命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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ホワイ?チャーチ・ピーポー! 招詞は信徒で、祝祷は牧師
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     本ブログは、直接的には神学を扱わないポリシーですが、今回は例外厚切りジェイソンなる芸人が”Why?Japanese People!”とブチ切れて叫んでは、日本人の不可解さで笑いをとっているようですが、私は最近「ホワイ?チャーチ・ピーポー!」がありました。

     妻から、初歩的と思われる質問を受けて答えられなかったのです。

    紹詞は、信徒である司会者がするのに、祝祷は牧師でなければできないのはどうして?」

     恥ずかしながら、考えたこともありませんでした。多くのプロテスタント教会では、教職資格のない者は、礼拝で祝祷をすることが許されません。牧師などの教職が、礼拝から派遣されるための祝福の言葉として聖書のあることばを祝祷として祈り、読みます。しかし、同時に、多くの教会では、礼拝への招きの言葉、招詞として、聖書からある言葉を司会者として立てられた信徒が読みます。

     私の理解では、招詞と祝祷は、同じ本質を持ち、なおかつセットである言葉です。招詞は、散らされていた神の民が礼拝に招かれ、集められる神からの招きの言葉であり、祝祷は、集められた民が散らされ、礼拝の場から遣わされるにあたっての祝福の言葉と言えるでしょう。

     なおかつ、どちらも、聖書の言葉そのものが用いられますから、神の言葉を人が取り次いでいると考えられます。祝祷も私の理解では、祈り手が神に対して民のために祈るのでなく、神からの祝福の宣言を民に知らせることだと考えています。そして、招詞と祝祷は、どちらも神からの言葉であり、礼拝の最初と最後で対になっているわけです。両者は「招集」と「派遣」のセットです。さらに乱暴に言ってしまえば、「お帰りなさい」と「行ってらっしゃい」のセットのようなものでしょう。

     招詞も祝祷も、神の言葉そのものを、民に取り次ぐわけですから、どちらとも、説教者の資格を持つ教職がすべきと考えるのが、筋だろうと思うのです。また、旧約聖書においては、どちらも祭司の職務であったように考えられますし。あるいは、信徒である司会者に招詞を読むことを許可するなら、祝祷をするのも許可してもいいのでは?と思ったのです。

     そして、このことを疑問に思ってこなかった自分には、無意識ながら、招詞を祝祷よりはるかに軽いものとする思いがあったことに気が付きました。自分が、常々、「招詞はめちゃめちゃ大切、招詞以降の礼拝遅刻は、自分のために命を捨てた恋人とのデートに遅刻する以上の悪行三昧、王との謁見の場で王を待たせる家来の無礼以下」と考えているにもかかわらずです。(もちろん、やむを得ぬ理由での礼拝遅刻を責める意図は全くありません。)

     あるいは、祝祷を、「神から民への宣言」でなく、「祭司が民のために神の祝福を祈ること」と考えていた面があったように思えました。もしかたら、そこに教職者としての鼻持ちならぬ特権意識を持っていたのでは?と自らが探られました。そして、自分の礼拝に対しての意識の低さを猛反省したのです。

     多くの教会において「招詞は信徒で祝祷は牧師」なのには、ちゃんと聖書的根拠や神学的理由があるはずです。妻からの質問を受けて、悩んだ挙句、答えが出てこないので、自宅にある礼拝関連の書物やネット上の情報を調べたのですが、正解が見つかりません。そこで、お願いです。お恥ずかしい限りですが、読者の皆様でお分かりになる方は、コメント欄に、お知らせください。この記事のみ、コメントを受け付けますので。ただし「日本に来た宣教師がそう指導したから」という本質的でない回答NGでお願いします。

     とういわけで、「ホワイ?チャーチ・ピーポー! 招詞は信徒で、祝祷は牧師はなぜー?!」と悩んでいる無知な牧師を助けてやって下さい。

    <追記>F.B.の方で、深谷美枝先生より、さっそくコメントをいただき、大いに納得しました。私が、現代の礼拝形式の起源や歴史性を学んでいなかったことに問題があったと判明。聖書的原則と現代の礼拝を結び付けるばかりで、古代教会の現実の礼拝を十分学んでいなかったわけです。特に「後半の聖体拝領」という言葉には、まさに祝祷の招詞にまさる重要性を納得しました。では、そのコメントを以下に転載します。

