命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
育てよう健全信徒(27)エネチャージ搭載・低燃費走行クリスチャン
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     近年最近テレビCMで目立つのは、車が減速し止まる力を電気に変えて蓄積して、それを走行時に使うという新技術「エネチャージ」搭載のスズキワゴンR。

     そうした時代の流れのせいなのか、近年、教会でお見かけしたり、牧師方から苦情をお聞きするのが、「エネチャージ搭載・低燃費走行クリスチャン」であります。大抵はクリスチャン二世のようですが、このタイプのクリスチャンは、無駄に信仰を燃やしません。必要最低限の燃費を目指します。では、「必要」とは何かといえば、「救い」「天国行きの切符」であります。天国での予約席を失わない限りにおいて、極力燃費を抑えるという実にエコな信仰生活のスタイルを送るのです。

     その独自の走行ぶりは、はたから見ていても、見事なまでの「低燃費走行」であります。礼拝前にある奉仕は辞退、礼拝が終了すれば即帰宅、教会で交わりにも奉仕にも生きることなく、日曜以外に教会に来る事は絶対なく、さほど重要と思えない行事や用件を礼拝出席より安易に優先させての礼拝欠席は当たり前・・・・。

     なおかつ、牧師夫妻や周囲には、「何も言わないで、これは私の信仰スタイルだから」との暗黙のメッセージを発しながら、バリアを張り続けております。そこに踏み込もうなら、地雷を踏むか、逆切れされかねない雰囲気です。

     周囲は「イエス様の十字架とそこに込められた愛をその程度に扱うなら、いっそのこと教会を離れたら?」とさばき心で思ったりするのですが、それはありません。「最低限の必要」を失うような気がするので、決してそれはしないのです。結局、放蕩もしないので、放蕩息子のような恵みの発見も回復もないのです。

     一旦、エネチャージを搭載して、低燃費走行の信仰スタイルを確立してしまうと、指導者は、大変です。愛をもって励ましても、信仰的に戒めても、前進してくれません。なぜなら、エネチャージ搭載クリスチャンは、信仰的前進ではなく、信仰的に減速することによってバッテリーに電力を蓄積するからです。つまり、教会全体が信仰的に燃えて前進しようとしても、自分だけは、減速することで元気をもらって、教会の歩みとは別に「独自の走行」をするのです。信仰的停止に向けての減速を自らのエネルギーとするのですから、励ましも戒めも効果がありません。

     「育てよう健全信徒」とタイトルをつけてはみたものの、はてさて、どうしたらいいんでしょうね?私は事後対処より予防かと考えています。エネチャージ搭載クリスチャンの多くは、クリスチャン二世で家庭持ちのようです。ですから、できれば十代のうちに、少なくとも結婚前に、エネチャージを搭載を阻止するため、教会生活についての教育をしておくことでしょう。

     前任牧師が、エネチャージ搭載クリスチャンを多く残して退かれ、ご苦労しておられる牧師夫妻にお会いすることもしばしば。私には「祈りと忍耐」以外に、これといった知恵も対処法もないのが、正直なところです。

     まずは、読者の皆様におかれましては、エネチャージを搭載され、低燃費走行をされることのございませんように。神様がお与えになった霊は、力と愛と慎みの霊ですから、その霊によって、力強く正しくかつ安全に走行されますようお願い申し上げます。

    (補足)記事掲載後に「エネチャージ」は「スズキ」とのご指摘をいただいたので、最初の段落を大きく書き換えております。

    | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 17:18 | - | - | - |
    育てよう、健全信徒(26)〜「オバマ大統領再選系クリスチャン」
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       賢明な読者の方はお気づきかもしれませんが、今回の健全信徒シリーズは「聖化論」に関連しております。神への従順の継続全生活への支配の歓迎、神を第一優先としての生活をここまで扱ってきました。今回でちょっとまとめて次のシリーズに移りましょう。

