命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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恋愛は恥を隠し、結婚は恥を共有する(3)〜心も体も裸の交わり
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     少し記事を挟みましたが、シリーズの三回目です。結婚生活においての恥の共有として、外せないのが夫婦の性生活です。裸を恥ずかしいと思うのは人間として当然の感情。その起源は人類への罪が入ったことにあります。それ以降は、夫婦であっても、人間は、あるがままの自分の体も心も開示することが恥となったのでしょう。

      実際に夫婦の性生活では、お互いの裸を見ますし、他人様にとても見せられない姿を相手に見せます。また、自分の性的な嗜好や傾向も相手に明らかになるわけです。これは、ある意味、「超恥ずかしいの世界」です。そこには、結婚相手にしか見せない生々しい自分があるわけです。

     裸であることは、社会的立場や見栄などの虚飾を取り払った一人の男女としての交わりを意味するのでしょう。旧約聖書では、性行為を「裸を見る」という言葉で表現しています。これはきっと婉曲表現であるだけではなく、裸を見ることが、心身ともに極めて親密な関係を代表する行為だからだろう想像します。

     夫婦が裸で交わりをもつのは、身体面においてあるがままのお互いを受け入れ合うことだけではありません。創世記2章24節の「ふたりは一体となるのである」の「体」は肉体だけではなく「心をも包括する全体」を意味します。ですから、福音書でイエス様がこの言葉を引用した個所では(新改訳第二版では)、「一心同体」と訳されています(第三版では旧約との整合性のためでしょうか「一体」)。
     

    ・『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。(マタイ19:5)


    ・ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。(マルコ10:8)


    ・遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。(汽灰螢鵐硲供В隠供


    ・「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」(エペソ5:31)


     聖書によれば性は、その本質は肉体的作業でも、性欲充足手段でもありません。それは性の一面や一機能にすぎません。性の本質は心と体において、男女が一つとなり共に生きることです。神様が結婚関係を体を裸にして交わる関係と定められたことは、心も裸にして交わることを意図されてのことでしょう。逆に言えば、心を裸にする深い交わりのために、神様は、体を裸にする交わりを定められたのでしょう。心を裸にするためには、体の裸が必要で、体の裸は、心の裸のためとも言えそうです。

     恥という視点からは、体を裸にして、体の恥をさらし、お互いが受け止め合うことは、心も裸にしてお互いが受け止め合うためかと思うのです。


     以前ラジオで、セックスレス問題の専門家がこんな名言を発しておりました。

     「セックスは究極のコミュニケーションです!」

     
     実に聖書的な名言だと思いました。この専門家は「夫婦の会話から既にセックスは始まっている」「セックスは夫婦の会話の延長」など、聖書に共通するような真理を語っておられました。聖書と関係なく、性や結婚の本質を追求した結果、到達したのが聖書的真理であったということでしょうか?

     「心身の一体化が結婚の本質」

     「セックスとは心も体も裸にする交わり」

     「体の恥も、心の恥も、受け止め合い共有するのが夫婦」

     そう考えると、この方の言葉は、やはり聖書的名言としたいです。そして、逆に思ったのです。「聖書を読んでいないであろうこの専門家が聖書的な真理を語っている。でも、聖書を読んでいるクリスチャンたちは、この聖書的真理を知っているだろうか?知っていても従って、実行しているだろうか?聖書的な価値転換をされた上で、現実の結婚生活を送っているだろうか?」と。


     夫婦の心通いあう会話がないままでの性欲や孤独を満たすためのセックスは、どうかと思うのです。自己開示や会話が苦手であるなら、むしろ、体を一つにするその現場では、心を裸にしていただきたいもの。普段は恥ずかしくて言えない愛情表現や深い相手への思いを言葉でも伝えてみてはどうでしょう?そうすれば、普段の会話は不十分でも、体を一つにすることが、心を一つにすることにつながるかと思うのです。

     一方、会話がスムーズで夫婦仲がよくても、体を一つにするコミュニケーションを軽んじすぎると、意外と相手に対する心の深い思いが伝わらなくなってしまうものです。特に性的に活発な若い時期や結婚初期は、体を一つにすることが、心を一つにすることに大きく貢献するように思います。プラトニックな夫婦は決して、聖書の理想像ではないと私は思います。神様は、人間を心と体の統合体として創造され、心身両面の交わりとして、結婚を定められたのですから。


     というわけで、私もこの専門家にならって恥ずかしいフレーズを考えてみました。

    「夫婦間のセックスは身体による会話であり、夫婦の会話は、言語によるセックスである」

    体の恥さらしは心の恥さらし心の恥さらしは体の恥さらし、互いの恥を受け止め、共有してこそ夫婦の絆は築かれる」


     自分で書いておきながら、めちゃめちゃ恥ずかしいわー。まあ、同じような趣旨のことは先人も言っておられることでしょう。読者の皆さんの益になれば、恥をかいた甲斐もあるでしょう。次回はもう少しこのことを深めてみます。
    | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 10:48 | - | - | - |
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