命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
信仰継承とは「三代目JSoul」と見つけたり(2)〜第三世代評価基準説は聖書的で普遍的?
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     昨日の記事に対して、フェイスブックの方には、一読者からこんなコメントが寄せられました。昨日の主張を「第三世代評価基準説」と呼ぶならば、その信頼性を高めるようなコメントであります。

     「迫害下の教会開拓の経験のある私の指導教授からは、大人に福音を伝えているときでも、常に彼らの子供、孫の世代を想って伝道するよう教えられました。初代クリスチャンは元々の宗教文化と常時格闘し、第2世代はまだ第1世代の影響下にあり第1世代の宗教文化と格闘します。しかし第3世代で信仰が確立するそうです。


     このコメントによれば、迫害下の教会開拓においては、

    第一世代が元々の宗教文化との常時格闘
    第二世代が第一世代の宗教文化との格闘
    そして、第三世代で信仰の確立とのこと。

     やはり、人間や社会の本質に由来するでしょうか?それとも人間の頑なさから価値転換が徹底しないせいでしょうか?神様の業が人間に対して為され、一定の結論が出るのには、三世代を要するようです。ですから、第三世代を見れば、神様の業の結果が分かり、第一世代の労したことの評価もそれによって、ようやくできるわけです。

     確かに聖書でも神様の業に一定の結論が出るのには、三世代を要した事例がありますね。

    神の召しを受け、偶像と異教文化、異教社会から、祝福へのスタートを果たした一代目アブラハム
    先代の信仰を継承しながらも、ダメおやじだったために三代目をマザコンにした二代目イサク、
    母子強制分離によってマザコンを克服し、ブラック企業「ラバン牧場」で鍛え抜かれ、イスラエル襲名に至った三代目ヤコブ

     やはり、スターターであるアブラハムから三代目にして、イスラエル民族が確立したわけです。


     出エジプトの民もまた、三世代での完結と言えるのでは?

    神の召しを受けたモーセに導かれ、奴隷の家エジプトから、栄光への脱出を果たした第一世代
    モーセの後継者ヨシュアをリーダーとして約束の地を占領し、部族ごとに土地の分配を果たした第二世代
    主との契約を忘れ、カナンの地の異教文化に染まり、偶像礼拝をするまでに堕落した第三世代

     「栄光への脱出」は三世代目には「堕落の定住」で終わりました。これは残念な第三世代での結論です。


     選んだ限りは見捨てず何が何でも祝福される真実な神様の業も、その選びに応答しえない不真実な人間の罪深さと愚かさも、三代目になって、一定の結論が出るわけです。


     でも、これは聖書が示す神様の特別な業に限らず、人類や歴史にも一定の普遍性があるように思うのです。

     戦後三代目に相当する男子高校生たちの電車内での実際にあった会話。
     「おまえ、日本が戦争したって知ってる?」
     「えっ、まじ?知らねーよ。どことやったんだ」
     「どうも、アメリカらしいぞ」
     「それで、どっちが勝ったんだよ?」
     「知らねーよ。そういえば、どっちなんだろ?」

     幼いころに戦争を実体験した第一世代
     髪を伸ばしギターで歌った「戦争を知らない子どもたち」と呼ばれる第二世代。
     そして、この高校生たち「戦争をしたことさえ知らない子どもたち」とでも呼ぶべき第三世代。

     はてさて、このことを、敗戦国であったことも忘れさせる程の戦後日本の発展を象徴する現象として喜ぶべきか?それとも、語り継ぐべき大切なことが、世代間で断絶されていることを悲しむべきか?
    戦争を知らない子どもたち」の多くは真剣に平和を願う世代でしたが、「戦争をしたことさえ知らない子どもたち」は、どうなんでしょう?戦後、私たちが平和についてどう考え、どう伝えてきたか?その結果は、戦後第三世代の信じがたい会話に現れているのかもしれません。

     現在の安保体制を確立したのが岸首相であります。そして、三代目に相当する現首相は、安全保障や国のあり方について、ある「完成形」を目指して、本気で実現しようとしているとの指摘があります。三世代にわたる約50年をかけての悲願だとしたら、それは、さぞかし強烈なものでありましょう。実は、私たちの身近で重大な事がらの中にも、「三代目での完結」があるのでは?

     戦後新たに建設された国家のリーダーは、世襲制によって、現在は三代目の将軍様となっております。国家の存続が厳しい状況なのか?これまで見られなかった様々の現象が起こっています。劇的な変化が三代目で訪れる可能性も予想できます。ここにも「三代目で真価が問われる」という真理を見ることができるのでは?


     昨今は、一代目である「家具づくりの翁」と二代目の「家具屋姫」の間での血肉の争いが世間の注目を集めているようです。株主総会がどうなっても、その後も争いや遺恨は続いていくでしょう。翁と姫のどちらが正しかったのかについての明白な結論が出るのは、二代目社長の時ではなく、三代目社長就任後なのかもしれません。「創業者のパイオニア精神→それを離れたビジネスモデルの模索→新たなビジネスモデルの確立」というパターンは、企業の世代交代にはよくあることなのでは?


     聖書が描く神様の業も、一般的な人間の業も、三代目に結果が現れること、それ故に三代目を評価基準とすべきというのは、そこそこ妥当かな?と考えます。第二テモテ2章2節から読み取ることのできる「
    第三世代評価基準説」。これって結構、聖書的でかつ普遍的な真理ではないかと思えてきたのですがどうでしょう?

     だとすれば、クリスチャンたる者、自分の世代のことだけを考えるなどありえないことのはずです。次世代はもちろんのこと、次々世代までを想定して、今の使命や業に励みたいですね。また、神の業であれ、人の業であれ、三世代を経ていない事がらについては、お互いは、近視眼的であり、中間決算のような評価しかできないことを覚えて、一喜一憂をし過ぎず、謙虚な考え方をしたいものです。
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 15:18 | - | - | - |
    信仰継承とは「三代目JSoul」と見つけたり(1)〜次々世代までを視野に
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       少し前の話になりますが、3月1日の主日は、所属教会で礼拝をささげました。早川恵三牧師による礼拝メッセージは、第二テモテの2章2節からでした。2月にKGK東海地区強力会主催の行われた青年宣教シンポジウムでの発題に準ずる内容でもありました。

      多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

       説教の冒頭、この聖句には四つの世代が含まれているとのご指摘。これには、目からウロコ。

      命じているパウロは第一世代

      そのパウロに命じられているテモテは第二世代

      テモテがパウロから聞いたことを、委ねる相手は、他の人にも教える力のある忠実な第三世代

      そして、その第三世代から、教えられる他の人が第四世代


       なるほど、まさにここには、四つの世代が含まれています。それを納得したところで、牧師が語った適用がまさに私たちのこと。教会の大人たちの多くは戦後の「第二世代」のテモテに相当するのだから、次世代が次々世代を教えられるように育てるべきとのご指摘。近視眼的になりがちだが、教会は次世代でなく、次々世代までを視野に入れて歩むべきとのお勧めであります。

       
       これには、悔い改めました。本ブログでは、信仰継承、次世代の救いと育成などを論じてきましたが、それは、パウロの視点からすれば、近視眼的であったのです。パウロは、自分から見て四世代先まで、視野に入れて命じていたのですから。自分は戦後第二世代でしょうから、テモテが命じられたように、次々世代までを視野に入れて、考えるべきだったのです。ですから、聖書的な信仰継承とは、次世代への信仰継承ではなく、次世代が次々世代を教え導けるように育てることと言えるでしょう。

       そこで、今回のシリーズに付けたタイトルは・・・

      信仰継承は「三代目JSoul」と見つけたり!

