命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
向き合えるクリスチャン夫婦とその信仰的成長(4)〜夫の信仰的劣等感、その現われ
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     今日は、最終回として補足的なことを記してみます。夫の妻に対する信仰的劣等感は、夫婦関係の悪化とは別の形で現れることがあります。一例をあげてみましょう。

     夫の側が、夫婦で属している教会とは、かなり信仰理解の異なる教えに心酔したり、先鋭的あるいは特殊なあり方をする教会に共感を覚えるようになります。それは、多くの場合、すぐに異端やカルトと言えるようなものでなく、一定、健全と評価されていることが多いです。まず夫の側が次第に所属教会から足が遠のきます。結果的には夫婦で別教会に通うことになったり、夫に従うべきと判断して、夫婦で転会したりです。極端にひどい場合ですと、離婚をして、夫だけが転会します。

     時々、こうしたケースを見聞きしたり、相談を受けたりします。私が思いますに、本当の問題は、信仰理解や転会ではなく、夫に妻に対する信仰的劣等感でしょう。スポーツにたとえれば、サッカーでは妻にかなわないので、ラクロスに、野球では力の差が歴然としているので、クリケット競技変更するようなものです。標準的で多数派の競技から、未経験のマイナー競技へと変わるのです。夫は経験済みの初心者で、妻は未経験ですから、新しい教会では、夫が信仰的優位に立てます。

     かくして、それまでの夫婦関係は一発逆転となり、夫の劣等感は消滅し、妻に対して霊的リーダーシップをとることとなります。これが、本当の意味での霊的リーダーシップでないことは明らかです。夫の信仰的成長によるもので、未熟な夫をあるがままで受け入れ尊敬し従おうとする妻の側の愛によるのもないからです。


     プライドの高い男性は、自分が妻に対して信仰的劣等感をもっていることを、妻に悟られること自体、プライドが許さないのです。ですから、その劣等感を直接的に夫婦関係に反映することは避けます。では、どうなるかと言えば、上に記してきたような屈折した形で、反映するのです。そして、一発逆転の劣等感解消と、妻に対しての信仰的優位を獲得するのです。

     同様に、夫の妻に対する信仰的劣等感は、子どもの進路選択決定の場面や大きなお金の使い方など、夫が優位性を示せそうな分野に反映するように観察します。それらの分野で夫が肉的な思いで妻に優位を示そうとして、残念ながら霊的でない決断や選択をしてしまうことがあるように感じています。

     しかも、夫は無意識行動としてこうした言動をとるので、やっかいです。自覚も難しく、指摘しても認めようとしません。この手の問題が発生した場合は、妻や指導者は、本質は、信仰問題や転会問題、あるいは子育て、献金ではなく、夫婦関係にあること、夫の妻に対する信仰的劣等感である可能性も視野に入れる必要があるように思います。


     補足的なこととして、夫の妻に対する信仰的劣等感の現われについて、記してみました。具体的事例に接した際にこの記事が役立てばと願っています。
    | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 17:33 | - | - | - |
    向き合えるクリスチャン夫婦とその信仰的成長(3)〜相互補完で相互成長型夫婦に
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       今日も、向き合えるクリスチャン夫婦を願って夫婦相互の信仰的成長を考えます。一般的傾向として、信仰においても、男女それぞれ、得意分野と苦手分野が明確にあるように思います。よくお見かけするのは、「お祈り担当の妻とみ言葉担当の夫」という組み合わせです。それは、「よく祈る妻祈りが苦手で避けてしまう夫」同時に「みことばによる思索に強い夫とそれを苦手とする妻」という組み合わせの夫婦です。

       度々記しているようにアダムは農業仕様で創造されたので、一般的傾向としては、パフォーマンス志向で目的達成型、収穫の時期に向けて論理的に展望性をもって考えます。一方のエバは、アダムと心を通い合わす交流仕様で創造されたので、プロセス志向で、過程重視型、その時その場での豊かな情緒を大切にします。これは、あくまで一般的傾向であって、かなりの個人差がありますし、夫婦で逆というケースも珍しくありません。

       男性である夫は、み言葉を聖書全体の展望の中で解釈し、論理的に考えて教理を具体的事例に適用します。そして、何らかの判断をします。しかし、心を通い合わせる交わりにおいて乏しいのです。妻と心の通い合いが苦手であるのと同様、神様との心の交わりである祈りが苦手です。

       聖書的な思索によって、妥当な判断をしても、祈りによって最高権威に相談し、承認をいただこうとしない姿は、妻からすれば、「教えは知っていても人格的交わりに生きないキリスト教主義者」に見えてしまうことも。夫の祈りの言葉も、心がこもっているように思えず、口先だけのように思えてしまいます。場合によっては、「聖書的な理屈だけで、心がないし、中身もないじゃん」との酷評を受けることも。

       
       逆に、女性である妻は、豊かな情緒をもって神様と深い人格的交わりをもって、祈ります。そこで、何からの判断や選択をします。しかし、聖書的に妥当かどうか?とのみ言葉と教理によるチェックをしません。あるいはチャックする能力がなかったり、そのための訓練を受けていません。こうした妻の信仰姿勢は、夫からすれば「熱心で深そうでも、実は主観的な神秘主義者」と思えることも。

       泣いたり、感動したりで祈る姿に夫はドン引きしたり、祈って出てきた結論が、「聖書的にありえんだろー」「それって祈って思いついただけだろーが」と言いたいことも。そんな妻を見ていると、夫は「独りよがりで感情的、それなら聖書いらないじゃん」と思ってしまったりです。


       このように苦手分野に注目すれば、これは「祈りが苦手の夫とみ言葉が苦手の妻」「祈りと交わりができない夫と聖書に立って思索ができない妻」という組わせです。相手の苦手分野に注目し、欠点ばかりに目を止めるなら、相手が信仰的に尊敬できなくなってしまいます。神様の創造の摂理である男女の違いをマイナスとして評価して、相手の信仰の成熟度を判定するなら、夫婦はいよいよ向き合えない方向に行ってしまうことに。


       これは、自分がイメージする「信仰の成熟の姿」で相手の成熟度を測っているのです。でも、その尺度、基準自体が、まさに自分中心です。愛の基本は他者理解なのに、異性を理解できておらず、自分の性の視点だけから相手を評価しているのです。聖書が示す性の意味という神様ご自身の視点から、伴侶の信仰を評価していないのです。まさに、それは「自分がさばかれては困る基準で、相手をさばいていること」ではないでしょうか?

