命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
kiroroの「未来へ」に学ぶ「健全な親離れと子離れ」
0
     最近、聴いているのは遅ればせながら徳永英明のVOCALISTシリーズ。売れているのは知っていたのですが、そんなに評価していませんでした。先日、改めて、まとめてレンタルしてびっくくり。これは売れて当然、いいえ、こうした作品が評価されて商業的に成功する日本の音楽市場の成熟振りにも驚いています。

     企画と歌唱は言うまでもありませんが、どこまでも歌唱と歌自身を引き立てる編曲と伴奏には脱帽です。オリジナルでは気がつかなかった作品の持つ魅力、とりわけ詩の世界を発見させてくれました。インパクト重視の奇をてらったアレンジなどまったくありません。作品自身の素晴らしさを忠実に伝え、表現しています。徳永も技巧に走らず、過剰な感情移入もなく、でも、歌詞がダイレクトに心に届きます。

     そこで、思いついたのはこのシリーズの楽曲から学ぶという企画。一回目に取り上げるのはkiroroの「未来へ」。今や、卒業ソングの定番のようですね。恥ずかしながら、今回、徳永バージョンを聴いてみて、初めて、母と子の歌であることに気がつきました。

     その歌詞はこちら!
    http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=64978

     「勉強しなさい」ではなく、「愛を抱いて歩め」と繰り返し教える母はアッパレ!人として本質を教えられない母親、中身のない母親ほど、「勉強しなさい」しか言えないもの。その点、愛を第一に教える母は最高であります。幼い頃から、分からなくても繰り返し本質的なことを教えるのです。思春期に入って拒否されるまでは、幼くても伝えるのです。それは、理解できるように成熟した時に、開花し、実を結ぶのです。

     その母は言葉だけでなく、実行の人でした。「不安になれば手を握り共に歩んできた」という母の優しさ。しかし、子どもも親離れをしていきます。その愛をいつまでも、素直に受け止められるはずがありません。「その優しさを時には嫌がり、離れた母に素直になれず」という歌詞の通り。

     そうしたプロセスを経ながら、子どもは、自分の足で立って、自分の道を歩み出します。母を離れて・・・。

     「ほら、足元をみてごらん、これがあなたの歩む道、ほら、前を見てごらん、あれがあなたの未来

     ここには、子育ての理想的なプロセスがあるように思うのです。
    〇童期までは分からなくても本質的なことを伝える
    ∋彌婀までは、時に手を握り共に歩んであげる
    子の親離れの表れとしての反抗期
    親を離れて、本格的な自立の開始

     子どもの成長段階に応じて、優しい愛を注ぎ続ける賢い母の姿がここにはあります。

     幼児期から「勉強」「習い事」、思春期にも反抗をさせないほどの支配性、親の言いなりのよい子にして、自立できない大人にしてしまう・・・・。それは、家庭教育に父親が参加しない場合、夫が妻と向き合ってくれない場合などに、孤立した母親が犯しかねない現代における「典型的育児失敗パターン」でありましょう。

     そこで真逆の替え歌を考えました。
    「その優しさをいつも喜び離れず母に素直であった」
    「ほら、手元(の学校パンフ)を見てごらん、これがあなたの歩む道」
    「ほら、ママを見てごらん、あれがあなたの未来」

     子を手離さず、自立に向けず、常に子の為と言いながら、自らの意向どおりに子の進路と将来を決めてしまう母とその間違った愛を拒否せず、母の意向どおりに歩み、自立できぬままの子ども・・・・。「未亡人製造機」と呼ばれるオスプレイも心配ですが、「冬彦さん製造機」と呼ばれかねない家庭は、さらに心配であります。

     改めてこの名曲が示す母のあるべき姿、発達段階に応じた子どもへの愛の注ぎ方を、学びたいものです。
     
    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 15:09 | - | - | - |
    ビール商品開発者に学ぶ「若者を振り返らせる本物追求」
    0

       昨日は某所の待合室で、そこにおいてあった経済誌を読みました。そこでには、主要ビールメーカー4社で商品開発に携わるアラサー女性の対談が掲載。目が留まったのは、サッポロビール勤務で「エビスビール」の商品開発担当の女性の言葉。

