命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
SMAP問題と廃棄食品転売問題、黒い共通項
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     存続宣言も経緯説明もない抽象的な内容と、唯一明言された謝罪。SMAPの謝罪会見は、あまりの曖昧さの故に、多様な解釈ができるでしょう。でも、多くの方が「公開処刑」と評している側面は否定できないように思います。私自身はこう考えています。

     「ジャニーズ帝国」を独裁国家にたとえるなら、あの会見は、まさに「粛清」であり「公開処刑

     事務所とタレント間の労働問題と考えるなら、ブラック企業による「公開パワハラ

     ジャニーズ事務所と反社会的勢力との類似性に着目するなら、「公開落とし前


     アンチ・ジャニーズの私は、この事務所の体質が、独裁国家やブラック企業や反社会的勢力に類似しているように見えてなりません。

     
     昔、伝道師として仕えていた教会に、チンピラ風の怖そうなおじさんが、よく訪ねてきました。酔った勢いで、教会を訪れて、迷惑をかけてくれたり、寂しさや虚しさから真面目な態度でやってきたりでした。何度かその方の自宅にもお招きいただき、それなりに親しくさせていただきました。

     その中で、判明したのは、彼が、元・歌手で、レコードを数枚出していたこと。証拠の写真を見せてくれました。彼は全く売れることなく、その後、暴力団関係にお世話になっていったようです。その方が、昭和30年代表から40年代あたりの芸能界のスターたちの貴重な写真とともに教えてくれたのが、芸能界の裏話。噂には聞いていましたが、暴力団とのあまりに密接な関係は、ショックでした。

     もともと芸能の興業は、暴力団が仕切ってきました。「演歌・歌謡曲」が中心の時代は、かなりその傾向が強かったようですが、フォークやニューミュージックが大衆音楽の主流の一つになるとその傾向は薄れてきました。芸能の世界も産業化し、会社組織となれば、かつての傾向はなくなってきたようですが、今でも、一部有力な事務所や芸能界の裏のドンなどは、暴力団との密接な関係が噂されています。

     暴力団の支配力や影響は低下したとは言え、「業界全体」の体質には、その名残りが極めて強く見られます。「雇用者と契約タレント」というよりは、「組と組員」という関係に近い要素は多々あります。芸能界には「労働組合」がありません。事務所によっては一定の労務管理はあるようですが、かなりブラックなことも。売りだすのに巨額の投資がなされ、スタッフやこれからのタレントのためにもお金が必要とは言え、トップアイドルが、同年齢の会社員、OL並というのは、異常でしょう。事実上、移籍の自由がない業界ですから、賃上げ交渉ができないことも。

     とりわけ事務所を出たら、「業界全体から干される」などは、学校ならクラス中での「いじめ」です。不良グループの集団リンチに近いノリです。こうした業界体質は「うちの組を出たら、極道の世界で生きられない」「堅気になるなら、指詰めろ」に酷似しているように感じます。要は、芸能界という業界には、直接暴力団との関係はなくても、未だに「反社会的勢力のメンタリティー」「暴力団的文化」「極道体質」が、色濃く残しているように観察するのです。

     ですから、今回のSMAPの謝罪会見などは、まさに「落とし前的パフォーマンスのテレビ実況中継」のように感じてしまうのです。別の表現をすれば、「暴力団的論理や体質の具現化」のように見えてしまいます。


     もう一つは、廃棄食品の転売問題です。産廃処理業者に常につきまとうのが、反社会的勢力の陰です。産廃処理場をめぐって、町長が刺殺されそうになった御嵩町長襲撃事件などは、犯人が捕まらず、「どうも、堅気の仕業ではなさそうだ」と地域住民は考えていることでしょう。同じく御嵩町では、産廃業者の社員が同業者に殺害される事件もありました。今回の廃棄食品の転売も、東海地区で起こったので、私にとっては身近に感じざるをえません。

     今回の事件との関連でも「産廃業者の売り上げは、暴力団の資金源の一つになっている」との声も聞きます。もちろん、すべての業者や会社がそうではありませんし、それが検証され、証明されているわけでもありません。しかし、どうしても事件ばかりが目立ち、「法令順守によって、顧客や地域と信頼を築く」よりも、「いかに法の網目を抜けて儲けるか?」というのが業界全体の体質に思えてしまいます。個人的には、こうした体質自体は、従来から指摘されているように背後に暴力団などとのつながりや、そうした文化を引き継いでいるのでは?と考えてしまいます。


     「芸能界」と「産廃業界」は、印象としては、正反対の世界のように見えます。しかし、その背後や歴史にあるのは、同じ反社会的勢力であるとの指摘や声は、昔から続いています。少なくとも黒い噂が常につきまってきたのは事実でしょう。もちろん、そうした影響から脱して良心的な働きをしている芸能事務所や産廃業者も、多くあるだろうことは、断っておきたいです。さらに言えば、そうした業界で働く個人を非難しているわけではありません。あくまで、両方の業界についての一般論として、お受け止めください。

     断言できることはないのですが、「SMAP問題」と「廃棄食品転売問題」の背後には、こうした「黒い共通項」があるように思えるのですが、どうでしょう?
    | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 21:47 | - | - | - |
    松山市中学校・教師による暴行事件を受けて〜過去記事の紹介
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       三日ほど前に報道がありました。松山市の中学で、一男性教師が教室でボール遊びをしていた中一男子生徒をトイレに連れてゆき、施錠した上で、20分にわたり、頭突き、びんたなどの暴行、さらに生徒の証言によれば「殺してやろうか」などの暴言を浴びせたとのこと。

