命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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親ラブ族の普遍性〜いまどきの牧師と信徒の関係も?
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     親ラブ族を生み出す時代や社会の背景は、普遍的なものです。ですから、教会内の文化や人間関係にも共通しており、多大な影響を与えています。多分、読者の方の中には、「親子共依存」が「いまどきの牧師と信徒の関係」と共通であると思われた方も多いでは?

     個人的に名著と絶賛している「リーダーシップのダークサイド」(いのちのことば社)には、リーダーの闇が五つの類型に分類され、紹介されているのですが、日本の牧師や信仰リーダーに、最も多いのは「共依存的リーダー」だそうです。

     同著は、機能不全家庭に育ち、他の人を喜ばせることを最優先して、あからさまな嘘をつき、失脚したクリントン大統領を「共依存的リーダー」の実例としてあげています。また、聖書人物としては「サムソン」を「他者の期待に沿い」、「他の人を喜ばせる強い欲求を持ち」、「他者を失望させることを耐え難い苦痛とする」という特徴をあげて、「共依存的リーダー」の実例としています。


     本来、信仰リーダーは、信徒たちの成長を助け、信徒たちがやがて自分を離れて、キリストに強く結びつき自立した歩みをしていくことを目標とすべきです。しかし、残念ながら、それは「神様が牧師と信徒に願っていること」であって、「信徒たちが牧師に願っていること」では、ない場合も。

     いまどきクリスチャンの多くは、自分が成長して、指導者を心理的に離れ、キリストに深く根差して、自立した歩みをすることを願っていないかのように見えます。あるいは、そうした歩みをするように教えられたり、実際の指導を受けていないかのようです。どうも聖書的な「自己成長イメージ」や「成長意識」を持っていないように思うのです。

     そもそも、自我の確立が不十分で依存的な現代人は、しっかりと教えられ、指導を受けなければ、「牧師に依存せず、自分で聖書を読み、祈り、決断し、神の前に結果責任を負う」などという自立したクリスチャンの歩みを願わないのが当然でしょう。あらゆる人間関係において、相手に対して依存的であるかの支配的であるかの両極端になりやすい現代人の傾向は、牧師と信徒の関係においても例外ではないでしょう。

     牧師当人の側も自立不足で依存的な現代人の傾向を免れるわけではありません。「信徒に喜ばれたい」「信徒を失望させたない」という強い思いが、「神様に喜ばれる歩み」「神様を失望させないように」に優先してしまう危険性や誘惑は常にあることでしょう。

     聖書が示す神様の願う牧会よりも、信徒を喜ばせることを最優先とする牧会をしてしまうと、やがて、「牧師=教師」「牧師=僕」「牧師=指導者」であったはずが、「牧師=精神的サービス業」になってしまいます。「信徒の成長と祝福を願い仕えること=」であったはずが、「信徒のお世話をすること=愛」に入れ替わります。

     そうした牧師は、依存的な信徒の願う牧師像に一致するので、「親子共依存」同様の関係に陥ります。共依存の親が、いつまでたっても、子どものお世話をすることを愛と考えて、子どもに依存し、子どもが自立して親を離れていくことがないように子どもを自分に依存させるのと同様のことが起こります。

     つまり、牧師が信徒のお世話をすることが愛と考えて、信徒に依存してしまうのです。信徒の世話をすることで、信徒を愛している実感使命を果たしている気になります。また、それを信徒が喜び、いよいよ信徒が自分に依存してきます。そして、この「病的な共依存関係」を「牧師と信徒のうるわしい信頼関係」と取り違えるのです。「自立できない者同士の心情的絆」にすぎないものを「主にある一致」であると錯覚するのです。面倒見のいい牧師などは、とりわけ、信徒との共依存関係に陥る危険と隣り合わせだと思います。

     こうなると信徒は「永遠のベビークリスチャン」です。「牧師に決めてほしい」「牧師に祈ってもらうから自分は祈らない」「うまくいかなければ牧師の責任」という赤ちゃんぶりです。牧師の側はさんざんお世話をしても、成長しない信徒に失望します。実態は、牧師が信徒を成長しないように導いているのにです。

     さらに、牧師の評価は「どれだけ信徒の依存心を満足させるか?」という顧客満足度で測られます。そうなれば、市場原理が働き、都市部では教会移動が起こり、「信徒の依存心をより満足させる牧師と教会」に信徒が集中します。逆に聖書的に健全な教えを説き、それに基づいて自立に向けての信徒教育をする健全な教会が敬遠される傾向さえ起こってしまいます。まさに「悪貨が良貨を駆逐する姿」です。


     現代日本における個の確立の弱さとその裏返しの依存性は、普遍的であるように思えてなりません。それは、家庭にあっては、親子共依存となって現われ、キリスト教会あっては、牧師と信徒間の共依存関係に現れているように思えてなりません。親ラブ族と今日の教会の課題には、根底に大きな共通項を見ることができるのではないでしょうか?

     これらのことを「日本人的肉性」「現代人の病理」として、とらえながら、それを克服しうる聖書の原則と指針をいかに伝え、教え、実践してゆくがが問われているように感じます。しかし、ある意味、パウロがテモテに警告したような初代教会が持っていた同様の課題に対して、同様の教えで克服してくのですから、現代的な課題のようで、実は、課題自体が極めて普遍的なのだとも言えるのかもしれません。そのあたり、どうなんでしょうね?
    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 17:23 | - | - | - |
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