命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
2014年のリベカ(3)〜梯子降下不能母子
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     ロック史上に輝く名曲の一つにレッド・ツェッペリンの「天国への階段」があります。象徴的な歌詞なので、真意はわかりませんが、文字面だけ読めば、天国への階段を金で買おうとした女性のお話です。しかし、聖書によれば、天国の階段などありませんし、ましてやお金で買うことはできません。

     聖書が示すのは、「天国への階段」でなく「天国からの梯子」なのです。英語で言えば”Stairway to Heaven”でなく、”Ladder from Heaven”となるでしょうか。人の努力や修行の積み上げで、地上から天に届くことはありません。ましてやそんな階段をお金で買うことはできません。ただただ、無代価で一方的に神様の方から、梯子を降してくれ、人は神と出会うのです。言うまでもなく、その梯子は、創世記28章が描く「天から地に向けて立てられていた」あの天地逆転の梯子、「ヤコブの梯子」に他なりません。そして、イエス様はご自身こそが「ヤコブの梯子」だと宣言しておられます。

     
     今日、考えたいこと、それはヤコブの梯子がヤコブに向かって降りてきたのが、リベカと別れた後であったということの意味です。なぜ、リベカと共に暮らしている間に、神様は天国からの梯子を下ろさなかったのでしょう。

     昨日の記事に書いたように双子の長男は、「俗悪信仰者」となりました。次男の方は、家庭にいる間は神と出会うことなき信仰者二世でした。たぶん、リベカのもとにヤコブがいる限りは、神様は、ヤコブの梯子を降ろさない判断をしておられだのだろうと私は思います。ドリフターズ世代の私などは、きっと神様は、「いかりや長介状態」だったのだろうと思い描きます。つまり、志村けんや加藤茶並に、はちゃめちゃなリベカとヤコブの母子密着関係を見ながら、「ダメだ、こりゃ」と呆れていただろうと想像するのです。

     自分の意思も判断も責任感もなく、母親の言いなりとなっていたヤコブです。この母子関係では、神様が梯子を降ろしても、ヤコブが見るのは、梯子を上り下りするみ使いではなく、大好きな母親でしょう。梯子を降ろして神様ご自身が呼びかけたとしても、ヤコブが聞くのは、リベカの声ばかりだったことでしょう。たとえ、神様からの声を耳にしたとしても、ヤコブは母の言いなりですから、母の言葉を退けてまで、神様の声に従うはずがありません。

     そう考えますと、ヤコブと出会い、取り扱い、祝福の器にふさわしい者へと成長することを願う神様にとっては、まさに、母リベカの存在自体が、最大の妨げであったことでしょう。言うなれば、リベカとヤコブの親子関係は、「梯子降下不能母子」であります。


     そして、2014年のリベカです。とりわけ未信者の夫に失望して、息子を溺愛する母の中では、息子の信仰継承が本来とは異なる意味合いを持つようになります。息子が信仰を持ち、クリスチャンとして自立をして、母のもとを離れ、社会参加し、神の栄光を表わす歩みをするようにとは、あまり願うのではなくなるのです。

     未信者の夫とは違って、息子がクリスチャンである自分の側に所属することを願っての信仰継承という意味合いを帯びるように思うのです。言い換えるなら「ヤコブ・エサウVSリベカ・ヤコブ」という対立と同様に、夫婦が信仰の有無で対立関係にある中で、母親が息子を自分の味方につけることが、信仰継承の動機に含まれていきます。

     こうなると、クリスチャン母子は共依存関係に入りやすいように観察しています。「母の意向の通り、洗礼を受けて母の味方になった息子」と「その息子を溺愛し、共に夫と対立する母」という関係です。当然、母親は貴重な見方を手放したくありませんから、無意識ながらも、洗礼は受けても、クリスチャンとして自立して、母を精神的に離れることを恐れます。そして、当分は自立して家を出ないようにと同居を願います。そうなると息子を社会的経済的自立をさせ、社会参加されることに消極的になります。

     かくして、母子密着的な家庭に神様が梯子を降ろしても自立し、社会参加し、社会でキリストを証しするクリスチャン男性となることは、困難です。これは神様が梯子降下を諦めたリベカとヤコブの母子関係と同様でしょう。


     息子に洗礼を受けてほしい母と、母の意向だからという理由で、洗礼を受ける息子、それは母を通じて、神につながっているに過ぎません。信仰的に自立をしていないので、やがて就職や進学で親元を離れるなら、教会生活も離れてしまいがちとなります。母とつながっていれば、神様とつながり、母と離れたら、神様とも離れるのです。これは、母と離れて、神様につながったヤコブとは対称的なパターンです。そうしたことは何か月か前に、ブログ記事に記しましたので、この二つの記事をご参照ください。

    息子の信仰的覚醒・自立のための「聖なる母子分離」

    逆ヤコブ系男子〜母親依存型信仰決心男子のリスク


     2014年のリベカの課題の一つは、「梯子降下不能母子」であります。天からの梯子を、降ろすことのできないような母子関係です。梯子を降ろそうと願う神様から「ダメだ、こりゃ」と呆れらる母子密着状態です。夫が長時間労働で家庭に不在がちで、さらに父親本来の機能を果たし得ず、ましてや、夫が未信者であり子育てにおいて一致困難となっている場合に、息子を持つクリスチャンは母こうした不健全な母子関係に追い込まれてゆきやすいように観察しています。夫の救いを諦めてしまっている場合はこの傾向はさらに強まるように思います。