       まとめは「オバマ大統領再選系クリスチャン」であります。それは自らの主権者を常に再選しつつ、主権者を信頼し、歩み続けるクリスチャンことであります。先に申し上げておきますが、これはあくまで比喩でありまして、オバマ再選を支持する意図などはございません。

       アメリカ国民は、オバマ大統領の「チェンジ」との呼びかけに応答し、リーダーとして選びました。政権交代であります。オバマ氏の当選就任時のスローガンが「チェンジ」なら、再選を目指す昨今のスローガンは「チョイス」のようです。オバマ氏が始めた「チェンジ」は完成しておらず、道半ば。途中には苦難もあります。このチェンジを完成させるために、オバマ路線の「チョイス」を訴えております。今回の大統領選挙は、「オバマの道か、ロムニーの道かのチョイス」と位置づけられているもよう。

       クリスチャンとは、ある意味、政権交代をして、チェンジの道をスタートした者。自らの主権者、リーダーを自分から、神に政権交代したのです。そして、チェンジが開始、地上的な意味での完成に向けて、主に似た者へと変えられ続けます。途中には成長痛もあれば、成長には必須の苦難もあります。

       残念ながら、苦難に負けて、あるいは「願った通りには」チェンジしない自らや環境に失望し、チェンジの道を離脱して、自らを人生の主とする逆政権交代も少なくありません。

       決して、平坦ではない信仰の道のりを歩みつつ、それでも、「オバマ大統領再選系クリスチャン」は神の政権を維持していきます。そのポイントは「チョイス」であります。「自分より神が喜ばれる方」「自己満足より神満足」「欲より愛が動機」「自己実現より神の栄光が目的」「自分の思いより聖書が基準」・・・。そんな基準でチョイスをしてゆきます。

       「御心にかなったチョイス」「神を主権者とするチョイス」は、その選択者をますます主に似た者へと変え続けます。自分が願うことと神の願うことが、かなり一致してきます。神の思いを自らの思いとしてゆきます。

       クリスチャンとは政権交代をした者。そこから「チェンジ」は始まりました。それは自分の願いとは異なる神の願うチェンジ。そのチェンジを完成へ進めていくのは、「チョイス」でしょう。日々のチョイスの積み重ねが、その人のチェンジを加速させたり、停滞させたりであります。聖書は、絶えず、主を主として、再選しながら、その方の願うチェンジの道をチョイスすることを勧めています。

       「救われた後、何があるの?」「天国行くまで、礼拝して、奉仕して、献金して、それが信仰生活?」「救われた後の目的、使命、ゴール設定」・・・。そうしたものを、正しく認識できないために、信仰生活に疲れとマンネリを覚えているクリスチャンは少なくないように思います。

       本ブログのコンセプトの一つは、脱アカデミズムであります。学術的に聖化論を学びたい方は、他のサイトをご参照下さい。

      救丞論止まりでその先のない信仰理解」
      観念と教理止まりの聖化論」
      救いの恵みの上にあぐらをかく信仰姿勢」。

       そんな課題や現状分析を先輩の牧師たちからは御聞きしてきました。浅く卑近な喩えによる不正確なものでしょうが、今回の四回の記事が、こうした問題意識を持つ読者のお役に立てば感謝です。
      | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 07:35 | - | - | - |
      育てよう健全信徒(25)〜「ダントツの二位クリスチャン」
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         今年のプロ野球ペナントレースは、本当に楽しくない私です。金に糸目をつけず補強した莫大な戦力はもちろんのこと他チームの監督への同情心もあってか、後半戦になると某金満球団は連勝続き。今や、ダントツの一位であります。二位のわが軍に約10ゲームの差をつけての優勝待ち状態。

         では、二位のわが軍と言えば、これまた、三位に10ゲーム程度の差をつけているのです。一ヶ月程前のこと、わが軍の将は実にユニークな発言をされたのであります。

        「うちもダントツ2位のプライドがある。ぶざまな戦いはできない」


          「ダントツの二位」。使い方によって、これは自虐的にもなれば、プライドにもなる不思議な表現。

         そこで思いついたのが、「ダントツ二位クリスチャン」であります。神様を第一として、それ以外のことより、信仰を優先させるあり方は、熱心で献身的に見えます。神様とそれ以外のことは野球で言えば、10ゲーム差をつけたぶっちぎりの差があります。

