命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「自分のサイズがわからぬ絶対者なき相対者」と「神の前での謙遜から『ありのまま』という固着への自動変換」
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     「舟の右側」にエッセーを連載しておられる深谷美枝先生が、FBにアップされた「自分のサイズがわからない」との記事に大いに教えられました。また、それに応答しての大坂太郎先生のコメントには、さらに深い示唆をいただきました。

    深谷先生のFBはこちら。該当記事は12月1日の正午ごろアップのものです。
    https://www.facebook.com/mie.fukaya.9?fref=nf


     深谷先生のご許可をいただき、以下に紹介します。(太字は私の編集です。)

    自分のサイズがわからない

     この国で悲劇的なのは、生きる力が弱い人たちが、自分には何の価値もないと思いこんでしまったり、少し力を持つ人たちが全能感をもって好き放題して隣人を虐げたり、人間のサイズが小さすぎたり大きすぎたり、サイズが全く決まらないことなんです。人と人との間だけでは、本当の自分のサイズはわからない。...

     どんなにダメでも弱くても価値があるんだと言ってくれる神がいて、はじめて、自分は小さくなりすぎなくていられる。どんなに勝っても力が付いたように感じても、それでいいのか?と問いかけてくれる神がいて、はじめて、傲慢になりすぎないでいられる。
    無宗教の悲劇って、底層部分ではこんなことになるんだと思います。


     以上が引用です。聖書の言葉を通じて神様からの語り掛けを受けるなら、人は、自分のサイズを心得て、大きすぎず、小さすぎもしない適正サイズで生きられるのでしょう。絶対者という物差しがあって、初めて人は自分のサイズを知るはず。

     しかし、神という絶対者との交わりを持たず、人間という相対的存在相互の交わりだけでは、自分のサイズを測り得ません。一気に全能感に満たされるか、逆に自己否定や無力感に打ちひしがれるかの両極端です。「100か0か」「神サイズかゼロサイズ」の二つに一つになりかねません。深谷先生のご指摘の通り、「唯一絶対者なる神」という観念の乏しい日本では、その二極化に歯止めが効きにくいのだろうと思うのです。

     絶対者との交わりを持ちえず、自分のサイズを測り間違えて、二極化してしまう方々は、失礼な表現でしょうが、「自分のサイズがわからぬ絶対者なき相対者」と言い表すことができるでしょう。その向かう先は、果てしない傲慢か、果てしない自己卑下となってしまうのでしょうか?飼う者のない羊のように弱り果てている方々をあわれまれたキリストのように、クリスチャンたる者、愛とあわれみの思いを持ちたいと願うのです。間違っても上から目線で、未信者を見下ろしてはならないでしょう。


     そのことをさらに確信させてくれたのが、この深谷先生の記事に対しての大坂太郎先生のコメントでした。まさにクリスチャンが上から目線で未信者を評価している場合ではありません。絶対者という物差しを持っているはずのクリスチャンも、神様からの語り掛けを聴き間違えるなら、すなわち、聖書の教理バランスを著しく欠くなら、全能感と無力感の両極端に向かいかねません。

     以下に大坂先生のコメントを紹介します。

     この傲慢がいけないのです。こいつの所為で、神の前に素直であるべき謙遜が、「ありのまま」という固着に置き換えられる。無宗教の悲劇ですが、福音が福音として語られないと、教会でも同じような事が起こってしまいますね。祈りが必要です。


     大坂先生が意図されたこととは違ってしまうかもしれませんが、このコメントの私なりの受けとり方を記してみます。

    傲慢」「神の前に素直であるべき謙遜」、「ありのままという固着」。

     この三つの言葉が、私の中で、結びつきました。そして、思ったのです。
    私たちの傲慢は、神の前での謙遜を「ありのまま」という固着へと自動変換させてしまうのだと。福音が福音として語られなければ、そうなるのだと。

     たとえば、「あなたは、ありのままで愛されている」という福音のみが語られ「あなたはキリストに似た者とされます」「心の一新によって自分を変えなさい」との福音が語られなければ、それは福音が福音として語られていないことに相当すると私は考えます。

     そして、その「福音ならざる福音」は、「あるがまま派キリスト教」となり、私たちの内なる高慢さに働きかけ、神の前での謙遜を「ありのまま」という固着へと自動変換させてしまうことがあるように観察します。つまり、「自分をあるがままで愛しておられる」という絶大な愛の恵みさえも、あるがままの自分に固着するために利用するのです。「あるがままで愛されている」という恵みをもって、成長も自己変革も聖化も拒否する自分を正当化するのです。

     このことは、いわば多数の政府高官から「あるがままの愛」だけを選び、独裁者にしたてようなことです。「あるがまま国家最高主席」彼は独裁体制を確立すると残りの高官であった「救われた後の歩みに関する教理」を粛清するのです。粛清を免れた高官も、この独裁者に従わざるを得ません。救われた後の歩みに関する教理はすべて「あるがままの愛」という最高真理に従属するものとして解釈され、扱われます。それどころか最高真理の支持材料として利用されるのです。

     もし、「救われた後の歩みに関する教理」が「あるがままの愛」と同等、あるいはそれより上位に位置づけようとすれば、それは、そのクリスチャンの独裁国家では、「造反」と見なされ、「粛清の対象」とされます。かくして、救われた後の歩みに関する教理は、すべて従属的に捻じ曲げられるか、聖書に書かれていても、無視されるのです。傲慢とは、粛清を連発する独裁国家に負けぬほどの独裁国家をクリスチャンの内に建て上げます


     神の前に素直で謙遜であれば、そうはなりません。いいえ、なりようがありません。「この自分があるがままで神に愛されている」という事実は、「愛して下さった方が願う自分に変えられたい」「愛して下る方が喜ぶ歩みがしたい」との応答となってゆきます。そして、福音が福音として語られているなら、そのクリスチャンはキリストに似た者とされることを願い、心の一新によって自分を変える努力をし続け、神の栄光を現す歩みへと前進することでしょう。

     そうです。傲慢こそが、本来あるべき愛への応答を破壊するのです。世界の中心の座に神でなく、自らを座らせ、絶対者の前であたかも自分が絶対者であるかのようにふるまう姿勢が、クリスチャン本来の歩みを正反対へと歪めます。そして、福音が福音と語られないとその傲慢を放置してしまうのです。それどころか、福音ならざる福音は、その傲慢を正当化し、増長させてかねないのです。信仰者の内に「あるがまま」という固着による独裁国家を築く助けとさえなってしまいます。

     あるがままで愛されている自分を全面肯定し、成長と自己変革と聖化を拒否し、自分のなりたい自分を目指し、自己願望の実現を通じて自分の栄光を現すことを目標として歩むのです。自分をあるがままで愛してくださる神をそのためのサポーター、スポンサーとして利用するのです。神様は自分を今のままでも愛し続けてくれるから、ずっと祝福・応援してもらえると信じているのです。

     これはクリスチャンが完全に自分のサイズを見失い絶対者気分になり、全能感に浸っている姿です。そうした聖書とは正反対の信仰理解に人を導き、正反対の歩みをさせるのが、私たちの内なる傲慢なのでしょう。


