命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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愛こそが決め手〜All We Need Is Love.(2)
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     今日は第二回目です。「愛なき異言」から愛の至上性を考えます。


     まずは一節です。「愛が決め手」その第一は、「愛がすべての音声の決め手」ということです。言い換えますなら、愛が、私たちの言葉と賛美を決定するということです。1節をご一緒にお読みしましょう。→(1節朗読)
     
      この13章は12章と14章の間に位置します。この13章は本来独立した部分ではありません。御霊の賜物の用い方という文脈の中で、語られています。賜物を用いる際の動機として、愛が語られているのです。そして、この1節で取り上げられているのは、異言の賜物です。
     
     コリント教会が混乱していた理由のひとつは異言でした。では、異言が悪いものかといえば、そうではありません。少なくとも、初代教会においては、教会が建て上げられるために神様が下さっていた賜物です。別の箇所でパウロは、自分自身も異言を話すと記していますし、できるだけ多くの者が異言を話せたらよいとまで記しています。
     
      ですから、パウロは異言自体を問題視しているのではありません。では、何が問題であったのでしょう。問題は、異言ではなく、それを話す人の側にありました。異言を話す人の心に愛がなかったことが問題だったのです。御霊の賜物である異言を愛以外の動機で用いたために礼拝に無秩序か起こり、交わりに亀裂が生じていたのです。
     
     
     ここで少し異言について説明しておきましょう。異言とは当人も知らない言語で教会のために執り成しをする超自然的な賜物のことです。1節には「人の異言」と「御使いの異言」の二種類があることが書かれています。様々な解釈がありますが、「人の異言」とは、いつかの時代のどこかの民族が話していた言語だろうと考えられます。
     
     たとえば、古代アラビア語や現代のタガログ語など、実際に実在した言葉を話せないはずの人が話すのです。使徒の働きの2章で聖霊に満たされた者たちが、話したのはこの「人の異言」に相当するのでしょう。それに対して「御使いの異言」とういうのは、人類の歴史には存在しない、天使のみが理解できる言葉だろうと考えられます。
     
      異言とはこのような性質のものですから、語る人の心に愛がなければ、異言がどのような問題を生ずるかは容易に想像がつきます。まず、異言を語る人が語る事ができない人を見下げます。一方、語る事の出来ない人は、語る人を妬みます。そして、同じ異言を語る人々の間でも、比較や競争がおこります。かくしてチームメイトであるはずの兄弟姉妹は、ライバルとなってしまいます。他者を執り成すための異言は、他者を打ち負かすためのものになってしまいます。
     
     
      聖書によれば、異言を語ることと霊的制熟度とは関係がありません。実際にコリントの信徒たちの多くは異言を語りながら、キリストより指導者につながり、分裂をし、性的な罪を犯し、弱い人、貧しい人を顧みず、聖餐の恵みを台無しにしていました。ですから、ここでパウロは、霊的な成熟の基準が愛であることを示しているのです。賜物の種類や数よりも、何によって行動しているか動機は愛なのか?それによってクリスチャンの成熟度は測られるのです。
     
      パウロは、愛なき異言を語るなら、それは「ドラやシンバルと同じ、やかましい、うるさいだけ」と厳しい評価を下しています。さらに、このドラやシンバルというたとえには、「やかましい」「うるさい」以外の深い意味も込められています。実は当時、ドラやシンバルは異教の礼拝時に用いられていました。日本の仏教でも真言宗などは、ドラやシンバルに相当するものを鳴らしますから、多少イメージできるでしょうか?コリントの信徒のほとんどは、以前はそのような礼拝に出席していたので、パウロの言葉が実によく理解できたのです。
     
      愛のない異言を語り、自分を自慢し、賞賛してもらうための礼拝、神でなく、人が崇められるための礼拝、それは、あなたがたが以前、していた偶像礼拝と同じだという意味がここには込められていると思われます。そうです、神への愛によらない礼拝、人間が誇り、自分を誇示するための礼拝は偶像礼拝に他なりません。
     

      さて、私たちはこの愛なき異言の問題から、何を学ぶべきでしょう。御教会が属しているおられる団体は、異言など聖霊の賜物が今日も続いており、用いられるべきとの教理は採用しない立場をとっていると理解しております。だとしたら、1節の言葉は、御教会にとっては、関係のないことでしょうか?いいえ、むしろ、この愛なき異言は、その本質においては、まさに、今の私たちが問われるべき事柄なのです。
     
     それは、いわば言葉と音声の問題です。私たちが発する言葉と音声です。具体的には、祈りの言葉、証しの言葉、説教の言葉に相当します。そして、音声とは、賛美です。歌であり、楽器の音です。どんなに聖書的で説得力のある説教だとしても、そこに、愛がなければ、神様にとっては、やかましいだけではないか?どんなに巧みな賛美でも、愛がなければ、神様の耳にはうるさいだけではないか?そんな礼拝を神様はお喜びにならないではないか?それが、今日、13章1節が私たちに問いかけることでしょう。
     
      説教とは神様の言葉である聖書を仲介することです。証しは神様が自分に注いで下さった恵みを証言することです。当然、語る者は神と人を愛する思いをもって語らなくてはなりません。間違っても自分が誉められたい、自分の力を誇示したいとの動機があってはならないでしょう。
     
      祈りも同様です。聖書でイエス様も戒められたように、人から立派なお祈りと思われたいという動機で祈ってはなりません。公の場での祈りは、代表の祈りですから、整っている事もその場の目的にふさわしいこと大切でしょうが、一番大切なことは、神様への愛の思いで祈りをささげることでしょう。
     
      賛美もしかり。賛美奉仕者にとって音楽的な技術はとても大切ですが、神様は、技術よりも先に動機を見ておられます。最悪の賛美とはどのような賛美でしょう。それは音のはずれた歌でも、弾き間違えばかりの奏楽でもありません。最悪の賛美、それは、自分はこんなに歌が、楽器がうまいのだと自分を誇示する賛美です。人がたたえられるなら、それは、賛美ではありません。神様以外の誰か賛美されるのなら、それは偶像礼拝です。
     
      では、どうしたら、愛なき言葉や音声を退けることができるでしょうか。たとえば、奉仕に際して、神様の前に自らに動機を問うことでしょう?そこで問うべきことは、「愛か?欲か?」です。こう祈って奉仕に臨んでみてはどうでしょう?「あなたを愛します。自らの欲を退けます。あなたへの愛の思い100%で用いてください。すべての御栄光はあなたにありますように」。私の個人的な経験からの提案に過ぎませんが、参考になれば感謝なことです。

     
     聖書は言います「人の異言も御使いの異言も、愛がなければ、やかましいどらやうるさいシンバルと同じです。偶像礼拝と変わりません」と。「愛こそが決め手」、その第一は、「愛はすべての音声の決め手である」ということです。
     
     私たちが語る聖書の言葉や証し、私たちがささげる祈りと賛美の音声は、すべて愛があってこそ、人の心に届き、人を活かし、神様に喜ばれるのです。常に動機の中心に愛にをおいて、言葉と音声を発する者でありたいと願います。
    | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 20:11 | - | - | - |
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