         では、神様を第一としているかと言えば、よく観察をすると、さらにその上に、10ゲーム差でダントツ一位の「ある存在」が明らかとなります。実は、神様はダントツの二位なのです。その上に、ダントツの一位がいるのです。

         それは「自分」。自分がダントツの一位で、神様がダントツの第二位のクリスチャン。それが「ダントツ2位クリスチャン」であります。

         「献身的に見えたが、実は自分至上主義」。奉仕は自己価値確認のため、献身的なのは依存性の現われ、集会出席は孤独解消目的、賛美好きは、自己感情の高揚の故・・・・。すべては、自己目的なのであります。

         これは、自己を客観視できるクリスチャンの多くが、神の前に自問する内容だと思うのです。「究極的に自分の信仰や熱心は神のためか?自分のためか?」と動機や目的を問うわけです。そうしたプロセスを通じて、クリスチャンとされてからも根強く残る自己中心は、克服され、神中心に移行していくのでしょう。

         神をダントツで第一としているつもりでも、実際には、その上にダントツで自分を置きかねないのが、私たちの驚くような罪深さであります。主観的、思い込み優先順位と、客観的事実としての優先順位は、時に大きく異なるもの。

         「神第一」という言い古されたスローガンを、客観的事実にしてゆきたいものです。
        | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 08:41 | - | - | - |
        育てよう健全信徒(24)「尖閣・竹島クリスチャン」
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           タイムリーですが、危険なタイトルをつけてしまいました。先に言っておきますが、特定の国家を悪魔扱いし、批判する意図は全くございません。あくまで、領土問題は比喩であり、意図しているのはクリスチャンの信仰姿勢の問題であります。

           「尖閣・竹島クリスチャン」とは、いわば「領土問題」に悩むクリスチャンのことです。「領土」とは何かといえば、本来、神の所有で神の支配権の下にある生活分野のこと。

           そもそも、キリスト者の全生活、人生のすべての場面と領域は、神の所有なのであります。歴史的にはイエスを主と信じ、告白した時点から、支配権は開始しているのです。また、法的にも、世の悪魔の支配から、御子のいのちという代価を支払って、買い取ってくださったのですから、キリスト者の全生活は神所有の領土なのです。

           しかし、領土を管理するはずの政府であるキリスト者当人が、世と悪魔に対しての外交姿勢が弱腰だったり、そもそも神の国の国家主権や支配権を無視、軽視しているため、やすやすと世と悪魔に、ある領域を実効支配されかねないのが現実。

           とりわけ、実効支配されやすいのは、「恋愛・結婚島」、「金銭使途島」、「時間管理島」などであります。また、文字通りの「魚釣島」や「バイク島」「楽器島」「PC島」のような趣味の世界も不当な実効支配を受けやすい代表でしょう。

           つまり、恋愛や結婚というプライベートな分野、あるいは、お金をどう使うか、時間を何を優先して費やすか、趣味をどうするか?などのリアルな分野であります。そうした分野に、キリスト者が、神の主権を認めて神の支配を歓迎しないとどうなるでしょう。

           それらの島に、世と悪魔から派遣された者が、船でやってきて、上陸して旗を立てるわ、やがて、灯台や通信塔を建設するわのやりたい放題。かくしてキリスト者個人の生活の中で、神の栄光を現す時間と場面は、どんどんと侵食されていきます。気がついた時には、「あんた、教会行く以外にクリスチャンでない人と何が違うの?」と言われかねない状態に。世と悪魔による不当な領土の侵食と実効支配、恐るべしであります。

           実際の領土問題の解決は、簡単ではありません。様々な要素がかりみあい複雑で微妙なようです。しかし、信仰の世界の領土問題の解決は、極めて単純明快であります。すべての生活分野に主の主権と所有と支配を認めて、神様に実効支配をしていただくことです。「あなたの行くところどこにおいても主を認めよ」とは「生活の全場面と領域で神に実効支配していただきなさい」ということでありましょう。