       聖書的な信仰継承とは、自分から見て三代目までに”Jesus”の”Soul”を継承することなのであります。だから「三代目JSoul」というわけです。



       お孫さんを持つクリスチャン女性から、何度も、こういう言葉をお聞きします。

      自分の子どもの子育てを見て、初めて自分の子育てが評価できました」と。


       これは、聖書的な信仰継承にも通ずる経験だと思うのです。

      自分が導き育てた次世代クリスチャンが、次々世代を導き育てるのを見て、初めて、自分の信仰継承が評価できました。」

       きっと、聖書的な信仰継承を成し遂げた方は、長い年月を経て、こうした言葉が言えるのでは?と思ったりします。


       今、教会に次世代クリスチャンが一人しかいないとしても、その一人が、「他の人にも教える力のある忠実な人」に成長し、上の世代から継承してきたものをゆだねることができれば、次々世代クリスチャンは10人になるかもしれません。

       逆に、今、教会に次世代クリスチャンが10人いたとしても、その10人が「他の人にも教える力のある忠実な人」に成長せず、上の世代から継承してきたものをゆだねることができなければ、次々世代クリスチャンは1人になってしまうかもしれません。

       そうです。「次世代の1対10」は「次々世代の10対1」に逆転しうるのです。ですから、今、次世代が一人だからと言って、悲観している場合ではありません。その一人を、いいえ、貴重な一人だからこそ、愛し、祈り、支え、教えて、「他の人にも教える力のある忠実な人」に育てましょう。一方、次世代が10人もいるからと言って、感謝こそすれ、安易に喜んでいる場合ではないでしょう。「他の人にも教える力のある忠実な人」に育てなければ、次々世代においては、「昔はよかった」と今を喜べない状況に陥ることでしょう。


       信仰継承の評価対象は何でしょう?パウロの考えによれば、それは次々世代なのです。次々世代をもって、第一世代の働きは評価をされるのです。

       ですから、教会の次世代が増えること以上に、今いる次世代を、次々世代を教える力のある忠実な人に育てましょう。ベテランクリスチャンは、「若い人がいない」と嘆くより、次々世代を視野に入れて、今いる若い人を育てましょう。年齢によっては、自分の目の黒いうちに、教会に集う多くの若い人を見ようと思わず、地上での自分の祈りと愛と労が、報われているのを天から見るつもりで励みましょう。その報いはどんなにか大きなものでしょう。


       大切なのは「今、次世代が何人いるか?」ではなく、「今、自分世代がすべきことをしているか?」です。

       教会の将来を決めるのは「今の次世代人数」よりも「今の教会の信仰継承意欲と教育力」でしょう。

       聖書が私たちに示しているのは、「次世代への信仰継承」に留まらない「次々世代までの信仰継承」なのです。

       私たちが見たいと願うべきは「成熟した次世代」だけではなく「成熟に向かっていく次々世代」ではないでしょうか?

       お互いが「三代目JSoul」を目撃するのは、「地上」とは限らず「」であることも想定すべきでしょう。


      信仰継承とは「三代目JSoul」と見つけたり!

       少子高齢化だからこそ、「今」でなく、さらに「次世代だけ」でなく、「次々世代までも」視野に置きながら、「今、できること」「自分世代がすべきこと」を始めましょう。
      | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 15:30 | - | - | - |
      中一殺害事件から考える母子家庭と教会(3)〜伝えたい!貧困母子家庭に育った救い主を
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         国民栄誉賞に輝く偉大なる王貞治選手は、その努力家ぶりと禁欲的な雰囲気から「聖人君子」のように思われています。しかし、実は気さくな方で、誤解されるのを嫌って「オレはラーメン屋の息子だぞ」と言うことも。そうです。王選手は貧しい外国人自営業家庭に育ったのです。

         同じようにクリスチャンたちは、イエス様の家族をまるで、汗や泥などとは無関係の「美しい聖家族」のように誤解しているのかもしれません。それを知ったら、イエス様は、「私は大工の息子だよ」とおっしゃるのかもしれません。人としての救い主は貧しい労働者階級に生まれ、汗と泥にまみれて生きて下さいました。それは私たちの生きる悩みを身を持って味わうためです。


         今回の事件の背景に見えてきたのは、二つのタイプの家庭です。一方は被害者側の「DVが生み出した貧困母子家庭」、もう一方は、「再婚と国際結婚による複雑な家庭」です。こうした家庭を構成する大人とそこで育ってきた子どもたちに、教会は救い主、イエス・キリストをどのように紹介し、提示すればいいのでしょう?

         宣教対象に関係なく、「神・罪・救い」を語り、救い主を提示すればよいというお考えもあるでしょう。しかし、イエス様はニコデモとサマリヤの女に対して、それぞれのリアルニーズを切り口に救いを提示されました。個人伝道においては、対象者によって個別的な福音提示があると思うのです。そこで、今回は、痛んだ家庭に対しての宣教について、私なりのアイデアをお分かちしたいと願っています。


         イエス様は、基本的に自らを弱者の側において、宣教をされました。しかし、日本のキリスト教会は、ともすれば、勝ち組共同体となり、キリストの体として弱者の側に自らを置くことを忘れ、「人間的弱者としての救い主」を見失っているように感じています。

         以前、「家庭の破れ口、福音の光差し込む窓口」というシリーズで以下のような記事をアップしました。ほぼ、全文を転載します。


        「聖書的な意味での祝福された信仰者家庭」を考える時、一つ素朴な疑問が湧き上がります。それは、イエス家は祝福された家庭であったのか?ということ。

         そもそものスタートが世間の目から見れば「でき婚」であります。救い主を宿したのですから、実質は祝福でしょうが、周囲にそんな理解があったとは思えません。世間からは随分冷たい目で見られたのでは?

