〜All We Need Is Love.」です。今回は序論です。


     ただ今お読みいただきました第一コリント13章は、よく「愛の賛歌」と呼ばれます。しかし、もし、私たちが「ああ、愛は美しい、愛は素晴らしい」とここに記されている愛を賛美するだけなら、この13章を読む意味は、なきに等しいでしょう。私たちはこの章から、愛を学ぶ必要があります。ですから、これは「愛の教科書」と呼ぶべきです。さらに、神様のみこころは、ここに書かれている愛に私たちが生きることに他なりません。そう考えますと、「愛の実用書」「愛の指南書」として受け止めるべきでしょう。
     
      この朝は、冒頭の部分にあたります1節から3節までをお取次ぎします。1節から3節に書かれているのは、愛の至上性です。ビートルズの代表曲の一つに「愛こそはすべて(All You Need Is Love)」という曲がありますが、今回はそれをもじって「愛こそが決め手(All We Need Is Love)」とタイトルをつけてみました。
     

     もう30年ほど昔のことです。こんな冷蔵庫のテレビコマーシャルが流行りました。外国人が登場してコミカルにこう言うのです。「冷蔵庫、電気なければただの箱」。高級冷蔵庫も、最新型の大型テレビも、最先端のパソコンも、電気がなければただの箱です。何の役にも立たちません。むしろ、大きくて場所を取るだけ迷惑な物となってしまいます。
     
     もう、冷蔵庫たとえの意味がお分かりかと思います。ここでは、愛の至上性が語られています。どんなに信仰生活上、価値あるもの、評価されるものであったとしても、そこに愛という動機がなければ、「役に立たない」、「価値がない」、「空しい」と私たちに教えています。
     
      1から3節までを読みますと、同じパターンの文章が三度繰り返されているのに気が付きます。「たとい〜しても、愛がなければ」で始まり「否定的な結論」で終わっています。「たとい〜しても」の「〜」に相当するものは、すべてよいものです。1節では異言、2節では預言、奥義や知識、完全な信仰、3節は全財産を与える事、自分の命を犠牲にすることです。これらはすべて、信仰生活上本来、価値あるもの、賞賛されるべきものです。
     
      しかし、それに続いて、「愛がないなら」とあります。これがキーワードです。愛がないなら、それら信仰上で価値あるものも、愛という動機によるものでなければ、否定的な評価をされてしまうのです。まさに「冷蔵庫、電気なければただの箱」です。1節では「やかましい、うるさい」、2節では「何の値打ちもない」、3節では「何の役にも立たない」とあります。まさに「愛が決め手」だということです。

     
      さらに、興味深い事は、1節から3節にかけて、ホップ・ステップ・ジャンプと三段跳びのように、だんだん愛の至上性が強調されていることです。異言、次に預言、知識、信仰、さらに自己犠牲的な行為とだんだん比較されるものの価値が高められていきます。比較対象が、銅メダル、銀メダル、金メダルとレベルアップします。そして、それさえも愛がなければ空しい事が語られる中で、いよいよ愛の至上性が高められてゆくのです。それでは、今からの時、1節から3節を順番にお取り次ぎます中で「愛が決め手」、そのことを見てゆきましょう。

     
    | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 20:16 | - | - | - |
    「Me We, Now理論」の”We”としてのクリスマス
    0
       20日は「しくじり先生」のスペシャル番組が放映されており、けっこう長時間、見ておりました。堀江貴文氏も登場し、興味深い話を連発。

       何でも、堀江氏は獄中生活の中で、人から支持される理論を見出したとのこと。それが「Me We Now 理論」で、あのオバマ大統領も大統領選挙戦に際して実践した戦略だそうです。

      テレビではこんな風に解説していました。

      Me:自分の話をして距離を縮める
      We:共通点を見出して連帯感を作る
      Now:自分のやりたい事を説明する


       コミュニケーションは人格関係ですから、発言内容の正しさだけではなく、相手との心理的距離や共感や連帯感によって、その人物とその発言を信頼するということでしょう。「堀江さんはNowだけを言っている。だから正しいのは認めるけど、協力支持しようと思えない」という趣旨のことを言われたのだとか。そして、Nowだけで伝わると思っていたことの間違いに気が付き、この理論を実践し始めたとのこと。

       これは他人事ではありません。説教は例外かもしれませんが、聖書的正論ばかり言っていると同じ目にあうのでしょう。「聖書的で正しいのは認めるけど、先生が語られたように、御ことばに従おうとは思えない」という応答を起こしかねません。よく考えてみると、私も、ある時期から、特に恋愛や性について語る時は、同じような理論を無意識に使っていることに気が付きました。

      Me:自分の話をして距離を縮める→自分の性や恋愛での恥ずかしい失敗談を話す
      We:共通点を見出して連帯感を作る→中高生・青年期の葛藤や悩みを共感する
      Now:自分のやりたい事を説明する→その上で、聖書からの指針を伝える