      日テレの報道です。
      ビンタに頭突き約20分 教師が中1男子に

       これは、理由、程度、方法、場所において、とても「体罰」とは言えないだろうと考えてあえて「暴行」と記しました。理由は、教室でボール遊びという軽度の問題行動です。顔にあざが残る程度の暴力は程度において体罰を逸脱しています。方法においては、頭突きという方法は通常、体罰では使われませんし、命の危機を伝えるような強迫は指導の正反対です。場所については、問題行動があった場所第三者がいる場所でなく、施錠した閉鎖空間というのは、相手に恐怖を与え、自分言動を隠ぺいするためであり、教育目的など微塵も考えられません。


       本件はまったく体罰ではないのでしょうが、このことを機に、体罰を考えてみたいとは思います。聖書から体罰の是非をどう考えるか?は「聖書をどう読むか?」に依存するでしょう。ただ、字義にとらわれ過ぎてしまうと「体罰はしなくてはならない」「体罰をしないのは子どもへの愛情不足」と解釈され、子育ての教理、指針となってしまいます。

       実際に、あるキリスト教系の異端は、そうなっているようです。ホームスクーリングの中で体罰が標準可していることで、社会問題になったケースもあったと記憶しています。極めて希ですが、正統的なキリスト教であっても、指導者からそうした指導を受けて、実践をしているケースはあるようです。多分、ファンダメンタルな聖書理解をされる外国人宣教師の指導であろうと邪推をしております。

       そこで、体罰を考える参考になればと願い、過去の記事をご紹介します。これらの趣旨を要約したものは、クリスチャン新聞の論説「オピニオン」にも掲載していただきました。読者の皆様の一助になれば、うれしいです。
           
      | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 18:21 | - | - | - |
      野坂さん、「みーんな悩もうとせず、大きくなりたがらない」のですが、大丈夫でしょうか?
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         野坂昭如さんが、逝かれました。昭和から平成を生きてきた一般大衆にとっては、本業の著作活動よりも、メディアを通じて、強烈なキャラとやんちゃな方法論で正義と平和を訴え続けてきた方という印象が強いでしょう。戦後日本の大衆に大きな影響を与えてきたリベラル派知識人の一人かと思います。

         個人的に影響を受けたのは、1976年の大ヒットしたCMでした。youtubeでご鑑賞ください。

        野坂昭如 ソクラテス サントリーゴールド900 1976年

        「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、み〜んな悩んで大きくなった」

         中3か高1だったと思います。この歌詞で初めて、ニーチェやサルトルなど現代哲学者を知りました。時代を象徴し、なおかつインパクトのある見事な歌詞です。ソクラテスとプラトンは西洋哲学の始祖で、ニーチェとサルトルは現代の代表者ということでしょう。音楽で言えば、バッハとヘンデル、ストラヴィンスキーとメシアンに相当する組み合わせでしょうか。人生の目的、人間の存在意義、世界の意味など、本質を考えて悩んでみんな大きくなったのです。最後は「おれもおまえも大物だ!」と断言して、大物感のあるウイスキーを宣伝するわけです。

         これはまさに1970年代を象徴しているCMと言えるでしょう。当時、日本の大衆はそれなりに真剣に悩んで考えたし、成長し続けるのだという意欲もあれば、成長の向こうには、何かあるという希望がありました。考えて悩むのが人間の本分とされ、それによって成長するので悩むことはとされていた時代です。


         それから40年が経過しました。今や日本は知識層でさえ、ソクラテスやプラトンのように真理を探究し、理想を目指したりしません。かといって、ニーチェやサルトルのように、すべてを意味づけていた神を除外して、人間存在を出発点とした主体的思索をしようとはしません。つまり「みーんな悩もうとせず、大きくなりたがらない」のです。

         真理を考え、理想を追求し悩んで、大きくなることではなく、悩まないことが最優先となったようです。悩むというストレスを回避することが大前提なのです。人生の意味や目的など考えてもわからないこと、平和や正義など悩んでも変わらないことに多大なストレスを覚えるよりは、快適に便利に日々を過ごすことが大切になったのでしょう。


         悩みに伴うストレスを回避するもっとも手っ取り早い方法は、「考えないこと」です。思考停止で与えられた道を歩むことです。判断保留状態で決められた言動をすることです。それを与えるのは、親や学校や世間や国家権力です。クリスチャンの親や教会の先輩や指導者という場合もあるでしょう。管理された社会や組織の中で、疑問を持たず、余計なことを考えないことが、もっとも手っ取り早いストレス軽減方法です。

         それが体質化してしまうと、もはや、教えられたことに疑問を持たず、与えられたシステムに抵抗をしません。するのが心理的ストレスだからです。ましてや本気で反論や変革努力などしません。人間関係において、さらなるストレスが予想されるからです。あえて、実行しようものなら、孤立無援になりかねませんし、集団から離脱せざるを得なくなります。

         そんな方々に向かって「それはおかしいのでは?」と指摘すると、彼らは言います。「考えて悩んで、大きくあなたたちの生き様、あなたたちが作った日本社会を見ていたら、同じになりたいとは思いません」と。「考えて悩んで、大きくなった向こうにあるものがその程度なら、最初から考えず悩まない選択をしたほうがましです」と。かくして「考えず、悩まず、ストレスなく、小さいまま>考え、悩み、大きくなる」という価値観を確立し、その価値観の上に人生を築いていきます。

         ある意味「人間は考えて悩んで成長してより幸福になる」という近代的自我についての楽観的理想像は、虚像ですし、「考えて悩んで人類は成長する」という進歩史観もかつての人類が抱いた共同幻想にすぎないでしょう。そもそも旧約聖書の昔から、それが虚像で幻想に過ぎないことは示されてきました。罪ある人間の神なき思索や努力によっては、本来の成熟も進歩もないでしょう。


         しかし、だからと言って、「考え悩むことによる成長」について相対的な価値を全面否定してはならないと思うのです。考えて悩んだ挙句に、教会に真理を求めて足を踏み入れる方がおられます。悩んで大きくなった向こうに見た砂漠のような虚無感の中で待っておられた神様に出会う方もおらえれます。

