命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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「招詞は信徒で、祝祷は牧師?」への回答に教えられる
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     昨日の素直で大切な疑問に対しては、今朝までに5名の方から、さっそくの返信をいただきました。私自身が勉強になり、疑問が解消したと同時に、問題意識が正しくされて、さらに深まった面もあります。自分が「聖書は礼拝について何を語っているか?」一辺で学びながら、「教会は、どのような礼拝をささげてきた」については、ほぼ学んでこなかったことを思います。現行の礼拝の聖書性という表面だけを考えて、歴史と伝統という奥行きを考えてこなかったわけです。聖書の記述と現行の礼拝という両端だけに注目し、実際の礼拝の歴史という中間部を見逃してきたということでしょう。

     いただいた返信を読みながら、きっと読者の皆さんにとっても有意義な情報だろうと判断して、いただいた返信を紹介します。どうか、招詞を聞き、祝祷を受ける側の皆様におかれましては、正しい意味を知っていただき、さらに豊かで喜びある礼拝をささげられますようにと願います。

     いわゆる福音派を中心に諸団体で礼拝奉仕をしておりますが、およそ、2割程度の教会には、礼拝開始に際して、招詞がありません。逆に、祝祷のない礼拝は皆無です。また、福音派の教会で、説教者である牧師が司式もして、信徒が司会を一切しないケースには遭遇したことがありません。日本基督教団長老主義の教会では、そうした礼拝に出席したことがあります。知人牧師からはご自身の体験から、「長老教会と日本基督教団では招詞も牧師がするという取り組みをする教会もありました」とのメールをいただきました。では、以下に5名の方からの応答をお知らせします。いずれも、太字は私の編集によるものです。


     ブログのコメント欄にいただいたのは、「自由王子」さんと「ミーちゃんはーちゃん」のお二人。

    自由王子さんの応答は、神学的知識からではなく推測によるものですが、本質をついておられると感心します。「カトッリク招詞不要論?」などはとても興味深い推察かと思います。

     全くの推測ですが、招詞はプロテスタント教会独自のもの、祝祷はカトリック教会からの伝統ということはありませんか?

     私の属している教会(プロテスタント)では、祝祷はありますが、派遣の言葉はありませんが、祝福と派遣をセットに考えている教会があり、同盟の教会の礼拝に出て、新鮮に思いました。

     これは、徳丸町キリスト教会のHPにある内容ですが「 終わりに、今一度、礼拝が「派遣と祝福」で締め括られることの意味を考えておきたいと思います。礼拝式の最後に派遣の言葉が語られる。それはこれが礼拝の終わりのしるしではなく、新しい礼拝の旅路への始まりであることを意味しています。カトリックの礼拝を「ミサ」と言いますが、それは古代から中世にかけて、礼拝の終わりに司式者がラテン語で「イテ・ミサ・エスト」と宣言したことに由来すると言われます。「礼拝は終わった、さあ行きなさい」という意味です。そして文字通り、礼拝堂の扉が開かれ、聖職者たちを先頭に会衆はみな礼拝堂から立ち上がって出て行くのです。」とあって、祝福と派遣はカトリックからの伝統ではないかと思うのです。そうすると、それを行うのは、司祭で、それがプロテスタント教会では牧師になった。

     しかし、カトリック教会では、もともと招かなくても教区にいる人は教会に来るのが当然なので、カトリックのミサには、招きの言葉はなく、プロテスタント教会では礼拝には招かれて来るものだという考えをどこかの宗教改革者が考えて、礼拝の式次第に入れたということはないでしょうか?


    ミーちゃんはーちゃんは、この件を、使徒継承権にまで還元し、法理理解の伝統とする見解をお知らせくださいました。福音派の一牧師として、重く受け止めるべきかと考えています。

    おひさです。

    結局、使徒継承権の問題ではないかと。

     信徒が按手礼を受けていないと、一種のサクラメントである『礼拝』において、祝福を受けるための使徒継承権を執行する権威性を信徒(たとえ信徒代表であったとしても按手礼を受けていない以上)法理的には、保持していないことになるわけで、その法理的な面で、使徒継承権を保持しないものが勝手に祝福してよいのか、ということがカトリックにおける論理であり、東方正教会を含む法理理解の伝統かと思われます。

     プロテスタント諸派において、使徒継承権があやしくなっているにもかかわらず、礼拝祝祷を順守する必要がない極端な平信徒主義のブラザレン派では、このようなことは致しません。

     最近ふらふらといろんなプロテスタント派の教会の巡回研修中の私からすれば、もはや、これは、カトリックのミサの伝統から派生している行為なので、本来的にはプロテスタント派では廃止して良かったはずなのですが、なぜかの理由がわからないけれども、そうするもの、として残ったものではないだろうか、と思います。

     まぁ、世俗の世界に教会という家から送り出す、という積極的な意味を見出せますが、それを牧師しかしないというのは、牧師のみの背景には、カトリックの司祭がしていたものを、よくも考えずに、司祭がするものであったものを、そこに関しては、そのまま引き継ぎ、そのことの教会法的な法理を解明しないままただ繰り返しているのではないか、と思います。

