命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
人生いろいろ、聖書解釈もいろいろ、ジェンダー論もいろいろ?
0
     Ministry最新号の牧師夫人特集で、考えさせられたことの一つは、ジェンダー論であります。牧師夫人という立場や地位の問題以前に(ほとんどの牧師の伴侶は女性なので)聖書的女性観が問われる面もあるわけです。この特集に寄せられた「信徒の声」がいくつか掲載されていたのですが、私にとっては、ちょっと驚きを覚えるような声がありました。以下のようなものです。

     「牧師の配偶者という表現そのものがおかしい。牧師夫人でいい。女性は助け手補助者従属的存在として、創造され、女性の犯した罪によってその役割はさらに強化された。女性の役割は服従と子どもを産むことである。牧師夫人が徹底して牧師である夫に服従することによって、クリスチャンホームの模範となり、よい証しになる。」(30代信徒)

     多分、信徒からの多様な声の一つとして、少し極端な意見を紹介するという意味で、掲載されてたのでしょう。ちょっと驚いたのは、この声の主が30代の男性だということ。男尊女卑傾向が色濃く残る世代で、教会からもそうした傾向の信仰理解を聞いてきた世代なら、理解できますが、30代とは驚きです。これは、個人的な信仰理解ではなく、多分、この方の所属教会や団体では、こうした女性観が聖書的なものとして、語られ、教えられているのでしょう。

     ここまで極端でなくても、これに準ずる女性観をクリスチャンから、お聞きすることがあります。これは私の見解ですが、どうもこうした女性観は、聖書の字義通りの文言だけで、教理を打ち立てているところに由来するように思います。聖書全体との整合性、その聖句が語られている文脈原語からの語義の確定、文化的歴史的背景などの考慮がないために、字義通りに受け止めることが、かえって、聖書が本来伝えようとするところから逸脱させているのでは?と考えるのです。

     確かに女性は男性の「助け手」として創造されましたが、それは、補助的存在を意味しないでしょう。「助け手」と訳される「エゼル」は「エリエゼル(神は助け手)」と神様に使用されることからも分かるように、補助的存在を意味する言葉ではりません。むしろ、その存在がなければ、自分が成り立たないほどの本質的存在を意味するようです。「助け手」としての創造は、補助的存在どころか、むしろ本質的存在であることを聖書は示しているのでは?

     また、「女性の犯した罪によってその役割はさらに強化」というのは、創世記3章の記述を差しているのでしょう。妻が夫に「従属」(あるいは依存)せざるを得ないのは、創世記3章が描く「呪われた結婚関係」ではないでしょうか?ならば、この呪いからの回復こそが、クリスチャン夫婦の本分で、証であるはず。

     そもそも妻が夫に「従う」とは「従属」や「言いなりになること」とは異なるでしょう。妻は夫との人格的交わりに生きるものとして、創造されています。権力関係の故に妻が夫に従属する呪われた結婚関係を、福音と信仰によって克服し人格的愛の関係において、夫を尊敬し、その意図や言葉を尊重することが、従うことだと私は理解しています。「従属」「服従」というよりは、「愛従」「敬従」と表現するのが聖書的かと私は考えます。

     「女性の役割は子どもを産むこと」との主張は、汽謄皀藤押В隠気痢屬靴し、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」が根拠かと思います。この箇所は、女性の本分の一つとしての出産を示しているのであって、役割としての出産を示しているようには私は読めません。

     さらには、パウロ書簡に記されている女性の役割や立場は、当時のギリシャ・ローマ世界やユダヤ人文化の背景故の一時的な限定されたもので、普遍的な女性の性役割を示しているのではないとの見解もあります。もちろん、その判別は困難ですし、議論の的になります。しかし、少なくとも時代文化的背景を無視して、字義通りに解釈するなら、女性は、かぶりものをして、教会では黙っていることなります。

     こうなると、明らかに普遍的な真理として示されている「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」とのガラ3:28の言葉との整合性がなくなるでしょう。