     願わくば、父親がこうした母子関係に割り込んで、健全化して欲しいものですが、リベカのように夫を軽蔑していたり、夫と敵対関係にあると、父親の正しい割り込みさえ、拒絶するだけとなりがちです。残念ながら、一旦成立してしまった母子密着は、息子が破たんして危険信号を出して、母親が自分の非を認めるようなことがなければ、なかなか、克服へのきっかけがないのが現実かと思います。母親当人にとっては、息子への愛は無私の真実な愛であり、それは母親自身のアイデンティティー、あるいは偶像となっているからです。それを否定的に評価されることは、堪えがたい苦痛であり、自分の存在価値を否定されるように受け止めてしまうことでしょう。


     クリスチャンホームの子どもは、すべて「契約の子」だと私は考えています。神様はその子らに、適切な時期に天からの梯子を降ろそうとご計画をお持ちのことでしょう。だからこそ、そのチャンスを妨げない母子関係をと願うのです。いつ、梯子が降りてても、息子がでなく上り下りするみ使いを見るような母子関係、母親の声を退けてでも、梯子を降ろした神様からの語り掛けに耳を傾けるような母子関係。

     息子とそんな関係を築くクリスチャン母、また、クリスチャン母がそうした息子さんとの関係を作っていける教会教育やそうしたアドバイスができる教会の交わりでありたいと願います。
    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 17:13 | - | - | - |
    2014年のリベカ(2)〜意図せぬ俗悪信仰者の育成
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       「1986年のマリリン」ならぬ「2014年のリベカ」の第二回目は「意図せぬ俗悪信仰者の育成」です。昨日、記したように夫への軽蔑から、母子密着へと向かったリベカです。リベカの溺愛が向かったのは言うまでもなく、父からの愛を受けられないヤコブでした。では、父からの愛を受けたエサウは、健やかに育ったのかと言えば、そうではありませんでした。

       エサウもヤコブも、ある時期からは、両親の片方だけから愛されて育ったと思われます。双子の兄弟は両親がいながら、片親に育てられたも同然だったようです。別の表現をすればイサクの家庭は、「イサクとエサウ」の父子家庭「リベカとヤコブ」の母子家庭の二家族の共同生活だったと予想されます。

       つまり、イサク家は「二つの片親家庭の二世帯住宅」だったと思うのです。その結果、エサウは父子家庭で父に溺愛され、ヤコブは母子家庭で母に溺愛されたかのように、それぞれが、いかにもの欠点と性格の歪みを持つに至ったのではないでしょうか?

       
       父子家庭状態で育ったエサウは、父の溺愛を受けて、俗悪信仰者路線一直線です。旧約聖書の世界では、特に男児には、父が信仰教育や職業教育をしていたはずです。しかし、イサクのヤコブに対する愛は、そうした父親本来の愛ではなく、肉好きからのそれこそ「肉的愛」であったわけです。それは、肉との交換条件の愛であって、エサウの霊的成長を願い実現する愛ではありませんでした。

       一般的に父親は、「権威」「規範」「秩序」を教えるものです。しかし、イサクの父親らしくない溺愛は、エサウを、神の権威、規範、秩序を軽んずる信仰者へと育ててしまいました。それは長子の権利や祝福の軽視となって現れました。空腹時に煮物をみれば、長子の権利を売り渡し、好ましい異邦人の女性と出会えば、祝福など考えもせず、結婚してしまいました。

       つまり、「食い物と女」に弱い、欲望を制御できない衝動的かつ刹那的な人間に育ちました。永続的、霊的なものを軽視し、その場限りの欲望を満たすことを優先する信仰者になってしまいました。聖書はそうしたエサウをずばり「俗悪な者」と評価して、反面教師として提示しています。

       聖書を読むと、リベカは、エサウの信仰者にあるまじき結婚に失望し、ヒステリックに嘆いているように思われます。確かに、エサウ当人が悪いでしょう。また、そのように育てた愚かな父であるイサクも悪いに決まっています。でも、イサクとリベカが、正常な夫婦関係を築いていれば、両親のチームワークで双子男児を育てたなら、結果は全く異なっていたでしょう。イサクのマイナスをリベカが補うこともできたと思うのです。

       ですから、同情すべきかとは思いますが、やはり、夫婦関係を修復し、両親で子どもを育てようとしなかったリベカに責任がないわけではありません。夫婦は一体ですから、片方のみに責任があることはめったにないと思います。リベカの側には積極的な意図はなったとはいえ、エサウを俗悪信仰者にしていまうような母親のあり方をしていたのは事実でしょう。ですから、イサク家を「二つの片親家庭連合体」にした責任は、リベカにもあると考えるのですが、これは厳しすぎるでしょうか?

       これは深読みかもしれませんが、リベカは、イサクヘの敵意から、イサクの愛するエサウをイサクと同一視していたように思えてなりません。単に、父に愛されないという理由でヤコブを愛したのではなく、ヤコブを愛し、エサウを軽蔑することで、イサクへの敵意を表現していたのではないかと考えるのです。つまり、エサウとイサクの争いは、イサクとリベカの代理戦争で、リベカが持っていたイサクへの敵意や軽蔑は、エサウに転化していたのでは?実際に、エサウは、父同様の軽蔑ポイントを持っているのですから。


       そして、今日も何千年もの時を超えて、2014年のリベカです。長時間労働を強いられる日本の父親です。父親が本来の機能を果たすことが困難な現代家庭です。父親に正しく育てられなかった男性は、一般的傾向として、権威、規範、秩序の観念が欠落しがちです。

       男の子がクリスチャンになったものの、衝動的かつ刹那的で、信仰と進路や結婚は別で無関係です。当然のように神様を除外して就職先と結婚相手を決めてしまう息子に、悩んだり、取り乱したりのクリスチャン母に時々出会います。息子さんはクリスチャンになったのだから、これは感謝で賞賛すべきこと。ですから、母である自分や育児を決して全否定してはならないでしょう。俗悪傾向が、両親の夫婦や育て方に原因があるとは、限りません。俗悪クリスチャン息子発生の原因は、多様で、決して、2014年のリベカによるものとは言い切れません

