命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
<< 一昨日の記事への一牧師の応答をご紹介 | main | 牧師の12ステップ、次回のご案内。 >>
「舟の右側」の「焚き火を囲んで・・・」は、スリルとサスペンスが満載
0
     昨日、25日に「舟の右側」3月号を購入。2月号が「神学のひろば」なら、3月号は前半が「牧会ジャーナル」状態であります。特集が「霊的形成」で、牧師の燃えつき体験などもレポートされており、いよいよ「牧会ジャーナル」的な印象を受けました。この特集については、Ministry誌の「牧師たちの失敗」に共通する要素もあり、後日、取り上げます。

     さて、とにかく「焚火を囲んで・・・」であります。何でも、焚火仲間では「先生」と呼んではならず、「先輩」と呼ばなくてはならないのだとか。前回「焚火を囲んで・・・」を絶賛したために、頼んでもいないのに、「焚火仲間」にされてしまったようなので、焚火仲間の慣習に従うこととします。

     筆者の大頭先輩は、「キリスト教界のピース又吉ではないか?」というのが私の評価です。又吉が文学者としてもお笑いとしても一流のように、先端の神学とお笑いセンスを兼ね備えており、どちらも第一線で活躍可能という意味で、大頭先輩は又吉にたとえられると思うのです。私が先輩に追いつくためには、国内外の神学校を二つ卒業して、吉本の養成学校で学び、何年か芸人生活を送らねばならないでしょう。ようやく先輩に追いついたとしても、その頃には引退すべき年齢を超えてしまいます。どうがんばっても、先輩にはかないません。

     相変わらずの深く先端的な神学的考察しょーもないお笑いネタの奇跡的統一には、脱帽です。今回は、前半が神学的な考察で、後半が聖書を舞台にした物語です。「聖書を物語として読む」と言っても、記述の歴史的事実性を否定することを意味するのではありません。「物語」は「神話」ではありません。英語では「ナラティブ」であって「フィクション」ではないのです。この点を誤解すると、「物語神学=聖書的信仰からの逸脱」となってしまいますから。

     前半は、実在の焚火仲間との交わりの中で、神学的考察が深められてきたことを物語っておられるのですが、これが面白いやら、教えられるやらです。私は教育機関や書物だけでなく、信仰の友との対話の中で神学を育んでこられたことに尊敬を覚えます。残念ながら、神学校で教えられたことを絶対視して、それを守ることが真理であるかのようにして、信仰理解の異なる方々と対話不能となっている方に時々出会います。自説の正しさばかりを主張し、異なる他者を批判するだけで、対話にならないこともあれば、中には、対話や交わり自体を拒否したり、禁じたりすることもあるとかないとか。

     私は、見解の差異よりも、むしろ、対話可能かどうか?で相手への信頼と親しさが無意識に決まってしまいます。同じ見解で対話ができない人より、違っていても対話可能な人と親しくなる傾向があります。それは、信仰理解でも政治的見解でも同様です。


     さて、今日はここからが本題です。実は、今回の前半部、スリルとサスペンスが満載なのです。先輩自身も「ついに書いてしまった。これでもうぼくもおしまいかもしれない」と文中に記しておられます。これが、スリルとサスペンスなのです。20年前にこのことを記していたら、きっと、焚火は炎上して、先輩は火だるまとなってことでしょう。

     いいえ、石打の刑で、血だるまになっていたかもしれません。お名前の通り「大頭」なら、きっと、頭脳明晰な先輩は脳の容量が大きそうなので、頭部は通常より大きめなのでしょう。そうであれば、投石が頭部に命中する確率は高く、先輩は「おしまいになった」かもしれません。かく言う、私も20年前なら、先輩に石を投げる大先生の着物を預かっていたことでしょう。そうです。昔なら、先輩はステパノで、私はサウロでした。しかし、時代は変わりました。今はなぜか、焚火仲間になってしまいました。

     何が、スリルとサスペンスかと言えば、「資料仮説」の採用と「悔やむ神」という神観であります。この二つの指摘と表現が正しいかどうかは自信がありませんが、先輩ご自身も、炎上の原因となることは自覚をしておられます。先輩は資料仮説に立ちませんが、矛盾と思える記述を考察するためには、その学術的成果を取り入れるようです。

     「資料仮説」との言葉だけで、「聖書信仰でない」と自動思考してしまう読者は、炎上欲求が燃え上るかもしれません。私自身も藤本満先生の「聖書信仰」を読んでいなければ、今頃、先輩に投石する大先生の横で、石を手渡していたかもしれません。しかし、私は逆に、「これは、聖書信仰の立場批評学の成果を適切に採用する一例かな?」と受け止めました。個人的には、「どういう基準で取り入れるか?」が「開かれた聖書信仰」に対しての疑問点なので、ここは謙虚に学びたいと願っています。

     大頭先輩は「人によって愛が裏切られることを悔やみつつも、愛したことは悔やまない神」という神観を、今回提示しておられます。これも、伝統的かつ正統的な神観に立つ読者にとっては、炎上の対象となりかねないでしょう。しかし、これについても、私は、「多数の命題的な定義によって規定されたスタティックな神観」から「聖書物語が示すダイナミックな神観」へのパラダイムシフトとして読みました。「教条主義的な教理によって再構築され明確に定義された標本のような神観」に対して「聖書物語に啓示された曖昧にしか規定しえない、むしろ、曖昧に規定すべき生きて働く神観」を提示しているように思えたのです。

     今回の記事を読みながら、神観についても、藤本先生が山崎ランサム先生のブログに記された「曖昧になることへの恐れ」とのお言葉、南野先生が以前にFBで記しておられた「確実さへの逃避」という言葉を思い出しながら、チャレンジを受けました。でも、先輩によれば、これが最大の炎上ポイントとのこと。


     どうか、よい子の皆さんは、先輩に石を投げたり、炎上させたりしませんように。まずは、連載を続けさせてあげてください。どうも、先輩の見解は、欧米では、聖書信仰の枠内として一定、認められているようですから。反対者も、言論の自由は保障して、先輩の言い分には耳を傾けましょう。投石、炎上より、まずは、焚火の外から傍観ということでしょうか。

     今回は、ある意味、スリルとサスペンスに満ちています。それは裏を返せば、聖書の読み方や信仰理解についてのパラダイムシフトのチャレンジとも言えるでしょう。めちゃめちゃ面白くて、神学的刺激に満ちた連載です。また、この斬新なコンセプトは神学の大衆化に極めて有効だと思うのです。賛否にかかわらず、神学とお笑いに関心のある方には、絶対のおすすめです。


    「舟の右側」3月号はこちら。「焚火を囲んで・・」は1月号から連載が開始しています。
    年間購読予約をされるとお得のようです。
    http://www.revival.co.jp/2016/funeno-migigawa-01.php
     
    | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 15:25 | - | - | - |
       1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    262728293031 
    << March 2017 >>
    + SELECTED ENTRIES
    + RECENT COMMENTS
    + RECENT TRACKBACK
    + CATEGORIES
    + ARCHIVES
    + MOBILE
    qrcode
    + LINKS
    + PROFILE