       神様は人を男女に創造し、男女が協力して、神の業に参与することを願われました。男女が違いを活かして、それぞれの賜物を用いて、同時に相互補完して歩むのです。自分のプラスで相手のマイナスを補完し、自分のマイナスは相手のプラスで克服してもらうのです。その究極の男女関係は、心も体も一つとなり、まるで一人の人のようにして、神様に仕える結婚です。

       ですから、夫にとっては妻と共に祈ることは時にストレスだったり、信仰的劣等感を刺激されることかもしれませんが、むしろ、「強いられた祈りの訓練」と受け止めてはどうでしょう?妻からの勧誘がなければ、祈りから逃げかねない夫にとっては、恵みと考えてもいいのでは?妻も自分なりに熱心に祈って決めたことを、夫から「聖書的にどうか?」などと言われることは、むかつくでしょうが、それも「み言葉の訓練」「聖書的思索の実地練習」と受け止めることが、ご自身の成長につながるかと思うのです。


       クリスチャン同士の夫婦は、割と二極化しやすいように感じています。ひとつは、「相互成長型夫婦」です。夫婦で一致して歩もうとすれば、男女それぞれの苦手分野を見せつけられますから、それはストレスで苦痛です。でも、そこから逃げないで、男女の違いをプラスとして用いて、相互補完して、お互いが成長していくのです。これは、いわば「夫婦一緒に成長の旅」であります。

       もうひとつ、残念なのは「個別成長型夫婦」です。これは、夫婦の一致を願えば、嫌でも見せつけられる自分の苦手分野を避けてしまう夫婦です。そのストレスや苦痛を避けて、夫婦それぞれで、個人的成長を目指すことにするのです。それが、お互いにとっての快適な信仰生活であり、結婚生活としてしまうのです。

       こうなると、神様が夫婦に備えてくださったはずの相互補完機能を放棄しているので、それぞれは欠点が補われることなく、得意分野ばかりが突出して成長します。ですから、年齢が進むほどにバランスの悪いクリスチャンになりやすいです。一般的に夫婦仲の悪いクリスチャンにバランスが悪い人が多いのはこのためかと個人的には考えています。夫婦の一致に伴う苦痛を避けて個別の成長を目指す夫婦は、いわば「二人で一緒に成長の一人旅」であります。夫婦なのにそれぞれ一人旅をするようなものです。

       
       このようにクリスチャン夫婦には二極化傾向が見られるように感じていますが、どうでしょう?私たちは罪人ですから、自分と異なる相手を愛し、理解し、受け入れるのが、苦手です。それには、苦痛とストレスが伴います。ですから、夫婦で一致して、共に信仰において成長しようと願えば、時にきつい思いをし、相手に失望を覚えるのは当然なのです。それ自体を、問題視してはならないと思うのです。

       「夫の祈りが短くて、冷たい、一緒に祈っていても、心が一つになっていると思えない」というのは、本当は問題ではないと私は思います。男性の祈りは概してそういうものです。夫婦で共に祈れること自体が、恵みですし、共に祈ることで、夫は必ず成長しています。また、「夫の信仰は理屈ばかり、頭だけで心がない」というのも、妻の女性視点からの誤解である場合が多いです。夫の論理性が、自分の苦手分野を補ってくれるのだと、考え方を変えていただきたいと願います。そうすれば、妻のそうしたプラス評価は夫に伝わり、夫は自身を得て、信仰的に成長することも期待できます。

       「妻が信仰においても、感情的で、論理性がない」というのも、夫が思っている程、大した問題ではないでしょう。それは、夫が得意分野で補えばいいのです。そここそ、夫のリーダーシップの発揮しどころなのでは?妻を見下し、教えてやろうという上から目線ではなく、妻を愛し、助け、支える思いで、アドバイスをすればいいのです。愛が伝われば、妻はわりと素直に受け入れて、夫を尊敬するようになるものです。


       向き合えるクリスチャン夫婦の恵みは、お互いの苦手分野で苦手を一定克服できることです。あるいは苦手のままでも、夫婦の相互補完によって、苦手が問題とならないことです。「相互成長型夫婦」の「夫婦一緒に成長の旅」は、夫婦両者がバランスよく成長することができます。

       しかし、向き合えない夫婦が「個別成長型夫婦」となり、「二人で一緒に成長の一人旅」をしてしまうと、各個人がバランスよく成長することは至難の業です。それは、本来、チームプレイですべきことを個人技でするのですから。もともと、混合ダブルスで戦うべき相手とシングルで対戦するようなものですから。

       何度も、申し上げますが、個人としての信仰的成長は大切ですし、個人として課題を認めて克服に努めることは必要でしょう。しかし、結婚に召されているということは、夫婦という単位で神様に仕えていることを意味します。ですから、クリスチャン夫婦の場合は、個人的成長以上に「向き合える夫婦であること」が大切なのでは?と思うのです。


       クリスチャン夫婦の信仰生活は「混合ダブルス」です。個人の技量向上は大切ですが、まずは、男女で同じコートに立つことです。そこには、お互いのミスを責める気持ちも生ずれば、相手の技量の低さへの失望もあるでしょう。でも、相手がミスをした時も、励まし慰め、助けると神と会衆の前で誓って混合ダブルスを始めたはずです。まさか、結婚式での厳粛かつ責任重大な約束を忘れたわけではないでしょうね?そう考えますと、まるでダブルスを解消したかのように個人技に励んで、選手個人の技術向上を目指すような歩みは、神様を悲しませるあり方ではないでしょうか?

