命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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清原問題から考える「批判者排除=警告機解除」
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     連日、清原氏のことが報道されています。昨日は、桑田真澄氏が登場し、3年前に清原氏から絶縁を言い渡されたことを明かしました。桑田自身「小姑のようにあれこれ言ってきた」とのこと。頭脳明晰な彼のことですから、理路整然と正論を語ってきたことでしょう。そして、今朝の「スッキリ」のレポーターによれば、妻である亜希さんは、再三再四、清原氏に暴力団との交際と薬物を止めるよう求めていたそうです。しかし、やめようとしないので、離婚に踏み切ったとのこと。

     理路整然と正論を言う旧友も、立ち直るように懇願する愛妻も、清原氏は排除してきたのでしょう。むしろ、薬物と暴力団が、彼をそうせざるを得ないように追い込んだと表現する方が的確なのかもしれません。自分のためを思い、時に苦言を呈し、耳の痛いことを言ってくれる家族や友たち・・・・。そうした人々を、自分の思い通りにしたくて、排除することは、何と危険なことでしょう。思い通りにすることが、当人を逸脱や破滅に向かわせると判断して、苦言を呈し、耳の痛いことを言っているのですから。

     
     そう考えていますと、最近「いいね!」を押しまくっているM牧師のF.B.の記事を思い出しました。あまりに適格で素晴らしいので、当人のご許可をいただき、以下に転載します。(太字は私の編集です)。ぜひ、読者の皆様には、お読みいただきたいのです。


     溜め込んだ録画済みVTRを観ている。ある歴史ドキュメントの中で、批判者とは迫り来る危機を感じ取っているセンサーだ、そのように理解すべきであるというコメントがあった。批判もしくは批判者を一方的に排除すること、自分の都合で聴かないことは、その危機を見過ごすことになり、何も学ばなくなり、結局はその危機の顕在化によって身を滅ぼす

     本当に、そうだなと思う。そのようなことを自分でも経験してきたし、最近も目撃した。牧師・宣教師になるような人、あるいは牧師・宣教師になった人は、正直、批判されるのが嫌いだ(もちろん、すべての牧師・宣教師がそうだとは言わない、誤解のないように)。だから批判されないような雰囲気作りをしてみたり、批判されたら怒ったり、違う意見に 不快感を示したり、批判を見ないようにしたり、とにかく批判が自らに届かないように努める(牧師や宣教師など、文句や陰口を言われて爐覆鵑椨瓩覆鵑任垢韻匹諭次法

     それが宣教阻害の一端にもなっている。改めて「違い」の関係性が私たちを豊かにし、安全にし、平和の土台になること、ひいては神の意思の実現につながることを確認したい。


     以上が引用です。M牧師のF.B.には教えられてばかりなので、ご紹介しておきます。
    https://www.facebook.com/hironori.minamino.9?fref=ts


     一般的に既婚者男性は妻に対して、「自己防衛的」です。さらに牧師のような信仰リーダーになると、被害妄想レベルで、病的なまでに、「自己防衛的」になることは珍しくありません。私などは両方とも該当者であり、経験済みです。

     ですから、既婚者の男性牧師は、最高の危機警告者である妻を無視したり、黙らせたりして、自分の思い通りにすることは極めて危険と言えるでしょう。同じく、とりわけ賢明で成熟した信徒の苦言を受け入れず、結果的に、その信徒が教会を去るなら、それは、最大レベルの損失であり、教会を危機にさらすことにもなりかねません。

     このことは信仰リーダーに限らず、多くの男性に当てはまるように思うのです。結局、愛による危機警告者を排除して、自分の思い通りにすることは、自らを王とする小帝国を築くことに過ぎません。教会であれ、家庭であれ、職場であれ、その場から、豊か安全を失わせ、平和の土台を築くことなく、ひいては神の意思の実現に至らないのでしょう。


    清原問題から私たちが学ぶべきことの一つは、このことだと思うのです。

    「批判者排除=警告機解除」

     M牧師が記しておられるように「批判者とは迫り来る危機を感じ取っているセンサー」なのです。批判者を排除することは警告機を解除状態にして、自らを危険に対して無防備な状態に置くことを意味しています


     
    批判を受けたら、耳の痛い苦言をいただいたら、次のような可能性を考えてみたいものです。

     批判者の言葉が「ミサイル」なのではなく、ミサイル接近を知らせる「警報機の警告音」である可能性。

     批判者自身が「地雷」なのではなく、「地雷探知機」である可能性

     批判者がもたらす痛みが「病巣」なのではなく、それは、「自分が病気であることを示す痛み」である可能性。


     愚かなことに、時に、私たちは何と安易に「危険警告機」「危険物そのもの」と決めつけてしまうことか!

     そして、危険を排除したつもりで、危険警告機を解除してしまうことか。

     本当に危険なのは、自分とは異なる他者なのではなく、その他者を危険人物としか認識できず排除しようとする自分自身であるのに!

     それでいて、豊か安全が失われ、平和の土台を築けず、神の意思の実現に至らない責任を、批判者、苦言の主に押し付けてしまうのです。


     お互い、苦言や批判によって自分の願う世界の実現を阻むかのように思える人物が、自分にとっての亜希元夫人や桑田真澄である可能性を、考えるくらいの謙虚さは、持ちたいものです。

     清原問題のテレビ報道とM牧師の記事に触れながら、そんなことを考えました。
     
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 20:39 | - | - | - |
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