       そして、もう一つ思いついたのです。このコミュニケーションの人格性は、神様から人類への啓示も同様なのでは?と。つまり、神様も人類に対して「Me We Now 理論」でコミュニケーションをとっておられるのではないか?ということです。かなり乱暴ですが、以下のように無理やりまとめてしまいました。


      Me:自分の話をして距離を縮める→神様は創造の業(自然)と言葉(預言と律法)を通じてご自身を示された
      We:共通点を見出して連帯感を作る→神様は人となり生きる悩みばかりか死という呪いさえ共有された。
      Now:自分のやりたい事を説明する→その上で、聖書を通じて、ご自身のみこころと御業、そして真理を伝えられた。


       「旧約時代もNowはあったしー、っていうか、創世からずっとNowだしー」とのツッコミはごもっとも。この通りの順番ではありませんが、これら三つの要素はあるし、MeとWeがあるからこそNowである聖書からの語り掛けを受け止められる面はあるだろうと思うのです。

       そう考えますと、神様の人類への啓示の歴史上において、クリスマスは「Me We Now 理論」の「Now」に相当するのではないかと思ったりしたのですが、どうでしょう?

       少なくとも、神様が人としてこの地上に生きられ、様々な生きる悩みを共有し、最後は、死の痛みと呪いの恐怖、父なる神に見捨てられる究極の孤独を味わって下さったことは、私たちに共感や連帯感以上のものをもたらすでしょう。

       共感や連帯感以上のもの。それは「あなたがたのからだを、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)とパウロが命じた真の礼拝と献身の歩みであろうと思うのです。それこそ、クリスマスに示された神様の愛とクリスマスの恵みに対しての私たちの為すべき応答に違いありません。
      | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 08:58 | - | - | - |
      クリスマスを前に〜「フランダースの犬」は悲劇ではないらしいぞ(再掲載)
      0
         昨年、クリスマス前に好評であった記事を再アップします。

         本日は、所属教会が地域に配布するハガキ(兼トラクト・行事案内)の原稿を書いておりました。ほとんど所属教会の礼拝にいない名ばかり協力牧師としての数少ない協力であります。

         その内容は、「フランダースの犬」についてのお話し。この作品、日本では悲劇のように扱われていますが、必ずしもそうではないのでは?ということです。ラストシーンのクリスマスイブ、大聖堂の中、飢えと寒さで命尽きるネロが観たルーベンスの二つの名画は「キリスト昇架」と「キリスト降架」でした。イブの夜、十字架にかかり、救いの業を完成されたイエス様を見ながらの旅立ち。これは、神様によってネロが天国へ召されたことを暗示しているように思えてならないからです。きっと、クリスチャンの多くはそう解釈することでしょう。

         日本でアニメ化された「カルピス子ども劇場」でのラストシーンは、天使が降りてきて、ネロとパトラッシュを天国へ連れていきます。そして、最後のナレーションは、悲しみのない永遠の安息の国で過ごすことを明言しています。これは、原作にははっきりと描かれていないことですが、この描写を指示して、ナレーションを書いたのは、何と!スポンサーである当時のカルピス社の社長、土倉富士雄氏でした。

         原作を知っており「ネロを死なせないで」との視聴者たちの声を受け、クリスチャンである土倉氏は、「原作は変えない、しかも子どもを悲しませない」との思いで、死を悲しみと受け止める日本にあって、死が永遠への旅立ちであることを明確に示したようです。(おお、社長、偉い、これからは、もっとカルピス飲むぞ)

         このことは以下のサイトに記されています。これには、感銘を受けました。クリスマスのメッセージや案内、そして、個人的にも未信者の方への証しに用いることのできる内容かと思います。ご存知ない方にはご一読をお勧めします。

        ”A Dog of Flanders” 「土倉冨士雄」
        http://www.patrasche.net/nello/human/09.html


         wikipediaによれば、土倉氏の祖父、庄三郎氏は「造林の父」と呼ばれ、自由民権運動を金銭面で支えていた方で、賀川豊彦の協力者でもあったようです。父親の龍治郎氏は、「カーネーションの父」と呼ばれる実業家で、同志社に学びクリスチャンとなった方とのこと。参考までにwikipediaを紹介しておきます。

        wikipedia「土倉庄三郎」

        wikipedia「土倉龍治郎」

        wikipedia「土倉冨士雄」

         
         というわけで、クリスマス前に一度、DVDをレンタルなどされて、そのラストシーンを観賞されてはいかがでしょうか?その昔、悲しみ100%で涙を流された方も、今回は、永遠への希望を交えて、涙されては、どうでしょう?
        | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 19:49 | - | - | - |
        再度掲載〜クリスマスを四文字熟語で表わすと?(3)
        0
           懲りずに三回目ですが、これで最終回です。今回は多少、メッセージ性もあるかな?と思っています。今回はクリスマス礼拝編です。クリスマス礼拝の意味を四文字熟語で。

           まずは、当たり前のことの確認から。

          初回限定 降誕礼拝

          何と言っても、元祖クリスマス礼拝ですから。


          基督当人 直接礼拝

          人となられた当人を目の当たりにしての直接ですから。


          悪臭充満 牧舎礼拝

          元祖クリスマス礼拝については、かなり劣悪な礼拝環境だったのでは?