       お互いは、どんなベテラン夫婦であっても、常に結婚本来の意義に立ち返りながら、夫婦で同じコートに立って、時にきつくてストレスフルな混合ダブルスをしてゆきましょう。時に逃げたくなる気持ちも分かりますが、逃げっぱなしはいけません。そこには、夫婦相互の豊かな成長はありませんから。というわけですから、クリスチャン夫婦であるなら、向き合える夫婦関係を持続しながら、「相互成長型夫婦」として「夫婦一緒に成長の旅」を続けていきたいと願います。
      | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 15:27 | - | - | - |
      向き合えるクリスチャン夫婦とその信仰的成長(2)〜夫の妻に対する信仰的劣等感
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         夫が信仰的に未熟だったり、霊的向上心がなかったりすると、妻は夫を尊敬できなくなり、向き合えぬ夫婦となりやすいものです。しかし、夫の信仰的成長が見られない原因は、時に妻の夫に対する「言葉」にあります。否定、ダメ出し、禁止ばかりでは、夫のプライドは傷つき、成長意欲を失います。神様に喜ばれることより、妻に何か言われないようにすることが、優先となれば、夫は委縮してしまい、成長はストップです。

         とりわけ、第三者がいるような場面で、夫がそこにいるのに、妻が夫の信仰的欠点を語るのは、絶対禁止の大NGだと思います。もちろん、夫も了解の上での真剣な相談や祈りの課題ならいいのです。そうでなければ、これは極度に夫のプライドを傷つけて、夫婦の愛情問題に発展しかねません。

         このことについては、心当たりがあるなら、夫が、へらへら笑って何とも思っていない様子でも、絶対に、心から謝罪をすべきでしょう。へらへら顔の陰で心はズタズタで、妻への愛情が著しく冷めてしまいかねない現実があるかもしれませんから。


         夫の信仰的成熟度が、妻に劣っていることは、それ程大きな問題ではありません。これから夫婦が支え合って成長してゆけばいいのです。そうです。問題は劣っている事実ではなく、夫が妻に対して抱く劣等感なのです。私が思うに本当の問題は妻が夫の信仰的未熟さに不満を持っており、それが夫に伝わっていて、夫が妻に対して信仰的劣等感を持つことです。そうなると、夫は夫婦間にあって本来のリーダーシップがとれません。

         また、一般的に、妻に尊敬されていないという思いは、男性にとっては「愛されていない」という思いよりキツイそうです。ですから、夫の未熟さに不満を持ち、それが「尊敬していない」というメッセージになっているなら、夫に対して「愛していない」と言っているより悪いのです。このことが結婚関係を悪化させるのは当たり前です。夫の信仰的未熟さに不満を持つ妻はまず、この点を理解し、自分が夫の信仰的成長を妨げていないか?をチェックしていただきたいと願います。

         そういうわけで、夫が信仰的に未熟であることは、残念なことかもしれませんが、希望はあるのです。今後、夫婦相互が成長できる関係を作っていくよう祈り、考え、努力することでしょう。極端な長時間労働で恵みに機会を持てない夫に対しては、「夫婦で一緒に教会で奉仕」というような成熟の姿ではなく、「信仰を持って職場で戦い、キリストを証し」という成熟の姿を思い描き、それを励ますことかと思います。

         時にクリスチャンの妻たちが、「信仰生活=教会生活」のよう限定して、夫の信仰の成熟度を測ることがあり、どうかと思っています。妻が自分の成長イメージを夫に押し付けて、それと異なることに不満を持つのは、常々よろしくないと感じています。日本の社会では、男女でかなり性役割が異なるのですから、クリスチャンとしての成熟の姿も男女で異なると理解すべきでしょう。どうか、女性目線を唯一の基準として、夫の信仰の成熟度を測らないでいただきたいと願います。


         もし、夫の信仰的未熟さの故に、夫が尊敬できず、向き合えない夫婦となっているのなら、妻としては、一度、これまでの夫に対しての言動を省みられることをお勧めします。夫の成長を促進するものであったか?それとも、阻害しかねないものであったか検討してみてはどうでしょう?自分の言動が夫に劣等感を与えてこなかったかも要検討でしょう。また、夫の信仰的成熟度を測る基準も、女性目線で、一面的ではなかったか?省みてはどうでしょう?

         意外と、夫の信仰的未熟さは、夫自身だけの責任ではないことに思い当たるのではないでしょうか?そして、それは夫婦共通の課題共同責任であるという当たり前の結論に行きつくのではないでしょうか?

        (追記)たとえ、夫の課題の本質が、夫と神様の個人的な関係にあり、妻が直接かかわれないものであっても、それは、夫婦が共に向き合う課題でしょう。そして、最低でも妻が、とりなし祈ることはできるでしょう。夫婦は心も体も一つになって生きているのですから、純粋にどちらか片方の課題ということはあり得ないのでは?妻の側に全く責任や欠けがなくても、夫婦として受け止めるのが、聖書的かなと考えています。
         
        | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 21:38 | - | - | - |
        向き合えるクリスチャン夫婦とその信仰的成長(1)〜信仰指導は最低限で
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           最近のこと、知人であるベテランクリスチャン女性から、クリスチャン夫婦円満の秘訣を一つ教えていただきました。それは、「相手の信仰についての欠点や課題は言わない」ということです。そのご夫妻は、クリスチャンであるなしに関係のないことについては、普通に不満を伝えたり、欠点にも言及するそうです。つまり、「人としてどうよ?」「夫婦としてそれでいいの?」は、OKで、「あなたの信仰どうよ?」「それでもクリスチャン?」は、NGを通したとのこと。

           これには、深く納得しました。自分の夫婦関係を振り返ってみても実感です。結婚当初の数年は、お互いに信仰面での課題を指摘することもありました。それは、相手の霊的成長を願っての愛から出たものであっても、あまりプラスにはならなかったように記憶します。ましてや相手への怒りや不満でそれを伝えた場合は傷つけるだけで成長はなく、マイナスでしかなかったと評価せざるを得ません。

           結婚して数年経過してからは、そのことを学習して、お互い、できるだけ言わずに祈る方向で務めてきたように思います。言わないようにした結果、今では言う必要がなくなってしまいました。もちろん、以前から続いている欠点や未熟な面はありますが、補い合える夫婦関係を築くことで、一定克服できているかなと自己評価しています。そうです。個人としての欠点や未熟な面が続いても、それを補い合える夫婦関係となれば、もはや克服すべき問題ではないのです。大切なのは、向き合える夫婦関係でしょう。