       「若者に無理におもねるのではなく、本物を追求し、振り返らせる

       「エビスビール」は120年以上の歴史を持つブランド。きっと伝統芸能のようなもので、変化して進歩することよりも、いつも変らぬ同じ味であることが重要となるのでしょう。商品開発と言っても、味を変えようとすると、反対意見が多いようです。ですから、この商品開発担当は、味を変えるのではなく、熟成期間を長めにするなど、どうも「味を深める」、「味を極める」という努力をされた様子。それが、「本物を追求する」ということでしょう。逆にエビスビールは若者に無理におもねって味を変えたら、エビスビールでなくなるということ。

       福音をビールに喩えるのはどうかという意見もあるでしょうが、イエス様も福音をぶどう酒に喩えているので、お許しください。この記事を読んで、これは、若者宣教や信仰継承に通じるかな?と思いました。福音についてのその伝達方法や真理の表現は、若者向けに変えていくことが、できるでしょうし、聖書自身も宣教対象によって伝達方法を変えることを支持しているようです。

       しかし、エビスビールがそうであるように、福音の味を安易に変えてはならないでしょう。神の言葉100%の品質なのですから、そこに若者に無理におもねる味を混入すべきではないと思うのです。たとえば、「なりたい自分になれる自己実現の福音」とか「罪の教理なき、あるがままの受容オンリーの癒し系の福音」とか、福音全体を当世若者にとりあえず受けそうな味に変えてしまうのはどうでしょうか?

        「若者に無理におもねるのではなく、本物を追求し、振り返らせる」 

       この言葉には、自らも含めて考えさせられます。教会で説かれ、自分が信じているものは「正しい本物」なのです。しかし、教会から遣わされた家庭生活、職業生活、市民生活にあって、「本物に生きることを追求しているだろうか?」と。「未信者が見ている場面で、自分は本物を追求し、未信者を聖書の真理に振り返らせる生きかたをしているだろうか?」と。

       「正しいことを聞いて信じていること」と「本物を追求して他者を振り返らせること」とは、別のことであります。そう、「正しさ」と「本物」は別。前者は、「キリスト者であること」を意味し、後者は、「キリスト者として歩んでいること」を示すのでしょう。「信じる内容の正しさ」が「本物としての歩み」を保証するわけではありません。当然、「未信者の真理への振り返り」も保証しません。ローマ12章の冒頭で「生きた聖いそなえものとして自らを捧げること」「世と調子を合わせないこと」を大使徒パウロがまるで土下座するように懇願しているのは、きっと後者についてのことだろうと思うのです。

       私自身は、中高生や青年を対象にメッセージをする時、大人が対象の場合とは異なる要素が問われます。それは「本物度」「本気度」です。大人が対象の時は、「内容の正しさ」「説教の優劣」が問われる気が私はしています。もちろん、若年層にもそれらは大切ですが、それ以上に「説教者自身が本物で本気か?」が、会衆を前に迫られているように感じます。ですから「上手でなくてよいので、本物として本気で」という姿勢で臨みます。

       会衆にとって「本物を追求し、振り返らせる説教者」であるか?
       教会の若者にとって「本物を追求し、振り返らせる先輩クリスチャン」であるか?
       子どもにとって「本物を追求し、振り返らせる親」であるか?
       周囲の若い未信者にとって「本物を追求し、振り返らせるキリスト者」であるか?

       若者宣教や信仰継承の衰退には多様な原因があるでしょう。しかし、まずは、先に救われたものが、「本物を追求し、振り返らせるキリスト者」であるかどうかがローマ12:1,2の言葉の前に、自らが問われるのでは?

       振り返ろうとしない若者ばかりを非難し、失望しているのは、お門違いでありましょう。エビスビールのような福音なのですから、味を変えるのでなく、味を深め、極める本物志向の自分であること。それが若い世代を福音に振り返らせるのでしょう。そして、それは決して、安易な楽観論ではなく、聖書が支持する本道。しかし、最も私たちが苦手とし、逃げている本道かと思います。

       まさにそれを避けながら、若い世代の宣教や信仰継承を願うところに、今日の閉塞状況が生まれているのではないでしょうか。だからこそ、勇気をもってチャレンジしようではありませんか、「若者を振り返らせる本物追求」に。

      | | 育児・信仰継承シリーズもの | 08:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
      「拒食症」ならぬ「拒礼症」を考える
      0
         これまた、先日、ラジオの人生相談から学んだこと。高校生の娘が拒食症になったと父親が相談。お話を聞けば、育児嫌いの母は自分たち夫婦から引き離し、姉夫婦に育てさせたのだとか。幼児期に母親からの愛情実感がなかったことが、中学時代の不登校や最近の拒食症の原因では?と考える父親に対して、精神科医の回答者は、それとは異なるものでした。