         「考えて悩んでストレスを抱えて大きくなっても、この程度→だから、ストレス回避のため考えない」という判断は、「ゼロか100か」「オール・オア・ナッシング」の幼稚発想、あるいは論理エラーでありましょう。考えて悩み成長することは、限界はありますが、相対的に人生を豊かにはするでしょうし、社会をより悪くすることを防ぐ基礎工事くらいにはなるだろうと思うのです。

         以前にも記しましたが、オルテガという哲学者は、初めて、大衆を分析、考察し、「大衆社会論」を唱え、その学説の正しさは、後に起こったナチズムやファシズムによって、立証されました。彼は大衆を「自分ではものを考えず、皆と同じこと感じることによって、安心を感じる人間類型」と解説しています。彼は「大衆は宙ぶらりんの虚構の中で、とりとめもなく関心を浮遊させ、ふざけあいながら生活している」と分析しています。


         私が本質を問わず、考えず、悩もうとしないことを問題視するのは、考えて悩まないこと自体の異常さよりも、それが大衆社会にもたらす悲劇を心配するからです。ブラック企業問題に代表される近年の労働環境の異常なまでの劣悪化などは、「自分ではものを考えず、皆と同じこと感じることによって、安心を感じる人間類型」がもたらした面もあるように思います。行政や企業側だけの責任とは言い切れないように感じています。

         従来にないほどに国家権力の暴走を危惧する声がありますが、そうした現状をもたらしたのも、同様だろうと感じています。個々の政治的課題についての判断は大切でしょうが、根底にある「考えず、悩もうとせず、大きくなりたがらない体質」の方が、さらに深刻に思えてなりません。日本の大衆に見られる「考えることの放棄」「悩んで大きくなることへの諦め」こそが、各個人や日本社会に致命傷をもたらしかねないだろうと危惧するのです。

         
         確かに、悩んで大きくなったところで、知れているのかもしれません。しかし、その相対的プラスを全否定してしまうと、相対的プラスさえ失いかねません。とりわけクリスチャンは、絶対的プラスを所有しているとの自負のあまりに、そのことを見逃してはならないと思うのです。個人生活であれ、教会生活であれ、将来の日本社会であれ、「みーんな悩もうとせず、大きくなりたがらない」ことで、その場のストレスは軽減できるでしょう。しかし、それは、将来の自分を苦しめ、より社会を不幸にすることに加担してしまうことを覚えたいものです。


        「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、み〜んな悩んで大きくなった」


         野坂さん作詞のCMソングを思い起こしながら、「考え悩むことがもたらす相対的恵み」について考えてみました。「野坂さん、みーんな悩もうとせず、大きくなりたがらないのですが、大丈夫でしょうか?」野坂さんの存命中、そのように問いかけた方は少なくなかったことでそう。


        <参考>同様の課題が福音理解に反映されたケースについては、過去の記事で論じています。ここでもオルテガの見解を根拠としています。よろしければご一読を。
        | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 15:11 | - | - | - |
        これが決定版でしょう!ハロウィンについての優れた記事のご紹介
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           まずは、ひとつご報告とお詫びです。昨日からフェイスブックにログインしようとすると「HTTP500内部サーバーエラー」という表示が出てログイン不可能となっております。検索してみるとPCからのログインについては同様の方もおられるようで、とりあえず回復を待っております。そういうわけで、いただいたコメントは読めますが、友だち申請承認やフェイスブックでいただいたメールへの返答ができませんので、ご了承ください。


           昨日の記事に対しては多くの「いいね!」をいただきました。ハロウィンについては「異教的起源は禁止の根拠ならず」との違和感を覚えておられた読者の多いのでしょう。本日、多くの名著の訳者として知られる中村佐知さん(通称はちこさん)より、コメントをいただき、ご自身のブログ記事に、昨日の記事を追記として紹介してくださったとの連絡をいただきました。そのはちこさんのブログ記事を一読したのですが、これが素晴らしいのです。「これを読んでおけば、ハロウィン問題はOK」と言える程の包括性と完成度を持っている記事として絶賛したいです。

           「ハロウィン考ーミルトスの木のかげで」
          http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20151031/1446317784

           私はこの記事は、追記も含めて極めて有益であるだけでなく、クリスチャンが社会事象を論ずる際のあるべきモデルだと評価しています。私になりに五つのポイントでまとめてみました。


          (1)客観的かつ公平な事実認識があること

           異教に起源をもつ習慣が、キリスト教化されてきたという歴史的経緯をきちんと認識しています。この点では、ハロウィンとクリスマス・イースターは変わらないという公平な事実認識に至ります。ですから、「異教的起源は禁止の根拠ならず」との必然的判断となるわけです。熱心さや信仰的こだわりのあまりに、先に結論を決めてしまうと時に、間違った客観性も公平さも失った事実認識に陥りかねません。


          (2)論理的に正しい考察がなされていること

           アメリカの教会で既に為されてきた議論と親としてのご自身の経験に立ちながら、上に記したように論理的に正しく考察されています。「正しい現実認識→適切かつ柔軟な聖書の原則の適用→聖書的判断」がきちんとなされています。悪魔的な要素があるものについては、どうしてもクリスチャンは生理的嫌悪感や感情で反応しがちです。それだけに冷静な聖書的思索と論理性が求められると思うのです。


          (3)聖書的判断だけでなく、聖書的歩みを尊重していること

           聖書的判断をすることはそれほど難しいことではないでしょう。では、その社会事象に対して、クリスチャンとしてどういう姿勢で歩むか?を考えるのは決して容易ではありません。クリスチャンは、聖書を基準に上から目線で世を評価するために、聖書を与えられているのでも、世に遣わされているのでもありません。でも、時にそうなりがちなものです。

           その点、「信条」よりも「この世にあってキリストに似た者として生きること」に焦点をあてた記事を紹介されたことは絶賛に値します。日本のクリスチャンが本当に必要としているのは、「ハロウィンに白黒つけること」ではなく、「ハロウィンが普及しつつある日本社会おいて、どう歩むか?」であるはずですから。