           結婚関係における問題については、大抵は「クリスチャンとして」の問題ではなく、「人として」「夫婦として」の問題です。クリスチャンであるなしに関係なく、異性理解の不足や愛の足りなさ、自己中心や怠惰などです。それをわざわざ「クリスチャンとしてどうよ?」とか、「それでもクリスチャン!」とか、さも信仰の問題であるかのように指摘しあうから悲惨なことになってしまうのです。

           結婚生活において、み言葉を引用し聖書的根拠をもって、相手の欠点を指摘し始めると、未信者の夫婦の場合より深く傷つけあうこととなります。そもそも聖書の言葉は、自分に適用して、自分が悔い改めて、まず自分が従うべきものです。それなのに自分をスルーして、相手に適用し、相手の欠点を指摘して、改善するように要求するのは、完全にみことばの悪用、乱用です。夫婦間でそれをすること自体が、「クリスチャンとしてどうよ?」と自己批判すべきでしょう。

           しかし、残念なことに、このことで結婚関係を悪化させて、クリスチャン夫婦が結婚破たんに至ったケースを何件か見聞きしています。クリスチャンである両親夫婦がお互いの信仰を聖書を根拠に裁きあう現場を目の当たりにして、深く傷つく子ども、信仰を離れた青年や結婚願望を失ったクリスチャンにお会いしたこともあります。夫婦関係を悪くするのは自己責任でしょうが、子どもの人生にまで深刻なダメージを与える権利はありません。
           

           このことは、未信者男性を導いて結婚したクリスチャン夫婦には、特に徹底して欲しいと願っています。男性はプライドが保たれないと、やっていけませんし、プライドを傷つけられると愛情を失ったり、浮気心が増大したりです。こうしたカップルの場合は、夫が信仰的に未熟なのは当たり前なのですから、安易に欠点を指摘したり、信仰面でのダメ出し、否定をしてはなりません。

           むしろ、夫が信仰的に成長しようとしているなら、それを褒めて、助け、励ますことです。それは結婚式の誓約に含まれていたことのはずですから。神と会衆の前での約束をやすやすと破ってはなりません。どうしても指摘して正すべきことがあれば、否定的表現ではなく、肯定的な表現で伝えましょう。「ダメ出しモード」ではなく、「お願いモード」です。たとえば「××してはいけないの」ではなく「○○してくれたらうれしいわ」です。たった、これだけの言い換えで、プライドは守られ、夫の成長速度は飛躍的に高まります。

           「救われて結婚した夫が、数年でクリスチャンホーム育ちの自分より信仰的に成熟して驚き、感謝するばかりです。」そんなうれしい報告を、多くのクリスチャン女性からお聞きしています。それは、成長を願い努力した夫自身やそれを助けた牧師たち指導者だけの成果ではなく、祈り支え、励まし続けた妻の愛と忍耐の勝利かと思うのです。


           愛と善意に根差していても、信仰上の欠点や未熟さはあまり夫婦で指摘しあわないことが、向き合う夫婦でいるためには賢明なのでしょう。「あなたの信仰どうよ?」「それでもクリスチャン?」は、夫婦間では禁句でしょう。そして、怒りや不満をもって、それを指摘するなら、それは、夫婦を向き合えぬ方向へと向かわせてしまいます。


           というわけで、向かい合えるクリスチャン夫婦として歩む信仰上の秘訣の一つは「信仰指導は最低限で」かと思うのですが、いかがでしょうか?
          | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 17:47 | - | - | - |
          サラリーマン川柳に見る夫婦関係の合否
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             第一生命が主催する第28回サラリーマン川柳のノミネート作品、100作が発表されました。

             その100作はこちら!ここから投票もできるようです。
            「サラリーマン川柳ベスト10投票受付中」
            http://shouhin.dai-ichi-life.co.jp/company/senryu/selection.html

            今回は、この中から夫婦関係に関するものを三つピックアップします。

            妖怪か ヨー出るヨー出る 妻の愚痴

            是非欲しい 家庭内での 自衛権

            妻の声 AEDより 効果あり


             いずれも、妻の話を聞くキツさ妻と向き合う辛さを詠んだ傑作ですね。「妖怪ウオッチ、自衛権、AED」という時代性から「妻との関係に伴う苦痛」という普遍性につなげていくコンセプトです。これは、多くのサラリーマン既婚者男性の共感を得ることでしょう。

             結婚によって女性は強くたくましくなります。さらに母親になれば、それが加速度的に進みます。「女子→妻→母」とライフステージの進展につれて、女性は時に別人のように成長します。しかし、一方の男性は下手をすれば、永遠の小学生男子です。社会に出ようが、結婚しようが、父親になろうが、小学生時代の延長状態になりかねません。「学校の代わりに職場に通い」「男同士で盛り上がり」「家では女の世話になり役立たず」では、小学生男子と同じライフスタイルです。ですから、多くの夫は、かわいく弱々しかった妻が強く賢く成長していく姿に、圧倒されたり、恐れを覚えるようになります。

             また、妻の話はどうしても、自己感情中心になりがちで、論理的脈略に欠け、男性には理解不能で受け止めがたいものです。さらに、日本の中年女性は「不満と文句の天才」と言われています。話の内容が、マイナスばかりでは、きついです。特に、その不満と文句の対象が自分となれば、夫が妻と向き合うのは、恐怖とさえなりかねません。

             しかし、上に紹介した川柳は、それでも、一定妻は何かを夫に発言し、訴えているのです。夫はきつい思いをしながら、ある程度はそれを聞いてはいるのです。私はこうした夫婦関係なら、「合格」だと思っています。少なくとも、この手の川柳が詠める夫、我が身のこととして笑って受け取れる夫なら、その夫婦関係の成績は、決して「不可」でなく「可」より上だと判断します。

             夫にとっては、妻の話を聞くこと、その言葉を受け止めることは、結婚関係構築のための「難行・苦行」だと私は受け止めています。成績が「」の夫婦なら、二人の会話は楽しく喜びで、「難行・苦行感」がないかと言えば、全くそうではないでしょう。むしろ、妻を愛し、結婚を築き上げるために、その苦痛を逃げないで、受け止めて努力することによって、その夫婦関係は、「可」から「優」へと成績向上するのです。