         「この事例では、子どもにとって両親ともがモデルとして内在化しないことが原因。」
         「親を見ていて安心できないから、親のように生きれば幸せになれると思えないから。」
         「親へのメッセージを言語化できない場合、食行動において表現するは思春期の特徴

         こんな趣旨の回答でありました。

         このケースに限れば、拒食症状は、どうも娘さんの両親に対しての「あなたたちは二人とも大人のモデルとして失格、おかげで私はこんなにも不安」とのメッセージのようです。つまり、病んでいるのは両親夫婦であって、娘さんはその症状だけを引き受けている犠牲者だろうと思われます。

         そこで、考えたのは、「拒食症」ならぬ「拒礼症」であります。クリスチャンホームの思春期の子どもたちが、礼拝出席を拒否する症状です。もっともこれは、病気ではありませんから、症状というより現象かもしれません。

         思春期に礼拝出席を拒否するのは、部活動や友達関係、遊び、恋愛などを優先したい、あるいは、礼拝の意味を実感できない、出席してもつまらないという単純な要因の場合もあります。精神的に親から自立するプロセス、あるいは親からの自立的信仰を獲得するためにそうしたプロセスが必要となる場合もあるかもしれません。近視眼的には残念でしょうが、長期展望に立つなら、これはむしろ、肯定的理由かとも思います。

         しかし、もしかすると礼拝拒否が「拒礼症」であるか可能性も。クリスチャンカウンセラーに相談するとこうした回答が来るかも。

         「この事例では、子どもにとって親がクリスチャンのモデルとして内在化しないことが原因。」
         「クリスチャンである親を見ていて安心できないから、親のように信仰を持ち福音に生きれば幸せになれると思えないから。」
         「親へのメッセージを言語化できない場合、礼拝行動において表現するは思春期の特徴

         あまりに痛いのであえて、記しませんが、言語化されざる子どもからクリスチャンの親へのメッセージは推して知るべしでしょう。

         思春期の子どもが礼拝出席を拒否するのには多様な要因が想像されます。ただ、親としては「拒礼症」の可能性も検討してみる謙虚さは必要ではないでしょうか?「自分は、あるいは自分たち夫婦は、クリスチャンの親として子どものモデルとなりえているか?」これは神様の前にも子どもの前にも親として常に問い続けることでありましょう。

         昨日の記事との関連で考えるなら、それは「決して避けてはならない問い」でありましょう。その避けてはならないものを避け続けるなら、それが親の生涯を支配するばかりか、次の世代までも支配しかねません。 

         思春期における拒食症の多くが家庭病理に起因するように、もし、思春期のクリスチャンホーム子弟に「拒礼症」というものがあるなら、それはある意味、「クリスチャン家庭の病理」と表現しうる問題に起因しているのかもしれません。「拒礼症」について一度考えてみませんか?
        | | 育児・信仰継承シリーズもの | 11:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
        有害情報から子どもを守るアメリカ社会
        0

           お亡くなりになられたホイットニーヒューストンさんが、生前のインタビューで、音楽シーンへ復帰した理由についてこんな趣旨のことを話していました。

          「今の音楽シーンはソフトなポルノのようになっている。それを子どものために変えたい

           トップミュージシャンがこうした発言をすること自体が、極めてアメリカ的だなーと感心します。アメリカ社会は、子どもがポルノ、暴力などの有害情報から守られるシステムが一定確立されています。アメリカの親たちもそうした意識が極めて高いです。

           お茶の間に露骨な性表現が入り、コンビニにポルノ情報が氾濫している日本社会は、世界的に見てもかなり異例です。子どもたちを有害情報から子どもを守るという大人の責任感が、日本は極めて希薄だとも言われています。

