命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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「狂言=表現」と悟った野村萬斎に学ぶ「信仰継承におけるバンド活動の有用性」
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     昨日の記事に続いて、「いただきます」に出演した三谷幸喜さんと野村萬斎さんのお話し。野村萬斎さんの方も、興味深いお話しがありました。狂言をする能楽師の世界は世襲制で、男子として生まれたら、家業を継ぐのが既定路線なのだとか。当然、中高生時代は、反抗期となり狂言が嫌いになります。狂言をしていくことに、不自由に感じ、親の思い通りに歩むようで、本当の自分でないようで、それが嫌でたまらなかったようです。

     ですから、その反動で、野村萬斎さんは、中高生時代にはロックバンドを組んで演奏していたそうです。中学生時代はフォークギターで、高校生になれば、エレキギターやヴォーカルを担当してクイーンなどのコピーをしていたとのこと。狂言と違って、それが、かっこよくて、女の子にもモテると思ったからというのが理由です。また、そこに自分本来の自己表現を求めていたのです。

     しかし、ある狂言の演目を演じている萬斎さんを観た黒澤明監督が、彼を映画「乱」の主要な役柄に大抜擢します。当時、まだ、高校一年であったそうです。それが、転機となり、萬斎さんは変わりました。自分にとっての最高の自己表現は、幼いころから稽古をしてきた狂言にあることを発見したのです。

     野村さんの言葉では、その時まで「狂言」と「表現」が結びついていなかったのだそうです。つまり、「狂言」という芸能あるいは表現形式を、「自己表現」とは無関係であるかのように、接してきたわけです。「狂言」と「表現」が結びついた時、野村さんは、狂言が持つ魅力を体験し、その世界を究めていったと思われます。

     このお話しを聞いて思ったのです。「バンドでの賛美が信仰継承と結びつくのはそういうことだったのかも!」と。


     私の場合、中高生や青年を対象とした集会などにお呼びいただくことが多いのですが、信仰継承が一定できていたり、中高生が生き生きしている教会や団体では、バンド活動が盛んであることを実感します。しかも、中高生と青年たちの信仰的成熟度の高さバンドの演奏技術、賛美の質の高さ比例している傾向が強いのです。

     その現実を目の当たりにしながら、私の中には「バンドやれば、若者が集まって、信仰継承して、成熟するって、そんな安易なもんじゃないだろう」という思いがあったのです。そして、確かに今でも「バンドやれば・・・」が安易だという見解は変わりません。しかし、もとから持っていた「バンドは、中高生たちの信仰継承に本当に有用なのだろう」との思いは、野村萬斎さんの体験談を聞いて、いよいよ自分の中で強くなりました。


     私は考えたのです。萬斎さんが「狂言」と「表現」が結びついたように、バンドで賛美することによって、クリスチャンホームの子どもたちは、「賛美」と「表現」が結びつくのではないのだろうか?と。特に男子たちにとっては、バンドはかっこいいですし、教会の女の子にモテるかもという不純な?期待もあります。教会の他のことには、無関心で消極的な彼らも、バンドでの賛美にだけは前向きになれます。

     伝統的な賛美では、「賛美」と「主にある自己表現」が結びつくことがなかった中高生が、「バンド」という自分たちにしっくりくる表現方法を獲得します。きっと、自分たちの表現方法で、賛美する中で、「主への賛美」と「主にある自己表現」が結びつくのだろうと思います。信仰的にも人間的にも未熟な中高生クリスチャンは、純粋な信仰を持っていても、それを言語化し、伝達する能力がありません。しかし、バンド演奏は、そんな彼らにとっては、自らの信仰を表現し、伝達する身近で好ましい方法論となるのでしょう。

     もちろん、バンド演奏の中に、「主にある」とは異なる「肉的自己表現(=自己顕示)」や賛美にふさわしくない信仰的歩みなどの問題も起こることでしょう。しかし、それはオルガンやピアノなどの伝統的賛美形式でも、大人のクリスチャンでも、同じく問われる課題であり、それが問われることを通じて、賛美奉仕者の成長もあるのだと思うのです。

     ですから、大人の賛美奉仕者の信仰姿勢が問題とされず、人間的に未熟で過渡期にある中高生のバンド演奏ばかりが問題視されるようなことがあるとするなら、それは、不公平、差別的と感じてしまうのです。もちろん、プレイズやワーシップソングの神学的是非を論じてのことなら、その限りではありませんが。


     信仰継承に一定成功している教会は、まさに、ただ、バンドをやらせているのではなく、バンド活動の中で、中高生たちの信仰教育をしているのです。そこには中高生に重荷を持つスタッフやリーダーたちがいます。中高生を愛し、日々祈り、真剣に向き合ってくれる先輩や大人がいるのです。その信頼関係の中で、賛美に自己顕示を持ち込むことや賛美にふさわしくない信仰的歩みが、取り扱われていきます。

     実は「バンド活動=実践的信仰教育」となるわけです。それができていると、チャラチャラしているように見えても、自分たちの演奏と歌詞を自分で聴きながら、賛美を通じて信仰的なアイデンティティーが築かれ、教会への帰属意識も高まっていきます。そうなれば、中高生時代には不安定さもあれば、未熟さ丸出しでも、青年になる頃には、かなりしっかりしてきます。

     バンドだけやらせて、あとは放置では、そのバンドは「キリスト教の歌を演奏する自己顕示集団」にしかなりません。バンドメンバーの信仰的成長は望みえません。「主への賛美」と「主にある自己表現」が結びつくことはないでしょう。むしろ、主への賛美は、肉的な自己表現の手段化されてしまい、バンド活動は内面的な信仰の養いに結びつくことがなくなってしまうでしょう。やはり、鍵となるのは、リーダーやスタッフの熱意と教育力なのです。

     中高生を「教会のおまけ」「大人のついで」程度に思っているなら、バンドをやらせても、そうした結果が予想されてしまいます。ですから、私は今でも「バンドやらせたら、信仰継承うまくいく」との発想などは、逆に信仰継承の本質が見えていない安易な考えとしか評価しません。むしろ、真剣に中高生らを愛し仕えるスタッフやリーダーがいて、なおかつ、中高生の側からの要望がある時に、バンドが始められて行くべきだと考えています。


     野村萬斎さんは、幼いころから稽古を受けてきた「狂言」と「自己表現」が結びついた時、嫌いだった狂言が好きになり、この世界を献身的に歩みだしました。同じように、現代日本のクリスチャンホームの子どもたちの中にも、幼いころから稽古?してきた「賛美」と「主にある自己表現」が結びついた時、賛美が、神様が、教会が好きになり、信仰の世界を献身的に歩む若者が起こされていくのではないでしょうか?

     野村萬斎さんの体験から、「信仰継承におけるバンド活動の有用性」を考えてみました。バンド活動が唯一の有用な方法論ではありませんが、お互いが集う教会が、それぞれの方法によって、野村萬斎さんのような葛藤にある中高生たちに、野村萬斎さんと同様の解決を与えられたらと願います。 
    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 17:49 | - | - | - |
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