      どうも、全体的な発想として、結婚関係を人格関係でなく、機能的関係愛情関係でなく権力関係としてとらえているように感じます。前者を示す聖句は顧みず後者を支持すると受け止められる聖書箇所のみから、教理を打ち立てているように思えるのですがどうでしょう?また、時代や文化や文脈を無視して、女性についての記述を取り出して、字義通りに解釈して、より普遍的な真理との整合性を失っているようにも思えるのです。

      「牧師夫人が徹底して牧師である夫に服従することによって、クリスチャンホームの模範となり、よい証しになる。」というのも、私は正反対だと思います。もちろん、夫である牧師を愛し尊敬して、その意向を最大限に尊重して従う姿は、模範でしょう。しかし、この信徒さんがイメージするような夫婦関係は、むしろ非聖書的な呪われた結婚関係を子どもや信徒に示すこととなるのではと危惧してしまいます。また、私の経験では、カルト牧師や逸脱行為に走る牧師の伴侶は、主体性がなく夫に従属するタイプの女性であるケースが多いように観察しています。

     聖書的ジェンダー論は、多様であらざるを得ないでしょうし、聖書観や聖書解釈によって、かなりの幅があるのは、避けられないでしょう。しかし、明らかに間違った聖書解釈によるものや男性主義を聖書に読み込むような女性論だけは、なんとか、キリスト教会で間違いが指摘され、訂正・克服されるべきと考えている私です。

     時にそうした聖書的かどうかと思える女性観故に間違った苦しみの中にある女性呪われた結婚関係に生きるクリスチャン夫婦を、お見かけしてきた一人として、痛切にその必要を感じています。30代のクリスチャン男性信徒の声から、こんなことを考えさせられました。
    | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 15:29 | - | - | - |
    高3女子刺殺事件、被害者は福音派クリスチャン?〜向き合うべき現実と責任!
    0

       テレビ、新聞、ネットと連日、高3女子刺殺事件が報じられています。一昨日に伝えられた被害者のご両親からの言葉には「娘は天国」「神様の御許」などの表現がありました。「もしかしてクリスチャンホーム?」と思いました。そして、昨日のニュースでは「前夜式」という掲示と教会らしい建物が画面上に。報道では、配慮からでしょう教会名を特定せず教会であるだけ報じられています。実は前夜式の会場は福音派の某団体に所属する教会であります。被害者が洗礼を受けているか、教会生活を送っていたかは、私には不明です。

       この事実を知り、私自身は大変なショックであり、さらに悲しみをより深くしました。なぜなら、この団体に属する関東の教会のいくつかで、恋愛セミナーをさせていただいてきたからです。被害者が、私の講演を聞いていたり、私の書物を読んで下さっている可能性はゼロではありません。ご両親や所属教会の牧師と出会っている可能性もなきしもあらずです。恋愛に伴う様々なリスクを知らせ、聖書から、幸せな恋愛の指針を伝えることもできたかもしれないと思うとやりきれない思いがします。

       クリスチャンの女子高生や女子大生が、恋愛の世界で、深く傷つけられる事例をこれまで、いくつも見聞きしてきました。交際していた男性に妊娠をさせられた上で逃げられるクリスチャン女子高生・女子大生、さらにはその親や所属教会の牧師に何人出会ってきたことでしょう。妊娠に至らなくても、神様の前に罪を犯し、なおかつ自分もひどく傷つけられ後悔するような恋愛をしてしまったクリスチャン女子高生と女子大生には、数え切れないほど出会ってきました。涙の相談も受けて、涙の悔改めも受け止めてきました。残念ですが、親と牧師が知らないケースが多いです。親には言えなくても、最低限、牧師夫妻のどちらかだけには伝えて、導いていただくように強く勧めています。

       私は今回の事件を通じて、教会の大人たちの意識が、変わることを願っています。知らなかった現実を知っていただきたいです。目を避けている現実に向き合っていただきたいのです。そして、今回のような事件が、教会関係者の少女に起こらないために、できることから始めていただきたいのです。クリスチャン読者の皆さん!どうか、今回の被害者の死を無駄にしないで下さい!