          被差別者 優待礼拝

           当時の選民的価値観によれば、異邦人である博士はで、安息日を守れぬ羊飼いは人間のクズでした。最優先で招かれたのはそうした被差別者神の恵みを受けられないとされた人々だったのです。


          救主到来 恩寵越境

           「恵みの境界線の外側」にいるとされた異邦人(博士たち)と罪人(羊飼い)が元祖クリスマス礼拝に招かれたことは、主イエスの降誕を通じて、神の恵みが、越境したことを意味するのでしょう。まさに、この方こそ「すべての人を照らすまことの光」です。


           先週の主日、所属教会のユーススタッフの兄弟が、生徒たちにこんな趣旨のメッセージをしたと報告をしてくれました。

          「どうして、イエス様は家畜小屋に生まれなければならなかったか?」

          「もし、王家(世俗的エリート)に生まれたとしたら、羊飼いたちは、家の中に入れなかっただろう」

          「もし、律法学者(宗教的エリート)の家に生まれたらとしたら、異邦人である博士たちは、礼拝を許されなかっただろう」

          羊飼いと博士が礼拝をささげるためには、イエス様は、家畜小屋に生まれる必要があったのではないしょうか?」


           これを聞いて、いままでにない視点で、家畜小屋に生まれなければならなかった必然性を受け止めることができました。自分を羊飼いと博士の立場において思い巡らしていると、神様の愛のご配慮に泣けそうになりました。確かに、自分人間扱いされない人々を礼拝に招くために、イエス様は、人間扱いされない出生をされたのかもしれません。それが正しいのなら、こんな四文字熟語もありでしょう。

          畜生同然 救主生誕 畜生階層 礼拝招待

           三回にわたる四文字熟語シリーズでしたが、クリスマスの恵みをより深く味わう一助になれば、感謝なことです。
          | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 08:47 | - | - | - |
          再度掲載〜クリスマスを四文字熟語で表わすと?(2)
          0
             調子によって夜の部は、星が登場するマタイ編です。マタイ2:1−12を四文字熟語というか漢詩風にしてみました。


            東方博士 天体誘導

            真王追求 現地到達

            真王誕生 現王恐惑

            真王暗殺 現王計画

            天体停止 位置確認

            真王発見 博士法悦

            献金香薬 嬰児礼拝

            以夢啓示 現王不見

            別道経由 母国帰還


            木魚と鐘の音が聞こえてきた方には・・・お詫び申し上げます。
            | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 20:24 | - | - | - |
            再度掲載〜クリスマスを四文字熟語で表わすと?(1)
            0
              聖書が示すクリスマスを無理やり四文字熟語にしてしまおうという無謀なシリーズです。何回か連載してみます。

              まずは、ピリピ2:6はこうなるでしょうか?

              捨神成人

              ヨハネ1章だとこうなります。

              神言成人

              他にもヨハネ1章ならこんなのを思いつきました。

              凡照真光 現世到来

              何か、お経みたいになってしまいました。


              ルカ2章なら、こんなのはどうでしょう?

              真王到来 家畜待遇

              御使出現 牧者驚愕

              本日為汝 救主誕生

              栄光在天 平和在地

              布桶寝主 牧者発見

              見聞確認 賛美帰路

              ほとんど漢詩ですね。詩吟のできる方は、吟じてみて下さい。クリスマス祝会で・・・・ないと思います!
              | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 13:52 | - | - | - |
              人権週間に際して〜もし、マツコ・デラックスがクリスマス・メッセージをしたら(再掲載)
              0
                 昨年アップした記事を編集して再度掲載します。今、日本で最もテレビに登場する性的少数者はマツコさんでしょう。クリスマスを前に、「もし、マツコが、クリスマスメッセージを取り次いだら」との仮想で、説教原稿を書いてみました。マツコさんらしく、愛のある辛口となっております。

                 聖書朗読 マタイの福音書2章1−12節

                 奨励題 「アンタたち、博士に見習いなさいよ」

                 奨励者 マツコ・デラックス


                (聖書朗読に続いて、マツコ登場)

