命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
恋愛>結婚がもたらすもの(3)
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     恋愛>結婚という価値観、それは恋愛は結婚より価値があることを意味します。だとすれば、結婚を機に今後一切、恋愛を止めるという決意はかなりきついものとなります。それどころか、「結婚してからも恋愛がしたい」との思いを抱いたまま結婚してしまうのかも。

     「結婚後もときめき続けるもの」と勘違いをしている女性は特に危ないわけです。成熟した大人の女性なら「ときめきがやがて安心や信頼に変るのが結婚」と心得ているのですが、そうでない女性は、恋愛の延長で結婚生活を送ります。当然、数年経過すればときめきは薄れます。そうなれば、夫は恋愛対象外となり、別の恋愛対象を求めてしまうわけです。

     繰り返し申し上げますように、結婚が試合、勝負で恋愛は準備体操。ですから、「結婚=恋愛の卒業」なのであります。結婚とは相互独占契約ですから、結婚後に誰かを好きになっても、惹かれても、諦める決断をしていることを意味するのが結婚。

     ところが、最近は「不倫」を「婚外恋愛」と表現する方々が出現しているとか。「不倫」は言葉自体に否定的な価値判断が含まれております。確かに「婚外恋愛」は客観的で公平な言葉ではあります。しかし、私に言わせれば、婚外恋愛とは「試合放棄の準備体操」であります。スポーツで言えば、「場外乱闘」であります。独占契約を破っての契約好意で違反行為であり、退場に値します。

     書けばキリがないので、以前に不倫について記した記事をご参照ください。
    http://blog.chiisana.org/?eid=867085

     この記事中の以下のフレーズは自分でも気に入っています。 

     不倫くらい愛のように見えて、愛に反する恋愛の形態はないでしょう。私に言わせれば、不倫とは「偽装愛の代表的形態」「愛の相互勘違い劇場」「自己愛性恋愛障害」であります。

     これに今回はさらに加えましょう。不倫者は「愛の世界における学生気分」であります。結婚が相互独占契約であることも理解せず、恋愛の延長で結婚生活を送ることは、「いつまでも学生気分でいるな!もう、社会人なんだから」と先輩から叱られる新人社員のようなものでしょう。

     「恋愛>結婚」との価値観が結婚後も継続するなら、時に、それは不倫という形態で、結婚と家庭を壊し、子どもを傷つけていくのでしょう。それは爆弾を抱えながらの結婚生活とも言えるのでは?「恋愛>結婚」との価値観、結婚後も持ち続けるなら、それは「爆発物」、「危険物」ですぞ。
    | | 聖書的恋愛論 | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
    恋愛>結婚がもたらすもの(2)
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        恋愛>結婚ということは、恋愛が結婚に戦いを挑んで勝つ可能性があるということです。結婚が、恋愛に対しての絶対的防御壁にならないというわけ。結婚という盾に、恋愛という矛を突き刺しているというケースが起こるのです。つまり、既婚者に対して、未婚者がアプローチしてよいという価値観が生まれます。

       そこで、近年起こっているのが、既婚者男性が独身女性からモテルという不思議な現象。20年程前は、結婚するとバレンタインデーのチョコは激減するのが常でした。高校教師をしていたので、同僚も自分もその通りの体験をして、女性の賢さと結婚したことの意味を思い知らされたものです。

       ところが、最近、ある既婚者クリスチャンから、びっくりするようなご報告と体験談をお聞きしました。クリスチャンである彼は結婚したら、一転もてるようになって驚いたというのです。それまでは、悲しいほどモテなかったので、その激変がショックだったわけです。結婚一ヵ月後に、独身女性から告白されて、「僕が最近結婚したの知っているよね?」と確認したら、当然、知ってのアタックだったそうです。もちろんクリスチャンである彼はその申し出に驚きながらも、きっぱり断りました。

       彼自身の分析では、既婚者の方がもてる理由は、「既婚者の方が、女性に対して余裕がある」「女性に気配りができる」「結婚を求められない気楽さがある」「より信頼感、安心感がある」などとのこと。

