ローマ13章1−7節「救いのめぐみの歩き方〜国家と世俗の権威」
最初から私事で恐縮なのですが、ここ数年、急に多くの質問を受けるようになったことが二つあります。一つは、同性愛など性的マイノリティーについてです。それについての見解をあちらこちらの教会尋ねられるようになりました。そして、もう一つ、ここ数年、頻繁に尋ねられるようになったのは政治についての見解です。
戦争の是非について聖書はどう語っているか?という普遍的な問いかけ、テロや移民などの問題はどう考えればよいのか?というグローバルな疑問、憲法改正、安保法案、共謀罪など国内政治についての質問などを受けるようになりました。これは、国内外の政治的状況が近年、大きく変化してきたことを反映しているのでしょう。
日本のキリスト教会全体も、従来になく、政治についての議論が活発化しており、一週間後には、衆院選の投票日を迎えようとしています。そうしたタイミングで、まさに、聖書が政治について言及している箇所を通じて、この朝は、神様の語り掛けをいただきたいと願うのです。
私が担当するメッセージでは「救いの恵みの歩き方」と題して、ローマ12章以降から、救われたクリスチャンはどのように歩むべきか?あるいは、どのように成熟していくのかをお取次ぎしています。まず、1,2節にあるように神様に体をささげ、心を一新していただきます。その上で3節から8節にあるように、正しい自己認識を持ちます。次には、教会の中において9節から16節を示す兄弟愛に生きるのです。そして、17節以降は教会の外との関係、とりわけ、迫害者、敵対者との関係を扱っています。
実はそのことの関連で語られているのが、この13章の1節から7節です。神様は、今日もクリスチャンたちが、国家や世俗の権威に対して、正しい理解をするようにと願っておられます。その理解の上で、政治や権力関係という実に現実的な分野においても、神の民、キリスト者市民として主を証しする歩みをすることを期待しておられるのです。そこで、この朝は「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」と題して、ローマ人への手紙13章の1節から7節までを三つのポイントでお取次ぎしたいと願います。
今日は先に三つのポイントをお伝えしておきます。一つ目は、「この御言葉が持つ背景」です。この聖書個所を正しく理解するためには、当時の政治的背景を理解することが不可欠です。続く二つ目は、「この御言葉が示す原則」です。これは、前回のメッセージでお伝えしたことですが、確認を兼ねながら、さらに理解を深めたいと願っています。そして、三つ目が、「このみ言葉の守備範囲」です。この聖書箇所は、国家や権威についてのすべてを語っているわけではありません。一定の守備範囲があるのです。(前回のメッセージは「権威」についての主題説教でローマ13:1、ルカ22:26、?ペテロ5:3から、それぞれ?権威の本質:悪ではなく善であり、神からの一般恩寵、?権威行使の動機:欲でなく、愛、?権威が委託されている目的:支配するためでなく模範を示すためという三点を語った)
それでは、今からの時、「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」と題しまして、このみ言葉が持つ「背景」、それが示す「原則」、そして「守備範囲」という三つのポイントでみ言葉をお取次ぎいたします。
〜本論A〜
さっそく一つ目です。「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、一つ目はこのみ言葉が持つ「背景」です。パウロにはローマ教会に集うクリスチャンに対して、国家や世俗の権威に対して理解や取るべき姿勢や判断を語る必要がありました。その背景をまず共に見てゆきましょう。
先ほど詩篇72篇を司会者がお読みくださいました。これは「王の詩篇」と呼ばれる詩篇です。ここに記されている王の姿こそ、理想なのです。詩篇72篇が描く理想の王は、王の王である神様から権威を委託された神様の代理者です。王はそのような自覚を持つゆえに私利私欲ではなく、正義と公正をもって民を治めます。社会的弱者に目をとめ、保護します。そして、地に平和をもたらします。今風に言えば「公正、平和、福祉」の三点セットです。そのような王であるがゆえに民は代々、王を恐れる、つまり尊敬信頼するのです。