           その意味で、ホイットニーさんの発言は、アメリカ的ですし、親として子どもを守る責任感に満ちた立派な発言だと感心したのです。私などは、感性がピューリタン的なせいか、AKB48などは、既に「ソフトなポルノ」の範囲に入るように感じてしまいます。秋元氏の狙いはどうも「ポルノと非ポルノの間のグレイゾーン」を狙って、それをアイドルに演じさせようとしているように観察します。「クリスチャンの親が、AKB48を無批判に支持するようなことはどうか?」「かわいいからいいじゃないと言う母親は男の子の性に対する理解が欠如しているのでは?」と頭の固い私は思っております。

           アメリカの音楽シーンには、ホイットニーさんと逆のパターンもあります。子どもに有害と評価される音楽表現をするミュージシャンが親となり、自らの表現に向き合い葛藤するというパターンです。

           この事例は、西田浩著「ロックと共に年をとる」(新潮新書)に記されていたもの。1998年に来日したアメリカの人気ロックバンド「コーン」を西田氏がインタビュー。当時このバンドはセカンドアルバムが400万枚も売れていたのだとか。このバンドの特徴は攻撃的な音楽とボーカルのジョナサン・ディヴィスによる特異な歌詞内容だといいます。ジョナサンは、自分が幼少から父と義母から虐待を受け、学校でもいじめられ続けた体験や心の傷を生々しい言葉で激しく表現し、アメリカ社会では「反社会的」「教育上好ましくない」と問題視されたのだとか。

           西田氏から、アメリカ社会での批判について質問を受けるとジョナサンは、「それは表面的、自分の心の傷と格闘する歌詞は、人を励ますこともある。解釈は受け取り手の自由、自分は間違っているとは思わない」と表現者として自信をもって、理路整然と返答。

           その返答を評価し、さらに表現者としての強い確信を引き出そうと西田氏が突っ込んだ質問をします。西田氏は、彼の主張の正しさを認めながら、同時に子どもに醜いものに触れてほしくない親の思いがあることを話します。さらに、幼い子どもを持つジョナサン自身について尋ねます。

           あなたの子どもが物心付き、コーンの音楽を聴き、「僕はお父さんのこんな過去を知りたくなかった」と言われたらどう答えますか?

           ジョナサンは考え込み、沈黙、やがて「ちょっと失礼、すぐ戻ってくる」と言ったきり二度と戻ってきませんでした。コーンの担当者に探しに行かせると「トイレの個室にこもっています。どうも、吐いているようです。」との報告。実はこの後、予定されていた各社のインタビューはすべてキャンセルして、ホテルに帰ったのです。

           確信をもって醜い現実や内面の葛藤をストレートに伝える表現者としての自分の正しさと、親として子どもを有害情報から守る責任との著しい乖離が彼に嘔吐を催させたのでしょうか?表現者であり幼い子ども父でもある彼の自己矛盾は、繊細な彼に嘔吐させるほど、辛いものだったのでしょうか?

           この件を「教育上好ましくないミュージシャンの自己矛盾」「一貫性の欠如から来る自己崩壊」などとして断罪的に考えてしまうのは、それこそ、表面的でしょう。むしろ、ジョナサンなりの親としての子どもへの責任を自らに問う真実さを、見るべきなのかも知れません。「芸と生活は別」「表現者と父親は別人」と割り切らないところに逆に、彼の真実さやアメリカの親らしい責任感を垣間見るように思うのですが、どうでしょう?

           ひるがえって、日本の親である自分はどうだろう?と自問せざるを得ません。子どもを有害情報から守る親の責任、お亡くなりになったホイットニーさんや嘔吐したジョナサンから考えてみてはどうでしょう?

           

          | | 育児・信仰継承シリーズもの | 21:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
          聞いて欲しいクリスチャン二世の声と向き合いたい親世代の課題
          0
             現在の働きに専念して以来、様々な教会とのお交わりを頂く中で、最も心を痛めてきた事の一つはクリスチャン二世に関わる課題。信仰継承の破綻、クリスチャン二世に見られる人格的歪み、社会不適応恋愛・性・結婚・中絶などの課題・・・。その原因として見えてくるクリスチャンホームや教会のあり方の課題。

             分析や批判は簡単なことですが、大切なのは理解。そして、実は私にとって難しいのが、その理解、つまりクリスチャン二世に対しての理解です。なぜなら、私自身が2世でないからです。心痛めているクリスチャン二世や自分の娘のためにも、理解を試みているつもりですが、まだまだです。