       それらの多くは未婚女性にとっては、事実だろうなとも思います。ある女性たちにとっては、既婚者男性の方が魅力的に思える気持ちも理解できないわけではありません。しかし、既婚者へのアプローチを「ルール違反」「人の道に反する行為」と考え、思いとどまらないわけです。そしてこのことの根底にあるのが「恋愛>結婚」との価値観であり、それが社会的に形成された合意とされつつある風潮かなと思うわけです。

       それは、売約済みで既に他人が住んでいる家に住もうするとか、ある球団と契約したプロ野球新人選手を別の球団が入団するよう勧誘するとかいう行為と同じはず。いずれも契約関係にある両者の間に割り込む不正行為、反社会的行為であります。そして両者の合意で、他者に属するものに自分の所有権を主張するのですから、分かりやすい話、「泥棒」なのです。

       多分、ある世代から下の方々には、「結婚=契約」「相互独占契約とその責任遂行」との観念自体が欠落しているのでしょう。既婚者に罪悪感なくアタックする女性たちの結婚観は、「結婚=恋愛の制度化、法的保護」あるいは「家族形成バージョンの恋愛」程度なのでしょう。

       結婚後にモテ期がやってくる男性たち・・・・。ちょっと理解しがたいのですが、これも、「恋愛>結婚」との価値観普及がもたらした逆転現象の一つではないでしょうか?
      | | 聖書的恋愛論 | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
      恋愛>結婚がもたらすもの(1)
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         メディアを中心に聞こえてくるのは、恋愛は楽しい、素晴らしいという声、逆に結婚の破綻やその苦労話ばかり。嫌という程の変更報道のおかげで、「恋愛>結婚」との価値観が刷り込まれているかのような現代日本であります。

         聖書によれば、神は人を男女に造られ、異性を求めて心身ともに一つになるように定められました。そこで、特別独身に召されていたり、強いられている方々を除いた圧倒的多数派は、恋愛感情が与えられているわけです。ですから、恋愛は神様からのプレゼント、人間の本質にかかわる大切なものです。

         恋愛が素晴らしいのは、確か。でも、結婚に勝るかと言えば、とんでもございません。恋愛感情は結婚のためにあるのですから。恋愛は結婚の準備体操に過ぎません。ある意味においては恋愛の完成形が結婚なのであります。

         「完全なものが訪れたら不完全なものが廃れる」「大人になったら、子どもであることをやめる」と聖書が示す真理は愛の世界においても同様。結婚の前には恋愛は衰え廃れるのです。結婚という「大人の愛」に至ったら、恋愛という「お子ちゃま愛」は、もう、やめるのです。

         恋愛とは、結婚と比較するなら、やはりお子ちゃまなのです。「嫌になったら止める」「意志や責任より、感情や気分で生きている」「相手より自分が大事」「うまくいかなければ、次のチャンスがある」など、「そんなことでは、社会で通用しませんよ」と言われる子どもと同じです。

         一方の結婚は、「嫌になっても止めない」「そう契約したから、責任を果たす」「自分より相手が大切」「次のチャンスは考えず今の相手と最高のパートナー関係を目指す」と、「社会人としてあるべき姿だよね」と言われる大人と同じ。

         ですから、「恋愛はしたいけど結婚はしたくない」と考える方々は、「愛における成熟拒否」であります。「嫌になったら止められる」という自由を確保しながら、「共に生きる相手への誠実さや責任」は負わずに、愛を楽しむのですから、これは社会参加しない子どもと同じであります。働かないで、金を得ようとしているようなものでしょう。

         そうなると問題は深刻です。「恋愛>結婚」との価値観が普及して定着してしまうと、「愛の世界における一億総幼稚化」が始まります。恋愛の延長線上で結婚をしてしまうので、結婚してからもお子ちゃま愛のままの方々が増加。

         「嫌になったら止めてよいと思っての結婚」
        ダメなら実家に帰ってこいという親」
        「相手への誠実さや責任を負うことなく、感情や気分を優先する夫婦関係」

