命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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教会たてこもり事件の記事に寄せられた言葉
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     フェイスブックのコメント欄には、昨日の記事への応答がいくつか寄せられました。あまりに有意義なコメントが続いたので、今回は例外的にコメントに即時応答させていただきました。いくつか紹介し、それに教えられたことを記してみます。

     記事をアップするとすぐに、日本長老教会の知人牧師から、御礼をいただきました。それには、「長老教会教職者からのコメントとして深く受け止めました。一クリスチャン家庭、一教会、一団体の問題ではないと思います。痛みを共有しつつ、祈らせていただきます。」と返答。

     これに応答されたのでしょう。某神学校の校長先生からは、他人事ではないとの意味も込めて、「今日の牧会の日常にある現実ですね。」とのコメントを頂戴しました。


     「牧会の日常にある現実」という言葉、これは、重く受け止めました。そして、読者の皆さんには、多くの教職が、こうした事件が起こってもおかしくない牧会現場を担っていることを、広く認識していただきたいとも願いました。牧会現場で身体や生命の危機を覚える経験をした牧師は少なくないでしょう。私の知人牧師には、実際に身体的暴力を受けたり、刃物を向けられたりした方が、何名もいらっしゃいます。その意味で牧師の働きの過酷さを理解し、牧師を祈り支えてほしいと願います。

     何よりこうしたことは「牧会の日常」なのです。信仰者の家庭には事件化しておかしくない問題があるのは、日常なのです。それは、何千年の昔から、いいえ、人類の開始からそうなのです。人類初の殺人事件は元祖信仰者家庭のアダム家において兄弟間で起こりました。アブラハムが、血のつながった長男とその母を、家庭から負いだしたのは、事件です。イサク家では、次男が詐欺事件を起こしました。ヤコブ家では、兄弟間で殺人未遂と遺棄事件が起こります。祭司エリの息子たちの事件は今なら、フライデーか文春のネタです。ダビデ家においては兄弟間で、性犯罪事件と殺人事件が起こっています。

     旧約聖書はこうした前例を示しています。ですから、今日においても、クリスチャン家庭で犯罪や事件は起こり得るでしょうし、ましてや、そこにまでに至らない深刻な家庭内の問題はまさに「牧会の日常」なのです。「クリスチャンホームなのにどうして?」ではないのです。むしろ、旧約聖書における信仰者家庭の記述を読むなら「クリスチャンホームでもあるよねー」さらに言えば、「クリスチャンホームには時々あるよねー」が正しい認識ではないでしょうか?

     「クリスチャンホーム幸せ幻想」などはまさに「幻想」であって、聖書の記述にも現実にも合致しません。神様からの祝福を無残なまでに破壊する罪人の現実からスタートとしなければ、理想は、幻想で終わってしまうでしょう。むしろ、その問題を認め、向き合い、神様の介入をいただくことによって、祝福に向かって希望の道が開かれていることこそ、クリスチャンホームの幸いと考えるべきでしょう。


     また、ある牧師からは、こんなコメントが。

     「事件を起こしそうな人」を排除するような動きが教会に起こらないことを望みます。助けを必要とする人にとって、教会がキリストの業が生起する場であり続けるよう、祈ります

     「排除でなくキリストの業の生起」とは、教会にとって、最高の戒め、そして希望の言葉ではないでしょうか?クリスチャンホーム子弟や、家庭に問題を抱えて求道をされる方々の中には、傍から見れば「事件を起こしそうな人」が含まれているかもしれません。

     この牧師が危惧するように今回の事件を受けて、教会に集う方に、危険人物のレッテルを貼り、排除しようとする信徒さんが、出てくるかもしれません。もちろん、教会員の安全を確保する責任もあるでしょうから、単純に誰でも受け入れるべきとは申しません。しかし、排除してしまえば、教会は、キリストの業が生起する場ではなくなりるのですから、安易に排除するべきではないだろうとは思うのです。キリストの体が自己防衛に走る余り、神の栄光を現す本来のありようを失ってはならないように感じています。

     特に今回の事件は、数年前からお子さんの暴力で苦しむ一家を教会が受け入れ、助けていたようですから、まさにキリストの体としてふさわしく歩んでこられたわけです。それだけに今回の事件で、この教会はもちろんのこと、他の教会までもが、排除傾向に向かうことがあってはならないでしょう。やはり、「排除でなくキリストの業の生起」が神様のみこころだと思うのです。


     また、ある大学の先生が、昨日の記事をシェアして、「問題に向き合い、取り組んでいればこそ、起こりうること」との趣旨を記してくださいました。

     家庭問題については、親が問題を認めず、向き合おうとせず、お子さんが犠牲にされていくケースも少なくありません。むしろ、カウンセリングを受けるということは、痛みを覚悟で、問題に向き合い、回復を願っているわけです。止まっているのでなく、前進するからこそ、転ぶし、倒れるし、骨折もするのです。

     今回の事件は重大な悲劇でしょうが、それでも、この親子にとっては、途中経過なのです。大切なのは結果でなく、プロセスです。これまで、前進してきたプロセスがあるから、今後も前進して行く希望があります。これまで前進してきた歩みがあるからこそ、今回の事件が結末になることなく、事件後の向こうに回復に向かうプロセスが期待できるのです。事件は失望という結論でなく、希望に向かう通過点にすらなるのです。


     今回いただいたコメントを読みながら、私は、ヨハネの9章を思い起こしました。この箇所で、
    生まれつきの盲人を見た弟子たちは、イエス様に「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と問います。それに対してイエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」と答えて、盲人を癒されます。

     罪深く愚かな私たちは、ともすれば、クリスチャンであっても、弟子と同様の問い掛けを心の中でしてしまいます。「こんな事件が教会でおこるのは、誰が悪いのですか?」と。原因追及をしたがり、犯人捜しを始め、特定できたら責めるのです。しかも、自分を安全地帯に置いてです。

     だからこそ、私たちは、イエス様の返答をよく聴きなさった業をしっかりと見たいのです。

    「誰が罪を犯したからですか?」と過去における原因を問う弟子に、イエス様は「神の業が現れるため」と未来における希望を示されました。

    「この人?それとも、その両親?」と犯人を特定して責めようとする思いを、「神の業の現われ」へと方向転換させました。

     苦しみ助けを必要とする者の前で、冷たい神学的議論をする愛なき弟子の前で、イエス様は、愛の手をのばし、泥をこね、彼の顔に塗り、神の業を現されました。

     今回の事件についても、あるいは集っている教会にある同様の家庭問題に対しても、キリストの体の一部である者は、弟子たちのようであってはなりません。ヨハネ9章が示すキリストの愛と思いをもって、キリストの手となり、神の業の現われの希望に歩んでいきたいと願います。
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