           その意味で、クリスチャンには常に領土問題があるのです。「両国間に領土問題は存在しない」などということは信仰の世界ではありえません。世と悪魔は絶えず、神の支配領域を侵害し、実効支配をして、キリスト者の生活を通じて現される神の栄光を、ある分野だけ場面だけに留めようとしているのです。

           できれば、世と悪魔は、キリスト者が、職業生活や社会生活や家庭生活、あるいは学校や恋愛などの世界で栄光を現すことがないようにと願い、その分野に船を出して、島に上陸したくてならないのです。そして、キリスト者を、教会生活のみ、あるいは日曜日の午前の二時間だけを実効支配する政府のようにしたいのです。国土のほとんどを世と悪魔が実効支配してしまえば、それこそ、悪魔の思う壺。

           神を主権者とした政府であるキリスト者が、そうした不当な領土の侵害を防ぐためには?そう、ひたすら、主権者たる神を認め、領土全体にその支配を行き渡らせるのです。世と悪魔との外交政策弱腰は禁物。はっきりと神の支配権を主張し、世と悪魔に勝利して下さる方に支配を委ねましょう。

           そう考えますと、聖書の基準で生きようと願う正常なキリスト者は、すべて「尖閣竹島クリスチャン」と言えるのかも知れません。昨今の領土問題自体もキリスト者と考えることは、大切であり、日々祈るべきでしょう。

           しかし、同時に数々の報道に触れながら、「信仰生活上の領土問題」も考えてみてはどうでしょう?神様から、自らの「尖閣」「竹島」を示していただきつつ、キリスト者として、主権者である方の実効支配を、全国土、全生活分野に広げて行きたいものです。
          | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 19:19 | - | - | - |
          育てよう健全信徒(23)ヒロシ応援系クリスチャン
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             久しぶりのこのシリーズ。昨日からのヒロシつながりです。一世を風靡したあの自虐系お笑い芸人、ヒロシは今も現役です。最近はこんなネタを披露しております。

             『ヒロシです。 ヒロシさん一生応援します。 ヒロシさん、一生ラブです……。 5年前までファンレターに 必ず書いてあった言葉です……。 みんな死んだのでしょうか?』

             相変わらずの芸風で笑えます。

             今回、取り上げますヒロシ応援系クリスチャンとは、イエス様に、ヒロシ同様の思いをさせているクリスチャンのことです。イエス様の思いをヒロシ風に代弁すればこうなるでしょうか?

             「イエスです。イエス様、あなたを一生愛します。イエス様、一生従います・・・。3年前に、信仰決心や洗礼の証しで聞いた言葉です・・・・。 みんな死んだのでしょうか?」

             これは、笑えませんね。いわゆる「クリスチャン平均寿命3年問題」とは、卑近なたとえをするなら「イエス様のヒロシ扱い」なのであります。

             やはり、こうした「イエス様のヒロシ扱い」は、「しない、させない、真似させない」の三拍子でいきたいもの。それをしない信仰決心者、受洗者でありたいもの。それをさせない教会の指導や交わりが大切なのでしょう。さらには、それを真似させない子ども中高生へのアプローチの重要性を思います。

             多くのお笑い芸人は賞味期限があり、使い捨てとなるのが、悲しい現実。そう、出てきては消えて行くもの。ファンの関心も移り気なもの。しかし、イエス・キリストは、いのちを捨ててまで、私たちを愛し、罪から解放し、永遠のいのちを下さり、変ることなく共にいてくださる方。ヒロシの応援とは異なり、別格。生涯、信じ従うべき対象なのであります。