             そうした私にとって役立つのが、愛読するブログでのあるシリーズ。最近の記事では、クリスチャン二世のコメントに対して、適切かつ深い考察をしておられます。20代のクリスチャン2世が、客観的に自分と自らの親子関係、信仰理解を分析、考察しています。否定的破壊的でなく、冷静に課題として提示してくれています。それについての考察が、これまた適切で深いのであります。そして、クリスチャン二世の課題は、実は、クリスチャンである親世代の課題である事が明確に示されています。

              「無菌培養による理詰めで現実が伴わぬ熱心派」「無菌培養による現実とのギャップに苦しみ病んでしまう者」という二分化される傾向性は、痛いほどあたっているのは?私も深い理解がなかったので、こうした傾向を持つクリスチャン二世には、つい裁き心が生じてしまい、悔改めることが多かったのです。しかし、今回の記事では、無菌培養しやすい親側の課題、親側を指導教育する側の課題がいよいよ明確化され、自らのこととして、悔改めるばかり。

             どうか、このクリスチャン二世のこの声を受け止めていただけばと願います。そして、私自身も含めて、親である世代がこの課題から逃げずに、ごまかさずに、責任転嫁せずに、自らの課題として、向き合いたいと願うのです。このことは今日の日本のキリスト教会が直面しながら、向き合えていない、あるいは自覚されていない深刻な課題だと思います。是非、以下のブログ記事をご一読を。

            ブログ「一キリスト者からのメッセージ」より「あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた」
             http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=277
            | | 育児・信仰継承シリーズもの | 12:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
            親権神授説?
            0

               先日、ある教会での子育てセミナーの際、非常に本質的な質問をいただきました。それは「子育てとは何だと思いますか?」という問いかけ。ずばりの問いに少し戸惑いましたが、私は自分なりにいつも考えていることを四つお話ししました。

              ?前提:こども(の命)は神様のもの
              ?親の定義:親はそのいのちをお預かりし育てる者。
              ?目標:自立させること。
              ?最終段階:神様にお返しし(キリストに結びつけ)、隣人に仕えるため、社会に送り出す。

               これら四つを一文にして、子育てを定義するとこうなるでしょうか?

              「子育てとは、神のものである子どもを預かり自立に向けて育て、神にお返しし、社会に送り出すこと。」

               クリスチャンホームに特化すればこうなるでしょうか?
              「子育てとは神の賜物である子どもを預かり自立した信仰者に向けて育て、キリストに結びつけ隣人に仕えるため世に遣わすこと。」

               こう考えますと親としての権威や権利も、神からの委託であります。ですから、これを「王権神授説」ならぬ「親権神授説」と呼んでみてはどうでしょう?虐待問題など親権の正当性が論じられる日本社会ですが、親子関係におけるキリスト者の根本理念は「親権神授説」ではないかと思うのです。

              | | 育児・信仰継承シリーズもの | 16:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
              ファミリーフォーラムに学ぶ家庭内共依存
              0
                 ずっと紹介しようと思ってながら機を逸していたのが、最新号のファミリーフォーラム


                 とりわけ依存症を専門とするクリスチャンの精神科医が前号と二度にわたって記している「依存症からの回復」は、初心者にも分かりやすく、秀逸。また、ファミリーフォーラムらしく、依存症の問題が家庭の問題にリンクしているので、とても有用だと思います。現代は、家庭が依存症の温床となりやすいような時代であり、家庭内に共依存関係を形成しやすいと思うからです。

                 このクリスチャン医師によれば、あの「スーダラ節」は依存症ソングなのだとか。「わかっちゃいるけど、やめられない」ですからね。また、あの「浪速恋しぐれ」は共依存ソングなのだとか。確かにアルコール依存症患者とそれを支えることで自己価値を見出し、相手に依存するという典型的な共依存

                 こうした構造が子育てにも多く見られるという指摘が秀逸。子どもの自立をゴールとしない育児はそうした母子を共依存関係に陥りやすいことを指摘。息子に世話を焼き、何でもやってあげる母と、それをうとましく思いながらも、させてしまう息子、それは共依存関係を強化し、息子の自立をいよいよ妨げるのでしょう。