             では、「不可」の夫婦とはどのような関係でしょうか?それは、まさに、これらの川柳が成立しない夫婦です。それは、妻が夫に愚痴さえ言わなくなった夫婦です。妻からの攻撃が止み、防衛の必要のなくなった夫婦です。夫に失望し、妻がドキッとする言葉さえ発しなくなった夫婦です。

             夫にとっては、「不快でストレスの高い妻からの言葉を、どう受け止めるか?」で夫婦関係は大きく決まります。それぞれのキャパシティーもあれば、限界もあるでしょうが、できるだけ受け止めようとするなら、夫婦関係は向上します。誠実な夫であれば、ベテランになるほど、その許容量も増すものです。善良な妻であれば、それによって愛情実感を得て、話の内容も次第に「威圧系」から「癒し系」に変化することでしょう。

             しかし、夫が妻からの言葉を、「不快だから」「ストレス高いから」という理由で無視したり、語り掛けを拒否することが、日常的になれば、結婚の質は確実に低下します。場合によっては、事実上の結婚崩壊に向かいます。妻にとっては、会話を拒絶されることは、自分が夫に、愛されていないこと、受け入れられていないことを意味するからです。その結果、妻は、親から愛されず拒否される子ども同様、ある意味、「荒れたり、ぐれたり」です。

             「夫たちよ、妻の語り掛けは、全部、無制限に受け止め、応答しよう」とアピールしているのではないのです。「できる限り、自分のキャパに応じて、真摯に受け止め、応答しよう」とアピールしたいのです。その真摯な姿勢こそが大切であり、それが、妻に伝わり、愛情実感を得て、妻も情緒的に安定するのです。


             妻の側は、二つの両極端を避けることかと思います。一つは「夫のキャパも考えず無制限な要求をすること」です。これでは、妻の思いを受け止めようとする愛情深く誠実な夫も、切れてしまいます。不快さと高ストレスで自分が潰れないためには、会話を拒否するという方法で、自分を守るしかなくなります。

             ですから、夫が受け止めやすいように、あらかじめ準備をして、自己感情を整理して言語化しておいて、できるだけ短い時間で、伝えたい思いを伝えるのです。準備なく、思いつきでそのまま感情をぶつけられることは夫にとってかなり苦痛だと理解してください。それは、夫婦関係を低下させる一因となりかねません。

             また、話の順番も考慮してみてはどうでしょう?夫にはウォーミングアップの時間を差し上げましょう。まずは、夫の関心のある話題や感謝や励まし慰めの言葉から始めるのです。夫が受け止める準備ができたところで、愚痴などのマイナス感情を伝えるのです。そうすれば、夫にとって妻は「妖怪」でなく「愛妻」に見えてきます。

             もう、一つの極端は、「夫に遠慮し過ぎて、話しかけなくなること」です。夜遅く、疲れた夫に負担をかけることを躊躇するのは、愛情でしょう。でも、「主にある自分の正しいニーズを満たすこと」は決して、自己中心でも罪でもありません。夫婦関係の本質は交わりですから、妻が自己感情を夫に伝えて受け止めてもらいたいと願うことは、聖書的に正しいことで、結婚において、かなり優先順位の高いことです。ですから、夫の体調や心理状態を考慮する愛は必要ですが、遠慮し過ぎてはならないのです。


             「不可」の夫婦関係は、簡単に言えば「向き合えない夫婦」です。どちらに原因があるとしても、夫が快適さを願って、ストレスを伴う妻の言葉を避けるようになり、妻は、受け止めてくれない苦悩あるいは話しかけられない苦痛を、「諦めるという決断」によって、解決するのです。換言すれば「向き合わないことで、両者が苦痛を回避し、より快適な夫婦関係を持続する夫婦」です。

             一旦、向き合えない夫婦になってしまうと、固定化してしまい回復困難となります。なぜなら、お互いの利益が一致するからです。夫も妻も、一番大きな苦痛とストレスを避けて、満足できない結婚関係で妥協する選択をしたからです。クリスチャン夫婦であっても、この状態になると、夫婦自身の決断と努力で、回復することは極めて困難です。

             悲劇的ななのは、「クリスチャンなのに」と考えて、夫婦の問題を隠してしまい、指導者や兄弟姉妹に話せなくなることです。さらに、残念なのは、向き合えない教職者夫妻が、信徒の手前、よい夫婦を演じてしまうことで、問題解決を避けて、事実上の崩壊に向かってしまうことです。クリスチャンであろうが、牧師夫妻であろうが、結婚の本質は同様で、それを悟らない愚かさや分かっていても自分の快適さを優先してみ言葉に従わない罪深さは、変わりません。とにかく、「不可」状態が継続したら、早めに解決能力がある第三者に打ち上げて助けてもらることです。個人的には、専門家であるクリスチャンの結婚カウンセラーをおすすめします。


             夫に問われることはこれかと思います。

             結婚の本質を人格的交わりであると心得て、妻の話を聞くことに伴う不快さや高ストレス夫婦関係構築のため支払うべき必要な犠牲として受け止めるか?

             それとも、結婚を機能やシステムとしか考えず、夫婦の形式的継続だけを願い、妻と向き合うことに伴う不快さとストレスを回避して、結婚の質を低下させていくか?