     この国では、唯一絶対者という観念を持ちえぬ人々が、自分サイズがわからず、愚かな全能感か悲惨な無力感のいずれかに陥っています。しかし、福音が福音として語られなければ、クリスチャンたちは、神の前での謙遜「ありのまま」という固着に自動変換して、信仰生活を送ります。まさにクリスチャンが自分のサイズを見誤っている姿です。もしかすると、今日の日本のキリスト教会においては、これが例外的な姿ではなくなってきているのかもしれません。

     ここに記したことが大坂先生の意図を正しく受け止めての考察かどうかは自信がありません。しかし、深谷先生の記事に対してこのコメントをされた大坂先生の心には、神学面での大きな危機感がおありだったのだろうと邪推しています。

     
      「自分のサイズがわからぬ絶対者なき相対者」「神の前での謙遜から『ありのまま』という固着への自動変換」
     
     日本の現状を憂える深谷先生の愛の思い、日本の教会のある面について危機を覚えておられるであろう大坂先生の愛の思いを、想像しながら、それらの思いへの共感をもって、また、自戒も込めてこの記事をアップします。拙い記事が読者の皆様の一助になれば、幸いです。

    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 13:40 | - | - | - |
    このブログ記事には、福音派クリスチャンとして、自らの歩みを再検討させられました。
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       これはすごい記事だと思いました。韓国の教会についての書物の書評なのに日本の教会の本質をついています。そして、私自身、これまでの歩みを問われました。教えの風に吹かれるのを卒業したつもりですが、自分を見つめ直さずにはいられませんでした。また、今、持っている問題意識や葛藤が整理され、一定の回答もいただいたような気がします。

       戦後の福音派全体の歩みが客観視でき、自己批判能力のある福音派クリスチャンはきっと、この記事の重みがお分かりになるでしょう。言及されているメガチャーチや弟子訓練、そして大衆伝道集会の是非などが問題ではないのです。他者批判や他者への評価がこの記事の趣旨ではありません。もっと本質的に問われるべきことをこの記事は示しています。いいえ、本当に問われるのは、福音派読者自身でしょう。失礼なお勧めだとは百も承知ですが、とりわけ福音派教職者間で共に読み、意見交換をすべき記事だと私は思います。

       これ以上書くことは無用でしょう。とにかく読んでいただきたいのです。ここには今、必要な発信があると思うのです。そのブログ記事とそれに応答して書かれた記事の二つをご紹介します。


      ブログ「どこかに泉が湧くように」
      金鎮虎著/香山洋人訳『市民K、教会を出る』(2015:新教出版社) (11/21)


      ブログ「一キリスト者からのメッセージ」

      良い本の良い書評のご紹介『市民K、教会を出る』(2015:新教出版社) (11/23)
      | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:44 | - | - | - |
      教会の「除名」は、暴力団なら「破門」か「絶縁」か?
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         山口組の分裂が連日、報道されております。テレビ報道で知って興味深く思ったのは、「破門」と「絶縁」の違いです。何でも「破門」は破門は復帰可能な処分で、「絶縁」は、不可能な処分なのだとか。処分それぞれの違いや現実に生ずる諸問題などは、こちらを読んで大いに納得しました。

        「暴力団ミニ講座 13破門、絶縁、除名、除籍」
        http://www.web-sanin.co.jp/gov/boutsui/mini13.htm

         これによれば、破門は復帰可能であるばかりか、場合によっては期限付きで謹慎に近いケースもあったり、単なるところ払いのような例もあるようです。一方の「絶縁」は、復帰不可能の処分で、その処分は、他の組織にも知らさせるので、他の暴力団にも所属できないとのこと。堅気になるしかないのですが、報復などもあり、正常な生活はできず野垂れ死にの可能性まであるようです。こうした処分が個人でなく、上位組織である大きな組から、傘下の組に対して下されたら、抗争に発展するのも、この講座を読むと良く理解できます。

         また、この講座によれば、自分から脚を洗う「除籍」があるとのこと。当然、親分の許可が必要で、そのために指を自ら切断し、差し出すのは、よく知られていることでしょう。これを読んで、改めて、ミッションバラバのメンバーなどは、除籍だったのか?絶縁だったのか?を考えさせられます。


         そこで、考えてみたことがあります。それはプロテスタント教会における「除名」は、暴力団における「破門」と「絶縁」のどちらに相当するのか?ということ。不謹慎なのか、神学的で真面目なのか不明の問い掛けであります。

         プロテスタントには「破門」という言葉はないようです。そもそもルターが破門されているからでしょうか?「除名」という言葉が用いられています。「破門」はやはりローマカトリックの教会法に定められているとのこと。

         wikipediaの「破門」は読んでみて面白過ぎました。宗教から始まり、伝統芸能暴力団、さらには、秋元プロデュースのアイドルグループまで扱っています。

        wikipediaの「破門」
        https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E9%96%80


         カトリックの「破門」は以下の聖書箇所が根拠となっているそうです。マタイ18:15-19、汽灰螢鵐5:3-6、16:22、ガラテヤ1:8,9、汽謄皀1:20、テトス3:10。神学音痴の私は、よく知らないのですが、多分、プロテスタントの除名も、聖書的根拠となる箇所については、カトリックとほぼ同様かと予想します。

         この中でも、代表的なのは、マタイ18章でしょう。最終的に教会の言うことも聞き入れないなら「異邦人か取税人のように扱う」ように命じられています。この指針において大切なことは、目的や方向性でしょう。最初の段階について「もし、聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」とあるように、戒めも最終的な除名も、目的は罪を認め悔い改めて回復することであり、方向性も排除ではなく、一致なのです。最終手段とも言える「除名」は、決して「村八分」や「永久追放」ではなく、罪を認め、真実に悔い改め、悔い改めの実を結び、交わりに回復することを願ってのものなのです。

         聖書的根拠の中には、パウロが「交際禁止」「教会出入り禁止」の指導をしている記述があります。しかし、パウロは別の個所でそれが、回復のためであることを記しています。競謄汽蹈縫隠魁В隠粥■隠気妊僖Ε蹐命じた交際禁止は対象人物が「恥じ入るため」であり、「敵と見なさず兄弟として戒める」ことでした。競灰螢鵐硲押В機檻犬任蓮▲僖Ε蹐処罰後の赦しと励ましを命じ、対象人物への愛の確認を勧めています。これらから、今日、多くの教会が規則中に定めている戒規やその中の除名も、回復を願っての愛による対処であることが分かります。

         そう考えますと、プロテスタント教会における「除名」は、復帰を目指すことから、暴力団における「破門」の方に相当すると考えるのが妥当でしょう。

         もちろん、迷惑行為や犯罪行為などで、被害者が教会にいる場合には、悔い改めの実を結んでも、同じ教会に戻ることが適切でない場合もあるでしょう。その場合も、公同の教会への復帰は認められ、他教会や別団体所属の教会へ復帰することが聖書が示すみこころだろうと思います。

