命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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横浜マンション傾斜との類似問題としての教会内性教育
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     土曜日の夜に神戸から帰りました。集会への参加者は60名程度積極的な意識をもって集って下さった方も多く、私としては大変やりがいのある奉仕でした。入門者にも対応できるように、三名ともが普段繰り返し語っている基本をコンパクトに発題しました。集会のレポートは川向氏がしておられますので、ご紹介しておきます。アカデミックな視点からさすがの神学的ツッコミをして下さっています。
     
     三名の発題後に、それぞれ「言い足りなかったこと、どうしても伝えたいこと」を話すために5分間をいただきました。そこで、私がお話したことを、少し編集・かなり加筆して、本日の記事といたします。参加者には、ベテランクリスチャンや指導的立場の方が多いようにお見受けしてので、私が働きの中で、若者たちからいただいたフィードバックや教えていただいたことを三つお話ししました。


    (1)若者たちの本音
     性について聖書からお話を聞き、若者たちは、こんな本音を持っています。言わないだけでこう思っているそうです。

     「『結婚まで待ちましょう』と言われても、結婚がよいものと思えなければ、きついでしょー。クリスチャンの両親を見ていて、そう思わなければ、教会に祝福されたクリスチャン夫婦のモデルがいなければ、『待ちましょう』に説得力なさすぎ

     そうです。どんなに聖書的な正論を語っても、その真理を体現している実態がなければ、悲しい程説得力がありません。上の世代は自分を安全地帯において、次世代に聖書的正論を語っていればそれでいいわけではありません。自らの結婚生活をもって、真理の具現化を見せる責任があるのです。自らがモデルとなっているかが、問われるのです。若者たちは、言わないだけで、そうした厳しい目で、上の世代を見ているのです。そのことを覚えて、語る側は、厳粛な責任を自覚したいものです。


    (2)若者たちの実態
     真面目な中高生・青年のクリスチャンたちは、「性と恋愛について、聖書からはっきり語って欲しい」と願っています。はっきり語れば、従うであろう若者たちが、ぼんやりとしか語られていないために、罪を自覚しないまま、罪を犯してしまいます。将来、教会の中核を担うであろうリーダー候補が性的罪を犯してしまいます。

     さらにはっきり語られていないために、罪が自覚できないだけでなく、悔い改めができず、赦しの確信を得られず、指導者などに話すこともできず、回復の道をたどれず、自分は教会に行く資格がない、牧師や皆に合わす顔がない考えて教会から離れていきます。私の予想では、高校卒業以降に教会を離れていく若者の3人か4人に一人恋愛や性的罪が原因だと思っています。

     その原因をクリスチャンの親や牧師は知りません。親しいクリスチャンの友人たちは知っていることが多いです。まるで、こうした現実がないかのように歩んでいてよいでしょうか?しっかりと聖書から性について語れば、従う若者はたくさんいるのです。また、はっきり語ることは、青年期の教会離れを一定防ぐことになるのです。「教会に若者がいない、少ない」と嘆きながら、中高生たちに性を語らないのは、大きな矛盾ではないでしょうか?


    (3)若者たちの被害状況
     教会が性を語らなければ、若者たちの性意識は未信者とほぼ同じです。ですから、同じ恋愛観に立って、同じスタイルの恋愛パターンを踏襲し、未信者同様の性行動をとります。その結果、クリスチャンホーム育ちの青年たちも、キリストを信じ救われていながら、同棲、でき婚をします。性について教えられていないので、結婚してからも、価値転換がされておらず未信者同様となります。結婚1,2年でのセックスレス・不倫、あるいは離婚や事実上の結婚生活破たんが起こります。10代で教えないので、教会の指導は後手となり、対処療法に終始します。こうした実態を、若者や牧師たちから多くお聞きしています。

     そうなれば、クリスチャンホームが破たんし、子どもの信仰継承も失敗しやすくなります。10代の内に、性について聖書から語らないなら、それは、将来の結婚や家庭の破たんを招き、次世代の教会を弱体化されることとなります。性教育の問題は、実は、次世代や次々世代の教会形成に直結しているのです。教会がクリスチャンの親が性を語らないことは、若者たちを、ある意味、被害者としてしまうことにならないでしょうか?


     今、横浜のマンションが傾いていることが問題になっていますが、教会で性を語ることは、強固な地盤まで杭を打ち込むことだと私は思うのです。それを怠ったり、ごまかしたままにしておくと、その上に建てたものが傾くのです。もし、若者が少ない、教会を去って行くこと、教会内での性的罪と結婚の破たんが、教会が傾いていることを意味するとしたら、それは、土台工事において、杭を正しく打ち込まなかったことに原因があるのかもしれません。私たちは謙虚になって、そうした可能性を検討すべきでしょう。


     ここまで、記して思います。

     ある方の言葉です。

     「教会は、答えを持っているが、問題が分かっていない」(仮想解決)

     「教会は、聖い歩みを説くが、教会内の聖くない現実から目を背けている」(仮想聖化)

     「教会は悔い改めを世に説きながら、自らの悔い改めを怠っている」(仮想回心)


     随分チャレンジングなことを書いてしまいましたが、他者批判としてではなく、自らの痛みとして受け取るべきこととして記しました。その上で、思うのです。クリスチャンたちは、傾くマンションに教会の姿を重ね見るべきかもしれないと。杭打ちについての偽装、不正を見る時に、性教育に限らず、若者たちの基礎工事期に必要不可欠な教育と訓練をしてきたか?強固な地盤まで杭を打ち込んできたか?を省みる必要があるのではないかと。 
    | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 17:43 | - | - | - |
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