             この方を、ヒロシ扱いしていいはずがないでしょう。この方を「3年の賞味期限で、人生をハッピーにしてくださる方」にしてしまってはなりません。信仰決心者を、ヒロシ応援系クリスチャンにしないために教会に集う各自がすべき事は何でしょう?改めてクリスチャン平均寿命3年問題がどんなに重大さなことか痛感させられます。
            | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 16:09 | - | - | - |
            教会内における「学生気分の社会人」問題を考える
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               以前、所属教会の牧師が説教で「地の塩、世の光というのは、いつまでも学生気分でいてはいけない、もう社会人なんだから」というのに似ていると説明されました。新入社員などは、立場は間違いなく社会人です。しかし、学生気分が抜けておらず、責任感に欠けます。具体的には挨拶、電話の対応がなっておりません。社会人としての自覚がないと評価されてしまいます。

               確かに、それとよく似た現象がクリスチャンにも起こりやすいのでは?名づけて「いつまでも学生気分の社会人的クリスチャン」であります

               つまり、紛れもなく、クリスチャンになっているのです。しかし、学生気分の社会人のようなのです。クリスチャンなのに、クリスチャンとしての自覚や責任感がないのです。学生気分が抜けきらない社会人のように未信者気分が抜けきらないのです。

               クリスチャンなのに、神の栄光より、自分の栄光や自分の欲求が最優先なのです。教会から社会に派遣されているのに、そうした自覚や責任感がありません。極端な場合は、教会の外では、未信者気分どころが、未信者時代同様の生活を続けます。

               いつまでも学生気分が抜けきらない社会人は叱られたり、何らかのペナルティーを会社などの組織から受けます。しかし、クリスチャンの場合、やっかいなことがあります。未信者気分が抜けきらなくても、あまり叱られたり、教会の交わりで戒めを受けないことです。悪質な場合は、叱られたり、戒めを受けたりすると「裁いている」「あるがままで愛していない」と聖書の間違った適用で逆切れであります。
               
               学生気分がいつまでも抜けない社会人は、自分の未熟さを自覚して悩むのですが、未信者気分の抜けないクリスチャンは、自分の未熟さも自覚せず、教会の外で未信者同様の生活をするのが、信仰スタイルとして確立してしまいます。注意も戒めもないことはを、神様も周囲が忍耐して成長を待っているとは受け取らず、是認されていると勘違いしてしまいます。そして、一定教会生活を忠実に送っていれば、教会外では未信者モードでも、大人のクリスチャンだとトンデモ思い違いをしてしまうのです。

               学生気分の抜けないままに自分を一人前の社会人とする社員が多い会社は危ないですね。同様に未信者気分が抜けぬまま一人前のクリスチャンのつもりになっている信徒が多い教会は、心配なわけです

               日本の教会は、戒めあえるまでの信頼に満ちた交わりがなかなか形成されません。東洋人、特に若い日本人には「言動の戒め=人格否定」の傾向は強いです。言動を叱られたら、人格存在否定と受け取り、心を閉ざしたり、決裂をして、信頼関係の回復に努めようとしないという未熟さは、現代日本人には、かなり一般的なようにお見受けします。

               しかし、戒めや注意がなければ、こうした学生気分の社会人的クリスチャンが、大人として教会で認められてしまうわけで、それは大変な悲劇でありましょう。指導者や先輩信徒は、大変な葛藤であります。「叱れば、戒めれば、関係決裂」とは、ほとんど、自己中心容認要求の恐喝をうけているようなものですから。しかし、放置すれば、上に記してきたような悲劇が繰返され、教会形成など夢のまた夢となることでしょう。

               「相手の未熟さまで配慮して、をもって、優しい言葉で、自ら悟るように叱り、戒める」

               私自身はこれが、当世日本教会において、あるべき指導の姿かなと思います。ある意味、MAX面倒くさい時代になったと感じています。会社で部下を理解し、育てるのに苦労しておられる方々と同様の意識改革や努力を、キリスト教会の指導者や先輩信徒も必要としているように思えてなりません。

               拙い記事ではありますが、「いつまでも学生気分の社会人的クリスチャン」克服のために、一助になればと願います。

              | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 17:25 | - | - | - |
              育てよう、健全信徒(22)〜手間取り姉妹
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                 今日のテーマは「手間取り姉妹」。えっ!何のパロディーか分からないって?そんなの「こまどり姉妹」に決まってるでしょー。何?「こまどり姉妹って誰?」だって?