         子育てが始まれば、ヘロデ王のメシア抹殺作戦が開始。一家はエジプトへの逃亡を余儀なくされます。きっと東の博士からのプレゼントが逃走資金になったのでしょう。神様は必要を備えておられたと思われます。

         イエス家は弱小民族の貧しい大工の家庭です。ブルーカラーであります。イエス様の進路選択はと言えば、家業を継ぐしかありません。真理そのものである方ですから、ラビなれたでしょうに、初等教育のみで、大工として社会参加です。どうも、どこかの時点で、父、ヨセフは死亡したもよう。30まで大工として生きられたようですが、その理由の一つは、一家の生計のためかと思われます。

         今で言えば、父を失った長男が、中卒で大工を始めて、一家を支える家庭です。「貧困」「ブルーカラー」「低学歴」「片親家庭」の四つがそろった家庭であります。それらは、人として生きる苦しみを通るための必然であったのでしょう。

         私はイエス家は、「祝福された家庭」だったと考えています。なぜなら、この家庭は、神様の御心に生きたからです。祝福を願う側の思いとは異なりますが、祝福主の側の思いにそって歩んだからです。

         そう考えますと、貧しさ、社会的地位の低さ、子どもの低学歴、片親であること・・・。それをもって自分や他者の家庭を「祝福されていない家庭」とするのは、あまりに乱暴でありましょう。イエス家を見るなら、それは破れ口なき、ある意味で理想の家庭であったのかもしれません。

         同時に、「貧困」「ブルーカラー」「低学歴」「片親家庭」が破れ口となっている信仰者家庭があるならば、イエス様は、その苦しみを100%体験者としてご理解くださるはずです。そして、その破れ口を通じて、救い主は、恵みを注いでくださるのです。

         神が人となり、「貧困」「ブルーカラー」「低学歴」「片親家庭」を経験されました。それが聖書が示す救い主なのです。家庭に破れ口を見る時にこそ、家庭人としての救い主を思い起こしたいものです。


         以上が、転載です。聖書が示す救い主は、「人となられた神」であります。では、どのような人になられたのでしょう。わざわざ「弱小民族」として、「世間的にはでき婚」で生を受け、「貧困家庭」に育ち「ブルーカラー」として働き、途中からは「母子家庭の長男」として、家族を支えてこられたのです。まさに、私たちの救い主は「人間的弱者としての救い主」です。

         傷ついた家庭で育っていく子どもたち、少年・少女たちに、「このキリスト」を伝えられたらと願うのです。被害者あるいは加害者の背景にあるような家庭に生きる方々に、「傷ついた家庭の苦しみを味わって下さり、体験者として分かって下さる救い主」として、イエス・キリストを提示できたらと考えます。「あなたと同じような苦しみを経験されたのだよ」とイエス様を紹介したいのです。イエス様のそうした一面を伝えることが、福音への抵抗感を払拭し、教会への誤解を解き、「この方こそ、私のための救い主」との思いを起こさせるを願うのです。


         ですから、伝えましょう。傷ついた家庭で育っていく地域の子どもや中高生、そしてその家族に。。

         貧困母子家庭に育った私たちの救い主を。
        | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 18:22 | - | - | - |
        中一殺害事件から考える母子家庭と教会(2)〜上村家があなたの教会に来たら?
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           まずは、クイズです。

          星野仙一さんと大島優子さんの共通点は何でしょう?」


           正解は「片親家庭で育ったこと」です。星野さんは母子家庭で、大島さんは父子家庭で育ちました。いかにも男気のある星野さんも、女性的な魅力いっぱいの大島さんも、家庭内では自分のモデルが不在だったのです。でも、親の愛情は当然のこと、学校や地域の大人たちに支えられて、二人とも強くたくましく魅力的な男女に成長したのです。

           野球つながりで言えば、巨人の星の登場人物である「星、伴、花形、左門」、ドカベンの「山田太郎、岩城、里中」らは、全員が片親家庭か両親不在家庭です。しかも、大金持ちか、かなりの貧乏かの両極端です。私のような世代は、こうしたヒーローやライバルたちの家庭事情に反応して、応援したくなったり、感情移入したりでした。

           そこで、クリスチャン読者の皆様と考えたいことがあります。それはこういうことです。

          「私たち、日本の教会は、星野仙一や大島優子を育てているか?

          「私たち日本の教会は、片親家庭や親不在家庭を理解し、受け入れ、応援しているか?」

          上村家が、あなたの教会に来たらどうだろう?」

          加害者グループの家庭が教会に来たら?」


            今回は加害者グループの家庭にも少しだけ触れてみます。以下の記事を紹介しておきましょう。
          【川崎事件】18歳少年が率いた“ハーフ軍団”「札付きではなく弱い子の集まり」
           
           加害者を含むグループには、親の国際結婚という要素があったようです。主犯格の少年も再婚家庭で、母親は外国人であり、腹違いの姉がいるそうです。残念ながら、そこには不安定なアイデンティティーや被差別経験などが伴います。当然、社会のマイノリティーは、強い結束力で結ばれます。従来であれば、「怖くて強い不良グループ」を形成したのでしょうが、今回の加害者グループは、「弱い子たちの集い」であり、それが凶暴化したと思われます。今後、日本で課題となっていくであろう新しいタイプの集団です。


           私は知人の牧師や牧師夫人の多くから、父親のDVにおびえながら育った経験をお聞きしてことがあります。父親と刺し違えてでも、家族を守ろうとした証しをもつ牧師も何名か存じ上げております。その方々は、どうして今、牧師や牧師夫人なのでしょう?その背景には、そうした家庭の子どもを受け入れて、愛し、育て、直接献身にまで導いた教会の存在があるわけです。

           今回の事件が起こった川崎市内には、そうした教会がいくつかあるようにお見受けします。被害者のような貧困母子家庭の子どもたち、また、加害者のような複雑な家庭背景を持つ子どもたちを、受け入れ、牧師と信徒たちが「よくぞ、そこまで」と頭の下がるような接し方をしておられます。教職者ばかりに負担をかけているのではないのです。教会学校のスタッフら信徒がすごいのです。



           昨年の秋に2050年時の日本の教会を予想しました。それが、この記事です。

          2050年時の日本の教会〜迎えるチャンスとクライシス (10/29)

           その中の一部を以下に引用します。


           教会を形成する人々も、かなり変化しているでしょう。「大卒で、日本国籍を持ち、社会参加し、経済的に安定しおり、結婚し、子どもを与えらえ、妻は専業主婦で、離婚はせず、両親で子どもを育て、精神疾患を患っていない」という条件に該当する教会員が多数派であったのは、20世紀で終わっています。健全な家庭で育った教養のある若者が、真面目に純粋に真理探究をして、教会を訪ねることは、なくなってきましたし、多くの教会は信仰継承に苦戦を強いられています。