                 みんな、ごめんなさいね、アタシみたいなのが、聖書からお話ししていいのかしらって言ったんだけど、牧師さんが、「ノンクリスチャンの声を聞きたいからお願いします」とかおっしゃるもんだからさー。ずうずうしく、ここに立っちゃったってわけ。申し訳ないんだけど、しばらく、付きあってねー。

                 今、読んでもらった聖書箇所には、博士たちのクリスマスが書かれているのよね。アタシ、ここ読んでさー、「博士たちのクリスマス礼拝ってスゲーなー」とか感心しちゃったのよ。その一方でさ、クリスチャンでないアタシが言うのものなんだけど、「あんたたち、博士に見習いなさいよ」って思っちゃったのわけ。それで、今日は、見習って欲しいポイントを四つお伝えするから聞いてほしいの。

                 博士たちのクリスマス礼拝ってさー、「導かれ、拝み、献げ、遣わされる」っていう四つからできてるって思うわけ。その四つをポイントにして、今から、話すから、よろしくねー。しっかり、聞いてよー。

                 まずは、「導かれ」ってことよね。2節に「東のほうで星を見て」ってあるように博士たちは、星占いしてたんでしょ?だから、神様は星を用いて、博士たちをイエス様との出会いに導かれたんでしょ。きっと人それぞれに「クリスマスの星」のような導きを備えいるんじゃないかしら?それは、家族や友だちだったり、ミッションスクールや教会学校、それからトラクトっていうの?何かの文章、人によっては死にたいような試練や、逆に些細な出来事だったりするんでしょ。

                 それでさ、そういう導きって、神様の一方的な恵みなわけよ。でもさ、時々、自分一人でクリスチャンになったような顔して、未信者を見下してるようなのいるでしょー!そういうクリスチャン見ると、アタシ、「あんたも、一方的な恵みで導きを受けてキリストに出会ったんだから、偉そうにすんじゃないわよ!」って言ってやりたくなるのよ。神様はきっと平等な方だから、「アタシにとってのクリスマスの星」を備えておられて、いつか導いて下さるって思ってるんだけとねー。


                 二つ目は、「拝み」ってこと。つまり「礼拝」よね。11節の前半に「ひれ伏して拝んだ」ってあるじゃない。当時の長旅って命がけだし、護衛の兵隊もいて大変な費用だったんでしょ。そこまでして、博士が何をしたかと言えば、結局、礼拝じゃん!王の王、救い主との出会いって、礼拝でしょ。もしかしたら、博士たちはイエス様を直接拝めたら死んでもいいと思ってたんじゃない?命がけで莫大な費用をかけた長旅の目的って、クリスマス礼拝なのよね。

                 礼拝ってさー、そこまでのものだって、クリスチャンでないアタシだって、わかっちゃったのよ。今でも、迫害の中で、文字通り命がけで礼拝をささげているクリスチャンっているんでしょ?礼拝をささげるって恵みは、当たり前じゃないよね。どんな犠牲も命も引き換えにしても惜しくない恵みなんだよね。

                 でもさー、気分次第で礼拝行ったり行かなかったりのクリスチャンや、毎週礼拝に遅刻して平気でいられるクリスチャンもいるって聞いて、びっくりしたのよー。もう、「タイムマシンで2000年前に行って、この博士たちに謝れ」ってーの!だからさー、礼拝をささげることが、どんな大きな恵みかを知って、クリスマス礼拝の時くらい、博士たちに見習ってほしいと思ってるわけよ。


                 三つ目は「献げ」ってことよね。11節の後半に「宝の箱を開けて、黄金、没薬、乳香を贈り物としてささげた」ってあるじゃない?これって、神様からの恵みに対しての応答よね。三つのささげものは、それぞれ、王、祭司、死を象徴してるんだってね。目の前の赤ちゃんが王の王で、神と人をつなぐ祭司で、死をもって贖いを成し遂げる方だと知っていたのかしら?それはともかく、イエス様に「ふさわしいもの」、そして「最高のもの」をささげているわよね。

                 でもさー、クリスチャンの人って大変だと思うわけ。疲れて礼拝に来ても、喜んで賛美したり、お金に余裕がなくても献金したりするんでしょ?賛美を受けるにふさわしい方に心からの賛美や最高のものをささげるのよね。正直、心から賛美できない心情の時もあるんでしょ、やっぱり、献金する時に、惜しむ心が起こることあるのかしらね?