       しかし、もし、夫への軽蔑や敵意を息子に転化していたり、夫に似ているために息子を愛せなかったり、家庭内が二つの片親家庭になっているとしたら、「2014年のリベカ」の可能性も想定して自らを省みる必要があるのかもしれません。


       リベカには同情すべき点は多々ありました。しかし、それでも、二人の息子をダメにしない選択を選びとるチャンスは、あったと私は思います。どのように残念な夫であっても、息子をマザコンにも、俗悪信仰者にもしない決意とそのための努力は可能だと思うのです。それは、軽蔑されて当然の夫、父親として機能しない夫を持つ今日のクリスチャンの母親たちも同様でしょう。創世記25章以降のリベカの姿に学びながら、周囲の者が、2014年のリベカになりそうな状況の母親に気が付き、支援の手を差し伸ばせたらと願わずにはいられません。リベカ同様の状況にあるある当人については言うまでもありません。

       また、男の子の信仰継承を困難にする要素が、日本の社会と教会と家庭には多くあると思います。さらに俗悪でない自立したクリスチャンへとクリスチャンホームの息子さんが成長するのは決して容易ではないでしょう。それだけに、クリスチャンである母親たちが、2014年のリベカにならぬよう、結婚前から創世記25章を反面教師として学んで欲しいと切に願っています。
      | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 18:18 | - | - | - |
      2014年のリベカ(1)〜夫軽蔑系母子密着
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         本ブログでは、イサクとリベカ夫妻の家庭を反面教師として学んできました。繰り返しになる要素も多いと思いますが、今回のシリーズではリベカにスポットを当てて、現代の既婚者、母親クリスチャン女性と共通する問題を考えたいと願っています。

         そこで、つけたタイトルが「2014年のリベカ」であります。故人となった本田美奈子さんのアイドル時代の代表曲のタイトルが「1986年のマリリン」でした。調べてみたら、作詞はあの秋元康さんではありませんか。この歌詞は多分、1986年版マリリン・モンローをイメージさせているのだと思います。同じように、創世記24章以下のリベカの姿を通じて、2014年版リベカを描き出し、その課題を共に考えようというのが、このシリーズであります。


         イサクとリベカの家庭の問題は過去の記事で、何度も取り上げてきました。代表的なものは、このシリーズの(2)でしょうが、シリーズものなのでまとめて紹介しておきます。

        改めて紹介「家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口」

         
         創世記24章において、イサクと出会ったときのリベカは「愛の配慮に満ちた賢い女性」で、しかも美人であったようです。しかし、25章以降が描くリベカは、「悪意に満ちたずる賢い女性」で、きっと根性の悪さが顔にまで出て美貌も台無しだったと思います。

         既婚者女性がこうなる理由は大抵の場合、にあります。多くの女性はたった一人の男性から真実な愛を受けて、それを実感できれば、精神的に満たされて、自信をつけ、感情面でも安定し、人格面でも成長し続けて、しかも美容にもいいのです。しかし、夫からの愛を受けられない妻、夫を尊敬できない妻は、愛情欲求不満となり、ひねくれたり、いじけたり、ゆがんだりして、根性も悪くなり美容にまで悪影響を与えるものです。


         リベカはまさにそうでした。イサクは信仰者としては、選ばれたサラブレッドでした。しかし、一家庭人としては、あり得ないトホホ男だったわけです。双子の男児ですから、普通の親なら、偏愛するのが難しいはずです。ところが夫イサクは偏愛をします。しかも、その理由が、エサウの取ってくる肉が好きだからというトホホぶりです。

         リベカにとってこの夫を尊敬し、仕えていくのはかなりきついです。もちろん、子どもを守るために夫婦げんかをしてでも問題解決に向かえばよかったのでしょうが、どうも、リベカは、そうした努力をしなかったか、したけど最終的に諦めたか、あるるいは当時の男女関係では、妻は夫の欠点に触れることもはばかられたのかもしれません。

         イサクの偏愛は極めて残酷なことで、双子の男児の人格を著しく歪めることは明らかでした。それなのに改めようとしないイサクをリベカが、心の底から軽蔑していったと想像できます。「何が、アブラハムの約束の子よ。祝福の基の後継者よ!肉が好きで双子の片方を偏愛するなんて、サイテーよね」。

         夫を軽蔑して、夫への愛情を失っていくと、大抵の母親は、子どもに入れ込みます。特に男の子に夫の代理機能を求めます。夫に注ぐべき愛を、息子に注いでしまうのです。その結果、起こるのが「母子密着」「過保護」「過干渉」です。いずれも子供の健やかな成長と自立と社会参加を妨げるものです。


         そして、信仰者リベカの時代から数千年後、2014年の日本の信仰者です。夫を軽蔑し、夫に注ぐべき愛を息子に注ぎ、母子密着の中で、息子の自立と社会参加を妨げているリベカの様は、とても現代的だと思うのです。特に都市部の教会に行きますと、親からの心理的自立が不足しており、しっかりとした社会参加ができていないクリスチャン青年男子をよく見かけます。もし、彼らが、ある意味、2014年のリベカとイサクの犠牲者となっいるとしたら、残念でなりません。


         勉強机に向かう小学生の息子に「○○ちゃん、勉強頑張るのよー、あなただけがママの生きがいお父さんはだめだからー」と語り掛けるなら、「2014年のリベカ」です。驚くべきことに中学一年男子の場合、クラスに一人は母親とお風呂に入っているそうです。どうも、これは本当らしいです。息子は嫌なのですが、断ると母親が悲しむから、言い出せないのです。実行はしなくても、心の中で中一の息子と入浴を願うクリスチャンの母親がいるなら、それは、「2014年のリベカ」でありましょう。

