命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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誰がイエス・キリストを殺したのか?(3)
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     マタイ27:11−26から「誰が、イエスキリストを殺したのか?」を考えるシリーズの3回目です。

     「誰がイエス・キリストを殺したのか?」その三つ目は「群集の付和雷同」であります。イエス様は、群集の付和雷同によって十字架につけられていったのです。これまで、見てきたように、イエス様をメシアとして迎えたはずの群集は、祭司長・長老たちに扇動され、イエス様を十字架にかけざるを得ないようにピラトに圧力をかけました。
     

     こうした群集の愚かで危険な付和雷同はなぜ起こったのでしょうか?私は信仰者でもあった当時の群集たちには三つのものが欠けていたように思うのです。私なりに観察した三つの欠如を挙げてみましょう。

     

     三つの欠如、その一つ目は、「正しいメシア観の欠如」です。群集たちは、信仰者でありながら、聖書が示すメシア像を持たず、それとは異なる救い主を求めていました。ヨハネの福音書だけは、バラバを「強盗」と記していますが、ただの強盗ではないようです。共観福音書のマルコとルカでは、罪状として、「暴動と殺人」が挙げられています。確かに、これはただの強盗ではなさそうです。
     
     有力な説として、バラバは愛国団体「熱心党」に属する極端な民族主義者で、反乱と暴動を起こしていた人物だとも考えられています。今風に言えば、大国ローマからの独立を目指す武装派革命勢力あるいは反政府ゲリラであったわけです。ここからは、そのような前提で群集の心理を考えてみます。
     
     群集は愛と平和によって霊的、精神的な神の国を作るメシアではなく、すぐにでもローマに謀反を起こし、自分たちを独立させてくれるメシアを願っていたのです。神が願う救い主より、自分の願望を実現する救い主を願ったのです。いいえ、自分の願いを実現しないような救い主は、抹殺してもよいと判断したのです。

     
     どうでしょう?お互いのうちには、自分の願望を実現する救い主を願う心、自己実現をサポートする全知全能の神を願う心がないでしょうか?そうでない聖書が示す救い主を、拒否・拒絶・抹殺したい思いを抱いたことはないでしょうか?

     
     二つ目は「一貫性の欠如」です。数日前には、しゅろの葉を振って、イエス様をお迎えした群集が、手の平を返したように、イエス様を十字架に付けろと叫び続けたのです。ここには一貫性が全くありません。
     
     しゅろの葉を振って迎えたのはどういう意味でしょう。この時から200年程前、ユダヤはシリアの支配下にありましたが、マカベヤという人物がリーダーとなり、ユダヤ独立に成功したのです。その時、人々は勝利の印としてしゅろの葉を振って彼を迎えました。
     
     ですから、しゅろの枝を手にして迎えたということは、イエス様にローマに対しての軍事革命、独立戦争を期待していたことを意味します。しかし、イエス様は軍馬ではなく、ロバにのってエルサレムに入城します。ある方これを「三輪車に乗って登場する仮面ライダー」と喩えました。群集の困惑振りが目に浮かぶようです。待てど暮せど、イエス様は武装するとも蜂起することもありません。群集たちに失望が広がります。きっと、祭司長と長老たちは、これなら、イエスを捕らえて裁判にかけても、群集からの反発はないとの見通しができたのでしょう。
     
     皮肉なことです。政治的な意図がないから、イエス様に失望したはずの群集が、イエス様を政治犯として処刑するように要求したのですから。謀反を起こしてくれないから、見捨てたはずなのに、自らを王とし謀反を起こそうとしたとの理由で十字架につけたのです。最後には無実でもかまわない、責任は自分と子孫が負うからとまで言います。何という一貫性のなさでしょう。
     
     どうしてここまで一貫性がなくなって平気なのでしょう、それは事実と真理に基づいてものごとを判断をしないからです。変ることなき事実、真理によって判断・選択すれば一貫性があるものです。しかし、その時々の自分の欲望、気分、利害関係を基準にするなら、一貫性は失われます。まさに群集はイエス様が無実であるとの事実、メシアであるとの聖書の真理より、自分の欲望、気分、利害、感情を優先し、ありえないほど一貫性の欠如を露呈しています。
     
     しかし、このことは他人事でしょうか?「先生に一生ついていきます」と牧師に宣言した信徒が数年後には「先生には失望した」と教会を去ります。「生涯、イエス様に従います」と誓いながら、教会生活を離れた、あるいは離れかけた方は少なくないでしょう。そして、事実や聖書の原則より、その時の自分の気分、好み、利害で、重大な決断をして、御心を損なった経験はないでしょうか?

     
     三つ目は、「主体性の欠如」です。20節によれば、群集は、祭司長、長老達に説きつけられ、つまり扇動をされて、イエスの十字架刑を求めるようになりました。
     
     自分で聖書を読み、自分の頭脳でイエス様の言動を検討する、主体的な信仰をもっていたら、群集たちは、扇動には乗らなかったでしょう。残念なことに群集は、権威者の聖書理解や言い伝えを鵜呑みにし、人々と同じことをよしとして、主体的に聖書を読み、自分の頭で考えてはいなかったようです。こうしたあり方は、扇動されやすい典型的なタイプです。
     
     これは現代的に言えば、群集心理です。群集の持つ最大の危険性、それは主体的に自分で考えようとしないことです。その歌返しとして、その時の気分で動き、人と同じことで安心するのです。それ故に、権威やメディアに扇動されやすいそれが群衆の危険性です。
     
     初めて大衆を学問の対象としたオルテガという哲学者は、大衆社会の危険を訴えました。その後に実際に起こったドイツでのナチス台頭やイタリヤでのファシズム台頭はその学説の正しさを証明しました。現在でも、同様の危険性が、政治だけでなく、社会の多くの分野で指摘されています。さらにはそのことは、キリスト教界も例外ではないことは皆さんご存知の通りです。
     
     お互いはどうでしょう?主体的に聖書を読み、聖書はどういっているか?を最優先し、自分の頭脳で考えて物事を判断いるでしょうか?それとも指導者の言葉を鵜呑みにし、聖書の言葉を理解し実行に務めるよりも、教会内の言い伝えをなぞるような信仰生活に終始しているでしょうか?
     

     群集は言いました。「その人の血は、私たちや子どもの上にかかってもよい」と。「誰がイエス・キリストを殺したのか?」三回目に当たる今回、指摘したのは、群集の付和雷同でした。正しいメシア観の欠如、一貫性の欠如、主体性の欠如の三つの故に群集は、付和雷同の罪に陥りました。そして、その付和雷同がイエス様を十字架につけました。

      聖書が示す救い主ではなく自分の願いを実現してくれる偶像をイエス様に期待した群集、事実や聖書真理より自分の気分・利害を優先し一貫性を失った群衆、権威や言い伝えを鵜呑みにして主体的に判断しなかった群衆、それ故に付和雷同となりイエス様を十字架につけた群集、果たして、それは、私たちとは関係ない人々でしょうか?お互いはその群集の一人であったのではないでしょうか? 
    | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 19:22 | - | - | - |
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