     「祝祷は元々は、一人一人に手を置いて、聖霊の満たしと祝福を司祭が願い求めた名残りであるからと、礼拝学の授業で聞きました。そして、招きの言葉は、前半言葉による礼拝の入り口であり、遥かに後半の聖体拝領より軽いものです。司祭でなくても補助者で担当出来たわけでしょう。いずれにせよ、古代のキリスト教会の礼拝を継承しているわけなのです。」
     
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 14:44 | comments(2) | - | - |
    全くの推測ですが、招詞はプロテスタント教会独自のもの、祝祷はカトリック教会からの伝統ということはありませんか?

    私の属している教会(プロテスタント)では、祝祷はありますが、派遣の言葉はありませんが、祝福と派遣をセットに考えている教会があり、同盟の教会の礼拝に出て、新鮮に思いました。
    これは、徳丸町キリスト教会のHPにある内容ですが「 終わりに、今一度、礼拝が「派遣と祝福」で締め括られることの意味を考えておきたいと思います。礼拝式の最後に派遣の言葉が語られる。それはこれが礼拝の終わりのしるしではなく、新しい礼拝の旅路への始まりであることを意味しています。カトリックの礼拝を「ミサ」と言いますが、それは古代から中世にかけて、礼拝の終わりに司式者がラテン語で「イテ・ミサ・エスト」と宣言したことに由来すると言われます。「礼拝は終わった、さあ行きなさい」という意味です。そして文字通り、礼拝堂の扉が開かれ、聖職者たちを先頭に会衆はみな礼拝堂から立ち上がって出て行くのです。」とあって、祝福と派遣はカトリックからの伝統ではないかと思うのです。そうすると、それを行うのは、司祭で、それがプロテスタント教会では牧師になった。
    しかし、カトリック教会では、もともと招かなくても教区にいる人は教会に来るのが当然なので、カトリックのミサには、招きの言葉はなく、プロテスタント教会では礼拝には招かれて来るものだという考えをどこかの宗教改革者が考えて、礼拝の式次第に入れたということはないでしょうか?
    | 自由王子 | 2015/09/02 3:43 PM |
    おひさです。

    結局、使徒継承権の問題ではないかと。

    信徒が按手礼を受けていないと、一種のサクラメントである『礼拝』において、祝福を受けるための使徒継承権を執行する権威性を信徒(たとえ信徒代表であったとしても按手礼を受けていない以上)法理的には、保持していないことになるわけで、その法理的な面で、使徒継承権を保持しないものが勝手に祝福してよいのか、ということがカトリックにおける論理であり、東方正教会を含む法理理解の伝統かと思われます。

    プロテスタント諸派において、使徒継承権があやしくなっているにもかかわらず、礼拝祝祷を順守する必要がない極端な平信徒主義のブラザレン派では、このようなことは致しません。

    最近ふらふらといろんなプロテスタント派の教会の巡回研修中の私からすれば、もはや、これは、カトリックのミサの伝統から派生している行為なので、本来的にはプロテスタント派では廃止して良かったはずなのですが、なぜかの理由がわからないけれども、そうするもの、として残ったものではないだろうか、と思います。

    まぁ、世俗の世界に教会という家から送り出す、という積極的な意味を見出せますが、それを牧師しかしないというのは、牧師のみの背景には、カトリックの司祭がしていたものを、よくも考えずに、司祭がするものであったものを、そこに関しては、そのまま引き継ぎ、そのことの教会法的な法理を解明しないままただ繰り返しているのではないか、と思います。

    まぁ、そういう意味で言うとサクラメント論がまだ十分に広くその構造と理解が日本のプロテスタントは、福音派では十分でない、ということの証左として、今回のこのご発言を重く受け止めました。

    以上、私見の開陳で御座います。
    | ミーちゃんはーちゃん | 2015/09/02 6:03 PM |









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