          (4)弱者への愛の眼差しがあること

           クリスチャンとしてある事象を考察する場合、大切なことの一つは「最も弱い人が誰か」を考えることです。そして、その事象に関する構造やシステムの中で、誰が最弱者であるかと特定し、「弱者にとってのその事象はどうか?」を考えることです。これは、神様が人となられた際に、弱小民族、労働者階級、貧困者という弱者としてお生まれになり、基本的に社会的弱者の側に立って宣教されたからです。キリストに似た者として歩むとは、自らを弱者の立場において事象を考え、判断することに他なりません。

           「追記」において、はちこさんは、欧米でのハロウィンにおいて、最弱者は、アフリカの児童労働者であることを指摘しています。これは、富める国家に暮らすクリスチャンにとっては不都合な事実でしょう。しかし、とりわけ、旧約聖書が神様のみこころとして示している正義と公正が真っ向から踏みにじられている現実があり、その犠牲の上に自らの豊かさを享受している事実を見なかったことにするなら、それは、キリストに似た者としての歩みだろうとかと私は思います。対象とする事象に関する最弱者への愛の眼差しがあること、私がこの記事を絶賛する理由の一つはここにあります。


          (5)未信者の立場に立つ姿勢があること

           私が藤掛先生の記事に教えられて、現代日本人が隠し持つ様々な闇を指摘するにとどまっていたのに対して、はちこさんは現代日本人が抱える痛みや問題などにも目向け、キリストの愛による贖いを願い、教会の為すべきことを考えようとしておられます。信者の立場で未信者を分析説明するだけなら、それはキリストに似た歩みではないでしょう。イエス様が、悪霊につかれた者を解放されたように、キリストの体である教会が為すべきことを問いかけます。まさに未信者の隣人になろうとする姿勢です。私の拙い記事をさらに深めてくださったことに感謝するばかりです。


           はちこさんが文中で指摘しておられるように、文明化された現代社会にあっては、悪霊の働きは、ハロウィンの仮装にような分かりやすさの中に、現れるのではないでしょう。むしろ、世の中のシステムに潜む構造的悪となって現われ、私たちを支配コントロールするのだと思います。ハロウィンの仮装より、搾取される児童労働者の犠牲の上に、日本のクリスチャンが豊かさを享受していることの方が、よっぽど悪魔的なのかもしれません。

           もし、ハロウィンを悪魔的だと強く非難しながら、正義と公正に反する児童労働の事実から目をそらすクリスチャンがいるなら、それは、現代社会において、キリストに似た者だろうかと疑問に感じます。今日の文明化された現代社会においては、目に明らかなハロウィンの仮装だけでなく、私たちの目には巧みに隠された悪魔の業を見破り、クリスチャン自身が、物質主義や商業主義のような思索的支配からの解放されることも大切な霊的戦いでありましょう。


           ご紹介した記事の本文は、「日本の教会が、愛と知恵をもってクリエイティブに対応できますように!」と閉じられています。まだ、ハロウィン慣れしていない日本の教会です。また、アメリカと日本ではハロウィンの祝い方も意味も異なるでしょう。それだけに、この記事が、来年以降も繰り返し読まれ、日本の教会が愛と知恵をもってクリエイティブに対応できる助けになるようにと願っています。
          | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 22:16 | - | - | - |
          ハロウィンが普及定着しつつある理由は?
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             日本でもハロウィンがかなり普及しており、クリスチャンが注意喚起する記事をよく目にします。その意図は尊重するのですが、ただ、「起源が異教にあるからNG」という理由は乱暴かなーと思っています。結論には賛同できても、プロセスにおいて論理エラーだと感じるような記事も時に見受けます。

             同様の事例を出しましょう。大掃除は歳神様をお迎えするための行事で、おせち料理も歳神様をおもてなしする食事です。お正月のお餅も白鳥になったヤマトタケル?が地上に降りると餅に変身したことから来ているようです。もし、「異教に起源=NG」なら、教会の大掃除や餅つきはもちろん、お雑煮もおせちも料理もNGです。そもそもクリスマスさえ、異教的な行事が、キリスト教化されたものと言われています。(実際に極一部の教会はクリスマスを祝いません。)

             そう考えますと、必ずしも異教的起源をもつことが、それをしてはならないという根拠にはならないはずです。では、判断基準は何か?それは異教に起源をもっていたものが、現段階において本来の宗教的意味を残しているか?失っているかでしょう?

             
            クリスチャンでハロウィン容認派の方は、きっと元来の異教的意味を失っていると考えておられるのでしょう。私自身は、死者やゾンビなどの仮装は、悪魔的だし、異教的文化の強い名残りだし、ホラーやオカルトとも関連しやすいので、要注意だとは考えています。

             その一方で冷めた見方もしています。クリスマスがキリストの誕生祝いだとも知らずに盛り上がる人さえいる日本人は宗教行事を脱宗教化する名人です。宗教的起源などはためらいもなく平気で捨てて、自らの文化や産業構造に取り込んでしまうわけです。今後は、ハロウィンも見事に脱宗教化される可能性はあるでしょう。単なる「仮装によるストレス発散行為が社会的に容認される日」となるのかもしれません。あと10年もすれば、「ハロウィンって何で死者や魔物のコスプレが多いの?」などと疑問を抱く人々も増えるのではないかと予想します。


             そんなことを考えている中で読んだこの記事には、「なるほど」と思いました。藤掛先生は、子どもではなく大人たちが仮装して盛り上がる現象を、心の世界から解釈して、それを「遠大な心理療法」ととらえておられます。

            「おふぃす・ふじかけ」
            ハロウィン仮装ブームに思う (11/02)


             この記事を読んで思ったのです。社会的抑圧とその発散を可能とするチャンスが出会うと、それが社会的に普及・定着するのだと。特に、産業側はそうしたビジネスチャンスを探しており、被抑圧者のニーズに対応した抑圧解消チャンスを提供すれば、ビッグビジネスになるのです。

