命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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信仰継承とは「三代目JSoul」と見つけたり(4)〜第三世代基準説から見た戦後70年
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     今日は、第一回に記した原理原則を戦後70年間の日本宣教に適用して考えてみます。まずは、「各世代は誰に相当するか?」であります。難しいのは、生物学的親子ではないので、第一世代は70−90歳、第二世代は50−70歳などと簡単に年齢で割り切れません。

     パウロに相当する第一世代は教職であれ、信徒であれ、戦後間もなく働きを開始され、ずっとリードして下った世代でしょう。その世代の多くは、既に天に召されたか働きを退かれていることでしょう。

     テモテに相当する第二世代は、そのリーダーたちに導かれ、育てられてきた世代です。現在のリーダーの多くは第二世代でしょう。年齢としては、広く考えるなら40代後半から70歳程度でしょうか?第二世代に導かれ、育てられたのが第三世代なら、今の青年層でしょう。その中心は、二十歳前後から、40歳まで程度かと思います。既婚者や子持ちもいますし、牧師なら30代の青年牧師なのでしょうが、多くの教会では、この年齢層が薄いわけです。

     もし、前回記した「三代目評価基準説」が正しいとするなら、日本のキリスト教会の戦後の宣教の評価は、今の青年層を見て、評価すべきということになるでしょう。つまり、戦後をリードして下さって来た大先輩方のお働きの評価も、一定、現在の青年層のありようで測られるというわけです。


     わが子が孫を育てる姿を見て、自分の子育ての最終的な評価できるように、戦後第一世代の尊いお働きの評価は、第二世代が第三世代を育てる姿を見て、定まるのでは?と思うのです。もしかすると、天に召された大先輩たちは、第三世代のありようを見て、自己評価をしておらるのかもしれません。

     かつて、多くの子どもたちが教会学校に集い、若者たちも救われていったことは大きな実りには違いないでしょうが、評価基準が第二世代でないなら、それはあくまで過渡的な結実と評価すべきでしょう。私はそれを、決して「成功体験」としてはならないと考えますし、「昔はよかった」と回想すべきでもないし、ましてや「かつての繁栄をもう一度」と再現を願う成功体験でもないと思うのです。なぜなら、本当の成功は第三世代に現れるからです。第二世代における結実を「成功」と評価して、それを「教会版ビジネスモデル」のようにするのは、近視眼的ではないかと考えます。


     貧しさを厭わず、犠牲を惜しまず、魂への熱愛をもって伝道牧会に励んで下さった先輩世代には感謝し、尊敬するばかりですが、「他の人にも教えられる忠実な人たちを育てて委ねる」という視点に重きをおけるほど、キリスト教会全体が成熟していなかったのも事実だと感じています。戦後の教会の伝道至上主義が問題視され、時に批判をされます。私もそれには同意しますが、スターターである第一世代には、そうならざるを得なかった事情限界もあり、第一世代に対してはそうした理解と寛容さは必要かと感じています。

     そういう事情や限界もあってのことでしょう。第一世代が、第二世代に対して「このように次世代を育てて、さらに下の世代を育て委ねられるようにするのだよ」という模範を示してきたか?と言えば、あまりできてこなかったように感じています。また、熱心な伝道によって、多くの教会が生み出されたことは、感謝につきませんが、それを担う次世代育成にも同様の熱意と労と経済を注いできたか?教会学校は盛んであっても、信仰継承の要である親であるクリスチャンの教育がどうであったか?なども問われるのでしょう。

     第一世代から見れば、第二世代がお叱りを受けることは多々あるでしょう。しかし、信仰継承で苦戦して、現在の第三世代激減していることの原因を、第二世代のみにあるかのように評価されることがあるとするなら、私は異議を唱えたいです。数値や統計によって、第一世代から引き継いだものを第二世代が衰退させたと結論するのは、全く聖書的ではないだろうと私は考えています。むしろ、その数値や統計上の衰退は、第一世代の働きの評価でもあるはずです。


     では、同時に第二世代に責任がないかと言えばそうではないでしょう。第二世代は従来の伝道至上主義のマイナス面を認識して、次々世代を視野に入れての次世代育成に働きを一定シフトできたはずです。もし、それさえ認識できていない第二世代がいるなら、それはスターターからバトンを受け取る者としてどうかと思います。また、これは私自身の反省もあるのですが、その必要性を痛感しながら、様々なしがらみや抵抗勢力に苦戦して、十分シフトできなかった教会も少なくないように観察しています。

     実際に教派や団体を超えて、中高生や青年の働きに触れさせていただいて実感してきたことがあります。「他の人にも教えられる忠実な人たちを育てて委ねる」を共有して取り組んできた団体や教会は、中高生と青年の数と信仰的成熟度が、そうでない教会とはかなり違ってきているということです。


     どこまで説得力のある説かは怪しいですが、もし聖書的信仰継承が次々世代を視野に入れるべきものであるとするなら、戦後70年の日本宣教の結果は、第三世代、つまり、今の青年層のありように反映していると言えるでしょう。現在の青年層のクリスチャンたちをどう評価するかは、それぞれでしょうが、戦後に本格的なスタートをした団体などは、現在の青年において、初めて一定の結論や評価が見えてきたと受け止めるべきではないでしょうか?


     各世代の課題を記したのは、責任を明確にして責めるためではありません。むしろ、自分の世代の責任を棚に上げて、上の世代や次世代のあり方を責めるようなことがあるとしたら、そんな非生産的な行為を停止するためです。では、なぜ、やめるべきかといえば、原因追及や責任転嫁を神様が喜ばず、聖書が明示している神様の願いを実行すべきだからです。

     戦後70年を総括し、恵みを感謝し、み言葉と異なる歩みをしてきた部分は悔い改めて、パウロがテモテに命じたことを実行したいものです。戦後70年とは、まさに、そのことの必然性を見せてくれる第三世代が見えてきた時期だと思います。この時代のこの日本に生きるクリスチャンは、今、集っている数少ない青年たちのありようを前に、もし、自らの果たしてこなかった責任があるなら、それを認めて悔い改めたいものです。そして、今後、果たすべき責任を自覚し実行すべきだろうと感じています。


     「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

     戦後70年を迎えて、自らをパウロに命じられたテモテの立場において、教会にあって、このみ言葉を具現化するお互いでありたいと願います。
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 12:28 | - | - | - |
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