このことからわかるように旧約時代の神の民は、宗教と政治が一体化していました。神の民は、イスラエル民族という特定民族であり、それは創造者である神を礼拝する宗教的共同体であり、神の代理である王が、その神を礼拝する民を治める国家という形態をもっていました。つまり、宗教と民族と国家がほぼ一致していたのです。
ところが、この手紙が書かれた当時は、状況は一変しています。まず、神の民は、国家を失い、大国ローマの属国となります。さらに、異邦人にも救いのめぐみは開かれて、神の民は一民族を超えて多民族化します。ローマ教会には、散らされたユダヤ人クリスチャンもいれば、ローマ人など異邦人のクリスチャンもいたのです。
ですから、とりわけユダヤ系クリスチャンにとって、自らの国を失い、こともあろうに、偶像礼拝者である王に治められている現実は、受け止めがたい屈辱であったと想像できます。そうした背景があるので、福音書が記しているように、イスラエルの民は、イエス様を政治的な救い主と考えたのです。そして、イエス様に、武力によってローマから独立を勝ち取りイスラエル国家を再建する理想の王を期待したわけです。
ローマ社会において、ユダヤ人のクリスチャンは民族的も宗教的にもマイノリティーでしたから、差別や迫害は一定あったでしょう。何よりイエス様はローマへの反逆罪によって死刑とされたのですから、その人物を救い主と信じる宗教団体は、今なら、公安の監視対象だったでしょう。
ところが、ローマの支配は寛容なものでした。同化が困難で、抑圧しすぎると反乱がおこるので、寛容な支配をした方が利口だと判断したのでしょう。、ローマ国家は彼らに、かなり寛容な信教の自由を認めていたようです。そして、大国ローマに守られたクリスチャンたちは、それなりに平和に暮らすことができました。
迫害は比較的軽く、平和で宗教的自由が認められる中で、最もローマの支配を実感し、屈辱であったのは、納税でした。ですから、この13章でも福音書でもローマに税金を支払うことが問題になるのです。福音書には、税金を払うことに猛烈に反対するある政治団体が登場します。それは、12弟子の一人シモンも以前に所属していた「熱心党」です。
それは今で言えば、ずばりテロリスト集団です。いわばユダヤ民族主義に立つ過激派反政府組織です。彼らは殺人や暗殺の訓練を受け、ローマの権力者や兵士、あるいはローマの手先である取税人を殺すことを願っていました。さらに驚くべきことには、彼らはローマに税金を払う同族ユダヤ人さえ虐殺していたそうです。
こうした過激派団体が起こるほど、信仰の問題と政治の問題は、ユダヤ人クリスチャンにとっては分離することのできない切実な問題であったわけです。王は神の代理者であるべきなのに、偶像礼拝者に支配されている屈辱的な現実の中、ローマ政府をどう理解し、税金を払うべきかどうかは、クリスチャンにとって極めて現実的で、深刻な問題であったわけです。
約2000年前の葛藤は、程度の差こそあれ、今の私たちにも共通することでしょう。なぜ、この政府の下で生活しなくてはならないのか?自分の意に反する政治的な政策に生活を左右され、納得のいかない法律にも従わなければならないのか?と思うこともあるかもしれません。国家以外の権威も同じです。尊敬できない親や夫や姑に苦労し、聖書とは正反対の価値観で指導する上司、教師、先輩から理不尽な苦しみを受ける現実もあるでしょう。
ですから、この朝、2000年前のローマ教会に集うクリスチャンたちが抱いていた切実な思いを深く理解し、それを現在の私たちの葛藤や問題意識と重ね合わせたいと願うのです。ローマ教会の苦しみを理解することによって、2000年前にローマ教会に送られた手紙を、今の私たちへの生きた神の言葉として、神の語り掛けとして、受け止めていただければと願うのです。
「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、一つ目はこのみ言葉が持つ「背景」です。パウロにはローマ教会に対して国家や世俗の権威に対しての理解や取るべき姿勢と判断を語る必要がありました。その背景にあったローマ教会の葛藤をまず、深く理解しましょう。そして、それを今の自分と重ね合わせて、神様からの語り掛けを受け止めましょう。
〜本論B〜
続いて二つ目です。「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、二つ目はこのみ言葉が示す原則です。パウロにはローマ教会に対して国家や世俗の権威に対して理解や取るべき姿勢や判断について、明白な原則をここで示しています。