         「教会戒規が事実上、機能しない」「信徒を戒めることができなくなっている」などの声を時にお聞きします。そのために教会から聖さと義しさが失われ、罪や不正が放置されているとしたら、それはどんなに神様が悲しまれることでしょう。信徒が指導者や役員会による叱責や戒めを単純に「愛と赦しに反する行為」としか、評価できないとしたら、それは、全く聖書的ではありません。悲しい程、未熟な信仰理解です。聖書が、戒めどころか、除名さえも「敵でなく兄弟」と見なし、「排除でなく回復」を目的とし、「憎しみでなく愛による」対処として記していることを覚えたいものです。

         同時に戒める側にも、「兄弟か?回復か?愛か?」が問われるのは当然のことです。牧師などの指導者が、自分に異を唱える相手と見なし、排除を目的として、憎しみをもって、教会として戒め、除名などをするなら、その指導者自身は、どんなに大きな裁きをやがての日に、あるいはこの世において受けることでしょう。個人感情や利害から、権威の下にいる者に対して除名や排除をするまでの権威行使をするなどは、まさに神から委託された権威の誤用乱用に他なりません。指導的立場にある者がいかに、自らがみことばに立って、神の前に自らの内側を問いながら、信徒らを戒めなくてはならないか、その厳粛さを覚えます。

         初代教会も現代の日本の教会も、いつの時代も教会は「戒めなき愛」と「愛なき戒め」の両極端に逸脱しやすいものです。指導者は常に「戒めることなき愛ならざる愛の僕」か「愛なく戒める専制君主」となる危険性を常に身に帯びています。その結果、教会はこれまた「聖さと義しさの喪失」か「神を畏れぬ権威主義」のいずれかの状態に陥りがちなものです。


         不謹慎な対比かもしれませんが、暴力団の分裂問題を機会として、教会の除名や戒めを考えてみました。「破門」と「絶縁」の違いから、教会の除名の意味を聖書から探ってみました。厳粛極まりないことですが、教会は、とりわけ指導者は、「戒めるべきは、愛をもって戒めてきたか?」と「愛なくして戒めてこなかったか」の両者を常に神の前に問われるのでしょう。

         除名さえ愛によって行使し、除名までして義を願うという聖書が描く過激とも言えるありようを、それぞれが教会の中で、追求、徹底できたらと願うばかりです。また、現実に問題が起こった時、この拙い記事が指針や参考として、少しでも用いていただければ、感謝なことです。
        | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 11:20 | - | - | - |
        「美談ならざる純愛」と「偉人伝ならざる生涯」〜ホーキング夫妻も聖書も
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           この主日は、車で30分の教会で奉仕でした。移動中に聴いていたラジオ番組では、アカデミー賞候補の「彼女と博士のセオリー」を紹介していました。これは、ホーキング博士夫妻の歩みを描いた映画で、ラジオのパーソナリティーは主演の二人ともが、主演男優賞と女優賞を絶対獲得すると大胆予想をしていました。映画にはあまり興味がなく、日本では未公開なので、こうした映画の存在を初めて知りました。

          wikipediaでの紹介はこちら
          wikipedia『博士と彼女のセオリー』(原題:The Theory of Everything

          youtubeによる映画の予告編はこちら。
          映画『博士と彼女のセオリー』予告編

          ホーキング博士の業績や生涯はこちら。
          wikipedeia「スティーヴン・ホーキング」

           ラジオで聞いたあらすじを書きますので、ネタバレの困る方は、読み飛ばして下さいね。名門ケンブリッジ大学のダンスパーティーで出会った二人は恋に落ちますが、結婚を前にホーキングの筋萎縮性側索硬化症ALS)が判明し、余命二年と宣告されます。それでも、ヒロインは、親の反対を押し切って結婚します。年齢と共に筋力が衰え、瞬きや呼吸もできなくなるのですが、性的機能は健康で、3人のお子さんに恵まれます。

           ホーキング博士の書物がベストセラーとなり一般社会でも広く認知されてきた頃に、ヒロインは、子育てと夫の世話などで、限界となります。夫を看護婦に任せて、気晴らしに合唱団に入ります。そこで、出会った指導者男性(妻を失い独身)と恋愛関係になります。ホーキング博士も看護婦と恋愛関係となります。結婚26年目に離婚し、それぞれの恋人と再婚。やがて、博士が英国女王から表彰されることとなり、その際には、博士の元妻であるヒロインと子どもたちも来場し、そこで、元夫婦であった二人は、お互いが幸福であることを確認するというストーリーだそうです。


           ラジオパーソナリティーが絶賛していたのは、主演男優の演技とこの二人の愛と人生の描き方。ハッピーエンドではないことが、しみじみとした深い味わいがあるというのです。「純愛だけど美談でなく、伝記だけど偉人伝でないところがいい」という内容の発言をしていました。

           そこで今日のタイトルは。

          「美談にならざる純愛」と「偉人伝にならざる生涯」〜ホーキング夫妻も聖書も

          純愛で始まったのに、美談で終わらない愛

          偉大なようで、最終的には偉人伝が書けない生涯


           聖書もそんなのばっかりですね。

          祝福の基として選ばれたの家系に続いた偏愛と家族離散

          信仰でスタートした王たちの晩年の逸脱や後継者争い

          モーセでさえ、忍耐しきれずマジ切れし、エリヤでさえ、恐れに支配され、ヘタレました。

          聖霊に満たされた後の弟子たちも、稀に真理から逸脱し、激しく対立しました。

          弟子たちは、嫌になっても離婚できないとしたら、結婚しない方がましだとまで言いました。


           そう考えますと神様は私たちの「美談ならざる純愛」も「偉人伝ならざる生涯」をも用いて、御業を進めておられることを思います。もちろん、クリスチャンたる者、キリストの似姿に変えられるべきですから、そこを目指すべきでしょう。だからといって、そのプロセスにある「美談ならざる純愛」や「偉人伝ならざる生涯」をもって、信仰者の歩みを全否定をしたり、著しくマイナス評価してはならないでしょう。

           そう考えますと愛が第一に「寛容」なのも納得しますし、自分が測られては困る基準で他者を裁くべきでないという教えも理に適っていますね。ましてや、牧師やリーダーにモーセやエリヤ、ダビデ以上のとんでもない要求や過剰な期待をしていはなりませんし、それが満たされないからといって失望したり、責めたりするのは、およそ聖書的ではないでしょう。

          純愛だけど美談でなく、伝記だけど偉人伝でないところがいい」というのは、聖書も同様かと思うのです。聖書に登場する偉大な信仰者たちの多くは、そんな未完成な愛で神と人を愛し、そんな欠けだらけの人生を送ってきたのです。それに対して、選ばれた限りは、見捨てることなく、その愛と生涯を用いて下さった神様の真実さを聖書は記しているのでしょう。

           
           映画「彼女と博士のセオリー」の描く、純愛と二人の生涯は、「聖書」と共通項があるように思ってこんなことを考えました。拙い記事でしょうが、「聖書をどう読むか?」に一つの視点を加えることができれば感謝です。

           
          | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:00 | - | - | - |
          若者ミクス=若者リスク×若者コスト
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               昨日、たまたま訪れた場所で、国会中継で放映されていました。ちょうど民主党の前原議員が、安倍政権の経済政策を批判して、日銀総裁に質問をしているところでした。私の目は、前原議員の手にあったパネルに注目。そこにはこう記されていました。

            アベノミクス=アベノリスク×アベノコスト

             このフレーズはキャッチ―で感心しました。視聴者に言葉という音声だけでなく、視覚と単純化した数式で主張を伝えようという手法は有効だなと思ったのです。前原議員の批判の是非はともかく、効果の高い経済政策には、リスクとコストはつきものでありましょう。多分、リスク自体の存在よりも、リスクを国民に知らせないことを強く批判していたように聞こえました。


             「効果の高い政策には、リスクとコストはつきもの」。そのことは教会も同様でしょう。特に信仰継承、若者の救いと成長については、それが言えると思うのです。そこで、思いついたフレーズがこちら!