       今回の事件は決して他人事ではありません。どのクリスチャンホームの娘さんにも、どの教会に集う女子高生にも、起こりうることです。まだ、親の保護の下にあり、判断力・自己管理能力・責任能力において未熟な少女が恋愛の世界に入っていくことには、様々のリスクがあります。特にネット上で知り合い交際することにはより高いリスクが伴います。私自身も女子高生の娘を持つ父親ですから、他人事ではありません。

       そこで自問したいのです。私たち大人のクリスチャンは、教会に集う女子高生やクリスチャンホームの娘さんたちに、恋愛の世界に潜むリスクを教え、そうしたリスクを避けて幸せな恋愛と結婚に導く聖書の指針を伝えてきたでしょうか?それとも、それをせず、クリスチャンでない高校生たちと同じ恋愛観のままで、恋愛の世界を歩ませ危険にさらしてきたのでしょうか?あるいは、恋愛の危険や聖書から教える必要を覚えながらも、先送りにしてきたのでしょうか?

       あるプロ野球選手が「自業自得」との表現で被害者当人の責任と判断し、謹慎になっているそうです。マスコミは警察の対応が十分であったかを問うているようです。しかし、被害者がクリスチャンである可能性が高いことを知った今、私は自分自身も含めて、思うのです。

      「この事件に際して、まず成人クリスチャン達が問うべきは、自らの責任ではないか?」と。

       とりわけ、クリスチャンホームの、教会の教職教会学校教師の皆様には、今回の事件を「わが家庭」「わが教会」「わがCS」のこととして受け止めていただきたいのです。

       幸いなことに前夜式が催された教会が属する団体には、中高生や青年たちの結婚や恋愛の現状に向き合い、正しく課題を認識危機感をもって、すべき努力をしておられる先生方がいらっしゃいます。私自身もそうした教職者からの信頼をいただいて、これまでセミナーなどの奉仕をさせていただきました。この事件を機に、私自身悔改めて、被害者の死と遺族の悲しみを無駄にしない歩みをしたく願わされています。
       
       重ねて、読者の皆様には、お願い申し上げます。どうか、教会に集っていたであろう尊い一人の女子高生の死を無駄にしないで下さい。もう、逃げないで、ごまかさないで、現実に向き合い、中高生青年たちが恋愛の世界で傷つくことなく歩めるように、キリスト者として、教会として果たすべき責任を、どうか果たして下さい。他者の責任を問うのでなく、二度と同じ事件を繰返さぬ日本のキリスト教会を作り上げていく責任を担う一人一人でありたいと願います。
       

      | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 13:07 | - | - | - |
      同棲についての指導〜ある米カトリック教会の事例
      0
         教会や牧師にとって、頭の痛い問題の一つは、教会員のでき婚や同棲ありましょう。中高生や青年期にしっかり教育しておかないと、無知の故にあるいは、大きな罪悪感もなく、こうしたことが起こります。

         先日、アメリカでの牧会経験のある牧師から、アメリカのカトリック教会での指導例をお聞きし、感銘を受けました。カトリック教徒のアメリカ人男性日本人の未信者女性が、アメリカで出会い、同棲を開始。二人は教会に結婚式をお願いしますが、同棲していたことが分かり、教会による指導がはじまります。

         その指導とは、?半年間の別居
                             ?その間の性関係の禁止
                             ?半年間の学びと悔改め

         多くの読者は、これは、厳しいとお感じになるでしょう。そして、男性は教会を離れるのではと危惧されることでしょう。何が悪いかまったく分からない日本人女性もこれに意したようです。半年の期間は悔改めとその結実の期間となりました。結婚と信仰の学びを通して、日本人女性は信仰決心し、洗礼を受けました。結婚の学びの成果でありましょう。クリスチャン夫婦として順調に歩んでいるのだとか。