                 他にも結婚、夫婦関係、育児、家庭形成に有用な記事が満載のファミリー・フォーラム最新号。こちらのサイトをご参照ください。注文もこちらから。

                http://www.ffj.gr.jp/new/magazine.htm
                  

                 私も先日、子どもを自立に向けて育てることを某教会で力説。力が入りすぎて、暴言連発してしまいました。


                 「聖書に父母を離れとあるように、子育ては子別れ、子育ての目標は親離れ、自立です。」

                 「皆さん、日本は世界一の母子密着国だそうです。」

                 「最近は中学生の男の子と一緒に母親がお風呂に入っているケースもかなり多いようです」
                 
                 「だいたい、男の子なんか、可愛がるのは小学校まで」

                 「そこから先は、子どもに必要なのは?そう「飯」「風呂」「金」の三つだけ。」

                 「それ以外は「うざい」「きもい」「あっちいけ」の三拍子で、親離れしていくのです。」

                 「結局、男の子なんて、可愛がっても、最後は、たいてい他の女にもっていかれるのです!」

                 「だったら、嫁さんに迷惑かけないように、ちゃんと一人前の男に育てましょう」

                 もう、めちゃくちゃの論理展開ですが、これも現代日本社会における「父母を離れ」という聖書の言葉の実践の一形態かなとは思うのです。

                 当然のことながら、悪いのは母親だけではありません。多くの場合、夫への失望や結婚生活の不満が、息子への過度な愛情に転化していくもの。男性が夫として、父親として機能を果たせば、こうした母子密着は防止できるのでしょうが・・・。



                 ※サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
                 「小さないのちを守る会」
                〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります)
                | | 育児・信仰継承シリーズもの | 16:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                自立を忘れた子育ては後ろの山に棄てましょう(4)
                0

                   今回考えるのは、「子育ての評価基準」であります。子育ての評価基準とは何か?

                   「どこの学校行った」とか「学業成績がどう」とか「何ができる」とか「何を持っている」とか、そういうのは、子育ての評価基準ではない!と私は断言したいです。それは全部、「付加価値」であります。子どもという人格にあれこれペタペタつけた張り紙のようなもの。

                   それには確かに価値がありますが、あくまで本体価値でなく、付加価値に過ぎません。前回も書いたように、しつけがよくできているとか、何かができるとか、他よりうまい、早い、確実とか、賞を取ったとかは、犬の飼育でも同じです。

                   犬と人間、飼育と育児の違いは自立でありますから、子育ての評価基準も自立度なのであります。具体的に言い換えるなら、年齢に応じて、自分についてのことをどれだけ責任もって決断し、その結果に対して責任を取り、親に責任転嫁や依存をしない生き方ができているか?」、それが、私の考える子育ての評価基準。

                   子育ての評価基準の間違いが如何に悲劇的かをイメージするのに、有効なのが、あの「冬彦さん」であります。東大卒でエリートサラリーマンという最高の付加価値です。しかし、自立度については、母親に支配されたままという最低の本体価値です。自立度不足という面での子育ての失敗が最も端的に現われるのが、結婚生活です。自立度が極度に低ければ結婚不適格なのは創世記2:24から明らか。

                   首都圏で奉仕をすると、かなりの確率で、クリスチャンホーム育ちの高学歴の息子さんが、深刻な女性問題を起こしたり、悲惨なプロセスで結婚を破綻させているとの情報をお聞きしたり、困っている牧師から相談を受けたります。関西圏や中部圏では、あまり、そうした事例は見聞きしません。 多分、首都圏に突出して顕著なのは、都市化、(私立中志向などの)受験戦争の低年齢化も関係するのだろうと推察をしています。

                   困ったことに、日本の社会においては、男の子なら、勉強の成績が抜群なら、人格的な課題や欠損は指摘されずに済んでしまいます。当然、当人も自分の課題や成長目標として受け止めません。その結果、高学歴を経た専門職の方には、しばしば驚くような人格欠損が見られます。別の視点で言えば、「高学歴低学力」であります。

                  「高学歴低学力」についてはこちらを参照。
                  http://blog.chiisana.org/?eid=1407851


                   同様に、日本のクリスチャンホームや教会はどうも男の子に甘い体質があるのでは?「勉強ができて、バプテスマを受けて、堅実に教会生活を送る」という三点セットがそろっていれば、クリスチャンホームの男の子たちは、信仰的自立度や人格的成熟度をあまり問われないで過ごせてしまうのでは?逆に言えば、少なくとも若い時代には、三点セット以上の聖書的な成長を周囲もあまりチャレンジしていないのでは?と心配です。