             女性が男性に告白することがはばかれる文化的抑圧が、かつては強くありました。同時に、女性たちは、社会的制約を破ってでも、告白したいとの切実な思いを秘めていました。バレンタインデーは、年に一回とは言え、女性たちを抑圧から解放し、その切実な思いを果たす正当性を与えました。当然、それはビジネスチャンスを求める企業が仕掛けたわけです。

             そもそも日本人は控えめで、他者の前で自己表現をすることは美徳ではありませんでした。その一方で本当は人前で歌を歌いたいという自己表現欲求をひそかに持ちながら、長年、それを抑圧していました。カラオケはまさにその美徳に反する行為を正当化し、社交の手段にまで発展させてしまいました。言うまでもなく、カラオケは今や一大産業です。

             規模は小さいですが、近年話題となっている女装子などは、「男は強く、たくましく、泣いてはならない」など男性性を強要する社会にあって、そこからの解放のために女装をしていると思われます。つまり、内なる自らの女々しさを表出することで心のバランスをとっているのでしょう。

             女性からの愛の告白、自己表現欲求、男性からの逃避など、従来の社会や文化が認めなかった「闇」や「恥」を、正当化したい、表現したいとの隠れたニーズがあります。そのニーズを満たす新たな文化を作れば、それはビジネスです。儲かります。そこで企業が率先して、隠れたニーズを満たす文化を創造するのでしょう。


             ハロウィンについても、日本社会における大衆の隠されたニーズと、儲けたい側の意向がマッチしたというのが、社会科学的な視点からの分析だろうと思っています。ハロウィンの場合は、それが心理的バランス上のニーズであるので、心理療法と言えるのでしょう。

             ハロウィンを聖書から、特にその起源に注目して、宗教的視点から考えることは、本道かと思います。しかし、同時に、聖書を土台に持ちながらも異なる視点から考えることでまた、別の見方も可能となるものです。今回は、私も藤掛先生の視点から、別の見方を教えられた気がします。
            | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 21:14 | - | - | - |
            「秘密法反対牧師の会」が共産党委員長・志位和夫と懇談、委員長の祝福を祈る
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               10月1日のこと、「特定秘密保護法に反対する牧師の会」の方々が、共産党の志位和夫委員長と懇談をされ、懇談の最後には、委員長の祝福をお祈りされたようです。

               志位委員長自身がツイッターでそのことを伝えております。委員長のツイートはこちら。
              https://twitter.com/shiikazuo

               該当のツイートはこちらの文章です。
               
              「秘密法反対の牧師の会」の皆さんと懇談。「国民連合政府」構想への賛同と期待を寄せていただきました。懇談の最後に「志位委員長に神の祝福と豊かな恵みがもたらされ、神のご加護がありますように。アーメン」とお祈りをしていただき、大感激! 神を信ずるものも、信じないものも、手を携えて!


              「特定秘密保護法に反対する牧師の会」のサイトでも、このことが報告されています。野党重鎮訪問の二回目のようです。懇談の具体的なやりとりが掲載されています。
              野党重鎮訪問 共産党の志位和夫さんと懇談

              こちらでは、9月30日に持たれた一回目にあたる海江田氏との懇談の概要が報告されています。
              野党重鎮訪問 ヽす湘痛里さんと懇談l

               このことについての評価はいろいろでしょうが、福音派の牧師が中心メンバーである同会のこうした歩みは、お知らせする価値と必要性があると、判断して取り上げました。今回は、ノーコメントでお伝えします。
              | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 22:07 | - | - | - |
              風が吹けば桶屋が儲かる。福山が結婚すれば、居酒屋が儲かる。
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                 あるニュース番組の冒頭。キャスターが「衝撃が走りました。」と一言。テロか凶悪犯罪かと思いきや何と、芸能人の結婚。一般のニュースで福山雅治の結婚をトップで報じておりました。確かに一般視聴者には衝撃が走るでしょう。

                 これに匹敵する「衝撃婚」を思い起こすと、吉永小百合さんの結婚にたどり着きます。「日本男性永遠の憧れ的存在」であった吉永さんと「最後の大物独身タレント」であった福山さんとは似ていると思うのです。年配の男性読者は、吉永小百合結婚ショックを思い起こせば、女性たちの今回のショックも理解できるのでは?

                 年齢層に関係なく、幅広いファン層がいるのが、福山さんのすごいところ。これによって、明日はOLの欠勤増加が予想されます。さらには、出勤しても、労働意欲が低く、生産性が落ちるのは間違いなさそう。家庭においては、家事や育児も手抜きとなり、男性労働者の労働意欲も減退し、今日から数日間は日本経済の停滞が予想されます。

                 これによって「福山が結婚すれば、日本企業は儲からない」が諺となります。

                 一方で儲かる業種があります。それは、飲食業です。福山さんの結婚を受けて、やけ酒・やけ食いに走る女性が増加。とりわけ、居酒屋は、これをビジネスチャンスとして、収益倍増!チラシやネットの宣伝コピーはこれです。

                 「○○は、女子会を応援します!福山雅治結婚残念会プラン・予約受付中!」

                 かくして、「福山が結婚すれば、居酒屋が儲かる」が諺となることでしょう。


                 今日は、本当にしょーもない記事になってしまいました。そこで、有益な記事のご紹介。この件を扱ったクリスチャンの記事で一番面白かったのが、こちらです。藤掛先生が二人の出生順から、結婚の未来を予想しています。ショックを受けた方にも、ご一読をお勧めします。