         これは、名付けて「夫軽蔑系母子密着」であります。私たちは、聖書を読みながら、そしてイサクの家庭の物語を熟知しながら、家庭人としてのあり方については、あまり学んでいないのかもしれません。何か、観念的な教理ばかりをそこに読み取りながら、「選ばれた民としての家庭のあり方」はスルーしてきたのかもしれません。いいえ、家庭の中に福音の光が差し込むのを無意識に避けてきたのかもしれません。


         日本の男性は、一般的傾向として、自立度が低く、幼児性が高いように思います。結婚後に妻が夫を軽蔑するネタはいくらでもあります。そもそもクリスチャン女性たちが、結婚前に、聖書が示す男性理解を学ぶことなく、理想のクリスチャン夫や父という過剰な期待を結婚相手に抱くことに問題があるのかもしれません。


         「夫が尊敬できない」というクリスチャン妻の課題については、かなり以前に記事を書いています。言葉遣いなど配慮を欠く面は多々あるかと思いますが、参考になればうれしいです。

        夫が尊敬できない!(1)

        夫が尊敬できない!(2)

        夫が尊敬できない!(3)

        夫が尊敬できない!(4)

        夫が尊敬できない!(5) 


         2014年のリベカの皆さん。夫が尊敬できないのは、夫の側により大きな責任があるでしょう。妻の側は同情されるべきかもしれません。しかし、子どもを夫婦の犠牲にする権利は、ないのです。夫婦の問題を解決せずに、夫婦当人が苦しむのは夫婦の責任範囲かもしれませんが、夫婦の問題を次の世代に、負の遺産として相続させてはならないのです。その相続を断ち切るために神様はヤコブを家庭から強制隔離させざるを得ませんでした。どうか、「そのこと」を創世記25章以下のリベカを通じて、学んでいただきたいのです。

         どうか、子どもに悪影響を及ぼす前に、健やかな成長と自立を損なう前に、夫が尊敬できない問題があるなら、夫婦自身で向き合って解決の努力をなさってください。それが功を奏しないようなら、指導者や先輩クリスチャンや家族カウンセラーなどに、打ち明け助けてもらって下さい。「教会で言えない」と一人で抱え込んだり、「こんな夫でも、私一人が我慢すれば」という対処は、かえって子どもを歪めます。

         さらに、それは、全く聖書的ではありません。夫婦が向き合うこと、第三者に伝えて助けてもらうこと、福音の光を最も隠したい分野に迎えること。交わりと御言葉に生きること。それが、聖書が示すの原則です。それが、子どものためになるのです。夫婦の交わりによる克服、教会の交わりの中での解決、み言葉に生きること、それこそ、聖書的であり、最高の解決方法に違いありません。

        夫軽蔑系母子密着

         それは、創世記25章以下のリベカの課題であるとともに、2014年のリベカの課題と言えるでしょう。リベカが示すリアルで現代的な葛藤と逸脱と歪みを、今日のクリスチャン妻、母たちのこととして、受け止めたいものです。
        | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 09:02 | - | - | - |
        正しく評価され、求められるべき「父親ならではの距離感と冷静さ」
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          「あなた!子どものことにもっと関心もってよー」

          「もう少し、子育てに協力してもいんじゃないのー!」

           母である妻から、父である夫へのそんな言葉、日本ではありがちなことですね。そのようにお怒りになるお気持ちは、ごもっともですが、結構、夫が関心を持ち、協力の意志もあるのに、そうなっている場合も無きにしも非ずかと思うのです。どうして、妻の目には、夫が無関心で非協力的に映ってしまうのでしょう。実態はそうでないのにです。

           一つの要因は、「父親≠母親」であることが分かっていないことにあります。言い換えれば、同じ親でも男性と女性は違うということです。さらに突き詰めれば、母親が分かっていないのは、父親ではなく、男性なのです。つまり、母親の男性理解が浅いので、夫が事実と違って無関心で非協力的だと評価してしまうのです。


           子育てに関心や意欲があっても、父親の子どもに対しての関わり方は、母親とは大きく異なります。母親のように感情面で一体化するようなことはあまりありません。母親は子どもを胎内に宿していたので、リアルな一体感もある一方で、他者感覚に欠けるでしょう。しかし、父親にとっては、かわいいわが子も、どこか他者なのです。そこが違うのです。

           そして、その違いは悪いものではなく、よいものと評価すべきでしょう。私はこうした他者感覚とそこから生じる距離感、感情を共有しない冷静さなどが、父親ならではの長所だと思います。それは、母親から見れば、冷めて見えます。愛情や熱意が足りないように評価したくなりますが、そうではないのです。むしろ、こうした距離のある愛し方や接し方が、子どもにとってはプラスなのです。

           距離感をもって冷静に、客観性と展望性をもって子どもを見ることができるのが、父親の子育てにおける貢献ポイントなのです。常に第三者的に視点があるから、子どもが自立するまでのことを、展望して、考えて接することができます。それは、日々生活で子どもと共に過ごす時間が多く、他者感覚に欠けて、適切な距離が取れず、感情的になりその場のことに囚われて、展望をもって冷静に子どもを見ることが難しい母親にとって最高の助けなのです。

           そうです。母親は二人必要ありません。父親に母親同様の接し方を要求するなら、それは母親が二人であることを求めているようなものです。それは、子どもにとっても、いい迷惑です。父親には、父親なりの子どもへの接し方を要求しましょう。

