命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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「父になる旅路」から考える母性愛、父性愛(3)父性欠損・母性一辺倒型神観の問題
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     豊田信行著「父となる旅路」は、神様ご自身の父性と、聖書の登場人物の父性欠損自らの獲得し育てるべき父性の三者を結び付け、読者に父性についての気づきを与え、父性という面において、信仰者としての人格形成、あるいは霊性の深まりを与えてくれます。

     昨日の記事で示したように父性欠損問題は家庭だけでなく、キリスト教会内にも及んでいます。教会内の交わりだけではなく、その根幹にかかわる神観自身や神の愛の理解についてにまで深刻な歪みを与えているように思うのです。豊田先生も言及しておられるのですが、「あなたはあるがままで愛されています」が、福音の大部分のようになり、「献げよう」「従おう」「与えよう」「委ねよう」などの祝福をもたらす父性愛による命令や勧めが、隅に追いやられてしまっているようなことは、福音理解のおける父性欠損でありましょう。

     あるがままで愛する母性愛だけが語られ、期待と要求をし、努力達成によって承認し、成長を与える父性愛が語られないなら、その神観は「父性欠損・母性一辺倒型神観」でありましょう。それは、聖書が示す神の愛の片面に過ぎません。そして、そのような神観に基づく福音が語られるなら、その神の家族としての教会は、「神の母子家庭」となります。一般的に母子家庭が、父親不在の故に持つ困難と同様の課題が教会に生じます。(母子家庭=欠損家庭という意味でなく、一般的傾向としての意味です)

     その代表的事例は「あるがまま、がわまま、ずっとそのままクリスチャン」であります。以前にも記事にしたことがあるので、それを加筆して、以下に転載します。


     「あるがまま、がわまま、ずっとそのままクリスチャン」。その福音理解は、「神様は自分をあるがままで愛しておられる。だからずっと今のままよい」という内容です。「あるがまま」が聖書の最上位の教理なので、他の教理はこれに反するならすべて否定・拒否していいのです。その結果として生ずるのは「現状肯定と成熟拒否の神様の無条件の愛による正当化」であります。あるがままで愛されていることを、「自分が変らず、悔改めず、ずっとそのままでよい」とのお墨付きにしてしまうわけです。

     当人にとっては「あるがまま、今のまま、ずっとわがままでよい」と絶対者から保証してもらっているのですから、行くところ敵なし状態です。自分にとって不都合な変化、成長、悔い改めを命ずる聖書のことばも、そのみことばに従って愛をもって導く人々も、ありのまま愛してくださる神様がご一緒なら、大丈夫?というわけです。

     「聖書は、心の一新によって自分を変えなさいと命じていますね」と問われても、「変えなくても愛されているから自分は満足です」と顧客満足度発想で返答。

     「栄光から栄光への主の似姿へと変えられましょうね」と勧めれば、「変えられなくても愛されているのだから、必要ない」と頑なに現状肯定であります。

     「聖書は『愛されなさい』でなく『愛しなさい』と命じていますね。あるがまま愛されたその愛で、人を愛する者に成長しましょう」と招けば「今のまま、ずっと愛される側でいたい」とがわままな拒否。

     「それは神様が悲しまれますね。悔改めましょう」と牧師が愛をもって罪を示し悔改めに導こうとすれば、「先生は自分を、罪のまま、あるがままで愛していない、先生には愛がない!」と逆切れしかねません。

     どうもこのタイプのクリスチャンにとって大切なのは、「あるがまま愛されている自分」であって「あるがまま愛してくださっている様」ではないようです。重要なのは、「あるがまま愛されて自己価値確認できる安心感」であって「その愛への応答責任」ではなさそうです。発想としては、「あるがままで愛される顧客満足度」が大切なのであって「あるがまま愛してくださっている神様の側のご満足」はどうでもいいのでしょう。どこまで行っても「自分のための神様」止まりで「神様のための自分」には至りません。いいえ、程遠いままです。


     そこで、思いついたのが、「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」の信仰告白です。名づけて「あるがまま信仰告白」。


     「あるがまま信仰告白

     我は天地の造り主、我をあるがままで愛する全能の父なる神を信ず。
     
     我はその独り子、我をあるがままで愛する我らの主、イエスキリストを信ず。

     主は、我をあるがままで愛するため、聖霊によりてやどり、・・・・・・

     ・・・・・三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、我をあるがままで愛さんと全能の父なる神の右に座したまえり。

     かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを、あるがままで愛したまわん

     我は、人々をして我をあるがままで愛さしむる聖霊を信ず。

     我をあるがままで愛する公同の教会、

     あるがままで愛し合う聖徒の交わり、

     あるがままで愛するが故に、悔改め不要の罪の赦し

     今のままでも与えられる体のよみがえり、

     ずっとわがままでも保証されるとこしえの命を信ず。

     
     以上です。これは、すごいですね。「父、御子、御霊」から、「教会、永遠」に至るまで総動員で、「あるがままの自分」を正当化しているのですから。この「あるがまま信仰告白」が、聖書そのものより権威があるのですから、聖書が記す自己変革、成長、悔改めの言葉などは、すべてスルー、あるいは排除となるのです。

     「あるがまま」は福音の重要要素。でも、それがすべてとなれば、それは、もはや「福音」と呼ぶべきではないでしょう。「甘口の福音」でさえないと私は思います。


     ここまでが転載です。これは心理学上の理論が暴君として福音の上に君臨し、福音の国の秩序を破壊し、再構築してしまった現象のように感じています。さらに今回のテーマからすれば、父性欠損文明の影響が、福音理解にまで及んでしまった結果、福音を歪めてしまったのだと思うのです。私たちは、家庭において、社会において、父性を喪失してしまっただけではないでしょう。押し寄せる世の父性欠損の波から、自らを守り、抵抗し、むしろ、健全な父性を証しすべき、神の家族父性欠損の波に飲まれ、神の母子家庭可しているのではないでしょうか?

     そして、遂には、父なる神様についても、現代人に不都合な父性愛は黙殺し、現代人の安直なニーズに対応した「父性喪失母性一辺倒の神観」を提示し、そのことによって、教会に人が集い、集っている者たちも離れぬようにしているとしたら、それは聖書に登場する「異なる福音」「耳触りのよい言葉」に相当するのではないか?と危惧します。そのような福音理解に歩み、その福音に生きるクリスチャンが、自立し、健全な教会を建て上げ、宣教し、神の栄光を現していく者へと成長していけるかは、さらに疑問と言わざるを得ません。

     父性欠損の波に飲まれた福音や神観、その福音理解とそれに生きるクリスチャンたちの問題。言い換えるなら、「父性欠損・母性一辺倒型神観」がもたらす問題は、現代と将来の日本のキリスト教会においては、かなり深刻と言えるのではないでしょうか?

     さて、明日はこのことを受けて、福音理解と神観における「いまどきクリスチャンの父性拒否体質」について記しましょう。
    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 15:37 | - | - | - |
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