             言い換えれば、「夫婦関係の構築>自分の苦痛ストレス回避」か?それとも、「自分の苦痛ストレス回避>夫婦関係の構築」か?です。


             また、多くの夫婦において、決定的なのは、夫側の姿勢や決断ですが、よい方の姿勢や判断に夫を導くのは妻のありようです。上に記したように、二つの両極端を避けて、「夫が受け止めやすいよう努力をしつつも、遠慮し過ぎない妻」かと思います。クリスチャンであるなら、「結婚した限りは何が何でも、向き合える夫婦関係を作る」「決して自分は、諦めないし夫の逃避やごまかしを安易に許容しない」との強い意志で結婚生活を送っていただきたいのです。


             冒頭の川柳を我が事として笑える夫、わが夫の心情として、笑える妻なら、それは、合格夫婦だと私は思います。夫婦お互いの努力によって、より深く向き合える夫婦に成長されてゆかれたらと願います。また、川柳がもはや過去のものとなり、当事者感を持てなくなったご夫妻にとっては、今回の記事が何かの気づきやヒントになれば感謝なことです。
            | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 11:56 | - | - | - |
            年賀状をいっしょに作る夫婦は、幸福度が高い!らしいよ・・・
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               一昨日の午後は、車で名古屋のキリスト教書店へ。車中のラジオから聞こえてきたのは、北野誠さんとCBCアナウンサー、そして、地元のタレント弁護士?の三人の声。番組で紹介していたのが、どこかの企業が実施したある調査の結果。それは・・・・

               「年賀状をいっしょに作る夫婦は、幸福度が高い

               何でも年賀状をいっしょに作る夫婦は、結婚の幸福度が86ポイントだったというのです。とても高いポイントですが、詳細は不明です。多分、対象となる夫婦が「結婚生活は幸福か不幸か?」と二者択一として、尋ねられて、の86%が「幸福」と答えたのでしょう。そうだとしても、年賀状を一緒につくることと、結婚幸福度の高さにはかなりの相関関係があると言えそうです。

               不仲な夫婦は、コミュニケーション自体がストレスで、避けようとします。共同作業自体が苦痛なのです。ですから、夫婦どちらか一方の担当となる傾向があると予想します。あるいは、結婚3年目あたりまでは、夫婦で相談して共同制作をしていた夫婦も、年賀状を作るたびにケンカになるので、4年目以降は、片方が専任となったというパターンもあるのでは?と想像します。

               実際に、パーソナリティーの女子アナは新婚なのですが、さっそく今年の年賀状で夫婦げんかになったというのです。妻は、ウエディングドレスだけでなく、お色直しも含めて、三つの写真掲載を主張、一方の夫は、恥ずかしさもあるのでしょう、一つだけの掲載を希望。年賀状でバトルになったそうです。

               北野誠さんは、「相手に任せておきながら、できた年賀状に文句を言うのは、サイテー。夫婦仲めちゃくちゃ悪くなる。任せる限りは、文句言ったらアカンわ」と最悪のパターンを語っていました。そうそう、思った通りのこと言ったら、愛は実行できません。忍耐と愛の配慮なしに夫婦関係の構築はできません。


               我が家の年賀状は、夫婦の共同作業。コンセプトは夫婦で相談。デザインとレイアウトを考え、表側を作成は妻の担当。送り先のデータ管理と印刷は私の担当となっております。最近は険悪になることなく、共同作業ができているように思います。


               というわけで、既婚者の方、これから結婚する皆さん、毎年の暮れには、夫婦で一緒に年賀状を作れる夫婦を目指しましょう。
              | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 18:10 | - | - | - |
              夫から妻へのワーストワードをご紹介
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                 先日、東海地域の人気ラジオ番組で、タレントのつボイノリオさんが、リスナーからのハガキによる「夫から妻へのワーストワード」を発表していました。妻が夫に言われて最もむかつく言葉のランキングであります。代表的なもの三つとそれへの妻へのコメントの概要を紹介しておきましょう。

                Aさん
                夫の言葉「おまえ
                妻の応答「おまえみたいな人間に、おまえ呼ばわりされたくないわー!」

                夫の言葉「メシは?
                妻の応答「ほっとけば、自然に出てくるとでも思っとるのかー!」

                夫の言葉「やっとけ
                妻の応答「それが、人にものを頼む時の態度かー!」


                Bさん
                夫の言葉「食わしてやっとる

                妻の応答「結婚する時、仕事を辞めて家事に専念して欲しいというから、不本意ながらそうしたのに、その言いぐさは何?私があんたを食わしてやってもよかったんだぞ!」


                Cさん
                夫の言葉「おふくろなら、ありえんな

                妻の応答「そりゃー、お母さんは、料理上手できれい好き。私がそうでないのは、その通り。でも、お風呂のカビはそのまま、網戸の埃がたまって、大皿料理が続けば、『おふくろなら、ありえんな』は、あんまりでしょ!妻は母親の代理機能ではないのだから。妻と母親を比較するなど、男として最低。」


                 どうも、妻を人生の対等なパートナーと考えず、家政婦や母親の代理のように扱う時、妻は、怒り心頭となるようです。これって、逆に言えば、聖書的な結婚観の正しさや現実的有効性を、示しているのでは?
                | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 21:13 | - | - | - |
                察することのできない夫と察しすぎる妻(例外編)
                0
                   男性が察することができないかと言えば、必ずしもそうではありません。男性ができないのは、「相手の心情を察する」ことです。特に女性、さらに言えば家族となった妻の心情を察することができませんし、察する努力を怠りがちです。

                   逆に、男性たちが「察する天才」となる分野があります。それは男性同士の「地位・序列」です。動物のオス同士が向き合って瞬時に強弱関係を察して、対決回避をするように、男性たちは、相手の年齢、社会的地位、能力などで力関係を察して、自分の取るべき行動を決めます。

                   感性アナリストの黒川伊保子さんは、その著書「夫婦脳」の中で、男性脳は空間認識に優れているので、地位や序列関係にも敏感なのだと指摘しておられます。なるほどと思います。まあ、そもそもアダムは農業仕様に創造されているので、その脳も空間認識に優れているのでしょう。


                   しかし、残念なことに、夫婦関係において察し過ぎて事実誤認に至りがちな妻と同様のことが男性には起こるようです。地位や序列を察しすぎてしまうあまり、男性たちは、心の深い交わりを失ってしまうのです。

                   男性たちは、サラリーマンだったりすると、宴会でも「無礼講」と言いながら、それは建前に過ぎません。ちゃんと役職順に奥から座ったりします。女性からすれば「どこが無礼講やねん!」と突っ込みたくなるような、矛盾した行為を当たり前にとるのです。言うまでもなく、こうした交わりの中では、本音を出しての心からの交わりなど望みえません。