                 説教がましいんだけどー、そういう時にこそ、博士たちのささげものに倣って欲しいわけー。だって、人間の側がどんな時だって、神様は賛美を受けるにふさわしい方で、最高のものを受けるに値する方だからね。それに、アタシたちは、クリスチャンの人たちが、苦しい時に喜び歌って、貧しい時にも惜しみなくささげる姿を見て、「神様ってスゲー」って思ってるわけだからさー。


                 最後の四つ目は「遣わされる」ってことよ。「派遣」よね。12節に「夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国に帰っていった」ってある通りよ。イエス様と出会う前は、星の導きで歩んでいた博士たちは、イエス様を礼拝した後は、神様の語り掛けを導きとして歩んだのよね。自らを王とするヘロデとは会うことなく、イエス様を王とする博士たちは別の道を歩んだのよね。

                 礼拝の最後に「祝祷」とかあるんでしょ?あれって、祝福と派遣のための言葉なんでしょ?礼拝の祝福をたずさえて、証しの場に派遣されていくのよね。礼拝の後は、神の語り掛けである聖書の言葉に導かれて、自分でなくイエス様を王として生きて、クリスチャンでない人たちとは別の道を歩んでキリストを証するんでしょ?博士みたいに別の道なんだよね。

                 でもさー、祝祷を、礼拝終了の儀式程度と考えていて、礼拝が終われば、自分の時間とばかりに、派遣意識など全くなく、神の語り掛けに耳を閉ざし、ヘロデ王のように自分を王として、別の道でなくて同じ道を歩むクリスチャンもいるとかいないとか、さっき、牧師先生から聞いちゃってさー。それって、アタシとっても悲しいと思うのよー。

                 せっかく、神様の語り掛けを受けて、本当の王を王として歩める特権を与えられてるんだからさー。「それを自ら放棄してどうすんの?」って感じよ。アンタたち、イエス様と出会って礼拝をささげたクリスチャンが、イエス様と出会う前の人たちと同じ道を歩んだら、アタシたち、まわりのクリスチャンを見ていても、何とも思わないわけよ。


                 ってことで、アンタたちに博士たちを見習って欲しい点を四つ話しましたー。それが「導かれ、拝し、献げ、遣わされる」なんだでけどさー。なんか、部外者のアタシが随分失礼なこと言っちゃったように思うんだけど、アタシ、こう見えても、結構、日本のクリスチャンに期待してんだよねー。

                 アタシだって、時々、自分が心のどこかで、神様を必要として、救いを求めているように思う時があるのよ。そんな時、博士たちがクリスマスの星に導かれて、イエス様に出会ったように、今度はアンタたちクリスチャンが、このアタシをイエス様のところまで、クリスマスの星になって導いてくれないかなーって思っちゃうのよ。でも、アタシみたいなのも、教会って受け入れてくれるの?イエス様がOKなら、アンタたちもOKなんでしょ?

                 だったらさー、誰か、クリスマスの星になって、アタシをイエス様のところまで導いてよー!家畜小屋で生まれて下さったイエス様なら、きっと、こんなアタシの心の中にも生まれて下さるって、信じられるからさー。なんか、アンタたちにお説教するつもりが、最後はお願いになっちゃって、ごめんなさい。取り乱しちゃってごめんねー。

                 じゃあ、あとは、牧師先生、適当にまとめといてねー。今からテレビ収録だから、ごめんなさーい。失礼します。(マツコ降壇)


                 はてさて、この一見ハチャメチャなマツコのお説教、読者の皆さんはどう受け止められるでしょうか?
                | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 21:12 | - | - | - |
                一女性による「仮想」救いの証し
                0
                   今日、愛する皆様の前で救いの証しをさせていただけることを感謝します。私は小学生の時に母を失い、父と弟の三人家族で育ちました。人生の挫折者であった父は酒を飲んでは機嫌が悪ければ暴れるような人でしたが、ある事件をきっかけに酒を絶ち、自分の果たせなかった夢を弟に託します。

                   父と弟はその夢を目指して歩んでいくのですが、そのために弟は子どもらしく過ごすことがありませんでした。今、思えば、指導を名目に父は弟に虐待と言えるような仕打ちもしていました。私も、母親替わりに家事をせざるを得ず、子どもらしく過ごした記憶がありません。

                   自分の家庭が異常であり、このままでは、家族三人ともが幸せになれないことは、子ども心にも分かっていました。しかし、父からその夢を奪ってしまえば、父は再び酒におぼれ家庭が崩壊することも分かっていたので、私は何もすることができませんでした。心配な思いをもって父と弟を見守るしかありませんでした。子どもが親を心配しなければならない親子逆転不健全な親子関係だったのです。


                   中学を卒業すると、私は家事をしながら、近くで働くようになります。本当は高校に進学したかったのですが、母がいない貧しい家庭を支え、父と弟の夢を果たすためには、そうするしかなかったのです。その職場を時々訪ねてくれたのが、今の主人です。何年か後にプロポーズを受けましたが、私は下町の貧しい父子家庭で育った中卒、しかも年上です。トップ企業の社長の息子で裕福な家庭に育った主人とは、とても釣り合うとは思えず、何度もお断りしていました。

