命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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「父になる旅路」から考える母性愛、父性愛(5)父性の復権を願って二つの提案
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     このシリーズも今日で最終回。昔、昔、その昔、男として生まれた限りは、ほぼ強制的に親離れと社会参加と結婚をさせられ、責任ある社会の構成員とならざるを得ませんでした。その路線から外れることは社会的おちこぼれを意味していいました。つまり、社会の基礎構造に強烈な父性原理があったたわけです。

     古代の母系的社会を除けば、たいていの共同体にはこうした父性原理によるシステムが見られます。文明化されていない社会では、バンジージャンプのような一発男の勇気証明系の通過儀礼がありました。明治以前の日本では男性ばかりが共同生活し地域で生きるための教育を受ける「若者組」とか「若衆」がありました。それも、夜這いなど猥雑な要素があったたため、明治以降の意向で衰退。その名ごりが現在の青年団らしいです。

     やがて、日本も文明化され、他国と戦争をする管理社会になれば、徴兵制がその機能を担うこととなります。続いて敗戦後の平和主義の中では、企業戦士の徴兵制のような企業研修が通過儀礼の機能を果たします。プライドや学生気分を粉砕され、企業社会に自分を適応させ、終身雇用で働くわけです。さらに、それも終身雇用制の終焉と慢性不景気のため、もはや人材育成に投資はせず、人材は使い捨てです。

     そうです。日本は有史以来、ついに、男の子を男にして、強制的に社会参加させる通過儀礼システムを持たなくなったように思うのです。文明化され、平和で人権が尊重される社会になってきたのは、幸いなことでしょうが、皮肉にも、野蛮さ、猥雑さ、戦争、人権侵害とセットで機能していた通過儀礼を失ったように思うのです。本来、それは父親、学校、地域、スポーツ、文化活動などを通じた教育で代理できるはずですし、事実、意識的に父性原理を取り入れれば、ある程度できているのでしょう。

     でも、極端に父性を失った家庭や社会の中で、日本有史以来初の「父性愛欠損・母性愛一辺倒男子」が登場しているのは、間違いなさそうです。そして、クリスチャン家庭や教会が、この波の防波堤となりえず、子どもたちを犠牲者にしてしまったのだろうと私は認識しています。父性愛を持つ父なる神を信じていながら、父性欠損的な家庭を作り、父性愛なき神観や福音を伝えてきたとするなら、当世クリスチャン男子の課題を責める前に、悔い改めに立って、為すべきことがあるように思うのです。

     そこで今回は私なりに二つの提言をさせてください。
     
     一つは、「愛の忍耐」です。これは人を育てる際に聖書が示す必須要素です。「理解不能」「関わりたくない」と見捨てたり、諦めたりしないで欲しいのです。それは上の世代の責任放棄だと私は思います。自らの責任を受け止めた上で、いまどきクリスチャン男子をあるがままで受け止めながら、少しずつでも適切な期待と要求をして、まずは、達成できなくても、努力するだけで、認めてあげることでしょう。中高生の時から、洗礼を受けていなくても、受け身でなく、積極参加させ、可能な奉仕を与えていくことなどは、その具体的歩みの一つでしょう。

     ここで、気を付けるべきは、自分の感覚や基準で、期待や要求をしないことです。学生や青年たちをよく理解し、自分の物差しでなく、当人たちの物差しで適切な期待と要求をすることです。「えっ、そんなことで潰れてしまうの?」「この程度のプレッシャーで教会に来なくなるとは!」という失敗は、あちらこちらの教会でお聞きしております。家庭で父性愛を注がれてこなかった学生や青年男子たちが、普通に父性愛を注いでしまうと、受け止めきれず潰れます。あくまで、母性愛で受け止めながら、父性愛を小出しにしていくことかなと考えています。

     また、それを「甘い」とか、「それではだめ」とか、「自分たちの頃はこうだった」といまどきクリスチャン男子を愛し、理解使用としない、ベテラン世代が批判をするかもしれません。そんな時、若者を愛し、理解するリーダーや先輩や親たちは、防波堤になり、守ってやりたいものです。また、上の世代にも、対立したり、無理解を責めるのでなく、謙遜と愛をもって、理解をお願いしていくことでしょう。

     日本社会では、父性と母性のバランスは、世代間とリンクしています。団塊の世代の男性は、頑固おやじ雷親父に育てられたのでかなりの父性愛育ちです。次の団塊ジュニア世代は、父性が減少し、母性に大きく傾いた成育環境で育っています。そして、ジュニアの両親に育てられた今時の学生や青年クリスチャン男子は、どうしても母性愛一辺倒傾向が高まるわけです。ですから、団塊世代の男性クリスチャンがいまどき学生や青年クリスチャン男子を理解するのは、極めて困難なのです。だからこそ、攻撃から守るべきですし、対立してまで理解を訴えるのは賢くないと思うのです。