           クリスチャンホーム子弟が教会に留まらず、逆に、未信者家庭に育ち、求道する人たちのタイプは大きく変化しています。現在でも既に起こっている変化ですが、「学歴面での挫折経験者、日本以外の国籍、社会参加が不可能な方、貧困生活者生涯未婚者不妊に悩む夫婦、共働き夫婦、離婚経験者、片親家庭、精神疾患を患っている方」という条件の二つ以上を持つ方が教会の多数派となっていくでしょう。

           「クリスチャンの夫たちが社会で働き、妻たちは専業主婦で教会で交わりや奉仕、教養や社会的地位のある教会員が地域の信頼を得て、教会員はそれなりに健全な家庭生活を送って、証しをしている」という理想像は、もう既に崩壊しています。いいえ、それは、本当の意味で「理想像」ではないでしょう。集まっている人々にとって、都合と居心地がよいだけで、それは「理想像」というより「偶像」に近いと私は思います。そもそも、聖書が描く教会はそんな「優等生集団」でも「勝ち組共同体」でも「同質者限定サークル」でもなかったはずです。


           以上が、私が予想した2050年の日本の教会の姿です。貧しい母子家庭、再婚家庭であるクリスチャンファミリー、DV家庭や機能不全家庭、日本語を話すハーフやクオーターの教会員たち・・・。地域にもよりますが、成長し、成熟している教会は、そんなメンバーが全体の2割以上を占めるようになるだろうと予想するのです。逆に言えば、そうなっていかない教会は、教会員数も減少の一途をたどり、2015年以降に成長、成熟してこなかった教会と評価されかねないのでは?と心配します



           地域に住む人々を愛する真面目なクリスチャンたちは、きっと考えたことでしょう。「被害者の家庭に、加害者の家庭に福音が届いていれば・・・」と。あるいは、もっとリアルにシュミレーションしながら、こう自問していることでしょう。「うちの教会に被害者や加害者のような家庭が来たら、受け止めることができるだろうか?」と。ある意味、教会の力量や成熟度が問われるのではないでしょうか?


          「私たち、日本の教会は、星野仙一や大島優子を育てているか?

          「私たち日本の教会は、片親家庭や親不在家庭を理解し、受け入れ、応援しているか?」

          上村家が、あなたの教会に来たらどうだろう?」

          加害者グループの家庭が教会に来たら?」

           今回の事件を悲しみ、罪に怒りを覚えている日本のクリスチャンたちは、神様からこう問われているように感じます。「それなら本気で、こうした家庭を受け入れる気があるのか?」と。そして、「牧師夫妻に押し付けず、そのために労していくのか?」と迫られているかのようです。「時代も社会も大きく変わっているのに、いつになったら意識変革をしていくのか?」とお叱りを受けているようにも感じています。

           今回の事件に対して、日本に生きるキリスト者は、誰も評論家ではいられないはずです。痛みをもってとりなし祈る者でありたいです。そして、地域に痛み苦しむ家庭に届き、受け入れられる教会への成熟を目指したいと願うのです。
          | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 16:12 | - | - | - |
          中一殺害事件から考える母子家庭と教会(1)〜責任放棄する父と犠牲となる母子
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             連日、川崎中一殺害事件の報道がなされ、昨日は、母親のコメント全文が公にされました。

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            <川崎中1殺害>母コメント全文「残忍…涙が止まりません」

             テレビ報道では、両親の離婚後に何年かして、母親の実家にある川崎に転居してきたと伝えられています。その程度までの報道が適切かと思うのですが、残念なことに、過剰なまでに週刊誌が被害者家族のプライバシーを報じています。どうも、離婚理由は父親の暴力で、5人のこどもを引き取って、川崎で暮らし、看護師として働いておられるようです。

             母親の責任が問われたり、育児放棄が疑われたりもしましたが、こうした背景が分かってくると、その判断は保留して、中一にして息子を失った母親の悲しみに心を合わせるべきでしょう。夫から暴力を受けた末の離婚、5人の子どもを育てる負担、夜勤もあるだろう看護師の激務などを考えると、生活で精一杯であったことは明らかです。むしろ、心を病んだり、育児放棄をしても、おかしくない状況に追い込まれていたのでしょう。ですから、目に見える変化だとしても、一人の子どもの課題に対応するのには、限界があり、不登校や暴力被害などに、親として(学校、地域と連携して)の対処ができなかったのだろうと私は、推測します。

             他方で亡くなった上村君の心情も推察します。島で素直に育った少年は、脅されても万引きを拒否する立派な少年でした。母親が父親に殴られているのを目撃して育った男の子は、大抵、父親を憎み、母親を通常以上に大切にします。上村君が学校に行かなかった理由の一つは、加害者少年から行けば家族に危害を加えると脅されていたからという報道もあります。弟や妹の世話もして、母親に心配をさせないように振る舞い、家族の盾になるようにして、暴力を受け、わが身を犠牲にしてきたかと思うと、やりきれない思いがします。


             これは、本来、中一の男の子にさせてはならないことのはずです。それが、せざるを得なくなった大きな理由は、家庭環境です。父親の暴力、それによる両親の離婚、子だくさんの貧困家庭・・・・。こんなに苦労してきた愛する母親を悲しませたくない、自分を犠牲にしてでも、母を安心させ、家族が崩壊に向かわせてはならないと頑張ってきたのでしょう。

             そこで、私は思うのです。どうでしょう?これは本来、父親のすべきことではないでしょうか?父親の暴力によって、父を失った母子家庭においては、時に長男が、父親の機能を果たさなくてはならなくなります。子だくさんや貧困があると、母親も一定それに頼らざるを得ません。

             ここには、強者の暴力が、弱者を苦しめて、最終的に最弱者を犠牲にしていく構造があるように思います。いわば「責任放棄する父親と犠牲となる母子」という構造です。父親という強者が母親という弱者に暴力を振るいます。それによって、家庭は壊れ、父親を失います。父親によっては養育費支払いうという責任さえも放棄します。その責任と負担は、弱者である母親が引き受けます。しかし、子だくさんと貧困が伴うなら、母親一人では、とても負い切れません。その結果、何からの大きなしわ寄せが、最弱者である子どもに及びます。

             子だくさんの場合は、長女や長男が親代りをします。時に子どもらしく過ごせなかった反動が、思春期に問題となって表出します。また、母親を悲しませ、苦しませぬようにと、過剰に自己規制をしたり、演技をしたりです。愛する母のためなら、わが身を削り、自分を犠牲にまでします。今回も経済面や子育ての面で、余裕があったなら、きっと、上村君は、ここまで課題を隠し、平静を装い、自分を犠牲にすることはなかっただろうと私は推測します。