         その教会が一律にこうした指導をしているかどうかは不明です。しかし、悔改めも結婚の学びもなく、二人が教会で結婚していたらどうでしょう?女性が救われることはなかったでしょうし、結婚も準備不足で質の低いものになっていたことでしょう。

         ここまで厳格ではなくても、類似の指導をしている教会が多数派のように私はお見受けします。教会を離れるリスクがあったとしても、戒めを試み、悔い改めに導こうとの努力をするなら、結果にかかわらず、それは聖書的で神様の目には認められると思います。そうした筋の通った指導は、片方が未信者であったら、その方に聖書の価値観、結婚の本質を伝え、神を畏れる心を起こさせる可能性もあります。未信者にとっては伴侶となる異性が真摯に神の前に悔改める姿は、最高の証しともなるのでしょう。当然、宣教的にも意味があり、救いに導かれる可能性も高くなります。

         逆に、そうした罪に対して、戒めも悔改めもなく、結婚をしていった夫婦を私なりに思い起こして追跡調査すると、クリスチャンであったのに教会生活が続いていないケースが目立ちます。また、結婚が破綻に至った場合も、ちゃんと指導を受けたカップルに比べれば遥かに多いです。そして、片方が未信者でクリスチャン側の悔改めが明確でない場合を何十例と見聞きしておりますが、お相手の未信者が救われたケースを私は一例も知りません。

         私が存じ上げている事例からは、「教会を離れそうだから戒め、悔改めをしないで司式」という判断をして、そのように実行ををした場合は
        ?将来、そのクリスチャンは教会から離れやすく、
        ?結婚も破綻しやすく
        ?未信者が救われない

         という傾向があるように私的な経験値からは、思うのですがどうでしょう?

         一時的な反発や葛藤、そして気まずさを避けることを優先すると、結局、長い目で見て、二人のためにはならないようです。だとすれば、霊的指導者やクリスチャンの親は、聖書の教えにしっかりと立ち、「戒めは愛の業」であり、「悔改めは回復に向かう恵み」であるとの指針で行くべきかと思うのです。若きクリスチャンの霊的成熟度や指導のタイミングもあり、一律にはいえないでしょうが、基本的な方針、原則はこれだろうと考えます。

         私は、指導者やクリスチャンの親も共に悔改めつつ、そうした指針で指導をして、結果的に教会員が教会を離れても、神と人の前に責められるべきではない、それどころか胸を張って欲しいと考えています。むしろ、そうしないことが、責任を問われるべきかと思っています。

         一つの米カトリック教会の実践が、日本で悩む方々に勇気と励ましを与えられたらと願って紹介しました。
        | | キリスト者としての性を考える | 15:34 | comments(2) | trackbacks(0) | - |
        「彼氏(彼女)いる?」から始まる証し伝道
        0

           先日、ある学生伝道団体にてご奉仕の機会をいただきました。そこで、あるクリスチャン女子大からこんな証しを聞きました。美容院で、男性美容師から「彼氏いる?」と問われて、そこからクリスチャンとしての証しが開始したようです。

           経過をお聞きしてみてビックリ。「彼氏いる?」と尋ねられ、「いない」と応えると、そのつながりで「もしかしてバージン?」と尋ねられたようです。(尋ねる方もどうかとは思いますが・・・)。その学生、堂々と「バージンですよ」と応えて、男性美容師はビックリ、「恋愛もセックスもしないで人生何の楽しみがあるの?」と尋ねたようです。そこから、自分がクリスチャンであることを証しして、自分の恋愛観などをお話しした模様。

           これはすごいです!恋愛やセックスよりも喜び楽しめる世界を持っていることを彼女は男性美容師に証しできたようです。美容室や床屋さんは最高の証しの場とも言われます。実際に美容師さんは、お客さんから宗教の話しをお聞きすることも多いようです。そう考えますと、美容室における「彼氏いる?」「彼女いる?」の問いかけは、最高の証しのチャンスかも。

           「彼氏(彼女)いる?」→自分の恋愛観を語る→その根拠は自分がクリスチャンだから→自分が考える本当の愛→その根源は神様の愛→場合によっては、聖書・トラクトのプレゼント、教会集会案内