                   「日本のクリスチャンホームと教会は、自立不足のクリスチャン男性自立した未信者男性を作っている」

                   今回、私はこのフレーズを、危機感を煽ったり、インパクト狙いで記しているのではありません。深い悲しみと痛みを覚えながら記しています。「父母を離れて」との真理の言葉を持ちながら、一部のクリスチャンホームが、世と調子を合わせるかのように、自立を忘れた子育てをしてしまっている現状が悲しくてなりません。そうしたことの結果かどうかは分かりませんが、高学歴で忠実に教会生活を送るクリスチャンホーム子弟が、悲惨な結婚破綻をしているという事例の多さ・・・・・。

                   男性の場合、自立不足でも、職業生活はある程度送れます。ある意味、学校生活の延長ですから。しかし、結婚生活は厳しいです。学校やお勉強とは異なり、人格そのものが問われますから。自立不足がもっとも顕著に現われるのは結婚生活の破綻でありましょう。

                   こうしたシリアスな問題は、牧師であれば信徒に相談できませんし、教会の外へは情報が伝わる事はありません。もしかしたら、私のような立場だからこそ把握できているのかもしれませんので、大きな悲しみと痛みをもって、このことは発信しておきたいです。そして、もし、私の認識が正しいなら、こうした傾向が首都圏から、日本全土のキリスト教会やクリスチャンホームに広がらないことを願っています。


                   自立を忘れた子育ては、明らかに聖書にも神様の御心にも反するものです。旧約の民は、「あなた方の子どもをモレクにささげてはならない」と命じられる必要がありました。自立という育児のゴールを見失った今日の日本社会においては、クリスチャンたちは、こんな戒め、命令を神様から頂く必要があるのでしょう。

                   「あなたがたは、あなたがたの子どもをペットのように飼育してはならない

                   最後にもう一度、お勧めです。

                  自立を忘れた子育ては後ろの山に棄てましょう。」

                   棄てないと子どもが、そして子々孫々が、かわいそうですから。


                  サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
                   「小さないのちを守る会」
                  〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります〉

                  | | 育児・信仰継承シリーズもの | 09:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                  自立を忘れた子育ては後ろの山に棄てましょう(3)
                  0
                     子育てセミナーで繰り返し訴えているのは、「父母を離れ」という自立について。

                    「子育ての目標は自立です!」
                    「子育ては子別れです!」  
                    「夫婦は愛して一つになるのです。子どもは愛して離れていくのです。」

                     そして辛辣なる定番フレーズ。
                    「自立に向けて育てない子育ては、育児とは言いません。それは育児ではなく飼育というのです」

                     子どもを「自分たちを楽しませてくれる存在」と位置づけている親などは、「育児者」でなく「飼育者」でありましょう。それは子どもに対するペット扱いでしょう。そうした発想が徹底すれば、「楽しませてくれず、いらだだせるなら育児放棄や虐待」ともなりかねません。いつまでも近くにおいてかわいがるのなら、出産育児などせずに、犬猫を飼えばよいのです。

                     出産育児を目指すなら、「子どもは必ずしも親を楽しませるとは限らず、反抗し、苦労させながら、親を離れていく存在」との覚悟とその中にも喜びを見出せる程の人格成熟度は、できれば欲しいもの。

                     そこで、最近の育児講演会では、さらに辛辣なフレーズを追加しています。

                    「はい、育児と飼育何が違いますか?」

                    しつけなら、犬でもします」

                    習いごとなら、お手とか、犬でもします」

                    「しつけ、習い事、勉強、学歴を与えることなら飼育と変らんでしょー」

                     しつけ、習い事、勉強、スポーツ、学歴、能力、所有を与えるのが育児なら、犬を飼って、訓練してコンテストで入賞するのと本質的に変らないでしょうが。

                     そこで、私なりの正解発表。

                    「一つは自立の有無です。おたくの犬は自立しますか?『ご主人様、お世話になりましたワン、今日からは、自分ひとりで餌をとって生きていきます』と宣言して家を出ますか?犬は一生、飼い主に依存します。それでいいのです。ペットですから。でも、お子さんはそれでいいんですか?」