         結局、「恋愛>結婚」との価値観は「愛における成熟拒否」を招き、結婚の破綻や本来の姿からの逸脱へと続くのでしょう。

         忍耐と労苦を経ても実り豊かな人生を送ろうとする価値観を失ってしまったかのような日本社会は、責任や労苦や不自由を避けることを最優先とし、結婚回避傾向と恋愛志向に陥っているように思えてなりません。恋愛の楽しさはその時限りお気楽なのはいいのですが、あまり豊かな実りがある世界ではありません。一方の結婚は忍耐と労苦のしがいがある世界、人生を共に生きるという実りは、その労苦にふさわしいもの。いいえ、正しい労苦をすれば、その労苦を遥かに超えた実りがあるのが結婚という世界。

         かと言って、結婚回避恋愛志向の若い世代を非難してばかりではいけません。非難する前に問われるのは、自分の結婚生活。既婚者はその実りを後輩に見せたいもの。両親夫婦は子どもにその実りを教える視覚教材そのもの。ふと我にかえれば、結婚生活を送る者の側の責任も覚えます。既婚者こそが、「恋愛>結婚」か「結婚>恋愛」のいずれの価値観かが問われる時代なのかもしれません。
        | | 聖書的恋愛論 | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
        「好き」の最上級は「愛している」ではない!
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           先日、大学での私の講義に対しての感想に教えられました。恋愛と結婚、恋愛感情と結婚愛の違いをお話した箇所についての応答として、その学生は以前聞いたことのある「好きの最上級は愛しているではない」という言葉を思い起こしたと言うのです。

           アニメ「一休さん」のテーマソングは「好き、好き、好き、好き、好き、好き、愛してる」と歌いますが、これは、きっと仏教の教えにも反していると思います。「好き」が六つ集まっても「愛してる」には昇格しないのであります。

           聖書的には、サマリヤの女がその実例。彼女は「好き」の最上級者でありましたが、「愛」の失格者であったと思われます。五度の結婚に破れました。「好き、好き、好き、好き、好き」と五回結婚しても、「愛してる」には達しませんでした。キリストに出会うまで彼女は「愛する」世界を未体験だったのでしょう。

           そうです。「好き」をいくつ積み上げても「愛」にはなりません。恋愛感情を最上級まで高めても、結婚愛には至りません。基本的に両者は別物なのです。

           では、「好き」の最上級は何でしょう?「好き」を最上級まで極めるとどうなるでしょうか?時にそれは悲劇につながります。一例は、サマリヤの女のような結婚破綻の連続です。あるいは、不健全な人間の場合は「好き」が最上級に達するとストーカー行為に及ぶことも。旧約聖書でも、「好き」が高じて、異母姉妹であるタマルをレイプしたアムノンの例(?サムエル13章)があります。

           「愛」は相手中心、でも「好き」は自分中心。それ故に「好き」が最上級になれば、究極の自己中心となり、結婚を破壊したり、犯罪行為にさえ及ぶのは、ある意味、必然なのでは?

           そう、恋愛感情は結婚起爆剤。決して、保存料にも、防腐剤にもなりません。結婚を持続させ、よりよくするのは、結婚愛という名前の意志、結婚式で誓ったあの決意なのでしょう。

          | | 聖書的恋愛論 | 15:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
          「レディー雅歌」こそ、主にある女性の性愛表現?
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             愛読しているブログに「雅歌の部分的私訳」を発見。これが現代的感覚にマッチする訳で、自分としては大うけです。この記事に応答してのコメントも見事で「レディー・ガカ」とのオヤジギャグ的オチ。

             まずは、この現代的で刺激的で伝わりすぎの名訳をご覧あれ

            「伊那谷牧師の雑考」より「雅歌、部分的私訳」
            http://zios.seesaa.net/article/223382116.html

             私は雅歌を第一義的に主にある男女の愛を描いていると受け止めています。神と教会との関係というのはあくまで、第二義的な解釈か、適用であろうと考える方です。雅歌が描くのは、信仰者相互の敬愛であり、主に男女としての恋愛であり、さらには「性愛」と呼ぶべき要素もあると思います。男性は女性の肉体の性的魅力を褒め称えますし、この私訳の箇所は、女性としての細やかな「心情的性欲」が、見事に描かれていると思います。