           一例としては、こうなるでしょうか?第一回目は、途中までで十分かと思います。続きは来月へとなるでしょうか。美容師や床屋さん以外でも、「彼氏(彼女)いるの?」と問われたら、結構、有効な証しのチャンスかと思います。名づけて「彼氏(彼女)いるの?伝道」!独身クリスチャンの皆様は一度、チェレンジをご検討されてはどうでしょう?

          | | キリスト者としての性を考える | 14:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
          クリスチャンホーム子弟の罪意識ついておすすめブログ
          0
             長らくお休みしており、最近、復活した某ブログ。いきなり、目からウロコの記事で、大変、教えられております。内容はクリスチャンホーム子弟の罪意識についての考察であります。若いクリスチャンの恋愛観や性意識を当人から教えていただき、実際の失敗例などに触れていながら、私としては、なかなか理解できないのが、クリスチャンホーム子弟の罪意識でした。

             ただ、「罪意識が希薄である」というだけではない課題を覚えており、その原因特定もできず、葛藤していたのですが、この記事である方向からの納得をいただいた気がします。ある程度、腑に落ちたのです。

             クリスチャンホーム子弟の理解、とりわけその罪意識についての理解には、ある方向からの光を与える優れた考察に満ちた記事だと思いますので、ご紹介申し上げます。

            ブログ「一キリスト者からのメッセージ」
            「続 罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ」 
            http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=271
            | | キリスト者としての性を考える | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
            桑田佳祐の「小心者エロ」から学ぶ「聖書的性愛」
            0
               桑田 佳祐やサザンが好きかと言われたら、まったく好きではない私です。では、評価しないかと言えば、大衆音楽者としては、最高に評価したいです。優れた楽曲、個性あるボーカリスト、独自の世界観や美学・・・。ここまでは、他の優れたミュージシャンと同様でしょう。桑田さんの場合はやはりそれに加えての当人のキャラであります。二枚目半のルックス。いかにも大衆が喜びそうな笑いとエロのさじ加減であります。音楽の世界に直木賞があれば、受賞間違いなしでしょう。

               長期にわたる人気の秘訣は、一つの音楽スタイルを確立し、一定のクオリティーの楽曲を発表し続けているからだけではないでしょう。桑田さん本人のキャラに大衆が、支持と共感をもっているのだろうと観察します。

               先日、音楽番組を見ながら、思いついたのが、「小心者エロ」であります。桑田さんは、浮気や不倫どころか女性スキャンダルもでない方のようです。夜は飲みに誘われても妻に電話し、許可がもらえず、帰宅するのが常という真面目サラリーマンのようだとお聞きします。こうした芸能界にそまらない等身大のあり方が、共感を得ているのでしょう。そして、愛妻家兼恐妻家のようなあり方は、既婚男性たちには、仲間意識のような親しさを与えますし、女性たちには当然好感度が高くなるわけです。

               ところが、歌が真面目かと言えば、大衆の許容範囲を知り尽くしたかのように、絶妙のさじ加減でエロを混入してきます。これは、もちろん、桑田さんのサービス精神であり、リスナーを喜ばせることに熱心な彼のミュージシャンシップの一面かと思います。

               同時に、浮気もせず、音楽活動での表現行為の中で、エロを発散しているような姿は、多くの良識ある男性たちには、共感を得ているのでは?芸能人らしからぬこうした「小市民的エロの表現」は、等身大との印象を与えるのでしょう。同年代からは、何十年も共に年齢を重ねてきた仲間、後輩からは、兄貴のように見えてくるのでは?と思うのです。

               なぜなら、多くの男性は、堂々と浮気などできず、どこかでエロを発散する「小心者のエロ」だからです。また、こうした「小心者のエロ」は女性にとっては「愛妻家のエロ」で「安全マークつきのスケベ」として、支持されるのかも知れません。真面目さゆえの小心さが、かっこ悪いことではない、男性にはかっこいいこと、女性には素敵なことして、伝わっているとしたら、興味深いです。