     まぁ、そういう意味で言うとサクラメント論がまだ十分に広くその構造と理解が日本のプロテスタントは、福音派では十分でない、ということの証左として、今回のこのご発言を重く受け止めました。

    以上、私見の開陳で御座います。


     フェイスブックの方では、深谷美枝師と金井望師から応答をいただきました。

    深谷美枝先生からは、すぐにコメントをいただきました。昨日の付記にある通り、短くポイントを示して下さいました。古代の教会の礼拝が、前半がみ言葉礼拝で、後半が聖餐礼拝であったこととを前提にお読みください。

    祝祷は元々は、一人一人に手を置いて、聖霊の満たしと祝福を司祭が願い求めた名残りであるからと、礼拝学の授業で聞きました。そして、招きの言葉は、前半言葉による礼拝の入り口であり、遥かに後半の聖体拝領より軽いものです。司祭でなくても補助者で担当出来たわけでしょう。いずれにせよ、古代のキリスト教会の礼拝を継承しているわけなのです。」


    金井望先生からは、教職論を軸として、歴史的な起源と経緯を分かりやすく教えていただきました。これまであちこちでぼんやり聞いてきたことを、はっきりと系統立てて示していただいたようで、感謝しています。信徒が司式(司会)をするのは、歴史的には最近のことであり、一部教派のことであることは、知っておいた方がよいでしょう。私などは、まさにそうなのですが、そうなる以前の伝統や経緯と元来の理念の喪失が、礼拝を乏しいものとしている面は、無きにしも非ずでしょう。礼拝の司会をされる読者には、とりわけお読みいただきたい内容でもあります。


     そもそも、最も古い歴史を持つ東方正教会と、それに次ぐローマ・カトリック教会では、礼拝の「司式」はすべて司祭が行うのが原則だ、と思います。東方正教会の礼拝は今でもほとんど司祭の独壇場ですが、現代のローマ・カトリック教会では、神の代理者である司祭と信徒の会衆が言葉を交わし合う形式になっています。

     彼らの場合、司祭は霊的な「身分」ですから、信徒が代務者になり得ないはず。現代のRCCでは信徒の祭司性を強調しているので、変わっているかもしれませんが。


     これに対してプロテスタント教会では、牧師は「職務」であって、身分ではありません。その職務において祭司であることは、牧師も司祭と同じですが、身分としては牧師も信徒の一人であり、信徒の代表者です。礼拝の最後に、祭司が会衆を「祝福」して派遣するのは、アロン以来現代まで3000年以上続いている伝統です。


     ちなみに、プロテスタントの特徴と言われる「万人祭司」(全信徒祭司性)とは「万人牧師」という意味ではありません。

    プロテスタント教会最初の信条であるアウグスブルク信仰告白では、次のように定められています。


    ーーーーーーーーーーー
    第十四条 教会の職制について

    教会の職制について、われらの諸教会はかく教える。何人も、正規に召されたものでないならば、教会内で公に教え、あるいは聖礼典を執行してはならない。

    http://www.wjelc.or.jp/office/credo/augsburg/ 
    ーーーーーーーーーーー

     実際には、プロテスタント教会で礼拝の「司会」を信徒に任せるようになったのは、敬虔主義の時代以降ではないか、と思います。現代の日本のプロテスタント教会は、NCCも福音派もほとんどが、敬虔主義の影響を受けています。敬虔主義によって生まれたフリーチャーチでは「信徒運動」の結果だけが残って、それ以前の伝統は忘れがちです。ルーテル派や改革派・長老派、聖公会以外は、だいたい似たような状況でございます。もちろん当方も(^_^;)


    ズDになって、個人的に某牧師より、応答をいただきました。所属団体の研修会での発題原稿を添付して送っていただきました。祝祷についての考察や試論なのですが、これが秀逸で、大いに教えられました。私自身も、祝祈の言葉や所作については、これを読んで、変えてみようと考えました。この発題は、牧師不在時の礼拝で、信徒や神学生による祝祷の可能性を提言しています。その中で、越川弘英師著「今、礼拝を考える」の212ページの文章を引用しています。多くのプロテスタント教会では、祝祷が事実上「準サクラメント」となっているようですが、それに一石を投じる文章かと思います。


     「祝福を宣言する人もまた『神の代理人』として会衆に神の恵みを告げます。こうした『祝福と派遣』を与える役割はふつう牧師に委ねられることが多いようですが、必ずしも信徒が『やってはいけない』というわけではありません。不思議なことに多くの教会ではこの行為に対して『準サクラメント』のような印象を持っているように感じられることがしばしばあります。『祝福と派遣』をしっかり明確なかたちで行うことは大切ですし、教会を代表する人間として牧師がこの人を担うのに相応しいことも事実ですが、牧師の『独占的行為』ではないことも一応覚えておいていただきたいと思います。」


     以上、今朝までにいただいた5名の方からの応答を紹介しました。これ以降の応答は、感謝して受け止めますが、特別必要と判断しない限りは、ご紹介は致しません。それでもよろしければ、フェイスブックの個人メッセージで、ご連絡下さい。

     今回の記事が、読者の皆様が礼拝に対して深く正しい意識を持たれ、より豊かな礼拝をささげていく一助となれば感謝なことです。
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 11:38 | - | - | - |
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