                   それは、教会でも同様です。男性たちは、主にあるフラットな交わりが困難です。年齢や信仰歴、社会的地位や学歴などにこだわり過ぎて、心を裸にした交わりできないのです。涙を流して祈り合う女性クリスチャンから見ると、男性クリスチャンたちは、恐ろしく貧しい交わりに生きているように見えてしまいます。

                   そればかりか男性たちの中には、涙を流して祈り合う女性クリスチャンを見て、「あれは、主にある交わりでなく、傷のなめ合いに過ぎない」などと、簡単に決めつける方もおられます。心情交流においての自らの乏しさも自覚できないまま、女性の持つ豊かな世界を理解しようともせず、男目線で一方的に決めつけるのはどうかと思うのです。この分野では男性の察しすぎがどれだけ交わりを乏しくしているかの自覚が、まず求められます。

                   以上のように、地位と序列については、「察しすぎる男性」と「察する気もない女性」と言えそうです。男性は、「権力関係における地位についての察し」はし過ぎてしまう一方で、「人格関係における心情についての察し」はできないのです。これは女性から見れば、乏しく愚かで非人間的に見えることでしょう。しかし、神様はそのように男性を創造されたようですし、だからこそ、この欠損を持つ男性は、助け手として、女性を必要とするのだと思うのです。

                   あくまで一般的傾向ですが、組織を作り働きを進めることに長けているのは男性で、深く心情的な交わりを形成することに長けている女性です。男性は家庭さえも機能的組織としてとらえて、寝込んだ妻を思いやるより、家庭が機能するような対処を優先します。しかし、女性は、夫婦関係に深く心情的な交わりを求めますから、夫が心情的察しができないことが、重大な問題になるのでしょう。

                   こうした男女の察しについての違いは、家庭においては、夫婦が、社会においては男女が相互補完するために、神様が男女それぞれに備えられた標準装備だと思うのです。神様が恵みとしてくださったものを、私たちは罪深く、自己中心であるため、相手を理解しようとせず、不満を抱き、自らを不幸に陥れているように思えてなりません。

                   男女の創造に込められた神様の意図を知ることのできる聖書読者こそが、あるがままで神様から愛されたクリスチャンこそが、こうした男女の違いに由来する問題を克服し、主の栄光を現す夫婦関係、男女協力関係を作ってゆけたらと願います。
                  | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 11:17 | - | - | - |
                  察することのできない夫と察しすぎる妻(読者事例編)
                  0
                     昨日の予告通り、「例外編」をアップしようと思っていましたら、一読者から、このテーマについて大変教えられる応答をいただきました。これは是非ともと思いましたので、例外編は明日に延期して、当人の許可をいただいた上で、ご紹介申し上げます。

                     「察しセンサー」を標準装備の妻と、それを装備せず、鈍感力エンジンで走る夫が、共に現実生活を送るのですから、そりゃー、結婚生活が大変なのは、当たり前。今回いただいた応答には、さらにそのことを思い知らされました。

                     紹介する応答は、結婚20年以上と思われる既婚者クリスチャン女性からのものです。昨日、お勧めしたように、察してくれない夫にお願いをするまさにその時にまで、妻は察してしまうというのです。そうして「察し過ぎ無限地獄」に陥っていく様が見事に記されています。いいえ、これは現実生活のレポートなのです。どうも、察し過ぎる妻にとっては私のお勧めで何とかなるほど、浅い問題ではないようです。

                     また、ここに登場する夫の鈍感力も半端ではありません。女性の皆さんは、「ありえんだろう?!」「そんなの離婚!」とか思うでしょうが、決して珍しくないケースです。愛情深く真面目なクリスチャン男性であっても、こういうことは、あると思います。真面目で妻を愛するクリスチャン男性でも、こうなのですから、結婚は大変だし、面白いし、奥が深いのでしょう。

                     「妻は、時にここまで察しすぎるのか!」「夫たちは、こんなにも察することができないのか!」と驚くやら、あきれるやら、かわいそうになるやらです。これ以上、何も申し上げません。じっくりお読みください。この事例報告は最高です。(太字と鍵カッコは私の編集によるものです)


                     今日の先生のお話、とても良くわかりました。妻の心掛け次第な所が大きいですね。でも、妻からお願いする時にも、察し過ぎてしまう悲劇(喜劇)はままあります。

                     「やって欲しい、でもその位主人も察してくれているんじゃないかしら?その上で行動しないということは、それはする必要がないという事でそれをして欲しいと思う私が我儘なのかしら?だとしたらお願い、なんて言えない
                    。何が何でも私がやらなきゃ。死んでも私がやらなきゃ…」

                     我が家で良くあるパターンです。足が絡まって倒れて初めて、優しい主人は「熱が40度もあるじゃない。そんな事しなくていいよ。流しに積み上げておいて治ってから洗えばいいんだから

                    わかりあうって難しいですね。


                     以上です。明日は「例外編」をアップします。
                    | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 16:22 | - | - | - |
                    察することのできない夫と察しすぎる妻(実践編)
                    0
                       察することのできない夫に妻が切れてしまう代表的なシチュエーションがあります。それは妻が寝込んで食事を作れない状況です。この状況で、夫が妻に放つ言葉に妻たちは切れてしまうようです。三つほど事例を出しましょう。

                       いつも、夫の母を介護して、家族と義母の食事を作っている妻が寝込んでしまい食事が作れません。それを見た夫は、妻の心情を察して、思いやることもなく、母親や自分たち夫婦の食事を買ったり、作ろうともせず、開口一番打ち合わせを始めます。「おふくろの夕食どうしよう?はどうしたらいいの?お前は、何を食べるんだ?」

                       妻が、寝込んでしまい食事が作れない状況の中で、夫が帰宅。言った言葉が「どうして?」だったとのこと。「どうしたの?」でなく、「どうして?」だったのです。他のことも重なって、この言葉は妻が離婚を決意するきっかけの一つとなりました。きっとこの夫は妻を母親の代理機能だと思っていたのでしょう。帰宅すれば食事ができているという想定が外れたので、「どうして?」なのでしょう。それで、妻の心情を察し、健康を案ずる「どうしたの?」が出なかったのでしょう。