             本ブログでは、男性に対して「清く正しく美しいスケベ」「御心にかなったスケベ」を目指すよう応援をしてきました。代表的記事は次の二つでしょうか。

            http://blog.chiisana.org/?eid=701418

            http://blog.chiisana.org/?eid=702885
             
             女性の性欲は男性とはかなり異なりますから、「スケベ」と言っては失礼でしょう。しかし、あえて言えば、この「レディー・ガカ」は「清く正しく美しいスケベ」「御心にかなったスケベ」の女性版でありましょう。それではあまりに下品ですから、「主にある女性の性愛表現」かな?とか思うのです。女性においては、男性よりも、「恋愛」と「性愛」が不分離だと勝手に思っています。ですから、この箇所は恋愛とも性愛とも断定できないけれども、やはり女性ならではの性愛表現ではないかと考えます。

             聖書が示す性をとても禁欲的だと思って読んでいませんか?神様が与えた恵みを楽しみ喜ぶ、おおらかさをも、聖書は示していることを覚えたいです。性に対しての聖さは大切、しかし、それは禁欲的なのではなく、神が喜ばれる範囲で、大いに喜び楽しむことと結びつくのでしょう。

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            | | 聖書的恋愛論 | 18:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
            「童貞と処女」が最も絆を深めるらしいぞ
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               先週の「さんまのホンマでっか」では、植木理恵先生が、「秋に向かって更に愛を深める男と女のテクニック」 のベスト5を紹介。特に外国の学者が日本人の絆の深さを研究しようと、日本の独自性に着目してのランキングであります。

               そして、何と一位は、「初物を一緒に食べる」というもの。ヨーロッパには四季はあっても初物という観念がないのだとか。これが日本の男女の絆を深める独自の要因というのが欧米研究者の成果らしいです。

               そこで、紹介された心理学的な根拠は以下の通り。記憶には知識的な記憶と日記的なエピソード記憶の二つがある。初物を男女や家族で一緒に食べるとエピソード記憶が高まり、それが絆を強めるのだそうです。

               私は以前に、「福音書とホームドラマの共通点は、食事のシーンが多いこと」と記したことがあります。カナの婚礼、最後の晩餐など重大な場面は食事中です。さらに復活後のイエス様も焼き魚を食して、幽霊ではないことを示されました。聖餐式も、元来は愛餐の場で為されたようです。共に食することが相互の絆を深めるというのは、聖書的文化ですし、神様が人間に与えられた本性の一つなのかもしれません。

               さて、そこで植木先生が相互の絆を深めるとして、例示したエピソード記憶は以下の通り。
              視覚」「味覚」「ポジティヴ感情」「初めて

               これを聞いてつくづく思いました。ある牧師が「童貞と処女で結婚すると一番絆が深くなる」という趣旨の発言をしておられたが、本当にその通りらしいぞ!と。セックスは視覚や味覚に限らず強い感覚を伴います。また、愛情という最もポジティヴな感情を伴います。さらに、それが「初めての体験」であれば、どうでしょうか?絆を深め合う要素を全て満たすことになりますね。

               「初めての共有」、それが男女の絆を深める大きな要因だとすれば、性における初めての共有は、どんなに大切なことでしょう。神様は何も、私たちを不自由にしたり、よいものを出し惜しみしたくて、「結婚まで待ちましょう」と勧めておられるのではありません。初めてを共有して、最強の絆をつくって、幸せな結婚生活を送るために、そう命じておられるのでしょう。

               逆の表現をすれば、童貞と処女で結ばれると最も強い絆が形成されるように、人間の脳は、いいえ、人間の全人格、心と体は、神様にデザイン、創造されているということでしょう。
               
               その意味では、中高生や若い世代の方々には、将来の絆作りのマイナスにならない恋愛をと願うばかりです。

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              | | 聖書的恋愛論 | 20:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
              さだまさしの「恋愛症候群」に学ぶ(3)〜恋の消え方は二通り
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                 今日で最後です。さだまさしの「恋愛症候群」から。

                歌詞はこちら。
                http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND4873/index.html


                youtubeでの画像はこちら。
                 http://www.youtube.com/watch?v=iq-hYqkq68E

                 この歌の主要な主張は「恋は必ず消えて終わる」ということですが、「二通りの消え方があると思う」とのこと。「ひとつは心が枯れて行くこと」であります。これは医学的に言えば、脳内物質の分泌の枯渇による症状であります。「そしてもうひとつは、愛というものに形を変えること」であります。