                 ブログ「おふぃす・ふじかけ」
                「嵐ファンと福山ファンは実は似ている」


                 イエス様は、ペテロの信仰がなくならないように祈りました(ルカ22:32)が、私は、ショックを受けている女性読者の労働意欲がなくらならないように祈りましょうか?
                | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 08:11 | - | - | - |
                安保関連法案成立直後の礼拝講壇にて
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                   9月27日の主日は、安保関連法案の可決直後の礼拝でした。その日は東京に近い、千葉県内での礼拝奉仕。講壇から安保関連法案可決には一切触れる気はなかったのですが、そうもいかない事態に直面しました。

                   同教会での礼拝奉仕はここ2年で四度目となります。聖霊の恵みを強調する超熱心派で、優れた信徒訓練がなされ、ここ20年間で飛躍的な宣教の実を結んできた教会です。日本では、このタイプの教会は牧師個人のリーダーシップが強かったり、時に権威主義的になりがちなもの。しかし、私がこの教会を高く評価するのは、牧師夫妻が全く権威的でないことです。明確なリーダーシップと親密なチームワークと信徒との対話的姿勢の三つが調和しているのです。

                   他方、同教会は、虐待件数・県内最高の地域にあって、NPOや教育活動で地域貢献をし、それが地域宣教にもつながっています。地域に対して、深いの思いと高い意識と宣教の情熱を持っている教会です。


                   そうした教会にお邪魔した土曜日の夜に、牧師に伺って少し驚いたことがありました。それは、あの安保関連法案をめぐり徹夜となった審議の夜には、安保関連法案のために有志70名が教会に集い祈りをささげたというのです。大きな教会とは言え、この70名という人数はたぶん、大人の礼拝者の過半数を占めるでしょう。


                   そして、礼拝の中で、説教前の賛美として、牧師が選曲されたのが、「我らの王はイエス」というワーシップソング。この賛美は通常、御国の到来を願ったり、リバイバルを求める思いで歌うのでしょうが、牧師は、安保関連法案可決を覚えて、この選曲をされたことをお伝えくださいました。印象的で心から離れなくなるサビの歌詞は以下の通りです。

                  我らの王はイエス、この街の王はイエス、この国の王はイエス・キリスト


                   
                  さらには、礼拝は聖霊の導きの流れを尊重し、開始の賛美から祝祷まで流れるような礼拝で、賛美リーダーはいても、専任の司会者はおらず、ありがちな「では、次に」「続きましては」などは皆無です。説教者は直前の賛美が終わる前にスマートに登壇して、会衆の集中と主との交わりを途切れさせないことが求められます。


                   そこで説教者として、問われたのは「この教会のこの礼拝において、説教開始時の言葉はどのようなものが最善か?」ということでした。そこで、私なりに以下のことを、判断材料として考えました。

                  説教者たる者、奉仕する教会の信仰理解と牧会方針を尊重し、礼拝の質的向上に貢献すべき。

                  ・牧師が「我らの王はイエス」を選曲した意図は活かされるのがよいだろう。

                  ・流れるような礼拝とするためには、この賛美と説教を、途切れることなくつなぐ言葉が必要とされる。

                  ・この賛美が歌う信仰告白は、安保法案可決という社会事象と礼拝における主からの語り掛けをつなぐものであるはず。

                  ・同時に、求道者も多い礼拝なので、多様な政治的信条を持つ方への牧会的配慮は必要ではないか?

                  ・礼拝説教の趣旨は、キリストご自身の言葉としての愛の戒めなので、そこにつなげる言葉となれば、なお、好ましい。


                   そこで、私は、こんな言葉で説教を開始しました。

                   「私たちは、たった今、賛美を通じて、キリストがこの国の王であると信仰告白をいたしました。そして、今この国は歴史的な転換期を迎えているとも言われています。お互いの社会に対する意識や政治的信条は、人それぞれでしょう。しかし、礼拝に集うお互いは、今後の日本の歩みがどのようであっても、この国の王がキリストであり、その方が歴史を支配しておられることを信じてゆきたいと願います。そして、今からの時、礼拝の中、聖書を通じて、その王の王である方からの語り掛けをいただきましょう。」


                   この説教開始の言葉が、礼拝全体を本当によりよいものとしたかどうかは、今でも自信はなく、疑問です。直前の賛美には一切触れず、普通のあいさつで説教に移ったとしても、その選曲の意図は、会衆の心に伝わり、十分活かされたのかもしれません。会衆の持つ政治的信条の多様性への牧会的配慮などは、まさに、「小さな親切大きなお世話」であって、牧会権の侵害に相当するのかもしれません。

                   また、聞き手によっては、こうした発言自体が、特定の政治信条によるものと受け取られてしまいかねません。説教以外のことは期待されていないのだから、いっさい何も触れずに、説教に移ることが正解だったのかもしれません。少なくとも、その方が無難であったことでしょう。しかし、私は1タラントを土に埋めるより、失敗を恐れず用いる選択をしたのです。

                   
                   実は、私がこのような状況に遭遇する中、上のような言葉を発する知恵が与えられたのは、少し前に読んだあるブログ記事によるのです。それがこちらです。

                  ブログ「どこかに泉が湧くように」
                  教会としての政治的決断 (09/13)

                   朝岡勝先生は、フェイスブックの中で、いまのご自分があることの一つのきっかけは、この先生との出会いであったと記し、この記事を紹介しておられます。私も、師の訳書によって霊性に目が開かれ、師の著書の中に、キリスト者としての社会的責任の聖書的根拠を見出した一人です。

                   拙ブログの浅薄な見解にも応答して下さっているようで、謙虚に考えを深めざるを得ません。私自身はこのブログ記事が記す最後の段落にある教会の政治的判断の根底にあるべきものを受けとり、それを説教の現場において「架け橋」とさせていただきました。

                   それは、キリストの主権を告白するを賛美と、隣人を愛せよとの説教の架け橋でした。また、それは、安保法関連法案可決という社会的事象と神の言葉との架け橋にもなっていたのかもしれません。