             中絶をして苦しむ女性、命を絶たれる胎児の背後には、大抵、無責任な男性がいます。一人の女性が、嬰児を遺棄せざるを得なくなった背景には、その状況を作った男性がいます。シングルマザーが子どもを虐待死させてしまった遠因には、その子の父にあたる人物がいるはずです。母親が明らかに限度を超えた育児をせざるを得ず、子どもが自己犠牲を払わざる得なかった背景には、やはり、暴力によって家庭を壊した父親がいると思うのです。今、上村君の父親にあたる人物は、一連の報道をどう受け止めているのだろうか?と思わずにはおられません。

             なぜ、社会的弱者である女性ばかりが加害者や被害者にされ、最弱者である子どもの命が犠牲にされてくのでしょう!果たすべき責任を放棄した男性は、弱者を犠牲にして罰せられずに済んでいくのです。責任を放棄した悪が罰を免れ、責任を受け止めた善が罰せられたり、苦しめられたりするのです。家庭をめぐる問題の終着点が、善悪でなく強弱で決定されていく様には、人間の罪の凄惨さを見せつけられる思いがします。


             牧会やミニストリーの中で、数えきれぬほどの不幸な家庭を見てきました。父親のDVがある家庭、ワーキングプアの中にある母子家庭、子だくさんの母子家庭においては、同じような課題を抱えやすいように観察しています。離婚原因となった父親の暴力や責任放棄、逸脱行為などが、最終的には、最も弱い存在である子どもを犠牲にするのです。子どもに、させるべきでない我慢をさせたり、子どもをさせなかったり、残酷なまでの自己犠牲を強いてしまうのです。その結果、子どもの心や体や人生に大きな歪みや問題を生じさせかねないのです。

             もちろん、母親の努力や、子どものがんばり、周囲の支援を受けて、乗り越えている母子家庭も多くあります。特に、教会では、そうした母子家庭に出会います。上に記してきたことは、あくまで一般的な傾向、母子家庭独自の課題としてお受け止めください。


             今回の事件には、複合的で多面的な要素があります。単に「親は気が付かなかったのか?」「学校は分かっていたのに・・・」という問題ではないと私は思います。上村君が死に至るまで、平静を装い、自分を犠牲にしたのには、この家庭が歩んできた不幸な経緯とそれ故の母への深すぎる愛があったのではないかと思わざるを得ません。

             次回以降は、こうした家庭の課題を教会との関係で考えてみたいと願っています。
            | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 17:32 | - | - | - |
            似て非なるもの、「使命」と「生きがい」〜補足編としての「ゆってぃクリスチャン」
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               昨日で最終回でしたが、補足をしておきます。同じような趣旨で、以前、「育てよう健全信徒」シリーズの四回目として書いたものを再度アップします。ほとんど、日本のテレビ視聴者の記憶から消えかけているお笑いタレント「ゆってぃ」にたとえた記事です。

               夢や幻を追いかける若いクリスチャンすべてが、「ゆってぃクリスチャン」なのではありません。ただ、神様の前に自己を客観視して、また、第三者の声を真摯に聞いて、「社会責任逃避、自己直視逃避、信仰的成熟逃避が動機となって、夢・幻に自分を向かわせていないか?」「自分でも信仰的偽装によって、それを合理化して自らを欺いていないか?」は検証して欲しく願っています。以下の記事がその一助になれば、感謝なことです。では、以下に再度、アップします。


               四回目に登場するのは「ゆってぃ・クリスチャン」です。まずは、このクリスチャン、「アイドル目指して12年」と自己紹介するお笑い芸人のごとく、可能性のない夢を追い続け、なすべき決断を先送りしています。

               それは「いつかビッグになる」とか「いつか自分の理想ピッタリの伴侶と出会う」とか、周囲から見れば、上からのヴィジョンでなく、自己欲求に過ぎず実現不可能なのは明らかなのに、当人はそれを認めません。なぜでしょう?それを諦めないでいるうちは、現実の自分を認めなくて済むからです。

               「主からの幻の実現を待ち続けている自分」と自分に思い込ませ、人にもそう伝えることで、年齢相応の社会的責任を果たさないことを合理化してしまうのです。社会的責任、それは、本来、夢を断念して、進むべき一市民としての職業生活や結婚だったりするわけです。同時にそれは主にあって果たすべき自分の人生に対しての責任でもあるはずです。

               まあ、こうした独りよがりの夢追いをしながらの成熟拒否体質だけなら、家族以外には大きな迷惑にならないかもしれません。しかし、この体質は信仰的成熟の拒否につながってしまいます。そうすると教会の交わりにも悪い影響を及ぼしかねません。

               自分で失敗をしても、周囲に叱られても、牧師に注意されても、それを自分の罪や肉性の問題と受け取りません。ですから、悔い改めません。当然の結果として、失敗や周囲のアドバイスは成長につながりません。ゆってぃクリスチャンは心の中で、自らの失敗や他者の叱責をこう言って受け止めているようです。

               「ちっちゃなことは気にするなー、それワカチコ・ワカチコ

               本来、気にして、悔改めて成長するべき事柄を、自分が傷つかないように瞬時に変換します。何でも「ワカチコ」とは「若さ・力・根性」なのだとか。自らの若さと力と根性を根拠に、現実を受け止めず、自分の未熟さも改善点も認めず、ありもしない夢を追いながら、結果的に自分を変えようとはしないのです。

               子どもを自立に向けて育てない傾向が強い日本の家庭、「果たすべき責任」より「追い求めるべき夢」を強調するマスコミの声、あるがまま現実の自分を直視する苦しみに耐え切れぬ若者達のメンタリティー。

               ゆってぃクリスチャンを生み出しやすい環境があるのは、事実でしょう。一旦、ゆってぃ状態に陥ってしまうと固定してしまい、修正は困難なようです。しかし、希望を捨ててはなりません。きっと本物のゆっていも、アイドルの夢を捨てて等身大の社会参加をしているのでしょう。そのように、いつか、ゆってぃクリスチャンたちも夢追い状態が破綻し、自己の再構築をする時が来るでしょう。それを祈り待ち望み、その時に、力になってあげましょう。間違っても新たなありもしない夢に向かわせてはなりません。若さと力と根性を主のために用いるようシフトチェンジさせてあげましょう。そうすれば成長拒否体質も改善されるでしょう。

               ゆってぃクリスチャンが増加しつつあるこの日本社会と日本の教会。だからこそ、お互いは「自立に向ける子育てをする家庭」を目指し、「夢より主にある責任」を強調し、「罪深く汚れた自らを直視しうる」子どもや次の世代を、各家庭や教会で育てたいものです。
              | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 15:39 | - | - | - |
              似て非なるもの、「使命」と「生きがい」(4)〜「生きがい」に死に、「死にがい」に生きる
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                 このシリーズも今日で最終回としましょう。シリーズ(2)で「使命」と「生きがい」の本質的違いを記しましたところ、フェイスブックの方で、某著名牧師より、次のような大変考えさせられるコメントをいただきました。