            「若者ミクス=若者リスク×若者コスト」


              信仰継承がなされ、若者がいる教会であるため、新たに若者が来るために、集っている若者が成長するために必要なのは、「若者リスク」と「若者コスト」であります。言い方を変えれば、「若者リスク」と「若者コスト」の必要性を自覚し、それを負担する覚悟なしに、信仰継承と若者の救いと成長を願うのは現実的ではないとということです。


             では、「若者リスク」とは何でしょう。若者が教会に集うことには、また、それを願う中には多くのリスクが伴います。若者は、人間的に未熟ですから、問題ある言動で、教会や近隣や関係者に迷惑をかけます。情緒的にも不安定ですから、信仰の浮き沈みが激しく、指導牧会が大変です。上の世代から見れば、クリスチャンらしからぬ、ファッション、言葉使い、礼拝態度などは、ベテランにはかなり不快です。

             教会全体を動かす発言力があるのは、ベテラン勢です。ベテランから青年層への不満や苦情があれば、青年層の側に立ち、擁護をして忍耐をお願いしていくのは、なかなかきついことです。牧師であれ、役員であれ、若者を大切にしようとすれば、時にベテラン層と対立関係にならざるを得ません。これはリスクもストレスも高いです。

             また、「若者がいない方が教会生活は快適」との生理的体感と「若者がいないのは危機的問題」との理性的判断との間で葛藤するベテランクリスチャンも少なくなのでは?私自身は、「ベテランにとっての快適な教会生活」と「若者の救いと成長」の両立は不可能だと思っています。二部礼拝などの方法論で、一定の解決はあるでしょうが、むしろ、ベテランクリスチャンに求められるのは、次世代のために一定のリスクを負える成熟度かと思うのです。


             もう一つは「若者コスト」です。これはずばりお金の問題です。信仰継承と若者の救いと成長のために、どれだけお金をかけるかの話です。私は、青年宣教を教会の中心的使命として、若者中心で20人から30人が扱っている教会をいくつか存じ上げています。それらの教会の多くは、牧師が副業を持っているか、牧師夫人がフルタイムで働いています。若者が教会の中心ですと、献金額が少なく牧師夫妻が伝道牧会に専念できない現状があります。

             また、団体の規約などで牧師夫妻は共に召しに専念するため、働くことが許可されない場合があります。もちろん、それは尊重されるべきでしょう。しかし、牧師夫妻のどちらとも働けないことから、牧師給が教会財政を大きく圧迫し、若者や子どものための財政が削られるとしたら、それは、教会の将来にとって危機的です。その場合は、団体に属する教会なら、団体として青年や子どものための補助金制度などが必要でしょう。実際にそうしたシステムを持つ団体は多いようにお見受けします。

             
             どうも、若者リスクと若者コストを負うことが困難な体質が教会にはすくなからずあるように思います。時には、そのリスクとコストを負わない選択をしてきた結果としての極端な教会の少子高齢化を嘆いている方々に出会います。「ご自分がリスクとコストを負わない選択をしてこられて、少子高齢化の責任を牧師や団体に問われてもねー」とベテランクリスチャンからお聞きすることもあります。きっと、「選択したという自覚」や「選択責任」という観念自体がないのでしょう。

             
             以前、ある団体の全国青年キャンプのような集会でご奉仕をさせていただきました。その時に、一人の信徒の方が青年集会のために100万円を献げて下さったとの報告がされました。厳しい経済状態と労働環境の中、青年たちは交通費を全額負担して全国から集まることは極めて困難です。お金があれば、子ども、中高生、青年の救いと成長に大きく貢献するプログラムは可能なのでしょう。

             このことは青年たちにとっては、現実的な励ましであり、この献金者の思いは、青年たちに大きな希望を与えたことでしょう。自分の快適な信仰生活より次世代を優先し、大きな犠牲を払って下さるベテランクリスチャンの存在が、教会の将来を大きく左右することを実感させられました。

            「リスクとコストを負う選択ができる成熟したベテランクリスチャンの存在」と「そのような信徒を育てる牧会や教育」の両者かなーと思います。言うのは簡単ですが、実行はめちゃめちゃ大変ですね。


            「若者ミクス=若者リスク×若者コスト」


             日本の教会はこうしたリスクとコストを回避した結果、少子高齢化を招いたのでしょうか?もし、それも要因の一つであるなら、本当の問題は「リスクとコストを回避したこと」ではなく、「リスクとコストの必要性を知らせなかったこと」、あるいは「その必要性を根気よく伝えて実行へと導く努力を怠ったこと」にあるのかもしれません。それらは信仰リーダーが問われることでしょう。逆に、そうした努力をしてきた信仰リーダーの声に耳を傾け受け止めようとしなかった側の責任も問われてしまうことでしょう。

             教会に集っている若者たちの多くは、未熟なように見えても、ここに記してきたことを直感的、本能的に感じ取っています。言語化して整理して伝えられないだけです。その中で、口にする教会の若者軽視の指摘や批判などは、必ずしも自己中心で肉的で未熟なものとは言い切れません。時には謙虚に受け止めるべき重大な言葉であることも。また、教会を去る前の最後通告である場合もあります。私自身も含めて、ベテランクリスチャンはどれほど、教会に集う若者たちの深い思いや葛藤を理解できているのでしょう?正論で止めることなく、心を込めて傾聴しただろうかと思い返します。

              こうした課題は一教会だけでの取り組みでは、克服が困難だからでしょう。近年は多くの団体で全国規模の中高生キャンプや青年集会が持たれています。私自身、その内容の充実ぶりに触れてきましたし、それが着実に実を結んでいるように見聞きしています。とりわけ、現場で教職者に見守られながら、若者自身が企画実行し、やがて、参加者がリーダーとなっていく姿を見ていると、その団体の将来は決して暗くないと確信します。若者を真実に愛し理解した上で、リスクとコストを逃げずに注ぐ労は、必ず報われることを覚えたいです。

             一度、「リスクとコスト」という視点から、教会の少子高齢化や信仰継承問題を考えてみてはどうでしょう?
            | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 20:30 | - | - | - |
            2・11集会のお土産は「いつものことを本気で!」
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               昨日の2・11集会において、私が受け止めた「結論とアピール」は、「危機意識の共有」でも、「政治的行動への呼びかけ」でも、ましてや「政権批判」でもありませんでした。