                   それでも、諦めず誠実に求婚してくれる主人の真剣な思いを受け止め、この男性に人生をかけようと決心しました。貧しい中卒の私が、トップ企業の御曹司と結婚したことで、当時は、「現代のシンデレラ」として、注目されマスコミでも報道されたものです。きっと、私は誰もがうらやむような成功した女性として、人々の目には映っていたでしょう。私自身も、これで幸せになれると信じてしました。

                   何不自由ない裕福な暮らし、トップ企業の社長夫人としての地位、誠実で私を心から愛してくれる優しい夫、私は女性としての幸せの条件をすべてを獲得したはずでした。でも、私の心は全く満たされず、少しも幸せではありませんでした。

                   私の内なる傷ついた子どもは、心の中でいつも、こう叫んでいたのです。

                   「子どもらしく過ごしたかった。父に甘えて愛されたかった!」

                   「高校に進学したかった。大好きな英語を勉強したかった。自分の進路は自分で決めたかった!」

                   「一度でもいいから、自分から男性を好きになって、燃えるような恋愛がしたかった!」


                   私は、いつも男性たちの意向に沿って、男性たちの自己実現の犠牲になり、本当の自分らしい生き方をできないまま、大人になり、結婚してしまいました。もう、二度と取り戻せないと分かっているのですが、内側にいる傷ついた子どもの自分が、叫び声を上げ続けるのです。そして、その叫びは幸せの条件をすべて獲得したはずの私から、幸福を奪ってきたのです。


                   さらに悪いことに、私たち家族は共依存だったと思うのです。私は父と弟を支えることにしか、自分の価値を実感できなかったのです。ですから、結婚した後も、父や弟と心理的に分離できないままだったのです。こんなに夫に愛されているのに、父と弟が心配で心配で、心には、全く平安がなかったのです。

                   私の心配の通り、弟は父の果たせなかった夢を実現するのですが、その瞬間に自己破たんして、今は音信不通です。よくテレビや週刊誌の「あの人は今」特集で取り上げられますが、今はどこでどうしているのか、全く分かりません。父はわが子を自己実現の犠牲にしてしまったことを、後悔し、罪悪感にさいなまれながら、日々を過ごしているようです。共依存的な私は、父と弟に人間らしい幸せが訪れるまでは、心に平安を得ることができなかったのです。


                   そんな私を心配して下さったのが、主人の取引先の社長の奥様でした。私をこの教会に誘って下さいました。主人も「君が明るくなるなら」と背中を押してくれました。教会に集い続け、聖書を読む中で、私は変えられました。罪なき絶対者である神様の前に出て、聖書の言葉に問われた時、自分の罪がわかったのです。真面目に父と弟を支えてきた自分の心の中に家族への憎しみや育ってきた環境を恨む心があるのを示されました。あまりに偽善的で醜い自分に一晩中泣き明かしました。

                   そして、最高に恵まれた環境にあっても、幸せになれないのも、神様を離れて歩んできたからだと分かったのです。自分の願った生き方ができなかったことに執着していましたが、今はそうではありません。私の育ってきた環境にも神様が共におられ、その時から私が救われるようにすべてを導いてこられたのだと悟ることができました。

                   牧師先生に、クリスチャンカウンセラーを紹介していただき、成育歴の中で受けてきた様々な傷も、神様のご介入とみ言葉の光をいただき、癒されてきました。願ったような生き方はできなかったけれど、神様が自分をここまで導いてこられたことを心から感謝できるよになりました。そして、今置かれた場所で、神様と人に仕えたいと思えるようになりました。

                   
                   今、私は生まれて初めて、心から喜べるようになりました。結婚以来、初めて夫を本当の意味で愛することができるようにもなりました。共依存であった私も、今は、神様にあって、父と弟との関係を新しくしていただきました。自立した一女性として、父と弟のことを覚えて、日々愛を込めて祈っています。

                   機能不全家庭に育ち、共依存のために、最高の環境にあっても幸せを実感できなかった私でしたが、神様は私を救って下さり、神様が願われる本来の自分を取り戻すことができました。もう、内なる傷ついた子どもの私が叫び声をあげることはなくなりました。


                   私は今、三人の救いを祈っています。主人が救われて、クリスチャン実業家として、神様を証しする歩みをし、弊社が神様に喜ばれる企業として社会貢献をしていくことを願っています。そして、わが子を自己実現の犠牲にしたことで、罪責感にさいなまれている父が、イエス様を信じて罪の赦しを得て、平安の内に余生を過ごしてくれればと祈っています。行方不明の弟ですが、神様はどこで何をしているかをご存知で、私の小さなお祈りであっても、それを通じて神様が働きかけて下さると信じています。皆さんご存知の通り、真面目で純粋で一途な弟ですから、イエス様を信じたら、きっと、フルタイム献身して、瞳に炎を燃やす炎の伝道者になるでしょう。