                クリスチャンはキリストに出会い、キリストのために、福音のために「死にがい」を見出します。


                 なるほど!クリスチャンがいただいているのは、よく考えたら「生きがい」でなく「死にがい」でした。キリストから、生き生きと生きられる根拠や材料をいただいたというより、「この方のためなら死をも惜しくない」との「死にがい」をいただいていたのです。よく考えてみれば、いいえ、よく考えてみなくても、クリスチャンになった瞬間から、普遍的根本的な「生きがい」は既に与えられているはずです。

                 第二コリント5:15は言います。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」

                 「誰のために生きるか?」という既に生きがいは与えられているのですから、それ以外には根本的な生きがいをクリスチャンは必要としませんし、求める必要もありません。あとは、具体的な使命が何かを判断し、それに生きるだけのことです。社会人や既婚者となってから、救われたなら、原則として、その職業、結婚、家庭形成が使命に決まっています。そうではない社会参加や結婚前の学生青年期にはそれを模索し、発見したり、そのために準備をすべきで大切でしょう。

                 ですから、既に与えられている使命をないがしろにして、別の生きがいを見出そうとするなどは、およそ御心とは思えません。むしろ、イエス様の弟子の多くのがそうであったように、現在の職業に忠実である者が、あるいは、最も身近な隣人である家族を愛し誠実に仕える者こそが、神様から新たな使命をいただくのでしょう。

                 もちろん、「何を使命とするか?」は大切ですが、第二コリント5:15によれば、さらに根本的な問いは、「誰のために生きているのか」です。神様からの使命に生きて居たとしても、自分のために生きるなら、その「使命」は「生きがい」に変質しかねません。「自称使命」や「偽装化使命」となり、依存対象化、偶像化、執着、周囲の迷惑などにつながってしまいます。

                 そこで考えたのが、今日のタイトルです。

                「生きがい」に死に、「死にがい」に生きる。


                 使命に生きるということは、むしろ「生きがい」に死ぬことでしょう。キリストのために生きるわけですから、必要なのは「神様からの使命」であって「自分のための生きがい」ではないはず。それは、不要、それどころか邪魔とも言えるのでは?自分のために生きる人生に死んで、「自分のための生きがい」にはお葬式をあげて、永遠のお別れをするのです。

                 キリストは現実にそこまでする価値のある方ですから、まさに「死にがい」がある方です。罪にまみれて永遠に滅ぶはずだった私たちのために、一点の罪もないご自身の永遠の命を差し出して下さったのですから、これは、「死にがい」がありすぎです。最低価格の命と最高価格の命を等価交換されたのです。生ごみが捨てられないように、全財産を投じて買い取ること以上の聖なる愚行ですから、イエス様には100万回死んでも惜しくない程の「死にがい」があるのです。


                 そこで思うのです。生きがいに死んで、死にがいに生きたいと。職業生活などは、まさに、隣人に仕えて、究極的には神様の栄光を現すものです。結婚生活も、最も近い隣人を愛し仕え、神様の栄光を現すものです。どちらも、自分のためではなく、他者を愛し仕え、神様のために生きる現実生活であり、聖書が示す普遍的使命であります。そして、どちらも死にがいに生きる世界だと思うのです。

                 それは時に退屈で、十分な評価も賞賛も得られず、自分が歯車のようで自己効力感や自己価値が感じられない人生でしょう。私はだからこそ、「死にがい」があるように思うのです。そういうわけで、多くのクリスチャンにとっては、普通に社会参加して、ありきたりの職業につき、結婚して、子どもが与えられたら、大切に育てていくような平凡な一生などは、最も確実かつ安定的に神様からの使命に生きる道ではないかと考えます。既に与えられている普遍的な使命に生きることは、「死にがいのある立派な人生」ではないでしょうか?

                 むしろ、牧師や宣教師のような自己犠牲的でヒロイックに見える特殊任務の中に、「生きがい」が混入しやすいのでしょう。最も死にがいに真実に応答しているかのように見える職業生活の中心に、使命という名目で偽装された「生きがい」が、居座ることも無きにしも非ずでしょう。立派な会堂、多くの信徒、豊かな救霊の実、高い評価、名声などを獲得していく中で、「死にがいで始まった献身」が、「生きがいによる自己実現」に置き換わる危険は常にあるように思います。クリスチャンとしての非凡な人生は、ある意味、不安定で危険に満ちた道とも言えるようです。


                 「いまどきクリスチャン」とお話しをすると、フルタイム献身はせずに、信徒の立場で非凡なあり方をしようと願っていることが多いように感じます。それが本当にユニークな神様からの使命ならいいのですが、その理由が、職業生活と結婚という平凡な人生に、生きがいを感じられないというなら、心配です。

                 個人的には、もっと職業生活と結婚という平凡な人生に「死にがい」を見出していただければと願います。職業や結婚のために「自分のために生きる人生」に死んで、「自分のための生きがい」を葬って、身近な隣り人を愛し仕え、神の栄光を願う生き方こそ、多くのクリスチャンにとって、聖書が示す御心の歩みかと思うのですが、どうでしょう。


                「生きがい」に死に、「死にがい」に生きる。

                聖書が示す救われた者の生き様はそのように表現できるのではないでしょうか?
                | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 21:06 | - | - | - |
                似て非なるもの、「使命」と「生きがい」(1)〜子育て編
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                    以前、ある教会でお聞きしたお話し。年配のクリスチャン女性が、救われる前に子育てで苦労された後、それを克服をされた証しをお聞かせくださいました。息子さんが幼い頃に夫と死別し、母子家庭となります。それ以来、「子どものために」と自分のことは考えずに生きてこられたそうです。やがて、息子さんが不登校となります。

                   賢明な母親は、それを子どもからの危険信号と受け止め、独学でカウンセリングを学ぶ中で、知ったそうです。自分の「子どものため」との思いが息子さんを追い詰めてきたことを。当時を振り返り、「子どもを生きがいにしたのが間違い」「それぞれの人生があるのにそれが分からなかった」「その結果、母子関係が共依存になっていた」とおっしゃっていました。

                   母親が原因に気が付いてからは、息子さんは回復の道を辿ってゆきました。回復には10年を要したそうですが、息子さんは、母親の前であるがままの自然体でいられるようになりました。今は、精神的にも母から自立して、自分なりの社会参加をしているそうです。

                   私は、この方の「子どもを生きがいにしたのが間違い」との言葉に教えられました。子どもを生きがいとすれば、母親は子どもによって、自己価値を確認し、自己効力感を味わい、子どもにアイデンティティーを求め、子どもに依存し、子どもとの心理的分離を失います。子ども側は、母の期待に沿うことを最善として、あるがままの自分でで生きられません。やがては、いい子疲れのような形で、破たんに至ります。

