命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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愛こそが決め手〜All We Need Is Love.(4)
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     今日で最終回となります。最後は、3節と結論です。

     最後に3節です。愛が決め手、三つは、「愛はすべての自己犠牲の決め手」ということです。「すべての自己犠牲の決め手」です。パウロはこのところで、究極の自己犠牲であっても、そこに動機としての愛がなければ役に立たないと教えます。3節をご一緒にお読みしましょう。(→3節朗読)

     
      全財産を貧しい人に与えるというここには、究極の自己犠牲があります。全所有の放棄です。さらに自己犠牲はレベルアップして、所有どころから、所有者自身を放棄するのです。つまり、自分の体を焼かれるために渡すという行為です。全所有と自分自身を捨てるのですから、ここに記されている内容は、まさに、究極の自己犠牲です。一見、最高の愛の行為に見えます。しかし、それさえも愛がないなら「何の役にも立たない」とパウロは言います。
     
      逆に言えば、私たちは、このような自己犠牲でさえ、愛以外の動機で実行する可能性があるということです。愛以外の動機、すなわち自己顕示や見返りのために全財産を放棄する事もすれば、昔の武士のように自分の面子やプライドのために命を捨てることもできるのです。そのように私たち罪人は、愛なくして、究極の愛の行為と見える自己犠牲をすらできてしまうのです。
     

      「持っているもの全部を貧しい人々に分け与える」とあります。このような施しも、必ずしも愛が動機だとは言い切れません。ペテロはその代表です。彼は、イエス様に言います。「私はすべてを捨ててあなたに従いました。」と。究極の自己放棄をそう証した後、ペテロは何と言いますか?「つきましては何をいただけるでしょうか」。もう、「おい、おい」ですよね?ペテロがすべてを捨てたその動機は、だったのでしょうか?それとも、イエス様がイスラエル国を再興しら、高い地位に就こうというだったのでしょうか?
     
      3節にはもう一つ「自分の体を焼かれるために渡す」あります。皆さんは、ニュース番組などで焼身自殺を見たことがあるでしょうか?
    近年は、焼身自殺の連鎖を防止する趣旨もあり、報道自体が自粛されているようですが、私は昔、民族の独立を訴え、自分たちを抑圧する国家に抗議して焼身自殺をする様をテレビで見たことがあります。
     
     名もない無力な一市民が、全世界に民族独立のメッセージを送る唯一の手段が、焼身自殺であると考えたのでしょう。そこにはきっと同胞を思う愛があるのでしょう。しかし、この究極の愛の行為には、愛以外の動機が潜んでいたのかもしれません。たとえば、自分たちを抑圧する国家権力対する激しい怒りや憎しみが、その方を焼身自殺に至らせた可能性もあるでしょう。
     

      そうです。私たちに罪人は、時と場合によっては、愛以外の動機で全財産を与えることも、自分自身を捨てることさえできてしまうのです。そのことを覚えてながら、この朝、私たちは、同じようなことを自らに問いたいのです。
     
     私たちは今、こうして礼拝のために時間をささげ、礼拝の中では、献金という形でをささげます。その動機は何でしょう。また、クリスチャンたちが、時に、何かを捨てキリストに従おうとする動機は何でしょう。それら自己犠牲の動機はなにでしょう?
     
     それは愛であるはずです。神様の愛の招きに応答して、神の民は時間を犠牲にして、礼拝をささげます。豊かに与えて下さる愛に感謝し、また、神様の愛への応答である献身の証しとして献金をささげるのです。時間と財だけではありません。「神様の愛に報いたい」、「少しでもお役に立ちたい」「こんな私だけど、できる事があればさせていただきたい」。そこからスタートしたはずです。しかし、愚かな私たちは初めの愛からはずれてしまいがちなものです。
     
      心に愛がなければ、犠牲は負担です。奉仕などは、できるだけ早く終らせたい苦痛となります。どうしてこんな事、他の人がすればいいのにと、不満、呟きも生まれます。しかし、その時、奉仕を退く事を考えるよりも先に考えるべき事があります。それは、どういう動機で自分は犠牲を払っているのか?神様はどのような動機で犠牲を払うことを願っておられるか?です。
     

     どのような犠牲であれ、神様は、私たちが愛という動機をもってそれを実行することを願っておられます。ですから、動機が愛でなくなったからと言って、これまでしてきたことを簡単に止めてしまうのはどうかと思います。むしろ、これまでしたてきたことを、最初の愛に立ち返って行うこといつもしていることを、さらに愛を込めてしてゆくこと。それこそ神様が、私たちに願っておられることではないでしょうか?

      聖書は言います「全財産を、さらには自らの体をささげても、そこに愛がなければ、何の役にも立ちません」と。愛こそが決め手、その三つ目は、「愛はすべての自己犠牲の決め手」ということです。時間、財産、労力と何であれ、犠牲を払うとき、常に心の真ん中に愛という動機を持つお互いでありたいと願います。

     
      今日は「愛こそが決め手」と題して、第一コリントの13章1節から3節をお取り次ぎいたしました。最後に一つ確認をしてメッセージを終えたいと思います。パウロは何のために聖霊の賜物について記している12章と14章の13章を挿入したのでしょう。それは、コリント教会の信徒たちの愛の乏しさを責めるためではありません。そうではなく、愛が決め手であることを知って、愛に生きて、愛という動機をもって、聖霊の賜物を用いるためでした。
     
     そのことは今の私たちも同じです。愛の乏しい自らを責めて、落ち込むために13章があるのではないのです。今日の聖書箇所は、私たちも愛が決め手であることを悟り、愛に生き、愛という動機をもって一切を行う者へと変えられていくためです。愛がなければ、音声はやかましくうるさいだけで、賜物は何の値打もなく、究極の自己犠牲すら何の役にも立たないとのパウロの言葉は、私たちにその裏返しのことを期待する言葉なのです。

     
     私たちの発する音声は、そこに愛があるなら、人の心に届き、人を活かすのです。お互いの賜物は、愛という動機によって用いられる時、豊かに実を結び、神様の御業を進め、教会を建て上げるのです。クリスチャンたちの自己犠牲は、愛から為される時にこそ、神様の愛を証し、主の御名が豊かに崇められるのです。
     
     自らの愛の乏しさばかりに、いつまでも目を向けているのではなく、そんな自分にさえ、賜物を与え、用いようと期待しておられる神様の方に向き直って、すべてのことを、愛をもって行う者へと成長させていただきましょう。お祈りします。
    | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 16:39 | - | - | - |
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