                   イエス様を信じた私はもう、電柱の陰から男性たちを心配して見守るような歩みにはピリオドを打ちました。神様にあって、また、夫との関係にあって、本当の女性の自立に歩み出すことができました。名前の通り、「明るい子」、光の子となって、「真昼のように」という賛美の歌詞のように輝きながら、イエス様の愛を伝えてゆきたいと願っています。

                   どうか、そうした歩みができますよう、これからもお祈りいただければ幸いです。拙い証詞ですが、ご清聴をありがとうございました。
                   花形(旧姓:星)明子



                  ※この仮想証しが、家庭病理、共依存などで苦しむ方々、本当の意味での女性の自立を願っておられる方々、また、その周囲にある支援者の一助になれば、感謝なことです。
                  | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 11:21 | - | - | - |
                  クリスマスに向かうブラックゴスペル・クワイヤーのためのメッセージ(再度掲載)
                  0
                     今日は午後5時から、私がチャプレンをさせていただいているブラック・ゴスペル・クワイヤー”Voices of Vision”のクリスマス・コンサート。というわけで、昨年アップした記事を再度掲載します。

                     以前、関東の教会が主催するブラックゴスペルクワイヤーで7,8分のショートメッセ―ジをさせていただいたことがあります。クリスマスに向けての練習の中、ノンクリスチャンの方が多いクワイヤーに向けてこんなメッセージを取り次ぎました。昨年に続いて今年も以下に全文掲載します。クリスマスに向かうブラックゴスペル関係者の皆様はもちろんのこと、本ブログ読者の皆様にとって、何かの参考や一助になればうれしいです。


                     皆さん、俳優のロバート・デ・ニーロをご存知でしょうか?徹底した役作りで知られるデ・ニーロは、役作りのためホームレス姿となり、路上生活を実体験しました。夜になり、そのままの姿で、宿泊先のホテルに入ろうとしました。当然のごとく、ホテルから宿泊拒否となります。しかし、この話、オチがあるのです。何と、そのホテルのオーナーはデニーロ自身だったのです。
                     
                     自らがオーナーを務めるホテルからの宿泊拒否。同じような出来事が2000年前にも起こりました。胎児であった救い主は、すべての宿屋から宿泊拒否を受けたのです。宿屋のオーナーどころか、全被造物のオーナー、創造主であったのにもかかわらずです。
                     
                     ルカの福音書2章の6節と7節にはこう書かれています。お読みします。「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を生んだ。それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
                     
                     ある本(藤井創著「世紀末のアメリカとキリスト教」)で読んだのですが、アメリカの白人教会では、この聖書箇所から、こんな説教がなされます。「イエス様は救い主としてお生まれになったのに、誰からも受け入れられず、家畜小屋でお生まれになった。だから、今、私たちはイエス様を救い主として受け入れましょう。」
                     
                      ところが一方、黒人教会でのメッセージはこのようなものだそうです。「イエス様は救い主として来られたのに、誰からも受け入れられなかった。イエス様は受け入れられない者の悲しみや痛みを分かって下さるのです。そうだ、イエス様は私たちの痛みと苦しみを分かって下さる。それは何とありがたいことだろう。」
                     
                      私はこの書物を読んで、悔い改めました。私は、誰からも受け入れられぬ者の苦しみに立つことなしに聖書を読んでいたからです。イエス様ご自身、拒絶され、居場所なき者として生きて、福音を伝えられたのに、自分はそうではなかったと気がついたからです。
                     
                     クリスマスを理解するキーワードの一つ、それは「居場所がない」との言葉ではないかと私は思います。受け入れられず、拒絶される者の痛みと悲しみ、それがクリスマスを解き明かす一つの鍵だと思うのです。
                     
                      イエス様は誕生の時から、宿泊拒否をされ、家畜同然の生まれ方をしました。その後は、父を失い貧しい母子家庭で苦労をされます。公に宣教を開始されると、家族はイエスは気が狂ったのだと考えました。また、寝食を共にしてきた弟子たちにも裏切られ、最後の最後にはイエス様を救い主として大歓迎したはずの群衆に裏切られ、十字架に架けられました。
                     
                     結局、イエスはその誕生の瞬間から十字架の死に至るまで、どこにも居場所がありませんでした。ですから、イエス様は家族から理解されない苦しみ、あるいは最も親しいもの、心から信頼し愛した相手から裏切られる痛み、社会から拒絶される悲しみを分かってくださるのです。体験者として100パーセントご理解くださるのです。そして、私たちの居場所となってくださるのです。
                     
                     現代社会においては、人間が人格でなく、機能や役割として評価されてしまいます。「居場所がない」それは言い換えれば、あるがままの自分で受け入れてもらえる場所がないということでしょう。求められる機能や期待される役割を果たさなくても、一人格として自分が安心していられる場所がないということでしょう。それは、私たちの多くが、大なり小なり実感している「居場所のなさ」ではないでしょうか?
                     
