命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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誰がイエス・キリストを殺したのか?(2)
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     新約聖書マタイ27:11−26から「誰が、イエスキリストを殺したのか?」を考えるシリーズの二回目です。「誰がイエス・キリストを殺したのか?」その二つ目は、責任者の自己保身であります。イエス様の処遇を決める責任者であった総督ピラトの自己保身によって、イエス様は、ローマへの反逆の罪を着せられて十字架刑に処せられたのです。

     ユダヤの領土は、ヘロデ王などユダヤ人自身が治めていましたが、さらにその上で、監督していたのは、ローマから送られた総督ピラトでした。祭司長や長老たちは、イエス様がローマの法律で裁かれて、死刑にされることを願って、イエス様をピラトの下に連れて、裁判が開始されます。それが11節以降に記されています。

     
     ピラトはイエス様に尋ねます。「あなたはユダヤ人の王ですか?」と。イエス様は「そのとおりです」と返答します。もちろん、これは、謀反を起こしてカイザルに取って代わる政治的な意味での王ではなく、霊的な意味です。

     ところが、12節にあるように祭司長と長老達からの訴えに対して、イエス様はなぜか沈黙を通します。13節で、イエス様が妬みによって無実の罪を着せられていると気づいていたピラトは、このままではいけないと思います。そして、「不利な証言をされているのに、聞こえないのですか?」とイエス様の反論を期待します。しかし、14節にあるように、イエス様はご自分に不利な証言に対してなぜか一言も応答をしません。ピラトはこれに非常に驚きます。
     
     無言であることは、訴えを認めることを意味します。このままでは、無実の人を十字架刑につけざるを得ません。しかし、ピラトにとっての大逆転のチャンスが残っていました。15節によれば、例年ピラトは、過ぎ越しの祭りには、群集のために、望みの囚人を一人だけ赦免してやっていたのです。そうした慣例はきっとユダヤ人の人気取りのためだったのでしょう。
     
     これで、イエス様の死刑執行は避けられると思ったピラトは群集に尋ねます。「赦免して欲しいのは、バラバかキリストか?」と。さらに19節によれば、ピラトの妻が人を遣わして、「正しい人イエスに関わらないよう、夢で示された」との連絡が入ります。いよいよピラトは、イエス様の赦免を願ったことでしょう。ピラトの妻はクリスチャンであったのではないかと推測もあるようです。
     
     しかし、20節以降、ピラトにとっては予想外のことが起こります。祭司長と長老に扇動された群衆は、こともあろうに、バラバの赦免を願い、イエス様については「十字架に付けろ」と要求します。そこで止むを得ずピラトが本音を告げたようです。23節です。「あの人がどんな悪いことをしたというのか?」とイエス様の無実を群集に突きつけます。

     しかし、群集にとって事実はどうでもよく、理屈などありません。激しく「十字架に付けろ」と叫び続けます。狂った群集の前では、ローマの総督も無力です。手の下しようがなかったと24節は記しています。それどころか、イエス様を赦免したら暴動になりかねないと判断したのです。
     
     実は、ローマの総督が最も恐れたのが、この暴動です。これが起これば、カイザルからの任務を果たせなかったことを意味しますから、総督は左遷か首です。いいえ、暴動が起これば、ローマ兵がいるとは言え、自分のいのちも危ないかったのでしょう。彼は自己保身から、バラバの赦免を決めます。しかし、イエス様の無実を知る彼は、自分の責任にはしたくはありません。
     
     そこで、彼は群集の前で手を洗うパフォーマンスをして、その意味を語ります。「この人の血について私には責任がない。自分たちで始末するがよい」と。群集はそれを受けて、血の責任を負うと応答し、イエス様は鞭打ちを受けた後、十字架につけるため渡されてゆきます。
     
     これは、裁判の決定権を持つ総督としての責任放棄です。さらには、無実の人を死刑に処する自らの責任を群集に負わせた責任転嫁に他なりません。自己保身から起こった不当判決です。ピラトは自己保身の思いから、無実の人に死刑判決を下し、なおかつ責任者であるのに責任放棄と責任転嫁をしたのです。しかし、皮肉なことにピラトの名前は2000年間、使徒信条を通じて、十字架につけた責任者のように伝えられてきました。
     
     「自己保身からの責任放棄と責任転嫁」。それは私たちがマスメディアを通じて、度々、見聞きしていることです。原発事故の責任はどこにあるのか?責任者たちが責任放棄や責任放棄をしているのではないか?そんな問い掛けや非難に、私たちは5年間触れ続けてきました。
     
     学校での体罰問題柔道界での体罰問題、相撲協会の不祥事続発、そこには常に責任者たちの自己保身、責任放棄、責任転嫁の疑いが報じられてきました。そのために、弱い立場の方々が、不当な苦しみを受け、自らいのちを断つ若いいのちがあることを覚えて、お互いは深い悲しみや激しい怒りを禁じえなかったのではないでしょうか。
     
     しかし、考えてみたいのです。ピラトにせよ近年の事件にせよ、自己保身から、責任放棄や責任転嫁をして、弱い立場の人々を不当に苦しめる罪は他人事でしょうか?お互いは、指導者、上司、先輩、親、兄や姉として、自分の地位や立場、あるいは世間体を守るために、部下、生徒、後輩、子ども、弟妹などに対して不当・不公平な扱いをしたことはないでしょうか?
     
     自分の地位、立場、家族の生活を守るために、自分より弱い人を犠牲にしたことがないでしょうか?文字通り、それによって人を殺したわけではないでしょう?でも、その方々の人格を否定する人格的殺人、将来や可能性を奪い社会的に抹殺する社会的殺人を犯していないとも限りません。祭司長、長老たちの妬みの罪と同様、ピラトの自己保身の罪も、私たちにとって極めて身近な罪ではないでしょうか?
     
     ピラトは言いました。「この人の血について私には責任がない。自分たちで始末するがよい」。「誰がイエス・キリストを殺したのか?」その二つ目は、責任者の自己保身であります。イエス様は、責任者の自己保身によって十字架に付けられていったのです。その責任放棄、責任転嫁の犠牲者とされてゆきました。
     
     「ピラトが犯した罪は、自分には無関係と言えるだろうか?」それを心に留めながら、「誰がイエスキリストを殺したか?」を考えてみてはどうでしょう?

     
    | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 08:46 | - | - | - |
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