                 恋は毛虫のままで死んでいくようなもの。しかし、愛というものに形を変えると、恋は終わりますが、二人の愛がそこからはじまります。それは毛虫が蝶に変るようなもの。

                 恋の短命さに対して愛の永遠性、恋の必消性に対して愛の持続性を教えます。恋の自己中心性に対しては愛の他者中心性を、恋の感情依存性に対しては、愛の意志依存性を、聖書は教えます。

                 以前に記したブログ記事もご参照ください。恋愛者と婚活者には特にオススメです。

                「恋は落ちるもの、愛は育てるもの(1)」
                http://blog.chiisana.org/?eid=909109

                「恋は落ちるもの、愛は育てるもの(2)」
                http://blog.chiisana.org/?eid=909120

                「恋は落ちるもの、愛は育てるもの(3)」
                http://blog.chiisana.org/?eid=909027


                 「ひとつの恋を恋のままで終わらせるか?愛に変えて終わらせるか?」その判断と選択はとても決定的だと思います。


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                | | 聖書的恋愛論 | 09:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                さだまさしの「恋愛症候群」に学ぶ(1) 恋は一過性の発情症候群か?
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                   研ナオコの次はさだまさしであります。あるクリスチャンの男性教師は、某男子校ミッションスクールでの性教育の授業において、さだまさしの「恋愛症候群」を紹介するのだとか。何でも、最後は生徒(当然全員男子)と一緒に合唱するとのこと。

                   改めて歌詞を調べてみると、これは確かに優れものであります。「恋」というものを「性」と結びつけ、本質を見事に描いております。

                  歌詞はこちら。
                  http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND4873/index.html


                  youtubeでの画像はこちら、舞台セットも面白いです。
                   http://www.youtube.com/watch?v=iq-hYqkq68E


                   笑えるのは冒頭から「恋」を「一過性の発情症候群」と「ほとんど病気扱い」していることであります。その諸症状の描写はユーモラスであり、見事であります。しかし、一過性なので、必ず終わりが来るという真理が大切。この曲のポイントの一つでしょう。

                   リヒテンベルグという人が残した名言にこんなのがあります。

                   「結婚とは、熱病とは逆に、発熱で始まり悪寒で終わる。」( リヒテンベルグ)
                   
                   私はこれは間違いだと思います。発熱で始まり悪寒で終わるのは結婚でなく、恋愛でしょう。
                  結婚はたとえ、病気にたとえられる発熱で始まっても、決断と努力の積み上げがあれば、病気ではない健康と幸福で終わるものだと思うのですが・・・・。


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                  | | 聖書的恋愛論 | 16:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                  目指せ!赤いスイートピー男
                  0
                     金曜日はJ+Passion分科会で奉仕。午前の聖会では「私についてきなさい」とのイエス様のマタイへの語りかけのことばからのメッセージ。そのイントロで取り上げられたのが、松田聖子さんが歌った「赤いスイートピー」であります。歌詞は以下をご参照下さい。「ついてゆきたい」との歌詞から、「あなたにはついてゆきたいと願う誰かがいますか?」と問いかけ。

                    「赤いスイートピー」
                     http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35624

                     知り合った日から半年経つのに手も握らないこの男性、その気の弱さもあると理解しながらも、そこにあらわされた彼の誠実さ故に「”I will follow you”ついてゆきたい」と願う主人公の女性。

                     昨今は知り合って半年経つのに手も握らなければ、「草食系」と判定され、女性の方から迫ってしまうかも。あるいは、手も握らないような彼には「”I won't follow you”ついてゆけない」と見切りをつけられてしまうかも。かつては、純愛ソングとして支持を受けたこの歌詞も今では、草食系ラブソングや見切られ恋愛男ソングになってしまうのでしょうか?