               朝岡勝先生が結論のようにしておっしゃったアピールの言葉はこれでした。

              いつものことを本気でやりましょう

               講演のタイトルは「告白に生きる教会を目指して」ですから、いつもしている信仰告白の歩みを、こうした時代だからこそ、いよいよ本気でしましょうということです。今の時代(現政権時)の認識を語り、「信仰告白の事態」を説明して下さって、ドイツ告白教会の闘争とバルメン宣言に学んでいくという流れだったのですが、方向性は、テーマの通り「告白に生きる教会を目指して」であり、結論としてのアピールは、「いつものことを本気でやりましょう」だったのです。

               戦闘的でないし、威勢もよくないし、実に地道なこの方向性と結論は、個人的には、本当に腑に落ちました。


               朝岡先生は質疑応答の中で、こう言われました。
              「どこかで借りてきた言葉を、キリスト教の包み紙に包んで、提供していないか?を私たちは、問わなくてはならない」

               私が2・11集会など社会や政治に関連する集会に出席して、違和感や失望を覚えたりするのは、まさに、このことだと思ったのです。聖書の言葉ではなく、反体制や左翼の言葉を借りて、それを「信仰の自由の侵害」「教会が国家を監視」などの言葉でキリスト教的に装った上で提供して、聴く者にあたかもそれが聖書的な価値観であるかのように思わせる要素がある時に、語られている内容には同意できても、「この人たちとは同じ思いを共有でできない」と感じることがありました。

               「信教の自由」を考える場が、クリスチャンであることとは無関係にもっている反権力感情やクリスチャンになる前から持っていた左傾心情が、聖書のお墨付きをいただいて満たされるような場になってはならないと常々思っていたので、朝岡先生のこの言葉には、激しく同意をしました。

               表面上は同じような主張や見解を持っていても、その本質が全くことなる二つの価値観が、あるように感じています。一つは上に指摘したようなあり方です。それは言い換えるなら、「左翼思想のキリスト教的焼き直し」であり、その特徴は、対話不能、思考停止、ステレオタイプで、変動する事態に柔軟に対処できないことです。一昨日の記事で示したのは、その典型例です。

               もう一つは、結果的に到達した主張や見解が「反日左翼的」と誤解され非難されるようなものでも、真摯に聖書の言葉で考えて、歴史的考察や現状認識に立って、積み上げてきたに価値観です。それは、唯一ではないでしょうが、聖書的な本物だと私は思うのです。逆に言えば、朝岡先生が問うべきと示されたことを、問わないまま、「同じだよね」と一致してるつもりになっているとしたら、それは本物だろうか?と疑問に感じます。


               昨日の講演では、不勉強な私は学ぶことばかりでした。告白教会の闘争も、「闘争」という言葉がイメージさせるような政治的で勇ましいものではなく、むしろ、生々しい生活面の葛藤を伴うことで、同時に教会論的であり、説教や信仰のありようが問われる戦いであったことを知りました。

               「信仰の戦いとは、教会を二の次にして、デモに参加するようなことではなく、いつもしている告白の歩みを、いつも以上に真剣にすること」という趣旨のことを語って下さいました。

               日常から、みことばに生き、キリストを主と告白する歩みをしていてこそ、信仰の自由が侵害されるいざという時に、信仰告白に生き抜く戦いが可能であることを教えられました。日ごろしていなければ、いざという時にできないというのは、当たり前の理屈ですし、聖書も日ごろの歩みを命じているはずです。


               今日の政治的状況を考察し、告白教会とバルメン宣言に学びながらも、目指しているのは「告白に生きる教会」であり、問われたのは「私たちの日常的な信仰のありよう」でした。「これって信教の自由を考える際の本道だよなー」とうれしい思いがしました。「政権や世の流れを批判し、自分たちの正しさを確認し、戦おうと呼びかける」ような「他者批判自己義認系決起集会」にならなかったので、帰りの電車では、充実感でいっぱいでした。

               詳細な講演の内容は記しません。しかし、こうした講演の概要と方向性だったので、「いつものことを本気でやりましょう」という平易な言葉が、重く、説得力があり、明日からの歩みを変えてくれるものとして、心のどん底に届きました。かくして、今年の2・11集会のお土産は個人的には「いつものことを本気で!」となった次第です。

               例年の何倍もの人数が集まりましたが、唯一残念に思ったのは若い世代の少なさです。参加者の平均年齢は60歳弱だったのでは?今回は、青年層にも支持される講師であったと思うのですが、40歳未満は1割程度だったかと思います。次世代には触れてほしい講演内容でしたので、これは今後の課題でしょう。

               以上、昨日の2・11集会、感謝のレポートでした!
              | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 17:22 | - | - | - |
              引きこもりの子どもを持つ家庭を孤立させない教会の交わりを!
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                 今日の午後は、情報番組の「ミヤネヤ」を視聴。昨日、記事に取り上げた和歌山小5刺殺事件を取り上げておりました。容疑者の家庭環境にも触れる中で、あるコメンテーターがこんな趣旨の発言を。

                 「欧米では、猟奇的殺人を犯す若者の多くは、中流以上の白人家庭で育っている」

                 なるほどと思いました。差別や貧困あるいは劣悪な家庭環境があれば、その怒りや憎悪はもっとストレートで攻撃的な犯罪となって現れることでしょう。日本のように人種や階級の違いが表面に現れにくい社会おいては、欧米の「中流以上の白人家庭」は、「大卒以上のホワイトカラー」でいわゆるエリートや地元の名士がその代表となるでしょう。

                 そして、家庭背景を扱うに際して、ゲストコメンテーターとして、碓井真史先生が登場。先生はクリスチャンであり、アッセンブリー教団の信徒であります。専門家ならではの解説に、教えられることばかりでしたが、最も大切なポイントとして私の心に残ったのは、こうした趣旨の発言でした。


                 「子どもが引きこもるとそれをと思い、家族全体で隠そうとする、すると家族全体が引きこもりのようになる。近隣との関係が希薄になってゆき、家族が孤立してしまうのが問題」

                 家族が孤立してしまえば、引きこもった子どもを回復に向けるための地域や知人たちからの支援や協力も得られなくなってしまいます。引きこもりとなった子どもが社会との接点を持つ仲介者は家族であり、回復に向かうための土台となる共同体も家庭なのですから、家庭の地域社会からの孤立はいよいよ必要な対処と回復を困難とするわけです。


                 次に、今回の容疑者のように、「事前に異常な言動が見られた場合、何ができるか?」と話しになりました。日本では、人権保護の立場から、実際に事件を起こさない限り、警察なども介入できないとのコメントを受け、宮根さんが「アメリカではどうか?」とコメンテーターのパックンにふります。アメリカではそのような人物は日本よりずっと多いことを指摘した後、こんな内容のことを語ったのです。

                 「でも、アメリカは教会があり、心理カウンセラーが発達している」

                 それを受けて、あるコメンテーターが「アメリカ社会には、受け止めるコミュニティーや医療体制があるが、日本は、まだまた」というようなコメントでフォローをしていました。

                 アメリカ社会では キリスト教会の交わりが、深刻な課題を抱える子どもを持つ家族を受け止め、孤立させない機能を果たしているのでしょう。このパックの発言には、日本の教会の歴史の浅さ、非力さ、あるいは福音理解の狭さなど痛感させられました。この課題を我が事として受け止めずにはおられず、心を痛めました。