                    「もう一つは『どちらが先に死ぬか?』です。ペットは大抵、飼い主が先に死ぬから、自立しなくてもいいのです。しかし、人間の子どもは大抵、親が先に死にますね。その時点で自立して社会参与できていなければお子さんはどうなるのでしょう?それは、親として決してしてはならないことですね」

                     
                     これをお読みいただき、「やばい」と思った皆さん。ご自身がやばいなら、さっさと後ろの山に棄てましょう。お知り合いに「やばい方」がおられるのなら、何かの形で、このシリーズを用いていただければ感謝なことです。


                    サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
                     「小さないのちを守る会」
                    〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります〉
                    | | 育児・信仰継承シリーズもの | 07:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                    自立を忘れた子育ては後ろの山に棄てましょう(2)
                    0
                       「親だけ婚活パーティー」の話だけでも呆れたり、怒ったりの私なのですが、 最近、会員の方から、教えていただいたネタでは、ぶち切れてしまいました。それは結婚式の披露宴でのことですが・・・・・

                       新郎新婦と各両親6名でのケーキカット

                       これは、ぶち切れましたね。あの披露宴のケーキカットの意味は「二人で最初の共同作業」とちゃうんかい?!司会者のベタで臭いあの解説にも、それなりの根拠を認めて、拍手喝さいしてきたのに・・・・。こんなケーキカットなら、本音としては退場して、抗議の意向を表明したいわ!

                       「父母を離れて、結び合い、一体となる」という創世記2:24の言葉、ケーキカットというセレモニーは、ある意味、聖書の結婚観を一定体現していると思います。親を離れた二人だけで協力して、公の場面で作業をするのですから。これは親からの自立と二人での人生の出発を意味するわけです。

                       ああ、それなのにそれなのに・・・・。この「二世代ケーキカット」の場合、司会者は何と解説するのでしょう?「お二人の共同作業に、これまで育ててくださったご両親の助けをいただいて」とか、人情噺みたいな情緒的必然性を与えるのか?

                       結婚披露宴で親との分離より、親とのつながりを優先してどうすんの?

                       こういうセレモニーをしてしまう精神性、育児観が恐ろしいわ!この忌まわしきセレモニーの意味が深層意識に留まって、大切なことを夫婦だけでなく、やたらと各両親の助けを得て決断実行するような夫婦になったら、大変なことでしょうが?そんなの結婚ではなく、「結婚ごっこ」「ままごと」でしょうが?親から精神的に自立できていない者どうしの結婚は、実質、「ごっこ遊び」でありましょう。

                       以前、あるクリスチャンカップルからお聞きしたお話です。新婚旅行から帰り、結婚生活の報告や御礼などをしに、夫の側の両親の家に行った時のこと。未信者である夫の父はこう語ったそうです。

                       「これから、一年は、絶対に一人でそれぞれの両親の家に行ってはいけません。行く時は必ず夫婦そろって行くように。」

                       残念ながら聖書を読まぬ未信者の方が、聖書を読んでいるはずのクリスチャンより、聖書的正解をもっており、その実践をしているとうことも。

                       そこで考えたのです。これからの結婚披露宴では、ケーキカットではなく、テープカットをしてはどうでしょう?新郎新婦のお腹からテープが出ています。二本のテープはそれぞれの母親につながっています。「今、新郎新婦はまさにご両親を離れ、結び合い、一体となることを皆様にお見せします」との司会者の解説の後、このテープを切るのです。

                       そうです。親との精神的へその緒を切るのです。もはや親の尻拭いを期待せず、原則として夫婦二人で主体的に責任をもって家庭を築いていくには、「二世代ケーキカット」より「テープカット」であります。結婚にとってケーキを切るより大切なのは世代間の絆を切ること、世代間分離に違いありません。

                       自立を忘れた子育ては、とっとと後ろの山に棄てましょう。結婚時まで延長すると、致命的になりかねませんから。 


                       ※サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
                       「小さないのちを守る会」
                      〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります〉
                      | | 育児・信仰継承シリーズもの | 07:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                            1
                      2345678
                      9101112131415
                      16171819202122
                      23242526272829
                      30      
                      << April 2017 >>
                      + SELECTED ENTRIES
                      + RECENT COMMENTS
                      + RECENT TRACKBACK
                      + CATEGORIES
                      + ARCHIVES
                      + MOBILE
                      qrcode
                      + LINKS
                      + PROFILE