それは、1節と2節を読めば明らかです。この部分では国家権力や世俗の権威の正当性が3回も繰り返し示されています。しかもそれは大変、理路整然としております。繰り返しになりますが、もう一度、1節と2節をお読みします。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」
この御言葉は三つのことを教えます。すべての人は上に立つ権威に従うべきであること、神なき世俗の権威を含めてすべての権威は神によって立てられたものであること、だから、権威に逆らう者は、神に逆らっているのであり、わが身に裁きを招くことになるということです。パウロがこのところで示している原則は単純明快、「権威と服従」です。
この手紙を読んだローマのクリスチャンたちはどう思ったでしょうか?ある者は「ローマに政府に従ってもいいのだ、税金を納めてもよいのだ」と安心したでしょう。また、ユダヤ人クリスチャンの中には手紙を読んで、わが目を疑った者もいたことでしょう。「イエス様を十字架につけたローマ政府をこともあろうにパウロ先生が認めるのですか!パウロ先生本気ですか?」と。
しかし、前回のメッセージでお取次ぎした通り、権威というものは本来、恵みなのです。そのことが3節記されています。3節をお読みします。
「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。」
もうお分かりかと思います。3節によれば、善を行わせ、悪を防止できるのは、国家権力があってのことです。国家権力の下に、法律や警察や司法という権威があり、それによって、民は平和で安全に暮らせるのです。権威とは、本来、そのように神様が私たちのために与えられた恵みなのです。それはクリスチャンであるなしに関係なく、注がれる神様からの恵み、神学的用語では、「一般恩寵」と言われるものです。
実際にローマという国家は、当時としては最も成熟しており、一定、自由で平和な社会であったようです。とは言え、先ほど、お伝えしたように、ローマ教会に集うクリスチャンたちの多くは、時に自分たちを迫害する兵士には敵対心を抱くし、ローマに税金を払うことは屈辱であったわけです。
ですから、4節以降でパウロは権威という「抽象論」で終わらせずに、「具体論」を展開します。それが、クリスチャンたちが葛藤していた兵士と税金のことなのです。パウロは権威という「理念」を説いた上で、兵士と税金という「現実」について教えます。まずは、4節と5節は当時の兵士のことについてパウロが語っています。4節と5節をお読みします。
「それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」
4節の途中に「彼は無意味に剣を帯びてはいないからです」とあります。「剣」をどう解釈するかは、様々な見解があります。剣を「死刑制度」を意味するという解釈もありますが、私は「字義通りの剣」、兵士が所持している剣という解釈をとります。私たちは兵士というと「軍隊」というイメージを持ちますが、平和であったローマ社会にあっては、兵士はどちらかというと現在の「警察」に相当します。ですから、今風に訳すなら、「警察官は無意味に拳銃を所持してはいないからです」となるでしょう。
警察官が拳銃を所持していることは犯罪の抑制につながりますし、いざという時は、市民を犯罪者から守るたことができます。そのために拳銃は必要です。聖書がこのところで記している兵士と剣の関係はそういうことです。そのように、パウロはそのように警察権力の意味を示し、むしろ、神のしもべと考えて、怖いからでなく、良心の故に、従うようにと勧めています。
税金についても同様です。6節をお読みします。
「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。」
兵士同様、税を徴収する人たちも神のしもべです。平和で安全に暮らせて、社会正義が実現され、弱者が守られるような社会は、税金によって支えられています。だから支払うべき税金はちゃんの納税しましょうとパウロは勧めています。