                   この証しをお聞きしてつくづく思ったのです。

                   「自らの使命として子どもを育てる」ことと「子育てを自分の生きがいとする」こととは似て非なるものだと。

                   「子育てという使命に生きること」と「子どものために生きる」ことも、似ているようで、むしろ正反対なのだと。

                   「子育てに生きがいを感じる」のは健全だけど、「子育てを生きがいとする」は、不健全なのだろうと。


                   「使命としての子育て」は、子どもを自立に向かわせますが、「生きがいとしての子育て」は、子どもの自立を妨げます。子どもを自立させてしまうと、親が生きがいを失うからです。「空の巣症候群」とは、そういうことでしょう。

                   ですから、子育てを生きがいにしている親は、無意識のうちに、子どもを自立しないように誘導、支配します。あれも、これも、手とり足とりして、「してあげる愛」で、子どもの自立を妨害して、自分を離れないように、自分に結び付けてしまいます。「使命としての子育て」は、自立に向けて「してあげない愛」「自分でさせる愛」を注ぎながら、子どもが自分から離れて、自立と社会参加に向かうよう導きます。

                   「使命としての子育て」は、結婚した子どもの家庭に介入などしません。使命は完了したからです。あとは、せいぜいアフタケアか顧問のように見守る程度です。そして、別の使命に生きたり、使命なしにのんびり余生を楽しみます。しかし、「生きがいとしての子育て」は、子ども夫婦への介入をしかねません。なぜなら、子どもが結婚しても、親はまだ、生きがいを必要とするからです。生きがいである子どもを離れては生きていけないからです。

                   最近は、教会でも、結婚後に母親が結婚生活に介入し、夫婦関係を壊し、自分の元に戻そうとしているとしか思えない言動をする事例を時々、お聞きします。きっと、その母親にとっては、子育てが「使命」でなく「生きがい」だったのだろうと推測します。


                   そう、子育ては「神様からの使命」であって「私の生きがい」ではありません。

                   子育てとは、神様から委託された命を、親から離し、自立させ、神様にお返しし、社会に送り出すことです。

                   委ねられた命を、まるで、自分の所有物のように扱い、自分のいきがいとして、親からいつまでも離さないなら、それは子育てではありません。

                   子どもは親に生きがいを与えるための存在ではありません。やがて親を離れ、自分自身の人生を歩む「他者」なのです。


                   「子育を、使命とするか?生きがいとするか?

                   これは、似て非なるもので、同じように愛情深く、熱心に見えても、その違いは決定的で、将来、思春期以降に子どもに、自立度の雲泥の差となって現れることでしょう。


                    冒頭で紹介した賢明な母親のように、子どもからの警告信号に気がつくように、また、周囲がそうした気づきへと愛をもって導くことができるればと願ってやみません。
                  | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 14:41 | - | - | - |
                  キリスト教会もキャラ弁禁止?(下)
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                     よい動機で始まった「キャラ弁化」も、標準化や義務化をしてしまうと、当初の動機を失い、様々な逸脱が生じます。その過程のその逸脱の内容も、これまた、キャラ弁禁止に至った要因と似ていると思います。今日はそのことを、三つに大別して記してみます。

                    ,い犬疚簑
                     まずは「いじめ」です。巧みでないキャラ弁の子どもがいじめを受けるように、外面上の要素だけで教会が評価されてしまい、正しい福音を伝え、聖書的な堅実な教会形成をしている教会が評価されなくなってしまいます。それどころか、盛り上がって楽しそうなキャラ弁教会へと移動する信徒まで起こってきます。

                     もし、強度のキャラ弁教会が、堅実教会に対して「あそこはダメ」と批判したり、教勢だけを理由に見下すなら、それは「いじめ」に準ずるのでは?さらには、強度キャラ弁教会が、堅実教会からの信徒の移動を安易に歓迎したり、意図的にそれを狙うなら、「それって、教会間のいじめでしょ?」と思ってしまいます。


                    ¬3个髪浜椶量簑
                     また、キャラ弁同様、味と栄養の問題が起こります。教会のキャラ弁化が行き過ぎると、味や栄養よりも、見かけが最優先となります。すると、福音の味が落ちます。「」や「犠牲」などの辛味苦味がなくなり、「愛」や「祝福」などの甘みが増えて、弁当ではなくお菓子の味となります。これは、子どもの味覚を損なわせ、味覚音痴の大人を生み出します。

                     また、栄養バランスが偏ってしまい、聖書の全体から恵みを摂取せずに、体作りをすることになります。そうなれば、幼児期から、成人病の症状が発症し始め、召された目的もわからず、信仰も生活化せず、2,3年で教会を去ります。信仰生活が続いたとしても、虫歯だらけで糖尿病のクリスチャンが大量発生となり、固い食物を拒否する信徒、運動困難な信徒が増加します。


                    1卆絃紂Ψ鮃上の問題
                     さらには、これまたキャラ弁同様、健康面・衛生面でのリスクが増加します。キャラ弁は、通常のお弁当では使用しないような着色をします。着色料のような添加物の使用は、幼児期の子どもには好ましくありません。教会もキャラ弁化に走り過ぎると、いつの間にか、不必要な添加物を福音に混入していたりします。教会員を増やし教会を大きくしていって、気が付けば、聖書とは異なる思想や価値観が、福音に混入します。これを洗礼後の幼児期に摂取し続けると、生涯にわたる健康被害につながりかねません。

                     また、キャラ弁は、食材を手で触れるため、雑菌が入りやすく、衛生上も好ましくないとの意見もあります。神様からのキャラづくりならよいのでしょうが、人間的思いから、人の手が触れ過ぎると、「罪、肉、汚れ、成功主義、自己実現」などの雑菌が混入します。それらの雑菌は、教会の健康を蝕み、様々な病気を引き起こします。


                     というわけで、教会のキャラ弁化が行き過ぎると、上の三つのような深刻な問題が起こりかねません。以上、キャラ弁禁止と現代の日本の教会の課題の類似性を強引にこじつけて、近年のキリスト教会の歩みを振り変えてみました。神様は地域教会それぞれに、置かれた地域や時代に応じて独自のご計画をお持ちのことでしょう。それに基づいての「神意的キャラづくり」が求められるのでしょう。しかし、それを「人為的キャラづくり」と取り換えてしまうと、キャラ弁禁止に至った諸問題と同様の課題が生じるかと思うのです。


                     いくら老舗の名店でも「美味で栄養満点の茶色一色弁当」は、未信者がほとんどの日本社会では、どうかと思います。でも、未信者の来店を願うあまりに「完成度を競う栄養バランスの悪いキャラ弁」を作って、「キャラ弁競争」に参加するのは、既に「ヤバい」の域に達しているように思います。幼稚園や保育園のように、教団や団体が「キャラ弁禁止令」を発令するわけにはいかないでしょうが、地域や団体で「キャラ弁自粛の申し合わせ」くらいは、なさってはどうかと考えたりしました。

                      まあ、タコさんウインナーやニンジンの花切りくらいの飾りをつけて、ブロッコリーとプチトマトで彩りも付けた程度の見た目で、栄養バランスがよくて、衛生面で安全で、そこそこおいしく作り手の愛が込められていれば、神様の目には「優良教会」ではないでしょうか?