           夫が子育てへの関心が薄く協力的でないとお嘆きの母親の皆様には、「本当にそうか?」を、一度検証されてはいかがでしょうか?もしかすると、ご自分の関心と熱意と同じでないからという理由で、男性なりの関心と熱意を評価できていないだけかもしれません。だとしたら、夫の正しい育児参加を正当に評価してこなかったことになりますから、これは結構、残念かつ残酷なことかもしれません。


           そうかと思えば、正反対の現象が昨今は起きています。いわゆる「イクメン」がまだまだとは言え、増加中だそうです。好ましい傾向だし、男性が育児をするのは聖書的でよいと思っています。でも、最近、一つだけ心配要素をお聞きしました。それはイクメンたちが、母親のように子育てをしているというのです。つまり、父親でなく、二番目の母親として育児をしているのです。

           その結果、距離感や展望性を持てず、自立に向けて育てられなくなっているのだとか。あるいは、子どもが、自分を離れていくのが寂しくて、父親が子離れできないというのです。これでは、母親の欠点と同様です。「本来、父親が補うべき母親の欠点を、自分が代わりに持ってどうすんの?」ということです。

           自分が父親に育てらえれていない父親は、特に母親のような接し方をしてしまうのだろうと予想します。自分を育てた父というモデルがないのですから、自分の妻である母や自らの母をモデルとしてしまうのでは?と心配です。

           こうなると、夫が子育てに関心があり、協力的だからと言って、喜んでばかりではいられないでしょう。母親は、夫が子どもに母親のような接し方をしているなら、自分とのバランスや役割配分を考えて、評価しなくてはなりません。子どもにとって母親役が二人いれば、父親は不在同様で、マイナスが2倍となりかねません。距離感を持ち冷静に接するタイプの母親もいますから、要は、両親夫婦が、「相互補完的か?」「それぞれの長所を出しあって育児をしているか?」がポイントなのでしょう。

           
           というわけで、夫が子育てに無関心で非協力的とお嘆きの母親の皆様も、イクメン夫を喜んでいる母親の皆様も、「子どもにとって、父親の機能が果たされているか?」の視点で、子育てを、そして自分たち両親夫婦を評価してみてはどうでしょう?
          | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 17:52 | - | - | - |
          逆ヤコブ系男子防止策〜「離しつつ、結びつける」
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             一昨日の続きです。繰り返しになりますが、日本は世界有数の母子密着国だそうです。日本のように、夫の異常なまでの長時間労働と家庭不在は、夫婦が向き合う時間を奪い、やがて妻の愛情を夫から離れさせ子どもに向けさせます。特に異性の子どもである息子に対しては、夫の代理のようにして過剰な愛情を注いでしまいます。それが過干渉や過保護となり、息子を人格的にも信仰的にも自立不足にしてしまいます。その中で、「逆ヤコブ系男子」という現象も起こってくるわけです。

             とりあえずこれを防ぐことができるのは、牧師や教会学校教師などです。信仰決心がどのような動機に基づくかチェックするのです。「決心は、それとも神の招きへの応答か?母の意向に対しての応答か?」「主体的に神の恵みに応えての決心か?母親からのプレッシャーに負けた結果か?」を観察し、判断するのです。

             もちろん、100%前者でなければならないとは思いません。後者の要素が一定あるとしても、前者が中心で根底にあることが大切だと考えています。そのように指導的立場にある方が、一定の教理理解や人格的応答性をチェックすることで、逆ヤコブ男子を防止することは可能だと考えているのですが、どうでしょう?

             「どんな動機であれ、早く洗礼を受ければよい」「洗礼さえ受ければ後は神様がよくしてくれる」というのは安易すぎるでしょう。「信仰継承」とは、子どもが洗礼を受けることがゴールではないからです。子どもが洗礼を受け、信仰的に成熟、自立することがゴールだと私は思います。親からのプレッシャーが強い子どもの場合には、早すぎるスタートによってゴールを失わせるより、確実にゴールに向かえるよう、慎重なスタートをさせることが賢明なのでは?


             以上は、いわば「応急処置」であり「対処療法」でした。それに対して、ここからは「病気になりにくい健康づくり」であります。つまり「逆ヤコブ系男子にならないための育児・信仰継承」です。ここでは、まず「育児」と「信仰継承」を便宜的に分けて考えます。

             いつも記していますように、創世記2:24は「父母を離れ」と育児の本質を示しています。子育ては、子別れです。子どもが親を離れることが神様のみこころであり、育児の目標なのです。つまり、子どもは別れるため、育てているのです。子どもは親のものではありません。神様のものです。東京神学大学の近藤勝彦先生は「神の所有、人への委託」と聖書の生命観を簡潔に表現しておられます。「神様から委託された命を、自立に向けて育て、親を離れさせ、神様にお返しし、社会に送り出す」。これが聖書的な子育ての理念でしょう。

             いつまでもそばにおいて、かわいがったり、自分に喜びを与えてもらうために育てているのではありません。子どもをペット扱いしてはなりません。「飼育」でなく、「育児」をしましょう。特に息子は、80%の確率で若い女にとられるのです。どうせ、他の女にくれてやるのですから、嫁に「お母様、○○さんって、マザコンね」と子育てを非難されないように、しっかり息子を自立させましょう。

             というわけで、育児に関しては、離れる方向です。それに対して信仰継承とは何でしょう。それは「離れる」に対して「結びつける」ことだと思うのです。息子が神様に出会い、やがて、信仰によって深く結びつけられ、生涯を神様との交わりに生きていくことでしょう。