                   安保関連法案直後の講壇に立つ説教者として、思いがけず、シリアスな課題を問われました。恥ずかしいような実践報告ですが、説教者にとっては、実践神学上の参考くらいになればと願います。また、読者の皆様には、私の小さな体験が、重大な社会的事象と神の言葉の取り次ぎとしての説教の関連性について考えるきっかけになれば感謝。先輩牧師のブログ記事が、現場に立つ私の指針になったように、この拙い記事が、社会と教会の現場に生きる読者の助けとなることを願っています。
                  | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 10:31 | - | - | - |
                  集団的自衛権問題は、飲み会で一人だけウーロン茶を飲む社員のようです?
                  0
                     昨日まで二泊三日のキャンプでした。お祈りに支えられてお役に立てる奉仕ができたように思います。それだけでなく、このキャンプは、楽しい交わりと感動的な証しが満載でした。ある朝食時には、とてもフランクな「質問オジサン」から、記者会見のごとく、質問をいただき答えておりました。やがて安保関連法案に話題は移り、その方が、国際社会の側から見た集団的自衛権の問題についてわかりやすく整理してお話し下さいました。

                     〃法前文は、平和維持のために国際社会への参加と協力を宣言している。
                     
                     ■江鬚任蓮国際紛争解決手段としての武力行使を放棄している。

                     9駭憲章(51条)は、集団的自衛権の行使を認めている。(同時に行使しない選択も認められているはず)

                     があるために,鉢△燃詁が起こっているとの見解を述べられました。以前は、それほど葛藤もなく過ごせたのが、世界情勢の変化(あるいはアメリカの都合)によって、前文と9条の整合性に立ち続けることが困難になってきたとのことでしょう。こうした説明は、これまでも聞いていたことはありますが、今回は改めて、池上彰さんの解説を聞くかのように、頭の中が、整理できました。


                     そこで、私が「それって、一人だけ会社の飲み会に行かない社員みたいですね」と言いますと、質問オジサンは、「いいえ、一人だけウーロン茶飲んでるようなものでしょう。」と返答。これが、二人の対話の結論となりました。
                     
                     その後は「お酒を飲まないクリスチャンと同じような葛藤」「飲まないことを非難されるのは、ある意味、当然」「なぜ飲まないかを説明することが大切」「唯一の被爆国として、全員ウーロン茶の飲み会を目指すというのはどうか」などのフレーズが出てきました。


                     そこで思いついたのが、「集団的自衛権、飲み会で一人だけウーロン茶社員説」です。この軽薄で怪しげな仮説を以下に、福音書風に記してみます。

                     
                     「集団的自衛権問題は、飲み会で一人だけウーロン茶を飲んでいる男性社員のようです。新入社員の日本(ひのもと)君は、勤勉で物静かな好青年で、上司からは期待され、周囲からも信頼をされていた。ところが、社内で飲み会のある度に、酒に酔った勢いで、女性社員にセクハラを、同僚男性たちに暴力を繰り返した。直属の上司で、社内でプロレス部長と呼ばれている部長が、反省を促しても、『女子社員へのスキンシップ』『男同士の社内不和解決策の一環』と言い訳をするばかりで、改善は見られなかった。その結果、彼の社内での信頼は失われ、とりわけ、女性社員と同僚男性からは、ヒンシュクの的となっていた。

                     ある日の飲み会のこと。プロレス同好会出身で、趣味はプロレス、特技もプロレスという部長が、日本の暴走を見かねて、遂に制裁を行った。酒乱状態で迷惑行為を繰り返していた彼に、必殺技のアックスボンバーをお見舞いしたのだ。この最強の爆弾を受けた彼は、頚椎を損傷し、数週間の入院と休職を余儀なくされる。

                     上司からのパワハラとして訴えることもできたが、自分のこれまでの悪行三昧や部長との力関係、そして、社内の部長礼賛ムードを考えると、大人しくしているのが、賢明だと判断した。痛い目にあって、ようやく反省した彼は、職場復帰に際して、部長の勧めに応じて二つの約束を日本国憲法を模して書面にして、捺印して、部長に提出をした。その二つは以下の通りであった。

                     『私、日本は、飲酒によって再びセクハラ、暴力の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、社員間の親睦を深めようと努めている社内において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。』

                     『私、日本は、正義と秩序を基調とする社内親睦を誠実に希求し、飲酒行為は、社内不和を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』

                     
                     これらの反省に立って、彼は、セクハラ被害女性と暴力被害男性には、謝罪をし、彼なりに誠実な償いもした。飲み会では、一人だけウーロン茶を飲みながらも、趣向を凝らした企画を連発し、飲み会を盛り上げて、誓約通り、社内親睦に貢献していた。経緯と事情を知らない後輩社員には、かつての失敗を話し、ウーロン茶を飲みながら、『飲酒によらない真の社内親睦』『全員ウーロン茶の飲み会』の理想を語った。

                     もともと勤勉であった彼は、反省の後、健康も恋愛も犠牲にして、猛烈に働き、売り上げトップを達成し続け、プロレス部長にもかわいがられ出世街道をまい進していった。敗北者の起死回生の活躍を見た社員たちの中には、かつてのセクハラと暴力被害を、訴える社員たちも少なくなかった。それに対しては、『既に解決済みのはず』としながらも、被害者の心情を思えば、心を痛め、実際には、さらなる謝罪を続けていた。


                     転機となったあのアックスボンバーから、7年が過ぎた頃のことである。社内の対立構造も大きく変化していた。ある日のこと、プロレス部長に呼び出された彼は、思いもかけなかった言葉を聞くこととなる。

                     「社内の人間関係も変わった。お前も酒を飲め。部下がウーロン茶では、他の部署に対して示しがつかないから。」

                     部長のあまりの変節振りに、戸惑ったのは言うまでもない。しかし、ここで部長に逆らえば、これまでの努力も出世も水の泡になりかねないと思った彼は、しぶしぶ、こう約束した。

