命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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一昨日の記事への一牧師の応答をご紹介
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      一昨日の記事(シリーズの2番目)に応答して、知人牧師(南野浩則師)が、ご自身がずっと考えてきたことをフェイスブックに記されました。牧師のストレスや破たん原因の一つについての鋭い指摘と深い考察だと思いますので、以下にご紹介します。(一部削除しています。また、太字は水谷の編集によるもの)


     敬愛する水谷潔牧師のblogで、自らの「闇」を含めて牧師職にある者は自己と向き合わなければならない、そのようなことが主題となっていた。私自身にとっては、自らが牧師であること、また牧師や宣教師を志望する神学生と相対さないといけないということで、「失敗」を含めて身につまされる話題であった。同時に、自分なりに考えてきたこともある。

     戦後、福音派と呼ばれる教会は、少品種大量生産の価値観に乗って人数を拡大してきたと私は考えている。教会に集う人々は、教会やその組織に自らを同化させることで自己実現を図ってきた。そこでは排他的な福音理解、世界観で話がまとめられ、それ以外の考え方やあり方は受け入れられなかった。

     しかし、時代は多品種少量生産の時代となり、人々は教会に自己を同化させるのではなく、自らの福音理解や世界観で生きることで自己実現を図るようになってきた。牧師のいわゆる「燃え尽き症候群」の一因は、両者の狭間の調整の失敗ではないかと推察している。

     教会内の意見の違いに対する不満や文句は、形を変えつつも、多くの場合は牧師に集中する(ある場合には無責任に)。牧師が辞任したとき、教会自体やそこに集う人たちが自己を見直す必要がある場合もあるのだろう。それはその牧師に対する責任の果たし方というだけでなく、その教会に病巣があるかも知れないことを省みるためである。


     以上が転載です。この記事を読んで、すぐに腑に落ちたのは、教会においての「信仰理解と信仰生活における世代間格差」です。良くもも悪しくも、教会のあり方は、ある程度、時代の精神や社会背景に影響を受けるもの。「少品種大量生産」の時代における教会や組織への自己同一化による自己実現から、「多品種少量生産」の時代での自らの福音理解で生きることでの自己実現へ移行してきたという分析です。

     これは、今まで思い至らなかった内容でした。私などは「自己実現」と聞くと「神を除外した自己欲求達成」というマイナスの意味で受け止めがちです。南野先生の意図とは異なるかもしれませんが、私と同じような読者は、「自己実現」を「自己同一性の獲得」や「自己価値確認」に置き換えると、すんなり同意できるかもしれません。

     まさに教会の世代間格差は、目に見える感性や文化の違いよりも、実は、その根底にあるこの違いが大きいのでは?この根底にある違いを見定められないことが、世代間における相互理解の困難さにつながっているように思うのです。そうした世代間の調整失敗が、牧師の燃えつきの一因と南野先生は指摘しておられます。

     世代間の意見調整に苦慮する牧師が、両方から責められる場合もあるでしょう。牧師が下の世代の育成に重点を置けば、上の世代から不満や批判が来ることも。さらには、理解も尊重もされない下の世代が教会を次々と去れば教会高齢化の責任を牧師が問われることも珍しくありません。南野先生のご指摘の通り、信徒間の問題であるにもかかわらず、なぜか牧師ばかりが責任を問われるのです。あるいは牧師に責任を問えない場合は、無責任体制となり、問題の放置がされるように観察しています。

     残念なことに、教会内の不満の声は、牧師へ向かい、時に、牧師が去ることで事態が収束するかのような錯覚に陥り、その方向へと進みます。結局、牧師が教会を辞任するのですが、多くの場合、牧師の辞任で問題が解決するわけではありません。世代間格差の問題は、牧師の力量不足が問題の直接的原因ではないからです。

     そうした経緯で無牧となった場合は、信徒が自らを真摯に省みるかどうかが、分岐点となるのでしょう。それは、病巣を見定めて問題の克服に向かうか、牧師をスケープゴートにして終わっていくかの分岐点です。後任牧師と共に教会が課題に向き合っていくか、3年程度で牧師を変えながら自らは変わらない教会になっていくかの分岐点です。決められた担当医と共に治療に励むか、本当の病気を認めず症状だけを訴え続け、担当医を変え続けるかの分岐点です。


     一昨日の記事では、牧師や教職志願者が自らの闇に向き合う必要性を記しましたが、教会全体が自分たちの闇に、信徒各自が自らの闇に向き合う必要性を、南野先生の記事からは、教えらえた気がします。とりわけ、昨今の教会において、重大な課題となっている信仰理解と信仰生活における世代間格差については、自らに向き合わぬことが、牧師をスケープゴートにしてしまっているケースが少なくないように感じます。また、病巣を温存したままで、担当医を変え続けていると思われる教会を嘆き悲しむ声も時々、耳にします。

     顧客満足度で牧師と教会を評価する一方で、み言葉によって心の深みを探られ、自らと向き合うことを拒否するような信仰姿勢は、次々と牧師を生贄にするだけでなく、教会にあるはずの希望さえも、自ら捨てる去ることを意味するように思えてなりません。牧師も信徒も、逃げたりごまかしたりせず、み言葉の光に照らされて自らに向き合うことが、不必要な失敗を避け、希望に前進していく大前提となるのでしょう。一昨日の記事に応答しての優れた考察に触れて、そんなことを考えました。
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:07 | - | - | - |
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