               既婚者クリスチャン男性も、神の前での真面目さがあれば、やはり「小心者エロ」であります。その現れは「妻限定エロ」「地域限定結婚内エロ」。そして、それは夫婦の絆を深め、家庭を健全にたて上げ、子孫と社会にもよい影響を与える「聖く正しく美しいエロ」「御心にかなった聖書的エロス(性愛)」でありましょう。

               いいえ、「小心者」とは、世の基準で人の目から見た評価に過ぎません。世の基準を振り切って、神の御心にしたがうのですから、これは「勇者のエロ」と呼ぶべきでしょう。そこで、最後にアピール。クリスチャン男性たちよ!目指せ、「勇者のエロ」を!
              | | キリスト者としての性を考える | 08:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
              性生活幸福度=分母は体験人数、分子は満足人数
              0
                昨日に記事「どっちの性生活ショー」の続きです。

                「ぼく、これまで1500人の女と寝たのですが、一度も満足したことがないんです」

                 モノにした女性の数を男の勲章と信じて「100人斬り」と自慢したり、「生涯1000人斬り目標」と豪語している男性が、世の中にはおられるとか。体験人数を増やすほど、満足度が低くなるとしたら、これは、「性の求道者」ではなく「性における自傷行為」「性における自爆テロ」であります。次なる満足を求めながら、より満足を失うのですが、自らにマイナスをもたらすわけです。 

                 
                 山城新吾さんは、優れたタレントであり、時事批評や人権発言では評価できる面も多い方でしたが、一人の男性としてはとても残念な方でした。結婚後も女性問題がなくならない山城さん。同じ伴侶と二度の離婚。娘さんは母を苦しめた父親が結婚式で共にバージンロードを歩くことを拒否。山城さんにとっては、大変な悲しみ同時に自業自得を突きつけられます。晩年は家族を失いながら、寂しい老後だったようです。

                 そこで、思うのです。男性にとっての性生活満足度、それは体験人数が分母、満足人数が分子ではないか?と。

                 ですから満足度を高めるためには、まずは、分母を増やさないことです。結婚までは「0」をキープ。結婚後には「1」をキープすることでしょう。同時に、満足人数を、分母と同数にすることです。ですから、結婚後に妻との性生活を充実させていく努力をすること。私はこれこそが、「性の求道者」であり、確実な「性生活満足度向上」方法だと思うのです。

                 分母が1500で、分子がゼロ。これは悲劇です。「紀香はおばんや」と言いながら、浮気しまくりで、結婚破綻した某お笑い芸人などは、まさに「性における自爆テロ」でありましょう。結婚前の性生活を切り替えることができず、一人の女性を愛し共に人生を生きられない男になってしまっていたのでしょう。いわば「ばら蒔きセックス」が「相互独占条約」にそう簡単に切り替わるわけがありません。

                 生活習慣を変える事はなかなか困難です。最も変化が困難な生活習慣の一つは性生活です。結婚前の多人数との性関係は、どれだけ「相互独占条約」である結婚に悪影響を及ぼすかわかりません。

                 そう考えますと、「姦淫するなかれ」「不品行は罪」とする聖書教えは、最高の性生活を、与えようとする神の愛の命令でありましょう。決して、楽しみをお預けにして、私たちを苦しめ、不自由にするものではないことを思います。

                 男性読者の皆さん、まずは、「目指せ、最小分母キープ」であります。

                | | キリスト者としての性を考える | 11:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                どっちの性生活ショー
                0
                    確か数年前まで、「どっちの料理ショー」とかいう番組があったと思います。「究極のラーメンVS究極のカレー」のようなテーマで、プレゼンがされ、芸能人ゲストたちが、どちらかを選択して支持、最終的には多数派のみがそのメニューをいただけるといった企画だったように記憶します。

                   