             「離す」のが育児で、「結びつける」のが信仰継承であるなら、母子関係は、次のような四つに大別できるでしょう。

            ‖子が、母親に結びつき、それによって神様に結びつく
             
             これは、逆ヤコブ系男子となる可能性が高まりますね。

            息子が母親に結びつき、神様から離れる

             これは、「自立不足の未信者男性」となりそうです。

            B子が、母親から離れ、神様に結びつく

             これは聖書的な育児と信仰継承の融合にして、理想形でしょう。

            ぢ子が、母親から離れ神からも離れる。

             これは、「自立した未信者男性」となるパターンでしょう。


             この四つのパターンの内、やはりが聖書的正解かと思われます。聖書が示す育児の方向性「父母を離れる」と信仰継承の方向性「神と結び付ける」を両立しているからです。

             親が愛情を注ぎ、子どもがそれに応答し、教会学校に来て、素直に福音を受け止めるのは、せいぜい小学校まででしょう。そうです。「親に結びつけ、神様に結びつける」あり方は、小学校までが限界です。中学以降は、子どもたちは、本格的に親を離れ始めます。中学以降の「親に結びつけ、神様に結びつける」あり方は逆ヤコブ系男子を作ったり、子どもを自立不足にしたり、信仰に対しての強い反発を与えてしまいかねません。

             ですから、中学以降は、「いかに健やかに子どもを離れさせるか?」と「いかにして子どもを神様に結びつけるか?」の両立を目標とすべきでしょう。これは、決して簡単なことではありません。子どもは親を離れて、学校の友人関係や自分の興味関心に精神的基盤を移します。それは、神様に結びつくことを困難にしてしまいます。


             有効なことの一つは、親から精神的に離れていく子どもたちを、主にある交わりに結び付けていくことかと思います。具体的には、子どもが同年齢の教会関係の友人、あるいは学生伝道団体、教会の兄貴分や姉貴分、できれば、牧師夫妻や教会学校の先生などにも結びついていくように、勧めたり支援することかと考えています。

             子どもが親を離れて、別の主にある人々に結びついていくことは、心情的には寂しいことです。しかし、それが、健全な自立に向けた育児のためのも、神様に結びついていく信仰継承のためにも必要不可欠かと思うのです。

             子どもの側では、精神的親離れが始まっているのに、親の側が子どもへの接し方をシフトチェンジしないことが、育児面でも信仰継承面でもマイナスをもたらしているケースが多いように感じています。特に、父親の育児参加が困難な日本の家庭の置いては、母親と息子との間で、それが起こりやすいように思うのです。

             中学生以降は、子どもは親の言いなりにはなりませんし、また、してはならないのでしょう。特に聖書の言葉を用いて、親が子どもを言いなりにさせようとするなら、賢い子どもはそのインチキを見抜いて、親を尊敬しなくなり、信仰を持つ意欲を失いかねません。

             むしろ、親の方こそが聖書の言葉に従って、子どもを離してくのです。そして、神様に結びつけていく方向で、子どもとの関係を築いていくべきでしょう。子どもを次第に親から分離させ、主にある人々の交わりに結びつけて、信仰決心と信仰の成熟と自立に向かわせるのです。


             日本の社会と教会の現状を思うと、決して容易ではないチャンレジでしょうが、私はこれが聖書の指針であり、この原則に立って、育児と信仰継承を一体として同時進行していくことが、神様から親として委ねられた使命を果たしていく最善の道だと信じているのですが、どうでしょう?

             信仰継承が困難で、逆ヤコブ系男子が多発している現代にあって、今回の記事が微力であっても、それを克服していく助けになればと願っています。
            | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 15:07 | - | - | - |
            逆ヤコブ系男子〜母親依存型信仰決心男子のリスク
            0
               昨日、扱ったのは母親との別離信仰覚醒につながったヤコブの事例でした。本日、お伝えしたいのは、いわば「逆ヤコブ系男子」であります。それは、母子密着関係の中で、信仰決心をしたために、母親との分離によって、信仰が自立するのでなく、信仰から離れてしまうのです。言い換えれば、母親依存型の信仰の故に、母を離れての信仰的自立ができない男性クリスチャンのことです。

               逆系ヤコブ男子は、そもそも信仰決心自体が、かなり母親からのプレッシャーによるものです。母を悲しませることはできず、母を喜ばせることを善とし、母親のご機嫌を伺いながら、普段から過ごしています。教会学校に通いながら、心優しい逆ヤコブ男子は、いつか、はっきりと信仰をもって洗礼を受けて、母親を喜ばせたいと願っています。


               やがて、中学生になり、そのことに疑問を持ち始めます。自分には母親が望むのとは別の人生の選択肢もあることに気が付きます。しかし、母親の過干渉、過保護、支配の強さ、プレッシャーなどから、疑問を口にできませんし、教会を去る決断をできません。こうした葛藤を持ちながら、親にも牧師にも話すことなく過ごしてゆきます。

               男子の中には、ここで、親の意に反して、教会生活から遠ざかる者も少なくありません。しかし、逆ヤコブ系男子は、母親の意に沿わないと不安なので、教会生活に留まります。中高生男子が教会に集い続ければ、次には洗礼を受けるかどうか?が問われます。母親の意向は「中学時代のうちにぜひ」「高校生になってから」「大学生になってからでよい」など様々ですが、逆ヤコブ系男子は、自分の信仰的成熟度や主体的決断より、こうした母親の意向を尊重してしまいます。

               最終的には、霊的準備や当人の心からの決断が、怪しいまま、洗礼を受けることとなります。その後の信仰生活も、どこか母親に精神的に依存したままで送ります。「母親の信仰に間借りするような」という言葉でよく表現されるあり方が継続します。このままですと、精神的にも、信仰的にも親からの自立が進行しません。


               そして、いつか物理的に親を離れて生活する人生のステージがやってきます。それは、離れた地域への進学や就職、あるいは結婚などがきっかけとなります。母親は当然息子が、別の地域の教会に集い信仰生活を継続すると期待しています。しかし、これが転機となり、時に逆ヤコブ系男子独自の現象が起こります。