                 
                 ただ、日本の教会でも、子どもの引きこもりをきっかけに教会の交わりに加わった方には、時々お会いします。引きこもりの子どもを持ち苦悩しながらも、教会の交わりで受け止められ支えられているクリスチャンの母親たちには、本当によくお会いします。


                 ひきこもりの子どもを持つ家庭の現実をご存知の碓井先生は、こんな発言をしておられました。

                「引きこもりとなっても四年も経つのに、家族は、何もしなかったのか?と思われるでしょうが、親にとっては4年はあっと言う間なのです。」

                 宮根さんはそれをフォローして、「親御さんは、きっと、今年こそは変わってくれると思いつつ、何年も過ぎてしまうのでしょうね。」と親の心情を想像していました。


                 現代社会に生きる限りは、クリスチャンたるもの、こうした理解は必須だと思います。せめて、分からないなら、黙っているか判断を保留すればいいのです。しかし、残念ながら、よく知りもしないで、「親の責任」とか「親の信仰が悪いから」とか、決めつけてしまうことは、教会でも少なくはありません。中には「どうしてよく知りもしないことを信仰と結び付けて断定的に評価して人を傷つけるのか?!」と腹立たしく思うことも。そういう教会の交わりですと、子どもの不登校ひきこもり、思春期になった子どもの教会離れや放蕩などで、親たちまでもが、教会に居場所をうしない離れざるを得なくなります。


                 ある牧師が悲しんでこんなお話しをして下さいました。長年忠実な礼拝出席をしてきた信徒が急に教会に来なくなりました。心配して電話で、理由を尋ねるとなかなか本音を言いません。しかし、ようやく本当の理由が判明します。実は隠してきたのですが、息子さんがずっと引きこもりだったのです。だから恥ずかくて、申し訳なくて教会に行けないとおっしゃるのです。

                 「そうした課題があるなら、なおさら来て欲しい、みんなで受け止め、支えてゆきたい」と愛をもって語りかけても、「自分のような者は教会に行ってはならない」の一点張りだとのこと。本当に悲しいです。


                 また、ある牧師が、10年以上にわたる息子さんの引きこもりを、ずっと信徒にも同労者にも話さないでいたという事例をお聞きしたことがあります。ある時、それを打ち明けられた方は「なぜ、もっと早くおっしゃってくださらなかったのですか?」と大変悲しまれたそうです。

                 必ずしも牧師夫妻がこのことを恥と判断されて隠されてきたとは限りません。残念ながら、すべての信徒が、牧師家庭の課題を理解し、受け止め、祈り支えてくれるわけではありません。先に記したようにそのことをもって「親である牧師夫妻の責任」「牧師夫妻の信仰問題」と判断して、牧師を非難する信徒がいると予想されることもあります。そうなると、どこから情報が漏れるか分かりませんから、もう、誰にも打ち明けることができなくなってしまいます。

                 碓井先生が指摘するような「引きこもりの子どもを持つ家庭の孤立」が皮肉にも、教会の中で起こりかねないのが、現実です。その両親が信徒であれ、牧師であれ、起こりかねないのです。パックンがコメントしたように、アメリカ社会では、キリスト教会がそれを受け止めるコミュニティーとなっているにもからわらずです。


                 
                 このことの背景には「祝福された家庭=問題や破たんのない家庭」という異教的な価値観が日本のクリスチャンの中に根強く残っているからだと思います。そして、どんなに聖書を読んでも、福音の光がそこに当てることなく、価値転換をしないまま歩んでいるからだと考えるのです。

                 そのことは以前にも「家庭の破れ口、福音の光差し込む窓口」などのシリーズで記していますので、ご参照下さい。

                家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(1)〜品川師に学ぶ

                家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(2)〜聖書の信仰者家庭に学ぶ

                家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(3)〜聖書の「祝福」に学ぶ

                家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(4)〜イエス家に学ぶ

                家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(5)〜現実の信仰者家庭から学ぶ

                家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(6)〜ファミリーフォーラム最新号に学ぶ



                 今日は、「暴論」「極論」とのご批判も覚悟で、はっきり書きます。

                 両親がそろっており、子どもは五体満足で毎日、元気に学校に登校し、順調に社会参加を果たしている家庭ばかりが集う教会!

                 果たして、それが祝福された教会の姿でしょうか?いいえ、それは、あまり、キリストの体らしくない教会と言わざるを得ません。なぜなら汽灰螢鵐硲隠押В横はこう記しているからです。

                「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」

                 聖書によれば、教会には弱い人が「いてもいい」ではなく、「いた方がいい」でもなく「いなくてはならない」のです。ですから、教会に集う家庭の中に、片親家庭、離婚家庭はもちろんのこと、機能不全家庭やお子さんに深刻な課題を抱える家庭がいることは、「教会らしいこと」なのです。それは「神様が喜ばれる教会の構成員バランス」なのです。

                 むしろ、一定の規模の教会でありながら、そうした家庭がいないなら、課題かもしれないと考えるべきでしょう。それは「いない」のではなく、「いられなくなった」のかもしれませんから。あるいは「最初から入れない雰囲気」を醸し出し、「疎外感」を与えている教会の交わりだからかもしれないからです。そのことは、教会に「なくてはならないものが欠けていること」を意味している可能性があるからです。


                 教会に集う片親家庭、離婚家庭、機能不全家庭、また、不登校やひきこもりなどお子さんに深刻な課題を抱える家庭の皆さん!もし、皆さんが「自分のような者が教会にいていいのだろうか?証しにならないのでは?」とお考えなら、即座に悔い改めて下さい。それは、どう考えても聖書の言葉に反する判断だからです。

                 そして、聖書的な考え方に改めて、こう思っていただきたいのです。

                「自分のは、この教会にとって、かえっていなくてはならないのだ」と。

                「神様が喜ばれる教会の構成員であるためには、私は必要とされているのだ」と。

                「私が教会に集っている、そのことだけで、神の栄光を表わしているのだ」と。



                 「祝福された家庭=問題や破たんのない家庭」ではありません。

                どうか、そんな非聖書的な価値観で、大切な兄弟姉妹や牧師夫妻の家庭を評価しないで下さい。

                異教的な価値観に基づいた言葉で、キリストの体を引き裂かないで下さい!