                 「こまどり姉妹」っていうのは、「ザ・ピーナッツ」の演歌版だと思えば、いいでしょう。えっ!「ザ・ピーナッツが分からない」って?じゃあ、あの「リリーズ」の浅草版ですがな。「リリーズって誰?」だって?「好きよ、キャプテン」は定番でしょう。じゃあ、「リンリンランラン」の日本人版だと言えば分かるかな?「よけいに分からんって?」、「インディアン人形」は社会常識でしょう。

                 もう、いいわ。とにかく、双子姉妹の演歌歌手ですがな。分からない読者は、お父さんやお母さん、いいえ、おじいちゃんやおばあちゃんに聞いて下さいな。聞くのが面倒だという方は以下のwikiphediaをご参照ください。
                http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A9%E3%82%8A%E5%A7%89%E5%A6%B9

                 というわけで、「手間取り姉妹」であります。それは、特に教会奉仕などで手間取る女性クリスチャンのことであります。言い換えれば、要領が悪い、手際が悪い、作業効率が低いなどの理由で、他の姉妹より時間がかかり、自分を責めがちな姉妹のこと。

                 誰でも得意と苦手はあるもの。ですから、苦手は避けて、得意分野で教会奉仕をすればよいです。でも、そうは行かない現実もありがち。そもそも教会奉仕の担い手が限られてしまう場合も。事の良し悪しは別として、食事作り、キッチンワーカーなどの奉仕は女性が期待されてしまうもの。そうなれば、料理苦手手際が悪いと自覚する姉妹も参加せざるを得ないことも。その結果、自分の「手間取り」で周囲に迷惑をかけて、他の姉妹からきつい言葉や態度を取られて傷つくなどの事例も耳にします。

                 手間取り姉妹には、ご無理をいただかなくても、賜物に応じて、適切なご奉仕をしていただければいいのです。そこで、主に仕え、用いられ、実を結ぶ経験をされたらと願うのです。「適材適所の奉仕」は、聖書的で、教会形成上大切な原則であるはず。

                 また、こうした手間取り姉妹が、安心して喜んで教会に仕えておられる姿こそが、教会の交わりにおけるキリストの愛を証しするのでしょう。生産性や貢献度で自分も他者も評価せず、キリストの命の代償で、自他の存在価値を確認するのが、教会の交わりのあるべき姿。

                 現実と乖離した理想論なのでしょうが、私は思います。手間取り姉妹が平安な心で喜んで過ごせる交わりが、より本物であると。要領の悪さや作業効率の低さが問題とならない交わりこそ、教会本来の交わりであると。

                 教会奉仕が、教会の交わりより、著しく優先してしまうとき、教会奉仕は、「活動」、「作業」となり、作業効率、貢献度、競争原理による評価が教会の交わりに侵入してしまうのでしょう。

                 「手間取り姉妹が、教会内で、どう過ごしているか?」

                 それは、教会の奉仕と交わりの健全度を示す指標になるのでは?成長すべき、自己変革を必要とするのは、手間取り姉妹自身でないでしょう。もし、そういうことがあるなら、成長すべき変るべきは彼女の心から平安を奪っている周囲の兄弟姉妹、指導者なのかも知れません。

                 

                | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 12:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                育てよう、健全信徒(21)〜不可能姉妹
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                    日本人離れした美貌とプロポーション、財産とファッション芸能界での地位もあるのでしょうか?美と富と地位を兼ね備えたゴージャスな姉妹。それは「可能姉妹」ならぬ「叶姉妹」であります。

                   一方、教会で時にお会いするのが、「美」や「富」や「地位」などの有無と無関係に、「私はだめ」「私はできない」「私は変らない」と確信してしまっている「不可能姉妹」であります。「主にあっても不可能」「祈っても不可能」「聖書にそう書いてあっても自分だけはダメ」と聖書以上に自分に対しての思い込み信仰の基盤を置いておられる姉妹であります。