                      20年ほど前でしょう。「ギザギザハートの子守り歌」というヒット曲がありました。「小さいころから悪ガキで、15で不良と呼ばれたよ。ナイフみたいに尖っては、触るものみな傷つけた」という歌詞で始まります。そしてサビの歌詞は、「わかってくれとは言わないがそんなにオレが悪いのか」と訴えます。多くの若者たちがこの歌詞に共感したのは当然のことでしょう。
                     
                      この歌詞のように、誰も自分のことを理解し、受け止めてくれなかったら、心はギザギザハートになってしまいます。いじけて、ふて腐れて、「わかってくれとは言わないがそんなにオレが悪いのか」と人を傷つけるような生き方しかできなくなるものです。
                     
                     しかし、同じような境遇や心情にあってもブラックゴスペルは違います。皆さんは「誰も知らない私の悩み」という歌を御存知でしょうか。Nobody knows the trouble I’ve seen but Jesus.「誰も私の悩みなど分かってくれない、でもイエス様だけは分かってくださる」
                     
                     一人のゴスペルシンガーが、以前あるコンサートでこの曲をアカペラで歌って下さいました。私は聞いていて泣いてしまいました。黒人奴隷たちの悲惨さを思い涙したのではありません。そのような苦しみを100パーセント理解して受け止めてくださるイエス様に感動したのです。そして、私自身の人生にもその方が伴っていてくださるその事実を覚えると、もう、泣けて泣けて仕方なかったのです。

                     自分のことを100%わかってくれて受け入れてくださる方がたった一人でいいから、おられたら、私たちの人生180度変るはずです。But Jesusなのです。Jesusがいるといないでは人生正反対なのです。イエス様がおられたら、人生何があってもいじけてふてくされて、ギザギザハートになって人を傷つけなくてもよくなるのです。
                     
                     聖書はいいます。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」そして黒人教会ではこう語られます。「イエス様は救い主として来られたのに、誰からも受け入れられなかった。イエス様は受け入れられない者の悲しみや痛みを分かって下さるのです。イエス様は私たちの痛みと苦しみを分かって下さいます。」
                     
                     今日、お話申し上げたことが、クリスマスに向けて、ブラックゴスペルを歌う皆さんのお役に立てば感謝です。

                     
                    | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 10:01 | - | - | - |
                    クリスチャンのための「痛おもしろ動画」の紹介
                    0
                       先日、ハロウィンの件で紹介したはちこさんのブログ「ミルトスの木かげで」に「痛おもしろ動画」を発見。これがクリスチャンにとっては、本当に痛くて面白いです。

                      「すごいビデオ ミルトスの木かげで」
                      http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20151030/1446226077

                      タイトルの!”how not to love Jesus”というのが痛すぎてスゴイです。

                       「部屋を片づけなさい」との父の言いつけを三日間も実行せず、その一方で父の言いつけの言葉を暗唱し、そのための「五つの目的」を読み、スモールグループで理解を深め、恵まれて、父への説明責任を果たし、父に対して平然と「愛している」と言えてしまうこの娘。(設定がいかにもアメリカ的で笑えます)

                       うーん、まさに他人事ではないですね。


                       同じような名言が、我が家にある「名言名句活用辞典」(講談社)にあります。これはイギリスの著述家、C.C.コルトンの言葉で、ある意味、私にとっての座右の銘でもあります。

                      「人は宗教のために論争するだろう。
                       そのために書き
                       そのために戦い
                       そのために死ぬ
                       そのために生きること以外はなんでもやる。」



                       これを応用して痛おもしろフレーズを考えてみました。


                       「クリスチャンたちは御言葉を読むだろう。
                        それの取り次ぎを聞き
                        それについて議論し、
                        それを宣べ伝える。
                        御言葉に生きること以外はなんでもする。


                       「クリスチャンたちは礼拝を守るだろう。
                        それを大切だと主張し、
                        それについて学び、論じる。
                        時に遅刻し、さぼり
                        改革を試みたりもする。
                        自らを生きた聖い生きた供え物としてささげる真の礼拝以外ならなんでもする。」


                       えっ!痛いだけで面白くないって?それは失礼しました。

                       お互い、これだけ”how not to love Jesus”を聞かされ、教えられながら、どういうわけか”how not to love Jesus”の達人である自分を認め、悲しみ、絶望するところから、神様の恵みはスタートするのだと思います。
                      | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 16:10 | - | - | - |
                         1234
                      567891011
                      12131415161718
                      19202122232425
                      2627282930  
                      << November 2017 >>
                      + SELECTED ENTRIES
                      + RECENT COMMENTS
                      + RECENT TRACKBACK
                      + CATEGORIES
                      + ARCHIVES
                      + MOBILE
                      qrcode
                      + LINKS
                      + PROFILE