                ひきこもりの子どもを抱える方が、それを言い出せないような教会の交わりであってはなりません。


                 碓井先生やパックン、そして宮根さんの言葉を聞きながら、そのことを切に願わされています。

                 家庭の破れ口こそが、福音の光差し込む窓口なのです。聖書的な価値転換を死ていただき、どこかの家庭のお子さんが引きこもりになった時、安心してそのことを打ち明けられる愛の交わりを作るお互いでありたいと願うのです。
                | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 17:39 | - | - | - |
                和歌山小5刺殺事件容疑者は、現代版「祭司エリの息子」なのか?
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                   高学歴エリート、地元の名士、ある分野のリーダーである父親を持つ息子が凶悪犯罪に至るというケースはこれまでも繰り返されてきました。昨日、逮捕された容疑者の父親も大学教授で仏教の僧侶であることが既に判明してるようです。世間の一部は、家庭事情も容疑者の特殊事情なども考慮せず、「エリート家庭の闇」とかレッテルを貼って、「僧侶が自分の息子も導けないのか」などのバッシングをするのでしょう。

                   「宗教的リーダーを父に持つ息子」には、他の家庭にはない様々な葛藤や困難があることでしょう。聖書の代表格は、祭司エリの息子たちです。サムエル記第一の2章12節は、彼らについて「さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、」と書き出しています。息子たちのよこしまさは「食欲と性欲における貪欲」に現れました。

                   12節以下を読むなら、まずは食欲です。息子たちはささげものの定めを破って、神にささげるべき最上部位である脂肪を、搾取して食べていたようです。これは食における貪欲であり、同時に神からの搾取でもあります。もう一つは性欲です。息子たちは会見の天幕で仕える女性と性関係をもっていたのえす。これは性における貪欲であり、神への重大な冒涜です。無理やり現在の犯罪にあてはめるなら、国家を代表する祭司の息子が、窃盗犯と公然わいせつ罪の常習犯であったわけです。

                   そもそも、いくら祭司が世襲でも「主を知らないまま」の息子に継がせてはならないでしょう。どうもエリは、息子の悪行三昧を知りながら、適切に戒めることがなかったようです。息子たちの問題の原因を聖書は「主を知らず」と明示しています。主を知らず、主を畏れることがないために、祭司の特権を悪用して、食欲と性欲を満たしていたのでしょう。残念な親子関係が見て取れます。

                   「民を導く最高の祭司にして、同時に息子を導けない無力な父親

                   これが、私たちの現実なのです。旧約聖書を読むながら、優れた宗教的リーダーと政治的リーダーの多くが、かなり残念な父親であることを発見します。聖書を読むなら、そうした父たちが、息子を傷つけたり、性格を歪めたり、不敬虔な者としています。


                   私自身も、大規模教会の牧師や有名牧師の息子さんが、引きこもりになる、心の病になる、病的人格を持つ、リストカットする、アダルトチルドレンだと公言するなどの深刻な事例を、直接間接、いつくも見聞きしてきました。ですから、今回の事件の容疑者の父親が、大学教授で僧侶であると知って、およそ「仏教界のこと」とは思えません。大学教授でもある僧侶は、やはり、多くのお寺のお坊様とは別格の立派さが、息子にとってはあっただろうと推察します。

                   父親がエリートやリーダーである場合、男同士の親子な関係は、ハイリスクハイリターンだと思います。うまくいけば、父を超える成功や父とは別のあり方での自分らしさに到達します。うまくいかないと、「いつまで父に認められたい息子」や「父に負けた生ける屍」になりかねません。

                   よく言われるように男の子は〇童期には父親に憧れ、父をモデルとします。∋彌婀以降は、父をライバル視力し、父を否定して自己を確立してゆきます。青年期以降は、父を離れ乗り越え、冷静に他者として見ながら、自分本来の生き方を確立してゆきます。

                   しかし、△うまくいかないで、に到達できず、△里泙泙農椎期以降も歩んでしまうことがあります。たとえば、立派過ぎる父親はライバルとして強すぎてしまい、乗り越えられず息子は潰れてしまいます。あるいは、強すぎて戦うこともできず、健全な自我を形成できなくなります。

                   また、父親が息子に自分とは別のあり方を認めてやればいいのですが、自分と同じようになることや過剰な期待と要求を突きつければ、これまた、息子は潰れるしかありません。特に高学歴が期待されたのに、中学受験や高校受験で失敗してしまうと、10代にして自らを負け組としてしまいます。かくして息子たちは「いつまで父に認められたい息子」や「父に負けてけた生ける屍」になるのでしょう。


                   神様が自分を愛されたように、父親が息子を、自分とは別の人格として尊び、あるがままで愛し、認めてあげればよいものをと思うのですが、どうも、父と息子の関係は、子弟関係に陥りやすいようす。過剰な期待をかけ、それに応えることで、息子がたくましく成長するという「巨人の星」のような子育て観を、クリスチャンの父親がもっていることは珍しくありません。星飛馬が真面目で純粋であるが故に、人格が歪み破たんしていったようなことがクリスチャン家庭で起こるわけです。


                   今回の事件は、「仏教界」のことではなく、有力な宗教的リーダーが父親であるなら、どの息子さんにも、別の形で起こりうることとして、受け止めるべきではないでしょうか?聖書も、祭司エリの父子関係を通じて、そのことを警告してくれているように思うのです。

                   とりわけ、大規模教会牧師や著名牧師の若い息子さんたちのためには、愛の配慮をもって接し、語りかけて下さい。多少の服装の乱れ、どうかと思うファッション、一時的な放蕩などは大目に見てやってください。その程度のことで、当人やご両親を責めないで欲しいです。

                   何より、息子さんたちの健全な成長と信仰継承をお祈り下さい。牧師継承も祈っていいのでしょうが、どうか、黙って祈って下さい。間違っても、当人に「跡継ぎ・お世継ぎ・献身祈っているよ」とは語りかけないことです。時にその言葉の繰り返しが牧師の息子さんの健全な成長を決定的に歪めてしまうからです。


                   和歌山の事件の容疑者については、悲しいことに今後、プライベートが暴かれてゆき、家庭環境や成育歴などについて、あることないこと報道されていくのでしょう。お互いはそれらを興味本位で見聞きするのでなく、自らの子育てや周囲の方の子育て、とりわけ牧師家庭の息子さんのために役立てていければと願っています。
                  | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:28 | - | - | - |
                  ノーミスが「優」、隠ぺい・責任転嫁が「良」、ひたすら謝罪が「可」で、問題解決努力自体は「不可」?
                  0
                     関根一夫先生が、興味深いブログ記事をFBでシェアしておられるのを発見。外国人の視点から見た日本文化論でしょうが、これは、鋭く辛辣ですね。そして、こういう日本人の心的傾向や社会的体質を、嫌悪し、批判している自分が、実は加担者となっていたりしているのでは?などと思うわけです。

                    反社会学講座ブログ「不愉快な日々」
                    http://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-162.html

                     これは日本人人質事件の関して世間の声が本題なのでしょうが、私はこの記事のこの部分に強い共感を覚えました。以下に転載します。

                    日本では、問題は起こさないのが「優」
                    問題が起きたら隠蔽するか、他人のせいにするのが「」。
                    ひたすら謝罪するのが「」。
                    問題を解決しようと努力しても、全然評価してもらえません。
                    それどころか、解決に失敗するとなにもしなかったときよりも責められます。

                     日本では、問題を起こした時点でもうアウトなんです。日本のオトナたちは若者に「失敗を恐れるな」といいますが、ウソですよ。信用したら痛い目に遭います。日本ほど失敗にキビシい国はありません。


                     うーん、これには激しく共感してしまいましたね。そこで、つけたのが本日のタイトルというわけです。
                    ・ノーミスで「優」、
                    ・隠ぺい・責任転嫁が「良」、
                    ・ひたすら謝罪が「可」、
                    ・問題解決努力自体は「不可」
                    ・解決解決に失敗すれば、「落第」ということでしょう。

                     これは、「日本基準」と呼びたいです。


                     それに対して「聖書基準」はこうなるでしょう。
                    ・問題を謙虚に認めるなら「可」、
                    ・真摯に向き合って悔い改めれば、「良」、
                    ・問題解決のための継続的努力をすること自体が、「優」、
                    ・たとえ問題解決に失敗しても、神様の評価は「合格」。


                     「日本基準」と「聖書基準」を比較しながら、心配してしまったのです。

                     もし、「キリストの体」が「聖書基準」でなく「日本基準」を採用して歩んでいるなら、それはキリストの体が病んでいることを意味するのではないか?と。そして、もしかすると、無意識にも日本の教会は日本基準を採用しがちなのではないか?と。「教会はそうじゃないよね」と言っている自分たちが教会内にそういう体質を作っているということは無きにしも非ずでしょう。



                     大きな問題を起こさなければ、「優」だからこそ、前例踏襲主義、ことなかれ主義に陥り、「脱皮できない蛇は死ぬ現象」に至ってしまうのでは?

