命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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二つのブログ記事に教えられた後藤健二さんが体現した「神の愛の愚かさ」
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     ここ数日間、後藤健二さんのことをいろいろな面からあれこれ考えてきました。そして、ある時、こんなことを考えたのです。「もし自分が、後藤さんが所属する教会の牧師で、シリア渡航の是非を相談されたら、どう応えるだろうか?」と。


     きっと私は後藤さんの相談に応えるのでなく、こんな言葉で、行かないように説得したことでしょう。

    「神様から与えられた妻と娘さんに対しての責任が最優先なのでは?」

    最も身近な隣人を離れて、別の誰かの隣人になるという選択は聖書的か?」

    「これまでのように大切なことを次世代に伝える使命のため、生き続けて欲しい。」

    国家権力も神の立てた権威、国民の生命を守るための渡航自粛要請には原則、従うべきでは?」

    「万一、拘束されたら、テロリストに利用され、テロにすることとなる。」

    「そうなれば、国家や国際社会に大きな負担をかけ、テロリストの宣伝になってしまう。

    「それは、クリスチャンとして証しにならないのでは?」

    「聖書が命じるように、知性を尽くして愛しましょう。予想される結果を考察して総合的な視点から最善を選択すべきでしょう。」

    「何よりも、私自身があなたに死んで欲しくない。」

    「あなたを失って、悲しみ痛む人々を生み出さないで欲しい。」

     私が牧会者なら、あらゆる聖書的正論を駆使して、情にも訴えて、何が何でも思いとどまらせるでしょう。いいえ、もし、私が牧師なら「きっと反対されるから」という理由で、相談さえしてもらえないかもしれません。


     そんな想像をしている中、二つのブログ記事に出会いました。一つは、知人である牧師夫人のブログ記事です。

    ブログ☆牧師の妻です☆より
    キリスト教の「非常識」

     この記事には大変、教えられました。ある意味、後藤さんが非難をうけるのは、社会通念に著しく反した非常識な行動だからでしょう。それだけでは、ありません。私が上に想像したある意味の「聖書的正論」にも、必ずしも合致しないように思えます。「湯川さんのために死ぬのでなく、妻と娘のために生きて、平和と人権のためにいのちを使って欲しい」というのが、クリスチャンとしても常識的な思いではないでしょうか?

     特に父上が、遺書を残して靖国訴訟にかかわったことは、この件が持つ「聖なる非常識性」のようなものを体感させていたのでしょう。実は、数年前に、その父上が牧しておられた教会で礼拝奉仕などをさせていただきました。父上である牧師先生とは、実に楽しいお交わりをいただきました。「文字通りに福音のために命をかけたことはないが、靖国のことでは命をかけた」とユーモラスに語りながら、(反対者に刺殺される覚悟で)遺書を書いて訴訟に臨んだお話しをして下さいました。

     福音派陣営の社会的働きの先頭に立ちながら、地方都市で優れた教会形成をされ、家庭も豊かに祝福されており、お会いした時には、世代交代も終えておられ、頭の下がる思いがしました。その父上のことを思い返しながら、ブログ記事を読んでいると、自分が聖書的正論の中に留まって考察しているだけで、そこから飛び出しして「聖なる非常識性」に歩む愛の衝動性を除外していたのではないかと思えてきたのです。


     さらにそのことを明白に教えて下さったのが、水草先生のブログでした。この牧師夫人のブログ記事を読まれてこのような記事を書いておられます。

    ブログ「小海キリスト教会牧師所感」より
    キリストの愛の愚かさにしたがって

     私の考え方は、「キリスト教倫理」の枠を出ていなかったのだと気が付かされました。聖書の原則を個別の事例に適切に当てはめてその是非を判断しているのですから、それは聖書的正論なのでしょう。しかし、それは、キルケゴールの言う「倫理的段階」であって「宗教的段階」には至っていないわけです。

     もしかすると、冒頭の仮想牧会事例は、「宗教的段階」の相談者に「倫理的段階」で是非を示し、説得しているのかもしれません。きっと、後藤さんの行動は、世間から理解されないだけではなく、私のようなキリスト教倫理発想で正論を重視するタイプのクリスチャンにまで、疑問視されかねないのでしょう。

     水草先生は後藤さんが罪悪感を抱いておられたのではないかと推察しておられます。なるほどと思いました。後藤さん自身が、聖書的正論に合致しないこと、聖なる非常識性を自覚され、それ故にある罪悪感をいだいておられた可能性はあるように思えます。


     しかし、この二つのブログ記事に出会ってこう考えました。

     湯川さんの救助のため命を犠牲にした後藤さんの行動が「蛮勇」であるならば、神を離れ勝手に滅びに向かう私たちのために一人子を与えられた父なる神の行動は、「究極の蛮勇」だろうと。

     家族や多くの愛する人々を離れてまで、迷い出たたった一人を探しにいくことが「非常識な愚行」であるならば、99匹の羊を置き去りにして危険にさらしてまで、迷い出たたった一匹を探して歩く神の愛は、「非常識で愚かな愛」と言わざるを得ないと。


     そして、自らを省みてこう思ったのです。

     私に欠けていたのは、聖書から物事の倫理的是非を考える「賢さ」ではなく、神の愛の「愚かさ」だったのだと。

     「聖書的常識という尺度」を絶対視してしまい、その尺度を超越した「神の愛の非常識さ」に思いが至らなかったのだと。

     私は「スタティックな聖書からの考察」に埋没していただけで、その聖書が明示する「愛なる神のダイナミックな蛮勇さ」を見落としていたのだと。

     結局、冒頭の仮想牧会事例は、「聖書的で正しいけど、キリストに似ていない歩み」へと信徒を導いているだけなのかもしれないと。


     恥ずかしながら、倫理的段階に留まっていた私は、クリスチャンとして、後藤さんの行動を安易に美化してはならないと感じていました。しかし、今は別の理由で美化しないことに決めましました。もし、後藤さんの行動が、神の愛の愚かさを体現するものであるなら、もはや美化する必要がないからです。


     大切なことを教えて下さったブログ記事を書かれたお二人には感謝するばかりです。また、私と同様の発想を持ち、同様の葛藤を覚えておられる方には、この二つのブログ記事がきっと役立つことでしょう。
    | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 22:01 | - | - | - |
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