               それは「母親離れ=教会離れ」という現象です。


               主に母親からのプレッシャーで信仰決心をしたのですから、母親から物理的に離れてプレッシャーから解放されたら、教会生活を送るモチベーションは消失します。特にそれまでに信仰的自立が為されておらず、母親の管理が厳しく自由が著しく制限されていると、一気に世の中に染まり切り、女性問題などの逸脱的行為に走ることも珍しくありません。これは勉強一筋で育った高学歴のよい子系クリスチャン男子によく見受けられます。要は自由行使の練習と自己責任を取る訓練をする機会のないまま、親から離してしまったわけです。

               進学・就職以外の転機と言えば結婚です。結婚によって、母親と離れた逆ヤコブ系男子の場合は、結婚後に教会生活が一変します。妻もクリスチャンなのに、結婚後に教会に行かなくなる男性クリスチャンもいるようです。妻だけが教会に集うという予想外の展開に母親はパニックになったり、絶望をしたりです。実は、なるべくしてなっている必然性に気が付いていないのです。

               妻が未信者である場合には、さらに母親にとって辛いことも起こります。逆ヤコブ系男子は、母親への姿勢が妻に転化されやすいので、結婚後は妻が主導権をとることになります。自分の教会生活も一定、未信者である妻の意向に沿って送ります。妻とその両親の意向が強ければ逆らえません。以前は教会で忠実に奉仕していた息子が、孫のお宮参りをするなど、母親にとっては受け入れがたい状況に至ってしまうことも。

               母親と物理的に離れる前に、できるだけ心理的自立か信仰的自立のどちらかを進めておかないと、逆ヤコブ系男子の教会生活離脱は、なかなか防ぎ得ないように観察しています。

               息子さんの信仰継承を願うのは当然ですし、洗礼を強く勧めるのもよいでしょう。しかし、息子さんがノーを言えないほどのプレッシャーを与えてはならないと思うのです。将来、母の意向に沿うより、神様の意向に従うクリスチャンになるために、母親の顔色をうかがうのでなく、神様の前に自己決断をして結果責任を果たせる自立したクリスチャンになっていくために、当人なりの納得と決断を尊重していただけれたらと願うのです。


               自分の意志でないわけではないのですが、かなり母親の意向を受けて信仰決心をして、母親に依存して信仰生活を送ってきたと思われる若き男性クリスチャンたちが、進学、就職、結婚を機に、教会生活を離れ、世の人のように生きていく事例を多々見ながら、「逆ヤコブ系男子」という言葉を思いつきました。


               「母との離別=信仰の覚醒と自立への一歩」となったヤコブ

               「母との離別=教会離れ」となる逆ヤコブ系男子


               その違いがこの記事を通して伝わればうれしく思います。では、どのような指針で母親は息子の信仰継承に励めばよいのでしょうか?私なりの見解は明日の記事で記すこととします。 
              | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 17:02 | - | - | - |
              息子の信仰的覚醒・自立のための「聖なる母子分離」
              0
                  先々週の火曜日から金曜日までは、某団体の全国青年キャンプのような集会で奉仕。メインテーマは「自立」「親からの自立」「社会人としての自立」「家庭人としての自立」「信仰の自立」という四回のメッセージをさせていただきました。

                 オープニング礼拝は、団体の先生がみ言葉を取り次いで下さいました。創世記28章から自立という視点で、/斥佑琉貶的な恵み(上からのはしご)、⊇吠,量鸞(臨在、守り、子孫など)、1答(什一をささげる約束)の三点で、語られました。
                 
                 この時、改めて気が付いたのです。母を離れてすぐに神様はヤコブに出会ってくださったということを。親離れが、信仰的自立の第一歩だったのです。母から溺愛を受けて、神を除外して母の言いなりになっていたヤコブは、今で言えば、「クリスチャンホーム育ちのマザコン男」に相当するでしょう。
                 
                 身から出た錆とは言え、強制的に母を離れざるを得なくなったヤコブです。主権によってヤコブをお選びになった神様は、マザコンで父の愛を実感できず性格が歪みまくったヤコブを、何とか、選びにふさわしい者とする必要がありました。その第一歩が「母との強制離別」だったのでしょう。これなくしては、それに続く、べテルでの神との出会い、その後の信仰的自立と成熟は、ありえないとご判断されたのだと思うのです。

                 
                 日本は世界でも有数の「母子密着国」だと言われます。母親の過保護や過干渉が、息子の神との出会い、信仰の自立を妨げているケースもなきしにもあらずでしょう。もしかすると、息子さんの信仰の目覚め、信仰的自立のために必要なのは、母親側の子離れなのかもしれません。母親として、息子さんを別人格として扱い、自分の思いと願いとは異なる神様の計画に委ねていくことが、必要なのかも。 
                 
                 私たちは、ヤコブの育った家庭が信仰者家庭であったことを忘れてはなりません。今日のクリスチャン家庭でも、同様の課題は起こりうることです。「クリスチャンホームなのに」ではありません。人間の罪深さの故に「クリスチャンホームにも」同じように、このことは起こるのです。


                 
                 どんなに痛んだ家庭でも、息子さんが歪んで育ってしまったとしても、ヤコブをあの手この手で選びにふさわしい者へと変貌させた同じ神様は、今日もその息子さんを、選びの民としてふさわしい者へと変えてくださいます。私たちが選びにふさわしくない子育てをしてしまっても、それでも神様は、その失敗をフォローし、リカバーして下さるのです。選ばれた側の私たち人間は時に、選びに対して不真実ですが、選んだ側の主は、徹頭徹尾、選びに対してご真実な方なのです。クリスチャンの家庭形成の希望は、この神様の側のご真実さにあると思えてならないのです。