                   金曜日のJ+Passionでは、男性限定で「恋愛・結婚・性」の分科会。その中で、結婚前の性体験が多いほど、結婚後の性生活の満足度は減少し、結婚全体にも悪影響を及ぼすとのお話をしました。そこでお話しした一つはいわば「どっちの性生活ショー」であります。

                   

                   以前にも記した内容ですが、某著名伝道者がテレビにもたびたび登場するイケメン大金持ちIT社長から、「お会いしたい」と相談を持ちかけられます。銀座だか赤坂だかの超高級すし店で、面談。そのIT社長が伝道者に一言相談。


                  「先生、ぼく、結婚できるでしょうか?心配なんです」


                   その伝道者素直な気持ちで返答。

                  「君のような大金持ちの社長で、テレビにも出る有名人、しかもイケメン、結婚した女性などいくらでもいるだろうが」


                   その返答に対して彼が告げたのは、結婚できないと心配するのは当然の重大な事実

                  「ぼく、これまで1500人の女と寝たんですが、一度も満足したことがないんです」

                   

                   この話を分科会出席者の男性にお話。「そして、君たちは、この人のようになりたいか?」と問いかけ。しかし、自分が身を切って血を吐かなくては、まだ、説得力不足。そこで、自分の思い?を吐露。

                   

                  「僕が君たちの立場なら、やっぱり、お金持ちにはなれたらいい」

                  IT社長にもなってみたい」

                  イケメンにだってなりたい」

                  「人生一度くらいモテモテになってみたい・・・・」

                   

                  「でも、人生で一度もセックスで満足できないのは、嫌だ!」

                   

                   このIT社長に自分と入れ替わってくれと言われたら、最後の一点だけの理由で僕は嫌だね。みんなはどうだい?

                   

                  これは「どっちの料理ショー」ならぬ「どっちの性生活ショー」であります。


                  究極の性生活、一方は「数千人の女性とセックスして、生涯一度も満足をできない性生活」

                  もう、一方は、「生涯、一人の女性とだけと心と体を一つとして満足し続ける性生活」。

                   

                  男性読者の皆さんにとっては「どっちの性生活ショー」ならぬ「どっちの性生活しよう?」ですね。

                   男性にとっては結婚前の性体験が、どれ程、結婚後の性生活を乏しくするか?そして、時に結婚を破壊し、子どもを不安にするか?それを知っていただきたいのです。

                   「おいしそうだろうー、でもおあずけだよ」と神様は決して意地悪で結婚まで待つように命じているのではありません。私たちにとって性が、最高の喜びとなるよう待つように願っているのです。「親の心子知らず」ならぬ「神の心、神の子知らず」であってはならないでしょう。

                  | | キリスト者としての性を考える | 17:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                  25歳を境に考える性行動
                  0
                     こういうのを「人のふんどし」というのでしょうが、続いて土曜日の恋愛と性のセミナーから、お分かち。

                      25歳が境なのは、お肌のお手入れや基礎化粧品の世界だけではありません。医学的には、人の脳は25歳で完成するのだとか。最終段階としては、25歳で前頭葉が完成するのだそうです。このことは、人が社会的な責任や将来の展望をもって、目先の行動や判断をできるようになるのは、25歳からだということです。もちろん、それまでの教育や訓練が大切なのですが、脳の成長を考えると、25歳ということ。

                     例として上げて下さったのが、自動車保険の掛け金。実際に25歳が大きな境目になっています。統計学的に見ても、25歳までは自覚や責任感なく大きな事故を起こす可能性が多いのでしょう。逆に25歳以降ですと、格段に減少するということ。

                     性の世界も同じことでしょう。25歳までは、自分や相手の将来、相手や芽生えるかもしれないいのちへの責任、そうしたことを判断材料として、性行動を決めていくだけの能力が、脳の成長という側面で見れば、十分ではないと予想されます。ということは、やはり若い時代の性行動は、無責任になりやすく、自分や相手の将来にマイナスを与える可能性も高いと言うことでしょう。