                     神意による教会のキャラづくりを、無理やり弁当に譬えるなら、それは、お弁当のコンセプトではないかと思うのです。「秋の味覚満載弁当」があれば「洋風セレブ弁当」もあります。「30品目がとれるヘルシー弁当」もあれば「肉食系がっつり弁当」もあります。こういうのがコンセプトです。それぞれのコンセプトが具現化されて、食材やおかずやレイアウト、容器や包装、値段までが決まるのです。

                     「神意による教会のキャラづくり」とは、教会をキャラ弁化させることではなく、神様からのヴィジョンというコンセプトによるものでしょう。つまり、神様が教会に与えられたヴィジョンを、教会全体で共有し、それを具現化する中で、教会のキャラは作られ、内部にも外部にもそのキャラが伝えられて行くのでしょう。それは、礼拝形式、宣教方法、教育のあり方、教会の文化などに形となって表れてくるでしょう。


                     「個性的な教会」「突出した性格の教会」が悪いわけではありません。問われるのは、それが、弁当のコンセプトに相当するヴィジョンの共有によるものか?キャラ弁に相当する宣教の効率化によるものか?かと思うのです。私は、前者であれば、基本的に健全だと思いますが、後者であるなら、当初のよき動機に、不純物が混入しないか常に要注意かと考えます。

                     キャラ弁禁止問題から、ここ20、30年に見られるキリスト教会のある傾向性や現象を考えてみました。力づくで無理やりの譬えや論理もあるかとは思いますが、日本の教会全体、あるいは集っておられる教会の現状認識と幸いな未来展望のお役に立てば感謝なことです。
                    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 19:13 | - | - | - |
                    キリスト教会もキャラ弁禁止?(上)
                    0
                       最近知ったのですが、いわゆる「キャラ弁」を禁止する幼稚園や保育園が増加中とのこと。概要やその理由などはこちらのyahooニュースでお読みいただけます。

                      「キャラ弁禁止」の幼稚園が増えている? その理由とは

                       

                       禁止となる理由を読んで、思ったのです。「これって、キリスト教会の問題と似ているのでは?」と。


                       そもそもキャラ弁は、作り手が子どもを喜ばせようと始まったもののはずです。普通の弁当だとあまり食べてない子どもキャラ弁だと完食するなど現実的な理由もあったと思うのです。親など弁当の作り手の愛情表現としても、楽しく全部食べさせるための手段が、どうも義務化して様々な問題が起こっているようです。キャラ弁の競争化いじめの原因化、作る母親らの高負担化衛生面の問題、栄養バランスの問題など、マイナス面があまりに大きすぎるので、園の側が一括禁止をしなくてはならなくなったのでしょう。

                       若者文化など存在せず、全世代が同じ流行歌を楽しんでいた時代(多分1960年代まで)は、日本においてはおのおのの教会の文化や宣教手段も、似たようなもので、教会間に大きな違いはあまりなかったと思われます。しかし、世代ごとに文化が多様化し、経済発展の中、関心も多様化してゆきます。そうなりますと、当然、多様化した中のある層に向けて、教会の「キャラ弁化」が始まりす。

                       教会のおかれた地域の文化、牧師や信徒の賜物や関心に呼応して、何より神様からの導きによって、教会ごとのキャラクターがつくられてゆきます。若者をターゲットした教会、賛美が盛んで音楽・コンサートなどでの伝道する教会、福祉活動など地域での愛の実践によって証する教会など、それぞれの地域教会がかなり差別化されていきます。熱烈伝道活動教会、芸能系教会、体育会系教会、お勉強系教会、社交系教会、社会活動系教会、カウンセリング系教会など、特に宣教のありようが多様化して、「キャラ弁化」したように感じています。

                       これは「普通の弁当」から「キャラ弁」への移行と似ていると思うのです。どこの教会でも変わらない普遍的な礼拝や宣教のあり方から、それぞれの教会が独自のキャラを示すあり方に移行するわけです。その動機もキャラ弁と似ています。キャラ弁がそもそも子どもへの愛情を動機としていたように、教会のキャラ弁化も、地域の魂への愛から来ているのです。一人でも多くの魂が教会を訪れ、救われることを願うのです。また、通常の弁当では食べてくれないからキャラ弁にするように、伝統的なあり方や従来の教会の文化では、来てもらえなかったり、関心をもってもらえないので、教会を「キャラ弁化」させるのです。


                       どうでしょう?日本では、1980年代から、こうした教会の多様化が本格化してきたように感じています。そして、1990年代には、そのマイナス面も深刻化したように記憶します。「キャラ弁化」は差別化でありますから、教会は信徒によって比較・評価され、間違った競争原理が働いて、いわゆる「教会移動」や「教会ジプシー」が起こります。

                       では、その比較・評価の基準は何でしょう?それも、キャラ弁と同じです。キャラ弁競争が、お弁当の「味」「栄養価」「栄養バランス」「作り手の愛情」ではなく、「外面上の巧みさ」「本物との類似性」であるのと同じです。「語られている福音の正しさ」、「交わりの愛の深さ」、「賛美の真実さ」、「説教が聖書的であること」、「教会の健全さ」などではなく、「魅力的な牧師」、「インパクトのある説教」、「盛り上がる賛美」、「目新しく興味深い教え」、「自分が心地よい交わり」などです。つまり、本質ではないのです。「キャラクターが外面上巧みで、本物に似ていること」が大切なのです。


                       こうして「中身でなく外見」、「本物でなく類似性」が求められるのです。中身は深いので、とりあえず巧みな外見を示して、とっつきをよくします。本物は「」とか「犠牲」とか、入信のハードルを高くするので、「それらを取り除いた類似品」示して、入り口を広くします。こうして、上手な「キャラ弁教会」を作れば、人は集まるわけです。

                       そうなれば、よい動機で始まったキャラ弁化も、それが標準や義務化してくると、当初の動機を失い、上に記したような逸脱が起こります。そして、具体的に起こる問題も、キャラ弁禁止に至った要因と似ているのでは?そのことについては明日の記事としましょう。

                      | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 20:13 | - | - | - |
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