                 母子密着の場合は、息子さんの信仰的覚醒や自立の第一歩が、母親からの心理的分離であることも、少なくないように思います。創世記28章は、そのことをも私たちに教えてくれているのでしょう。そして、今日も神様は、同様にお働きになり、当人たちの意志に反して、時に無残な形で、不本意な経緯や理由で、「聖なる母子強制分離」をなさることもあるのでは?もし、ご自分や周囲の方が、リベカとヤコブのような母子関係にあるなら、この「聖なる母子強制分離」も、検討してみてはどうでしょう?
                | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 16:58 | - | - | - |
                改めて紹介「家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口」
                0
                   7月は、大阪の教会で奉仕をさせていただいたいのですが、極めて珍しいことに、礼拝説教のタイトルについての希望をいただきました。それは「家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口のようなタイトルで」という趣旨です。これは本ブログのタイトルを意味します。そこで、それに準じたタイトルで、イサク家の家庭崩壊とその破れ口から希望の光を差し込ませ、ヤコブを回復に向かわせた神様の恵みをお取次ぎしました。結論のアピールは、「家庭の破れ口を隠さないで。自分の手でふさごうとしないで。それは神様にとって希望の光を差し込ませる窓口だから」というもの。実は、これはJEAの品川総主事から、お借りしたフレーズに過ぎません。

                   以前もOCCでお会いした学生伝道団体のスタッフから、学生に家庭問題を話す際に、本ブログの「家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口」が参考になったと感謝をいただきました。改めて、自分で読んでみると、自分が書いたと思えない程、感動してしまいました。我ながら、おめでたいと思います。

                   というわけで、手前味噌で恐縮なのですが、家庭問題で苦しむ方々を助けるために、このシリーズを改めて紹介することにしました。よろしければ、ご一読下さい。

                  家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(1)〜品川師に学ぶ

                  家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(2)〜聖書の信仰者家庭に学ぶ

                  家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(3)〜聖書の「祝福」に学ぶ

                  家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(4)〜イエス家に学ぶ

                  家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(5)〜現実の信仰者家庭から学ぶ

                  家庭の破れ口、福音の光が差し込む窓口(6)〜ファミリーフォーラム最新号に学ぶ
                  | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 17:26 | - | - | - |
                  盲導犬育成ボランティアに、子育てを教えられる
                  0
                     先日お会いした牧師は、盲導犬育成のボランティアをしておられました。初耳だったので、いろいろとお尋ねしました。一般の人たちが、10か月程育てた犬が、その後訓練されて、盲導犬になることを初めて知りました。その最初の10か月を育てるボランティアがあるのです。これは、犬を育てて、目の不自由な方のお役に立てるし、犬好きの方には、よいボランティアなのでは?と思いました。

                     でもすぐに思ったのです。「かえって、犬好きの方にはきついかも・・・」と。そうです。たった10か月でお別れだからです。普通の犬なら、何年も育てて、大抵は飼い主より先に犬がお亡くなりになります。しかし、このボランティアは、10か月で生き別れなのです。

                     また、お聞きしたところ、将来盲導犬になれるのは3割程度なのだとか。そして、将来の盲導犬ですから、育てる中で、いくつかのルールがあるそうです。その一つは、飼い主の食べているものを、与えないことです。将来、ユーザーの食事を食べたくなるようでは盲導犬は務まりません。人間と犬の食事が別であるとの徹底した認識を与えなくてはならないようです。

                     これをお聞きして思ったのです。「これって、人間の子育てに似ているなー」と。「子育て」は「子別れ」であります。20年か30年育てたら、ある意味、生き別れなのです。子育てのゴールは自立、そして、子の自立とは親にとっては「精神的生き別れ」のようなものです。

                     通常のペットは、飼い主と生き別れて市民社会に参与はしません。ポチは、首輪を外して、自立をして世間に出ていくことはありません。しかし、盲導犬は飼い主と生き別れて市民社会に参与していくのです。いいえ、そのために、ボランティアの飼い主は育てているのです。

                     通常の犬はどう育てようと、飼い主の勝手です。しつけができていなければ、その被害をこうむるのは、飼い主です。しかし、盲導犬候補の犬は、市民社会に参与して、目の不自由な方を助けるられるよう育てなければなりません。社会参与を前提に育てなければ、その飼育は失敗と評価されてしまいます。

                     子育てとは、神から委託された尊いいのちを、自立させ、神にお返しし、社会に送り出すことだと私は考えています。

                     それは、そばにいつまでもおいて、かわいがり、飼い主に慰めを与えるための通常のペットの飼育とは、正反対と言えるでしょう。「それゆえ男は父母を離れ」(創世記2:24)が示す聖書の子育ては、盲導犬育成ボランティアに近いかな?と思ったのです。

                     「何を目指して子どもを育てているのか?」

                     盲導犬育成ボランティアを思い描けば、それは聖書的な指針になるのかも知れませんね。
                    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 08:18 | - | - | - |
                    男の子を育てる母親たちの笑いとがんばりのために
                    0
                       子育ての苦労をよく相談されるのですが、男の兄弟がいない女性の中には、男児があまりに理解不能で参ってしまう方も少なくないようです。そんな母の皆様には、知人牧師夫人がF.B.で紹介しておられるこのサイトをご紹介します。めちゃくちゃ笑えます。

                       爆笑!男児を持つ母による「アホ男子母死亡カルタ」
                       http://buzznews.asia/?p=33906

                       カルタの内容の一部が、男児の父親にも当てはまることについては、読まなかったことにしてくれんかなー・・・。

                       完全に男児を育てる母親の脚引っ張ってるもんなー・・・。
                      | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 21:57 | - | - | - |
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