                     しかし、この歌詞に表現されている彼の誠実さは、時代を超えて、普遍的に評価されるべきもの、そして、幸せな恋愛や結婚を願う女性は評価すべきだと思うのです。彼の誠実さは、彼女への態度に反映しています。半年交際しても手も握らないのは多分、気の弱さが3割、誠実さが7割だと勝手に想像します。

                     さらに彼の誠実さが本物であることは、それが彼の生き方自身に反映されていることから明らか。主人公の女性は、自分に対しての誠実なだけではなく、彼が他者にも自らの人生に対して誠実であることを既に見抜いていたのでしょう。この歌の最後は、「ついてゆきたい」と願う最終的な理由、そして彼の本当の魅力を伝えます。

                     それは「あなたの生き方が好き」という歌詞。

                     すごいぞ、この男!彼女に「あなたの生き方が好き」と言わせるんだから。「半年経っても彼女の手も握らないなんて男じゃねえよ!」という男性諸君よ!本物の男の中の男は、女に「あなたの生き方が好き」と言わせる男じゃないのか?「生き方に惚れさせる男」!これが最高にいい男なんじゃないんかな?

                     また、男性の生き方に惚れるような女性こそ、幸せな恋愛者であり、賢い伴侶選択をする女性なのでしょう。

                     そこでアピール。婚活男性たちよ、「目指せ、赤いスイートピー男」であります。自らの生き方に惚れさせる男であれ!

                     婚活女性たちよ!「目指せ、赤いスイートピー男ハンター!」であります。男の生き方に惚れる女、そうした男を射止める女であれ。
                     


                     
                    | | 聖書的恋愛論 | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                    中島美嘉「雪の華」に学ぶ「恋愛発・結婚愛着」(3)
                    0
                       このシリーズも今回で最終回であります。歌詞の全体はこちらをご参照ください。

                       http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B05168


                       今回、伝えたいのはこの歌詞に見る「結婚愛におけるパートナーシップ」であります。つまり「共に生きる」という面です。この歌詞で感心するのは、雪が降り積もっていく外的風景とリンクして、主人公の内的な心象風景の変化と成熟を描く巧みさです。

                       「今年最初の雪の華」→「雪の華が降り止むことも知らずに二人の街を染めていく」→「この街に降り積もってく真っ白な雪の華

                       そうした積雪量とリンクするように主人公の心情は変化します。

                      「いっしょにいたい」→「いつまでもそばにいるよ」→「これからも君とずっと

                       というように「願望」→「決意」→「約束」と発展しています。

                        恋愛者は愛する相手とずっとそばにいたいと願うもの。しかし、相手の現実と自分の自己中心から、一緒にいることが苦痛へと転じてしまいます。やがて恋愛関係は破綻や解消となります。この歌の主人公はそうした恋愛を何度か繰返してきたのでしょう。

                       しかし、今、彼の恋愛は結婚愛へと成熟しています。「甘えとか弱さ」ではなく「誰かのために何かをしたいと思えるのが、愛ということ」をと知ったのです。さらには自分の愛の世界における成熟だけでなく、相手との関係も成熟に向かうのです。それは「共に生きる」というパートナーシップです。曲の後半にはそうした歌詞が何度か登場します。

                       相手のことをただ好きでいっしょにいたいというだけではなく、2番の冒頭では「君とならどんなことで乗り越えていける気持ちになってる」と人生のパートナーとして相手を見ています。「どんな悲しいことも笑顔に」と相手の人生への責任を持ち、「君を失ったら星になって照らす」と相手のためにいのちをも捨てるパートナーシップを決意しているのです。

                       かつては、甘えや弱さを愛と勘違いしていた未熟な恋愛者が、いまや愛が何あり、何でないかを悟り、生涯を共にしたいと願うパートナーと出会い、真実な結婚愛を継続していくまでに成熟しているようです。もはや相手は「出会っては別れていく恋人の一人」ではなく「共に人生を生きるパートナー」となっています。

                       この曲が、高尚な印象を与え、他の曲とは異なる感動を与える大きな要素は、単なる恋愛を歌っているのではないことでしょう。説教がましくなく、道徳的な印象を与えず、平凡な主人公を通じて、恋愛を超えた結婚愛を、恋の発展形である真実な愛を描いているからでしょう。最後に、継続的なパートナーシップを予想させていることは、この曲をありきたりのラブソングではなく、美しい希望の歌にしているかのようです。

                       三回の連載でつくづく思うのですが、「恋愛発・結婚愛着」を降り積もる雪の情景とシンクロさせ描いたこの歌詞からは、学ぶべきことが多いのでは?
                      | | 聖書的恋愛論 | 08:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
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