このように原則は「権威と服従」です。原則的には、すべての権威は神様によるものであるがゆえに、従うようにパウロは勧めていますが、彼は葛藤し苦しむローマのクリスチャンたちの現実と心情を、理解せずにこのような正論を語っているわけではないのです。むしろ、パウロは、その切実さを知っているからこそ、それに応答して手紙を書いたと思われます
そして、今日の聖書読者である私たちが知るべき大切なことがあります。それは、そのためにパウロが書いた箇所はローマの13章1節から7節ではないということです。パウロが葛藤するローマ教会の信徒に書いた箇所は12章の17節からなのです。
私たちは、13章に入って、テーマが変わったと感じるのですが、実は12章の最後から13章の最初までは、同じテーマ、つまり「敵対者、迫害者に対しての完全勝利の道」を説いているのです。
12章17節以降でパウロは、「自分で復讐してはいけません」「悪には善で報いなさい」と教えますが、パウロは誰を想定していたのでしょう。具体的には、誰が「敵対者で迫害者」だったのでしょう。それは、ローマ帝国であり、その権威の下にあり、時に教会の迫害に手を貸していた兵士、屈辱をもたらす取税人たちです。彼らは、家族や職場の上司のような身近な敵や迫害者とは別次元です。なぜなら、その背後にあるのは、当時の世界最強権威、ローマ帝国だからです。
そのような背景を知るなら、この手紙の直接の読者であるローマ教会の信徒たちが、12章の21節をどう読んだか?ローマ13章をどう受け止めたか?が想像できます。ローマ12節21節は勧めます。「悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」。それは、「ローマ政府や兵士たちが図る悪に負けてはいけません。かえって、権威に従うという善によってその悪に勝ちなさい」という意味となるでしょう。
「権力側らの悪や迫害に、報復行為や暴力的な反抗などで応答してはならない。神が立てた権威として、従うことを通じて、悪に勝つのですよ。それが本当の勝利、完全勝利なのです。そして、このローマ社会に敵をも愛する愛を、神の愛を証しするのですよ。」とそんな思いでパウロは、12章の最後から13章のはじめを記したのだろうと想像するのです。
12章の17節から始まったローマ政府を敵対者・迫害者と想定した教えは、13章の7節を結論として終わります。そこにはこう書かれています。7節をお読みします。
「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」
社会的義務を果たし、正しく納税し、恐れるべきを恐れ、敬うべきを敬うというのは、当たり前の教えでしょう。しかし、当時のローマ教会のユダヤ人クリスチャンにとっては、大きなチャレンジ、できれば、聞きたくない神の言葉であったかもしれません。今日、私たちはこの言葉をどう受け止めるのでしょう?
聖書は言います。「人はみな上に立つ権威に従うべきです」。「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、二つ目はこのみ言葉が示す原則です。2000年前のローマ教会の信徒同様、時に上に立つ権威に葛藤し、苦しむ私たちです。パウロが示した原則を受け止めて、日本社会に生きる者として、国家や世俗の権威に対して聖書的な理解を持ち、取るべき姿勢や判断を決めてゆきたいと願います。
〜本論C〜
最後に三つ目です。「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、三つめは、このみ言葉の守備範囲です。このローマ13章1節から7節には、守備範囲があります。言い換えるなら、カバーしきれない範囲があるということです。つまり、この聖書個所は、国家や世俗の権威についての理解や判断を決める「原則」ではあるが、「すべてではない」ということです。この聖書箇所が示す原則だけではカバーしきれない例外があるということです。
なんでもローマ13章の1,2節は、政治思想の分野では、歴史上最も引用されてきた聖句なのだそうです。ただ、それは時に権力側に都合よく利用されることもあったようです。皆さんもお聞きになったことのある「王権神授説」はこの聖句が根拠とされてきましたし、王権神授説は、愚民政治とセットで帝国主義を生み出したとの見解もよくお聞きします。その見解が正しいなら、それは聖書的な原則論が悪用され、世界の歴史が聖書の示すのとは逆方向に歩んでしまったことを意味しているのではないでしょうか?
