2015.09.02 Wednesday
ホワイ?チャーチ・ピーポー! 招詞は信徒で、祝祷は牧師
本ブログは、直接的には神学を扱わないポリシーですが、今回は例外。厚切りジェイソンなる芸人が”Why?Japanese People!”とブチ切れて叫んでは、日本人の不可解さで笑いをとっているようですが、私は最近「ホワイ?チャーチ・ピーポー!」がありました。
妻から、初歩的と思われる質問を受けて答えられなかったのです。
「紹詞は、信徒である司会者がするのに、祝祷は牧師でなければできないのはどうして?」
恥ずかしながら、考えたこともありませんでした。多くのプロテスタント教会では、教職資格のない者は、礼拝で祝祷をすることが許されません。牧師などの教職が、礼拝から派遣されるための祝福の言葉として聖書のあることばを祝祷として祈り、読みます。しかし、同時に、多くの教会では、礼拝への招きの言葉、招詞として、聖書からある言葉を司会者として立てられた信徒が読みます。
私の理解では、招詞と祝祷は、同じ本質を持ち、なおかつセットである言葉です。招詞は、散らされていた神の民が礼拝に招かれ、集められる神からの招きの言葉であり、祝祷は、集められた民が散らされ、礼拝の場から遣わされるにあたっての祝福の言葉と言えるでしょう。
なおかつ、どちらも、聖書の言葉そのものが用いられますから、神の言葉を人が取り次いでいると考えられます。祝祷も私の理解では、祈り手が神に対して民のために祈るのでなく、神からの祝福の宣言を民に知らせることだと考えています。そして、招詞と祝祷は、どちらも神からの言葉であり、礼拝の最初と最後で対になっているわけです。両者は「招集」と「派遣」のセットです。さらに乱暴に言ってしまえば、「お帰りなさい」と「行ってらっしゃい」のセットのようなものでしょう。
招詞も祝祷も、神の言葉そのものを、民に取り次ぐわけですから、どちらとも、説教者の資格を持つ教職がすべきと考えるのが、筋だろうと思うのです。また、旧約聖書においては、どちらも祭司の職務であったように考えられますし。あるいは、信徒である司会者に招詞を読むことを許可するなら、祝祷をするのも許可してもいいのでは?と思ったのです。
そして、このことを疑問に思ってこなかった自分には、無意識ながら、招詞を祝祷よりはるかに軽いものとする思いがあったことに気が付きました。自分が、常々、「招詞はめちゃめちゃ大切、招詞以降の礼拝遅刻は、自分のために命を捨てた恋人とのデートに遅刻する以上の悪行三昧、王との謁見の場で王を待たせる家来の無礼以下」と考えているにもかかわらずです。(もちろん、やむを得ぬ理由での礼拝遅刻を責める意図は全くありません。)
あるいは、祝祷を、「神から民への宣言」でなく、「祭司が民のために神の祝福を祈ること」と考えていた面があったように思えました。もしかたら、そこに教職者としての鼻持ちならぬ特権意識を持っていたのでは?と自らが探られました。そして、自分の礼拝に対しての意識の低さを猛反省したのです。
多くの教会において「招詞は信徒で祝祷は牧師」なのには、ちゃんと聖書的根拠や神学的理由があるはずです。妻からの質問を受けて、悩んだ挙句、答えが出てこないので、自宅にある礼拝関連の書物やネット上の情報を調べたのですが、正解が見つかりません。そこで、お願いです。お恥ずかしい限りですが、読者の皆様でお分かりになる方は、コメント欄に、お知らせください。この記事のみ、コメントを受け付けますので。ただし「日本に来た宣教師がそう指導したから」という本質的でない回答はNGでお願いします。
とういわけで、「ホワイ?チャーチ・ピーポー! 招詞は信徒で、祝祷は牧師はなぜー?!」と悩んでいる無知な牧師を助けてやって下さい。
<追記>F.B.の方で、深谷美枝先生より、さっそくコメントをいただき、大いに納得しました。私が、現代の礼拝形式の起源や歴史性を学んでいなかったことに問題があったと判明。聖書的原則と現代の礼拝を結び付けるばかりで、古代教会の現実の礼拝を十分学んでいなかったわけです。特に「後半の聖体拝領」という言葉には、まさに祝祷の招詞にまさる重要性を納得しました。では、そのコメントを以下に転載します。