                     『わかりました。でも、最初の一杯だけでお許し下さい。帰宅して心の整理をつけて、再度、ご報告にあがります。』

                     かくして、極めて限定的な飲酒行為を部長と約束したものの、帰宅後の彼の心の中では、激しい論争が繰り広げられた。

                    『上司の命令には、逆らうことはできないのがサラリーマン』
                    『最初の一杯だけなら、昔のように、酔って迷惑行為をすることはないはず』
                    『でも、実際の飲み会で、最初の一杯だけで済むだろうか?二杯目からは断れるだろうか?』
                    『社内で唯一のアックスボンバー被爆者として、自分は、会社のために真の親睦をリードすべきでは?』
                    『これまで語ってきた飲酒によらない社内親睦、全員ウーロン茶で飲み会という崇高な理想を捨てていいのか?』
                    『なんか、かつての被害者たちが、自宅前で飲酒反対を叫ぶ声が聞こえてきそうだなー』
                    『でも、やっぱり、部長命令だからなー。約束しちゃったわけだしー』

                     様々な葛藤を経ながらも、彼は、7年前の部長との約束を解釈変更して、『最初の一杯だけなら、約束に違反しない』と自分に言い聞かせた。かくして、最初の一杯だけという限定的な飲酒を、彼は、心の中で閣議決定したのであった。

                     当然のことながら、その決心の報告を受けたプロレス部長はご満悦、一方、その決心を伝え聞いたかつての被害者社員が、繰り返される被害を危惧したのは言うまでもない。

                     この日本君、彼は今後、最初の一杯に留まり続け、限定的飲酒による社内親睦の道を歩み、会社に貢献していくのだろうか?それとも、二杯目以降に口を付けてしまい、やがて、かつてのセクハラ、暴力行為を繰り返してしまうのだろうか?


                     まことにまことにあなた方に告げます。平和をつくる者は幸いです。しかし、その作り方一つだけではありません。」


                     以上です。標準的な解釈に立って、客観的かつ公平中立の立場で、比喩を考えてみたつもりです。でも、左右どちらからも、ツッコミどころは満載で、ご批判をいただくことでしょう。「そもそも、国際社会と日本の集団的自衛権を、社内親睦と飲酒の関係にたとえること自体が比喩として成立しないだろーが!」とお怒りの方には、百害あって一利なしの記事に違いありません。「こんなことを福音書の文体で書くことが不敬虔だ」との敬虔なるクリスチャン読者の皆様には、お詫びするしかありません。(だったら、最初から書くなよ!)

                     この記事は私の見解としてではなく、比喩を通して分かりやすく、集団的自衛権についての日本の葛藤を客観視する助けとして、読んでいただければと願っています。とりわけ、禁酒や節酒を旨とするクリスチャン読者が自らの葛藤とリンクして考えることは、有益だろうとも考えたのです。拙い記事ではありますが、この卑近なたとえが、この件を身近で極めて重大な課題として受け止め、為政者のために執り成し祈り、それぞれの判断で主の前に誠実な一票を投じていくことにつながれば、うれしいです。
                    | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 14:46 | - | - | - |
                    信仰リーダーの政治行動についての優れた考察を紹介
                    0
                       以前にも書きましたが、「安保法案反対に非ずば、クリスチャンに非ず」のような同調圧力については、どうかと思っている私です。FBの方には、一信徒から「牧師が礼拝の講壇から安保法案反対の話をよくするので、教会を変わろうかと思っている」との趣旨のコメントをいただきました。この信徒は健全な福音派として知られている某団体の教会に所属しています。ここまでくると、さすがにどうかと思えてきました。

                       そんな時に、「これだよな」「そうそう、その通り」と思えるブログ記事を発見。それがこちら。

                      ブログ「羽村の風」
                      安保法制とキリスト者について

                       よくぞ、要点をまとめて、分かりやすく、しっかりと聖書を根拠とした明確な論旨で書いて下さったと感謝感激・大絶賛であります。

                       記事の中で、一牧師のこんな言葉が引用されていて、その通りだと思ったのです。

                      「私は、教会の中に、自民党でも民主党でも、さまざまな考え方を持つ人々がいるのを見て嬉しく思います。それこそが、キリストにある一致を現す教会だからです。」

                       教会の一致は「画一性による一致」でなく、「多様性における一致」だと言われます。第一コリント12章にある通り(追記:むしろガラテヤ3:28の方が適切かも)です。性別、民族、身分だけでなく、政治的立場が異なるまま、主にあって一つ、御霊によって一致するのが、教会でありましょう。イスラエル人とギリシャ人やローマ人、庶民と王家、奴隷と主人では、政治的立場が違うのは当たり前でしょう。この深刻な違いを超えて、一致していた教会の姿を聖書は描き、一致を命じたパウロの言葉を聖書は記しているのです。

                       このブログ記事はイエス様の弟子たちも多様な政治的立場にあったことを示しています。知ってはいましたが、改めて、考えさせられました。「誰が偉いか論争」をしていた愚かな弟子たちが、お互いが政敵なのに、政治論争をしなかったことは、今日の私たちに何を教えているのでしょう?(追記:単にイエス様を王とした母国復興で一致しただけかもしれませんが)

                       信仰リーダーの政治行動(それが正しいものであっても)によって、一教会の「多様性における一致」亀裂が入るとしたら、それは信仰リーダーとして、正しいことだろうか?召しにふさわしい優先順位だろうか?と改めて考えさせられています。

                       (追記:信仰的リーダーの政治行動の是非はともかく、それが教会の交わりへの同調圧力となり、聖書が示す多様性における一致を損なうとしたら、少なくともそのレベルの言動については慎むべきではないか、せめて異なる政治信条を持つ信徒が安心できる牧会的配慮はすべきだろうととこのブログ記事を読んで思ったのです。)

                       ご紹介した記事は信仰リーダーの政治行動についての優れた考察だと思います。このタイミングでこそ、繰り返し読んでいただきたいと個人的には願っています。
                      | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 22:38 | - | - | - |
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