                       夫婦と子ども二人の家庭のケース、同じく夫が帰宅すると妻が寝込んで食事ができそうにない状態。優しい夫はこう妻に語りかけました。「君は何もしなくて、いいよ。僕は外で食べてくるから・・・」。妻の心情を察することも、健康を心配することもなく、大切なのは「自分の夕食をどうするか?」なのえす。女性には考えられないことでしょうが、この状況で、妻と子供二人の食事のことは考えようとしないのです。

                       いずれも、妻のお怒りはごもっともです。この状況で、妻の心情を察することもせず、病状を案ずることをしない夫を「人格欠損者」「人でなし」「愛のかけらもない」と判断する気持ちも理解はできます。でも、それは事実と異なる判断です。これらの夫は人格欠損でも、人でなしでも、愛のかけらもない男でもありません。ただただ、察する能力がないのです。女性なら標準装備の察する能力を、男性は装備していないのが標準なのです。

                       アダムは農業仕様ですから、鈍感力満載なので、意志的な努力をしないと、妻の心情を察して思いやることができません。逆に農業仕様の男性は、今後の展開と状況の好転ばかりを考えます。「妻が寝込んで食事が出そうにない」という状況をどう打開するかを思わず考えてしまうのです。

                       これは、心情を察することができず、鈍感力で生きる男性にとっては自然な応答なのです。その時の相手の心情を理解し受け止め共感する能力に欠ける一方、展望性を持ち、状況の好転を考え実行に移す男性ならではの行為なのです。つまり、これら妻にとってはむかつくし、絶望的な応答は、男性が本来持っている性質の必然的な現われなのです。犬の忠実さも猫の勝手さも、その野生の本能に忠実な行動に過ぎないのと同様なのです。

                       夫は決して妻を大切に思っていないわけではありません。ビックリするほど、察することができないだけです。試しに、自分がどうして寝込んでいるか、どんなに体調が悪いかを感情的にならず、言葉で伝えれば、別の反応をするでしょう。多くの夫はそうすれば、夫からは、ちゃんと思いやりの言葉が行動が出てきます。食事をどうするかの明確な指示を出せば、愛情のある夫なら、その指示に従って頑張ります。

                       妻が夫が察してくれることを期待するお気持ちはごもっともですが、それはかなり無理な要求でなので、こうした問題が起こるのです。妻の皆さんは夫から「言ってくれなければ分からない」「一つ一つ指示をしてくれたら、ちゃんとやる気はあるのに」「お前のことを大切に思っていないわけないだろ?」と言われたことはないでしょうか?ここに、察することのできない夫と察しすぎる妻のギャップがあるのでしょう。


                       妻はこの状況で自分を思いやらず、食事をどうするか?ばかりを考える夫に激怒したり、絶望したりで、さらに察し過ぎにより、、不幸気分一直線になります。これは昨日の図示したのと同様です。

                      察しすぎる妻(夫は自分同様察する能力があるという事実誤認の前提

                      「夫は寝込んでいる自分の心情を察してくれず、食事のことばかり」→「ありえない!どうして?」→「察しないのは、きっと自分に感心がないから」→「関心がないのは、自分を愛していないから」→「私は不幸でこの結婚は失敗」(事実誤認の被害妄想)


                      察することのできない夫(自分は察することができないのは当然という自己中心の前提

                      「自分は夫としてこの状況の克服を願っているのに、妻が自分を責める」→「指示がなければ、分妻にとって適切な対処ができるわけがないのに」→「自分は妻を愛しているのに、ひどい」→「妻の悲しみと怒りは不当で事実誤認」→「女は本当に、わがままで面倒くさい」→「結婚なんかするんじゃなかった


                       妻が、夫は自分を心から愛しているのであって、単に察することができないだけなのだと分かるケースがあります。妻が寝込んでおり、食後に汚れた食器がテーブルに残っています。それでも、夫は、言われないと片付けようとはしません。妻から見ればありえないことですが、これは決して珍しいことではありません。鈍感力が高めの夫ならよくあることです。

                       妻が、察することのできぬ夫への怒りを抑えて、優しい声で、「洗って欲しいの」とお願いすると、夫は、喜んで一生懸命洗います。しかし、食器を拭いたり、乾燥機にかけたりはしません。再度、「洗ったら、乾燥だろーが!言わんとわからんのかー!」との思いを抑えて、落ち着て次の指示を出せば、夫はすべて妻の指示通りにしてくれます。最後に妻が「ありがとう」を言おうものなら、「何か他にやることないか?」「何でも言ってくれよ」と愛情満開となることも。


                       察することのできない夫に対して、察し過ぎるあまり、夫の愛さえ疑ってしまう妻。察することのできないために、自分を愛を疑われて傷つく夫事実として愛があるのに、察することができないだけで、まるで愛がないかのように妻が思うなら、これはあまりに残念なことではないでしょうか?

                       妻にとっては厳しいチャンレジでしょうが、まずは、夫が察する能力を装備していないという事実を受け止めましょう。あるがままの相手を受け入れるのが愛の本質ですから。夫に対して女性同様に察することを要求するのはやめましょう。要求しても、夫の愛を疑い、夫婦の愛情関係を悪くするだけです。一定の妥協をして、ある程度は言葉で伝えるあり方、具体的指示をする方向にシフトチェンジして、夫からの愛情実感を得ることをお勧めします。


                       夫に察するという無理難題を要求し続けて、夫の愛を疑い、結婚関係を悪くするか?

                       鈍感力豊かな夫に、不本意ながらも、言葉で伝え、指示を出し、夫の愛を実感し、結婚関係をよくするか?


                       「無理難題を押し付けて不幸妻になるか?不本意な妥協をして幸せ妻になるか?」


                       それを決めるのは、妻自身の選択・決断次第でしょう。私は、夫に対して「妻を愛しましょう。思いやりましょう」とはアピールできても、「察しましょう」とはアピールできません。なぜなら無理な要求、無駄なアピールだからです。「察することのできない夫と察しすぎる妻」問題解決の鍵を握るのは、夫ではなく、圧倒的に妻の方だと思うのですが、どうでしょう?これって、男のわがままなんでしょうか?

                       明日は「例外編」として、夫たちが、察することのできる「例外的な分野」について記します。
                      | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 16:04 | - | - | - |
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