                   日本人女性のセルフイメージは、国際的に見ても極めて低いと言われます。自己価値について中高生に質問すると「自分には価値がない」と答える数は、日本の中高生がダントツの一位だそうです。どうも、日本の社会には、子どもに自己肯定感を与えない言葉、自己価値を否定するような言葉ばかりが、氾濫しているようです。とりわけ女性は今でも、「他者の意に沿うことが女性の自己価値」との価値観が根強くあるようです。

                   周囲が、健全な聖書的セルフイメージを持つように助けて差し上げること、聖書的な言葉で、正しい自己肯定感が持てるよう語りかけていく交わりが大切かと思います。とりわけ、クリスチャンの親が、子どもの言動を基準に、その子の価値を判定し告げることなく、「生まれてきてよかった」「いてくれるだけで感謝」と伝えることかと思うのです。

                   また、私見ですが、「不可能姉妹」には、二通りあるように思います。一つは「可能姉妹になりたいと願う不可能姉妹」であります。この場合は上記のような愛の支援が不可欠かつ有効でありましょう。しかし、もう一つは「可能姉妹にはならないと決めている不可能姉妹」であります。不可能状態にある意味の心地よさや都合の良さを覚え、この不健全・不信仰状態の継続を願っているのです。

                   この場合はかなり手ごわいことを覚悟しなくてはならないでしょう。しかし、あのベテスダの男を立ち上がらせ、歩ませたキリストは今日も、不可能の寝床から、不可能姉妹を起き上がらせると期待すべきでしょう。

                   日本の多く姉妹たちが、可能姉妹になるために必要なのは、美でも、富でも、地位でも、能力でもないでしょう。。「あの姉妹のようならいいのに」と願う他の姉妹のようになっても、そこには問題解決はありません。必要なのは、自己肯定感を与える愛の語りかけ、そして正しい自己像形成を助ける聖書のみことばに違いありません。
                  | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 16:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                  育てよう、健全信徒(20)〜宇宙兄弟
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                     「宇宙兄弟」という映画が話題のようであります。原作は漫画で、子どもの頃兄弟で夢見た兄弟一緒の宇宙飛行を実現するという感動のストーリーらしいです。

                     一方、教会でもその生息が時に確認されておりますのが、「宇宙兄弟」。この男性クリスチャン、もちろんNASA所属ではありませんし、宇宙規模の大志を抱き、大きな働きをするわけでもございません。

                     この男性クリスチャンまず、目つきが宇宙です。視線が宙に浮いております。表情も宇宙的で、浮遊感に満ちています。足どりも宇宙的で、無重力状態であるかのようです。「人の顔見て話せ」「ふらふらせずしっかり立て」と言いたくなることも。

                     それで、考えや実生活が堅実なら別に問題はないのですが、「宇宙兄弟」は、考え方も浮遊感いっぱい生活も無重力状態なので、どうかと思うのです。出てくる言葉は、聖書的正論で、信仰的。でも、現実感がありません。その価値観や信仰的姿勢をもって「実社会でどう生きるか?」についての言及はありません。あっても理想論であって、具体論は当然のこと、体験談は皆無。どうも脳内の観念宇宙信仰生活が完結している様子。

                     実際の信仰生活も、教会には集いますが、教会外の世界でキリスト者市民として、堅実な社会参加をしているか言えば、これが、どうも怪しいわけです。どうも、地に足の着いた職業生活を目指すことなく、地に足の着かない実生活なのであります。

                     「あなたの考えを体現する実生活を社会に出て行き、証ししては?」と勧めれば、理屈をつけて、現状の信仰生活スタイルを変えようとはしません。たぶん、自分が語るように実際に生きることや、その生きかたを社会に証しする必然性や責任などは、宇宙空間にはないのでしょう。あるいは、無意識にも、社会でキリスト者として生きることから逃避して、頭脳内の宇宙空間から出ようとしないのかも。