                     隠ぺいや責任転嫁に成功すれば「良」なので、問題発生の土壌は温存され、同じ問題が何度繰り返されても、再発防止ができなくなっているのでは?

                     宣教面では、衰退傾向を時代や社会のありように責任転嫁し、信仰継承面での惨敗は、若者自身や社会の世俗化に責任転嫁をしてしまい、本気で問題解決に向かおうとしなくなるのでは?

                     問題解決努力自体が評価されないので、バッシングのリスクを覚悟してまで、問題に向き合わなくなるのでは?結果を出せなければ、改善や新しい試みは評価されないとわかっているから、チャレンジしないのでは?

                     結果論で評価をされてしまうから、教会リーダーたちは、ストレスで心身を病んでしまうのでは?



                     次に「信徒にとっての快適な教会生活」という視点で、「日本基準」を当てはめてみるとどうなるでしょう?

                    ・教会の問題については「見ざる・言わざる・聞かざる」が「優」、
                    ・認識してもなかったことにするか、牧師や教会(なぜか自分はそこに含まれない)に責任転嫁すれば「良」、
                    ・教会の一員として、自らの責任を認めて、ひたすら謝罪するのが「可」、
                    ・牧師らと共に問題解決の努力をすること自体は「不可」、
                    ・その結果、問題解決に失敗したら、「落第」

                     これでは、成熟した信徒、意識の高い信徒、聖書的な教会観を持つ信徒ほど、教会生活がきつくなります。いよいよ快適さからほど遠い、いいえ、徒労感ばかりの教会生活を送らざるを得なくなります。そして、教会は信徒が成長して建て上げられるのではなく、成長した信徒は卒業し続けて、教会内は「先生と園児だけ」という幼稚園状態に陥ります。


                     どうか、誤解をなさらないでください。もちろん、独りよがりで性急かつ大きな変革を目指すことは、多くの場合、教会の一致を破壊しかねません。そうではなく、慎重で思慮深く、教会全体で問題意識を共有した上で、課題に向き合い克服を目指す場合のことをこの記事では扱っているのです。


                     もし、紹介した記事のブロガーが、「日本基準」で歩む教会を観察して、記事を書いたらこうなるでしょう。

                     日本の教会では、問題を起こした時点でもうアウトなんです。日本の教会のオトナたちは若者に「失敗を恐れるな」「教会は赦しの共同体」「愛は第一に寛容」といいますが、信仰的建前ですよ。本音は別ですから、信用したら痛い目に遭います。日本の教会ほど失敗にキビシい教会はありません。


                     「日本基準」と「聖書基準」。お互いは、教会の交わりの中、どちらの基準で他者を評価しているでしょう?教会の問題を指摘し、他者の責任を追求しながら、自らは共に問題解決の努力をしないクリスチャンを時にお見かけします。実は、その方こそ、教会が問題解決に向かえない文化や体質を作り上げている張本人となっているのでは?まずは、他者の問題や責任を指摘する前に、自らが、聖書的な交わりを形成する一人であるかどうかを検討すべきでしょう。

                     日本人ならでは、あるいは日本文化に生きる者ならではの罪深さを自覚するお互いでありたいです。嫌だと言いながら、無意識のうちに自分がその加担者になっていないでしょうか?お互いは、牧師や教会のリーダーたち、成熟した信徒たちが、安心して問題解決の努力ができる体質の教会、聖書基準を採用する教会を形成する一員でしょうか?そうした一員として歩むために、み言葉によってご聖霊の助けを受けながら、日々、日本的体質を福音的体質で上書きしてゆきたいと願うのです。

                     「日々の体質上書き」という各自の真摯で地道な歩みの向こう側にこそ、不祥事の再発防止が、そして、課題に向き合い解決を試みる中で、一致し成熟していく教会があるのだと思います。

                     この反社会学的ブログに触発されて、そんなことを考えてみました。
                    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 16:08 | - | - | - |
                    君は「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を知っているか?
                    0
                       一連の「キリスト者の歴史観」についての記事のご紹介です。今回はとりわけ「日本を愛するキリスト者の会」の発足についても言及しておられます。

                      ブログ「どこかに泉が湧くように」より
                      金の子牛の上の主(ヤハウェ):「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」について思うこと (01/23)

                      君は・・・知っているか」とか上から目線で呼びかけている私ですが、実はあまりよく知りませんでした。こうした書簡の存在は知っていましたが、読んだのは今回が初めてというトホホぶりであります。不勉強にも程があるということでしょう。


                       ご紹介したブログ記事にあるようにwikipediaは、分かりやすく書かれ、明快な説明がされております。

                      wikipedia「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰

                       原案作成者の中に「桑田秀延熊野義孝」という名前を目にしてショックでした。私のような神学音痴でも、お二人の先生の書物は読んだことがあるからです。

                       原文はこちらで見ることができるようです。
                       Wikisource「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰

                       とりあえずの速報ですので、私のコメントは短めで。「金の子牛の上の主」とのタイトルがあまりに適格で痛いほどです。この記事は、「日本を愛するキリスト者の会」を考える際の指針となるでしょう。しかし、それに留まることない重大な問題を指摘しているように受け止めました。

                       「なぜ、今日まで私はこの書簡を読んだことがなかったのか?」と自問しました。自らの向学心のなさと意識の低さは否定できません。でも、「どうして、今日まで誰も教えてくれなかったのか?」とのわがままな思いが起こってしまうのも正直なところです。その葛藤の中、この記事の「
                      健忘症以前の歴史の記憶を持たない神の民」という言葉に思いが至ります。


                       この記事の中、一つの結論はこれでしょう。

                      「教会にはいろいろな政治的立場や歴史認識の人がいるといった、この世の政治的な良識によって事を曖昧にせず——このような動きの間違いをはっきりと識別する必要があります。」

                       自分が記してきた本件についての一連の記事は、判断材料を提供してきたつもりですが、それは、世俗の良識によって本質的判断を曖昧にする結果となっていたのかもしれないと思い返しています。十分理解しているわけではないので、コメントはここまでに留めておきます。


                       その代わりというわけではありませんが、川向氏が、さっそく同記事の紹介をしながら、有益な記事を書いておられるので紹介しておきます。
                      「一キリスト者からのメッセージ」

                      ブログ緊急公開 歴史に学ぶことの大切さ (01/24)
                      | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:31 | - | - | - |
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