命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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物語からの説教は、圧縮ファイル?冷凍サンマ?健康食品?
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     書くべき記事ができたので、「親ラブ族」の続編は後回しにします。

     ベッキーが不倫しようが、SMAPが解散しようが、最近は「聖書信仰ウオッチャー」の私であります。昨日は、山崎ランサム先生のブログに藤本満先生によるゲスト投稿の5回目がアップされました。

    聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5)


     ご自身の「物語と説教」に目が開かれる経験をお伝え下さり、多くの事例を挙げながら、読者にわかりやすく説明をしておられます。これまでの理路整然、趣旨明確な記事とは違い、今回に限って、少し着地点を見失われたようですが、私にとっては、大きな示唆に満ちたものです。

     たとえば、洗礼の神学的定義から、一人物の物語を読んでしまった方の事例などは、「聖書的に正しいけれど、聴衆の心に届かず、生活を変えることもない説教」を生み出す最大要因の一つを示していると思うのです。「命題的な説教が、心に届かず、人生にも触れず」という文言などは、説教者の一人として、私も身に覚えがあり、大いに反省させられます。


     今回、この記事から考えさせられたことは「聖書信仰」とか「物語」とは、関係のないことです。それは、聖書の物語からの説教ということです。自分の説教を検証すると、大抵は物語を分析的に読んで、文脈上重要でかつ聖書全体として支持できる「真理」や「教理」を発見し、それをに説教は再構築して、それらを聴衆の生活に適用させて語るというものです。多くの場合は3ポイントに絞るので、典型的な大衆伝道タイプだというのが自己分析です。まとめれば、こうなるでしょう。

     「物語から教理を伝える+その教理を社会生活に適用する→聖書と現実をつなげる」


     このタイプの説教は分かりやすいのでしょうが、物語の持っている瑞々しさやダイナミズムが失われかねません。私の説教は時に「先生みたい」「予備校の講師」と評されます。また、理解してもらえ、指針を受け止めてくれたとしても、「そんな教理伝達と適用なら物語である意味あるの?書簡から説教しても同じじゃん!」とか、自問自答したりします。まあ、それでも、向上心のない私は、説教スタイルを変えずに今日まで来てしまったわけです。


     物語からのこうした説教についてどうなんだろう?と悩んだ末に、三通りの譬えを思いつきました。どれが、譬えとして適切なんだろうと考えたのです。

    (1)圧縮ファイルの解凍
     
     聖書テキストに込められたメッセージを、命題的真理に圧縮して、説教で語り、「適用」として、解凍方法を示した上で、聴衆の側にダウンロードしてもらう。これなら、元データと同一ですね。でも、説教の場合は同じではないと思うのです。


    (2)冷凍サンマの解凍販売、調理提供

     サンマ漁漁船上で、サンマを一旦冷凍して保存、それをスーパーが解凍して販売します。スーパーでの表示は「生サンマ」ではなく「冷凍サンマ」や「サンマ(解凍)」です。それを購入して、料理して、家族や客に提供するのです。

     瑞々しく、弾力のあるサンマを、命題的真理によって冷凍します。それを説教の際に解凍し、食べやすいように調理(再構築・適用)して、提供するのです。料理人の腕がよければ、おいしいけど、生サンマの新鮮さにはかないません。


    (3)健康食品の製造・提供

     ニンニクでも、卵でも、スッポンでもいいです。栄養満点の材料を、煮詰める、成分抽出などの加工して、有効成分が凝集された粒状の健康食品を製造し、それを消費者に提供します。同様に、生き生きとしたいのちに満ちた物語から、命題的真理を抽出し、それを凝縮して、提供します。健康食品なら、成分などを理解しなくても、飲みさえすれば健康に有効ですが、物語からのメッセージは、凝縮してしまうと、理解ができず、物語のイメージも失われ、聞く側にとっては有効成分も無駄になります。

     「圧縮データなのか?」「冷凍サンマなのか?」「健康食品なのか?」

     こうして分析し、自己評価すると、自分は(2)の方法論で、料理人としての腕を上げようと努力してきたようです。だから、残念ながら、聖書の物語からの説教に関しては、サンマ漁の船の上で、刺身を食べてもらうような命あふれる取次ぎはできてこなかったとの自己評価にならざるを得ません。
     

     私は藤本先生が目が開かれた神学的な意味での「物語」はよく分かりません。でも、聴衆をサンマ漁の船の上に招き入れるような「メッセージ・オン・ザ・シップ」、会堂に漁船が降りてきて、ピチピチはねるサンマの水しぶきが聴衆にかかるような「スプラッシュ・メッセージ」こそが、物語からの説教の理想だろうと考えています。目標と理想像については、藤本先生とは、大きく違わないでしょう。


     私などは、小賢しく、これを説教の組立や構成によって実現しようと願うのですが、どうも、それは的外れなようです。そこには、パラダイム・シフトが必要なようです。きっと軸足を自分の能力や知恵ではなく、神の恵み側に置き、信頼をテクニックの駆使ではなくみ言葉の力に置くべきなのでしょう。藤本先生はこう記しておられます。
     

     これを単に説教の「組み立て」「構成」の問題ではなく、神の言葉の「力」として考えてみました。


     「神の言葉の力への信頼」ということは、私なりには、分かったつもりなのですが、私の理解は、きっと従来からの聖書信仰によるもので、「物語」という神学の文脈とは、全く違う次元での理解だと思われます。今回は、藤本先生の意図とは、かなり異なるのでしょうが、私なりにこの記事から教えられ、考えたことをお分かちしました。
     
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 16:40 | - | - | - |
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