「祝祷は元々は、一人一人に手を置いて、聖霊の満たしと祝福を司祭が願い求めた名残りであるからと、礼拝学の授業で聞きました。そして、招きの言葉は、前半言葉による礼拝の入り口であり、遥かに後半の聖体拝領より軽いものです。司祭でなくても補助者で担当出来たわけでしょう。いずれにせよ、古代のキリスト教会の礼拝を継承しているわけなのです。」
妻から、初歩的と思われる質問を受けて答えられなかったのです。
「紹詞は、信徒である司会者がするのに、祝祷は牧師でなければできないのはどうして?」
恥ずかしながら、考えたこともありませんでした。多くのプロテスタント教会では、教職資格のない者は、礼拝で祝祷をすることが許されません。牧師などの教職が、礼拝から派遣されるための祝福の言葉として聖書のあることばを祝祷として祈り、読みます。しかし、同時に、多くの教会では、礼拝への招きの言葉、招詞として、聖書からある言葉を司会者として立てられた信徒が読みます。
私の理解では、招詞と祝祷は、同じ本質を持ち、なおかつセットである言葉です。招詞は、散らされていた神の民が礼拝に招かれ、集められる神からの招きの言葉であり、祝祷は、集められた民が散らされ、礼拝の場から遣わされるにあたっての祝福の言葉と言えるでしょう。
なおかつ、どちらも、聖書の言葉そのものが用いられますから、神の言葉を人が取り次いでいると考えられます。祝祷も私の理解では、祈り手が神に対して民のために祈るのでなく、神からの祝福の宣言を民に知らせることだと考えています。そして、招詞と祝祷は、どちらも神からの言葉であり、礼拝の最初と最後で対になっているわけです。両者は「招集」と「派遣」のセットです。さらに乱暴に言ってしまえば、「お帰りなさい」と「行ってらっしゃい」のセットのようなものでしょう。
招詞も祝祷も、神の言葉そのものを、民に取り次ぐわけですから、どちらとも、説教者の資格を持つ教職がすべきと考えるのが、筋だろうと思うのです。また、旧約聖書においては、どちらも祭司の職務であったように考えられますし。あるいは、信徒である司会者に招詞を読むことを許可するなら、祝祷をするのも許可してもいいのでは?と思ったのです。
そして、このことを疑問に思ってこなかった自分には、無意識ながら、招詞を祝祷よりはるかに軽いものとする思いがあったことに気が付きました。自分が、常々、「招詞はめちゃめちゃ大切、招詞以降の礼拝遅刻は、自分のために命を捨てた恋人とのデートに遅刻する以上の悪行三昧、王との謁見の場で王を待たせる家来の無礼以下」と考えているにもかかわらずです。(もちろん、やむを得ぬ理由での礼拝遅刻を責める意図は全くありません。)
あるいは、祝祷を、「神から民への宣言」でなく、「祭司が民のために神の祝福を祈ること」と考えていた面があったように思えました。もしかたら、そこに教職者としての鼻持ちならぬ特権意識を持っていたのでは?と自らが探られました。そして、自分の礼拝に対しての意識の低さを猛反省したのです。
多くの教会において「招詞は信徒で祝祷は牧師」なのには、ちゃんと聖書的根拠や神学的理由があるはずです。妻からの質問を受けて、悩んだ挙句、答えが出てこないので、自宅にある礼拝関連の書物やネット上の情報を調べたのですが、正解が見つかりません。そこで、お願いです。お恥ずかしい限りですが、読者の皆様でお分かりになる方は、コメント欄に、お知らせください。この記事のみ、コメントを受け付けますので。ただし「日本に来た宣教師がそう指導したから」という本質的でない回答はNGでお願いします。
とういわけで、「ホワイ?チャーチ・ピーポー! 招詞は信徒で、祝祷は牧師はなぜー?!」と悩んでいる無知な牧師を助けてやって下さい。
<追記>F.B.の方で、深谷美枝先生より、さっそくコメントをいただき、大いに納得しました。私が、現代の礼拝形式の起源や歴史性を学んでいなかったことに問題があったと判明。聖書的原則と現代の礼拝を結び付けるばかりで、古代教会の現実の礼拝を十分学んでいなかったわけです。特に「後半の聖体拝領」という言葉には、まさに祝祷の招詞にまさる重要性を納得しました。では、そのコメントを以下に転載します。
「祝祷は元々は、一人一人に手を置いて、聖霊の満たしと祝福を司祭が願い求めた名残りであるからと、礼拝学の授業で聞きました。そして、招きの言葉は、前半言葉による礼拝の入り口であり、遥かに後半の聖体拝領より軽いものです。司祭でなくても補助者で担当出来たわけでしょう。いずれにせよ、古代のキリスト教会の礼拝を継承しているわけなのです。」