     世代間の無理解の中で防波堤として波を受けながら、下の世代を育てていくのは至難の業かと思いますが、そこから逃げてしまっては、教会の未来は見えてこないでしょう。ストレス覚悟で勇気をもって自らその役割を担う者を、神様のこの時代に求めておられると思うのですが、どうでしょう?まずは、愛の忍耐をもって、育てていく道です。


     二つ目は「愛の対決」ということです。「いつまで忍耐しても、変わらない」「愛の忍耐への応答能力自体が疑わしい」「忍耐の愛をこれ幸いに利用して、いよいよ変わろうとしない」。残念ながらそんな現実もあるでしょう。まさに「あるがまま、今のまま、ずっとそのままクリスチャン」を生涯の信仰スタイルにするクリスチャン男子がいるとしましょう。かと言って、強く踏み込めば「もう、教会来ない」「教会変わる」という最終兵器を出しかねません。どうしたらいいのでしょう?

     そこで考えたいのが、「何が本当の愛か?」「何のための教会か?」であります。
     
     愛は真理を喜びますから、愛は、相手が真理に歩むこと、真理に向けて成長することを願います。
     相手の弱さは愛の故に理解しますが、成長拒否を無期限で放置するのは、むしろ、愛に反することでしょう。

     また、何のための教会でしょう?教会が目指すべき目的はなにでしょう。
     
     人を集めて教会を大きくすることではないはず。
     奉仕者を増やして、事業拡大をすることでもないはず。
     献金を確保して、教職の生活と教会の運営を安定させるためではないはず。
     信徒一人一人がキリストに根差して成長し、愛のうちに結び合わされキリストの体を建て上げるため、神の栄光を現すため、神の業を行うためのはず。

     そう考えますと、愛の忍耐をもって待つにも、やはり限界や期限はあると思うのです。どこかの時点で「愛の対決」が必要となる場合もあると思うのです。残念ながら、年齢を重ね、社会人になると、プライドが高くなるばかりで、「愛の対決」が通用しなくなる傾向があります。若い時代にチャンスを逃すと「あるがまま、今のまま、一生そのままクリスチャン」になりかねないこともあるようです。それだけに、「忍耐し続けるよりも愛の対決」と判断した場合は、できれば学生時代に、遅くとも最終学校卒業数年目までに、「愛の対決」を実行するのが適切かと考えています。

     以前、ある教会の中高生科で奉仕をしました。献身的な大学生スタッフたちに大変感銘を受け、年長スタッフに「どのように育てたのですか?」と尋ねました。返ってきた答えは意外なものでした。スタッフの多くは、以前は、主日礼拝が終わったら、さっさと帰宅し、教会の働きには全く参与しないタイプだったというのです。

     中高科の先輩スタッフはそうたい大学生たちに向き合い、愛をもって「それでいいのか?」と問いかけたそうです。そして、涙を流しての悔い改めに導き、教え訓練し、育ててきたのだというのです。これは、まさに「愛の対決」です。教会を離れる、教会を去るというリスクと背中合わせです。

     牧師が異動する場合も「愛の対決」のチャンスかもしれません。愛の対決で勝負を決しておいて、後任に譲るのが、教会と当人と後任牧師のためという場合もあるでしょう。逆にあえて、愛の対決をせず、後任に判断を委ねるという選択肢もあるでしょう。大切なのは、常に、「愛の忍耐」と「愛の対決」のどちらを優先すべきかを考え、神様が導くタイミングを逃さぬことでしょう。

     私は考えるのです。愛の対決の故に、相手が教会を離れたとしても、人はそれを非難するかもしれませんが、神様はその決断を喜んでくださるだろうと。逆に、無期限で変わることを待ち続けるなら、低リスクであり、それは人には批判されずに済みますが、それは本当の愛で、教会の目指す目的に合致しているでしょうか?もしかすると、私たちの問題は、こうした「愛の対決」という選択肢を選ばないことではなく、リスクを犯してまでそれをするだけの愛がないことなのかもしれません。


     父性喪失文明で育ち、その欠損の犠牲者となったクリスチャン男子に、父性愛を注ぎ、受け止めてもらうことは決して、容易なことではないでしょう。しかし、愛をもって、優しくしかし、はっきりと課題を示し、向き合うよう勧めていく中で、教会を離れてしまうことはそれ程、多くはないように観察します。むしろ、こちら側が、弱さや境遇を理解し、心情に寄り添う愛を失い、裁いたり、責めたりしてしてしまうと、決定的決裂に至ってしまうようです。その意味で、愛の忍耐よりも愛の対決の方が、こちらの愛の真実さが問われる厳しい選択かと思います。

     結論として、愛の忍耐と愛の対決という二つの選択肢を、父性愛を注いでいくための指針として提案しました。この二つは一見、正反対のように見えて、実は同じ目的を持つものです。前者が母性愛で、後者が父性愛なのではありません。両者ともが父性愛なのです。あえて違いを言えば、前者が父性愛の長期訓練で、後者が父性愛の短期決戦と言えるでしょう。

     今回の記事が、父性欠損文明の犠牲者を健全なクリスチャンに育てていく一助になれば、感謝なことです。
    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 16:42 | - | - | - |
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