                     パウロは「上にあるものを求めなさい」とか「上に召してくださる方の栄冠」など、ゴールを天上に見ていました。しかし、現実の地上の歩みは、殺されかけたり、犯罪被害者になったり、生々しく壮絶なものでした。つまり、パウロは非地上的ゴールを想定しながら、超地上的歩みをしていたわけです。目は天に向けながら、その脚は地にしっかりと着いていたのです。 

                     教会内で、時に生存確認される「宇宙兄弟」には、パウロを模範として、歩まれるよう、徐々に社会参加や具体的歩みを勧められることかと思います。断固、そうした変化を拒否するようなら、そこには恐れや劣等感のような根深い要因があるのでしょうから、別のアプローチが必要となるのでしょう。

                     また、当人や周囲が何を勘違いしたか、稀にこうした宇宙兄弟が、神学校入学を願い、教職の道を目指すことがあるようです。教会と学校組織に中では、優れた学業成績を残すこともあり、教職の道に入ることが、あるとかないとか・・・。こういうのだけは、送り出す側の教会と受け入れ神学校のと送り出される就任団体の方でトリプルチェックしていただき、ご勘弁をと願います。

                     宇宙兄弟が生じやすい時代と社会だと思います。クリスチャンホームにも宇宙兄弟を生み出しやすい土壌があるように観察します。いかに教えの世界、観念論に終始しない信仰を、家庭や教会学校の中で、植え付けていくか?個人的には「教理の伝達」「道徳教育」に終始しない「生活を伴う信仰教育」の大切さを思います。
                    | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 14:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                    育てよう、健全信徒(19)〜河本兄弟
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                        夜遅くに、ジャニーズの二人組みが中心となり、ミュージシャン系のタレントを集めて、トークあり、音楽ありのバラエティー番組があるそうです。その番組名は「堂本兄弟」であります。

                       そんな楽しく笑って歌っている場合でないのが、河本兄弟。では、河本兄弟とは、どのようなクリスチャン男性でありましょうか?それは 「年収5千万で、母親が生活保護」との見出しで、週刊誌にスクープされ、問題視され始め、過剰と思われるバッシングを受けながら、謝罪会見まで開き、結果的には生活保護不正受給問題の深刻さを国民に啓発することとなったお笑いタレントのごとく、親の扶養義務を軽んじる兄弟(男性クリスチャン)のことであります。

                       クリスチャンたるもの、親の扶養義務を怠るなど、もっての他であります。十戒の「父と母を敬え」とは、単に親への敬愛を命ずる精神論にとどまりません。また、エペソの6章1節で、引用されているように未成年の子どもが、主にあって親に従うことのみを意味しているのでもはありません。あの出エジプトの旅の中で、命じられた十戒の「父と母を敬え」の意味は、大人である者が年老いた両親の扶養義務を果たすことでした。もっとリアルに言えば、荒野に捨て去らないことだったようです。

                       イエス様ご自身も、あの十字架の苦しみの中で、年老いた母マリヤの扶養義務を、弟子ヨハネに託し、果たされました。父母を敬い、扶養義務を果たすことは、それ程、重要で本質的な神様のみこころなのでしょう。

                       聖書が明確に示し、イエス様も模範を示されたのですから、高齢化社会にあってクリスチャン達が親の扶養義務を果たすことは神様の御心であります。そして、それはこの時代と社会にあって大きな証しともなるでしょう。

                       というわけで、話題となってしまった某お笑いタレントのごとく、クリスチャンでありながら、親の扶養義務を軽んじたり、扶養可能なのに義務を怠るような「河本兄弟」には、十戒の真意とイエス様の模範を示し、悔改めていただきたいものであります。

                       今回の事件を期に、教会では、生活保護不正受給だけでなく、クリスチャンとしての両親扶養義務も確認され、「河本兄弟」がもし、いたなら、悔改めの結実をと願います。やはり、クリスチャンたる者、次長や課長レベルでなく、社長レベルの忠実さで、親の扶養義務を果たしたいものです。
                      | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
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