今日のメッセージを聞きながら、皆さんの多くはきっと素朴な疑問を持たれたことでしょう。「では、権力にとって都合の悪いいのちは、抹殺するような独裁国家にも、黙って従うのか?」「信教の自由を認めず、教会を迫害するような国家も神様がお立てになった権威だから、服従するのがみこころなのか?」という疑問です。
それは当然の疑問です。残念ながら、神の代理として、正義と公正によって、民を治め、平和を実現し、弱者を保護すべき国家自身が不正を行い、民を抑圧し、弱者を切り捨てることがあります。国家が、領土的野心や資源の獲得を目的に、もっともらしい大儀を掲げて、他国に侵攻し、暴力によって平和を破壊すること、他国を支配し、民を抑圧搾取することもあります。さらには、神のしもべであるはずの国家や国家元首が神にとって代わることさえあります。
実は聖書には、国家という権威に従わなかった事例、さらにそれが神様に祝福された記述があります。つまり、権威に対しての抵抗や不服従が、御心であった事例があります。聖書が記す典型的な例を三つほど挙げてみましょう。
出エジプト記1章によれば、生まれてきたヘブル人の男子は殺すようにエジプトの王に命じられた助産師たちはそれを拒否しました。これは明らかな法律違反です。しかし、聖書は、神様がその助産師たちを祝福されたと記しています。そのことから、今日も不都合ないのちを抹殺するような権力者や政府への抵抗・不服従は聖書的に正しいのだろうと判断されます。
また、ダニエル書6章において、ダニエルは、法律で王様以外の礼拝を禁じられていたにもかかわらず、主なる神を礼拝しライオンの穴に投げ込ます。しかし、神様はそのダニエルを救われます。ダニエルは王の命令には忠実に従っていましたが、礼拝に関しては従いませんでした。ですから、国家権力が偶像礼拝を強制したり、真の神様への礼拝自体を禁じたりした場合は、それに対しては、抵抗・不服従が神様の御心だと言えるでしょう。
さらに使徒の4章で弟子たちは、サンヘドリンという議会から「イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と命じられました。しかし、弟子たちは「人より神に従います。」と宣言し、宣教を続けました。このことから、法律で福音宣教自体が禁止されている場合に、知恵をもって宣教していくことは、神様の御心だろうと判断できます。
エジプトの助産師もダニエルも弟子たちも皆、普段は権威を敬い、法律に従う人々でした。基本的には上に立つ権威に従っていました。特定の場合については、命令を拒否し、抵抗し、不服従の道を貫きました。神様はその判断と歩みを祝福しておられます。
また、国家や王自身が神となり、自らを礼拝するよう強制することがあります。国家や王は、本来神様からの権威を委託された神の代行者です。しかし、その代行者が自らを神の座に置き、、国家や国家元首を礼拝するように命じるのです。それは、古代社会ではよくありましたし、この日本もほんの70年前までは、その通りのことを行っていたわけです。
聖書の最後、黙示録13章には、そうした国家の姿が、「獣」という象徴で表現されています。一般的に、黙示録は未来の出来事を記しているとされますが、その多くの記述の根底にはヨハネが黙示録を記した1世紀後半の事実があるとよく言われます。
ローマ人への手紙が書かれて、まもなく、ローマ政府は教会を激しく迫害し始めます。ローマ国王を神として、礼拝するように強制し、従わぬ者を罰するようになります。そのような歴史的事実に立って、ヨハネは象徴表現として、獣となった国家の姿を13章で記しているのだろうと多くの聖書学者たちは指摘します。
「どんな権威でも従うのか?」その問いに対しての答えは、ローマ13章の守備範囲ではありません。そのことは聖書全体から考えるべきです。そうするなら、都合の悪い者、反対者を抹殺するような権威、信教の自由を奪う権威、獣となり自らへの礼拝を強要する権威は例外扱いすべきで、それに対しては、抵抗・不服従が、御心だとも言えるでしょう。
そこで、問われるのは現代の私たちです。国家との関係において、ローマ教会の信徒と私たちとは大きな違いがあります。それは、間違った権威に抵抗するための様々な手段を神様から与えれているということです。その一つは、投票権です。選挙権を持つ者は、現政権を支持することも、反対票を投じて抵抗を示すこともできます。
また、日本社会では、言論の自由が保障されています。そもそも言論の自由とは、王など権力者の不正を批判し報ずる自由が起源だそうです。ですから、権力の私物化、不当な権力行使があれば、言論によって抗議することが可能です。日本長老教会のホームページをご覧になれば、様々な声明文や公式見解、抗議文などを読むことができます。
さらには、集会の自由もあります。信教の自由などをテーマに様々な集会が持たれ、時にはデモなどを通じて、抗議行動をなさっているクリスチャンたちがいらっしゃることは、皆さんご存知のことでしょう。