                     つまり、誰かが傷ついたり、いのちが損なわれるような謂わば「事故」が性の世界でも、25歳を境にそれ以前は多発しているということでしょう。交通事故の場合は、ある程度、自動車保険弁償したり、責任を取ることができます。しかし、性の世界にはあまり保険的な制度がありません。傷ついたり、傷つけたまま終わっていく恋愛芽生えた尊いいのちを葬り去って終わっていく交際も、やはり25歳未満の世代が多いのだろうと思いました。

                     性の世界には免許制度も、保険制度もありませんし、自動車学校や教習所もありません。だからこそ、大人や指導者や親たちが、子どもを事故からまもるため、交通ルールと運転者の自覚と責任を徹底的に教えなくてはならないのだといよいよ確信しました。

                     教会こそが、クリスチャンホームの親こそが、正しい交通ルールを知っており、教えて指導し、事故の被害者にも加害者にもならぬよう守り導くことができるのです。この特権を感謝して、ぜひ、活用していただきたいと願うばかり。
                    | | キリスト者としての性を考える | 09:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                    飲酒と性の必然的関係
                    0

                       飲酒に関しては、教派教団によって、指導は多様でしょう。ただ、聖書が酒に酔うことは、罪への抵抗力を弱めることを示しているのは間違いないと思うのです。飲酒には気をつけるべきで、決して甘く見たり、侮ってはならないということだけは、少なくとも聖書的だと言えるでしょう。

                       特に男性にとっては、酒を飲んでその勢いで性風俗というのはかなり一般的なコース。そうしたことでお客さんと連帯感をもっていく手法の接待が当然とされている会社の営業にいて、戦いながら苦労しておられるクリスチャン男性も多くおられる様子。

                       若い女性にとっては、飲酒は、不本意な性体験不幸な性犯罪被害につながりかねないものです。先週土曜日の性と恋愛のセミナーでは、あらためてそのこを思いました。

                       何と、女性の86%初めての性体験をする時に飲酒状態だったというのです。将来のことや妊娠、性感染症などのリスクを考えられない判断力低下状態でということでしょう。しらふ状態なら、拒否、延期できたであろうのにと考えると、軽率さを覚えます。特に「酔った勢いで初体験」などというのは女性にとって、よい思い出になるのでしょうか?後悔や一生の汚点にならなければいいけどと思うわけです。

                       また、飲酒によって女性を強く酔わせて、強引に性関係に持ち込むというのは、古典的にして卑怯な(下品な慣用表現で言えば)「女の落とし方」であります。しかし、そのセミナーで紹介された統計によれば、性犯罪(多分深刻なレベルでしょう)にあった女性の70%は飲酒状態だったそうです。

                       飲酒の場では男性の自制力がなくなります。普段は隠している醜い欲望がむき出しに。深酔いすれば女性側も心身ともに抵抗力が著しく低下。大学や職場の飲み会などで、男性たちのいるところで、女性が酔いつぶれてしまうなどは、極めて危険な状況であります。送ってもらえるからと言って、男性と二人でというパターンも気をつけたいものです。偽装草食系や送り狼変身男もいますから。

                       敬虔主義傾向の強いクリスチャンである私などは、やはり禁酒が好ましいと思いますが、少なくとも、「酔ってしまうレベル」には到達しないことかと思います。特に女性は、飲酒の場において、自制心や判断力のある状態、身体的にもいざとなったら走って逃げたり、相手を突き飛ばして抵抗できる状態を保っていただきたいと願います。

                       余計なお世話かも知れませんが、後悔するような初体験、性犯罪被害を避けるためにも、とりわけ女性たちは飲酒については、賢明さや慎重さが必要なのでしょう。86%、70%という数字からそんなことを思いました。

                      | | キリスト者としての性を考える | 10:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                         1234
                      567891011
                      12131415161718
                      19202122232425
                      2627282930  
                      << November 2017 >>
                      + SELECTED ENTRIES
                      + RECENT COMMENTS
                      + RECENT TRACKBACK
                      + CATEGORIES
                      + ARCHIVES
                      + MOBILE
                      qrcode
                      + LINKS
                      + PROFILE