聖書は「原則と例外」という一定の指針を示していますが、具体的個別的な判断は示してません。つまり、「ガイドライン」は与えていますが、「マニュアル」は与えていないのです。一つ一つの課題や事例についてどう判断するか?どこまでは権威による理不尽に耐えて従い主を証して、どこからは抵抗と不従順とするのがみこころなのか?そして、どのような方法で、どの程度の抵抗をすべきなのか?それは聖書に書かれていません。
私たちが聖書のガイドラインに従って、具体的個別的事例について、どう判断し行動するかは、クリスチャン一人一人に委ねられているのだろうと個人的には考えています。これまた個人的な見解ですが、聖書はマニュアルを与えていないのだから、政治や社会事象についての見解は同じ信仰理解に立っていても、多様にならざるを得ないのはないでしょうか。
同じ信仰理解であっても、教会と国家と関係が密接かつ友好的であったアメリカと、対立的で緊張関係をもってきた日本とは、異なります。また、兵役に就くことなく平和を論ずることのできる日本の教会と徴兵義務が課せられている韓国の教会とは見解が異なることでしょう。
ローマ13章の守備範囲と言う面では、国家権力以外の権威についても同様でしょう。文字通り人を殺さなくても、著しい人格否定や人間の尊厳を根底から損なうような権威は、例外に準ずると判断すべきでしょう。
カルト化し牧師が神のような絶対的権威となっている教会、子どもを虐待をする親、暴力で妻を支配する夫、生徒に対して恒常的に暴力を振るう教師、社員を過労死させるまでの違法就労が当然の企業、こうした場合も、神様が立てた権威だから、黙って従うべきでしょうか?
実はローマ13章を根拠にそれでも黙って従うことが御心と考えるクリスチャンは少なくありません。また、稀に、そのように教える教会の指導者もいらしゃるようです。「ローマ13章にあるようにどんな権威にも黙って従えばいいのです。もし、その権威者が間違っていたら神様が退けるから」牧師からそのような指導を受けたという方も少なくないようです。
それは、聖書の一か所だけから、すべてを判断をしてしまう間違った聖書の読み方と言わざるを得ません。ローマ13章の守備範囲を理解せず、聖書全体から神様の御心を考えようとしないなら、聖書的であることを願いながらも、間違った判断と行動をしますし、人にもさせかねません。
原則は明白「権威と服従」です。確かに原則として、権威には従うべきですが、本質を失ってしまった権威については、抵抗や不服従、相手に改善を求めること、相手と距離をとること、とりあえず離れること、関係を断つこと、助けてくれそうな第三者への通報、専門家や専門機関への相談などは一つの選択肢だと私は考えています。それは決してた神様が立てた権威に従わないこと、神様への反逆には当てはまらないと思うのです。(もちろん、自分の罪深い反逆心の故に、従いたくないので、正当な権威を例外扱いするのは本末転倒です)
「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、三つめは、このみ言葉の守備範囲です。このみ言葉は大切な原則を語りますが、すべてを語っていません。守備範囲外となる例外があるのです。例外の可能性がある場合には聖書全体からのガイドラインを指針として、柔軟にみ言葉を当てはめて、多様性をもって判断していくべきでしょう。
〜結論〜
この朝は、「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」と題しまして、背景、原則、守備範囲という三つのポイントでローマ13章の1節から7節までををお取次ぎしました。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」ローマ教会が置かれていた社会的背景を自らの現状と重ね合わせながら、このみ言葉を受け止めましょう。このみ言葉が示す原則は明らかです。それは「権威と服従」です。しかし、現実の社会を歩む中で、この原則に立つと同時に、守備範囲も考慮しながら、国家と様々な権威を理解し、神様に喜ばれる関係に歩みたいと願います。お祈りします。
〜祈り〜
国家をはじめ様々な権威の下で生活をしながら、時に葛藤し、苦しみを味わう私たちです。理不尽さ故に、反抗したり、暴力的な報復を思い描くこともあるかもしれません。しかし、この朝、そうした現実的な面にまで届くみ言葉の語り掛けをいただきました。どうか、権威関係という分野においても、私たちが、神様の御心に歩めるようみ言葉をもってお導き下さい。一週間後には衆院選の投票日を迎えますが、どうか、有権者である者たちが、私利私欲を離れて、神様の前に責任ある一票を投じることができますように。そして、まさに今、礼拝をささげた後に遣わされていく場に待ち受ける権威関係の中にあって、み言葉が示す神様の御心に歩めるよう助けと導きを与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。
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