命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
<< キリスト者としての歴史観を考える指標となるブログ記事の紹介 | main | 婚活クリスチャンに紹介したい内田樹氏の持論 >>
伝統芸能継承者である野村萬斎に、信仰継承を学ぶ
0
     昨日に続いて野村萬斎さんから学んだことを記します。思春期に入った野村萬斎さんが、狂言の世界に進んでいくことについて「不自由で、親の言いなりで、本当の自分でない」ように感じたとのお話しを聞いて思ったのです。「これって、クリスチャンホームの信仰継承問題と似ているよなー」と。

     クリスチャンホームに生まれた子どもたちは、狂言のような世襲制の伝統芸能一家に生まれた子どもと同様の葛藤を持つのでしょう。親がクリスチャンですと、こどもの頃から、芸のお稽古ならぬ、信仰のお稽古を受けます。それは、教会学校への出席であったり、暗証聖句であったり、家庭礼拝であったりするわけです。最初はそれが当たり前だと思っていても、友だちの家庭との違いに気が付きます。「普通の家の子はそうではないのに、うちはどうして?」と疑問や葛藤を覚え始めます。

     この段階で、「素直に疑問と葛藤を話せる子どもと、それを受け止めて誠実に応答する親」という親子関係であることが望ましいです。しかし、「親に遠慮してそれを言いだせない子どもと、無意識にも、言わせないにプレッシャーをかけている親」という関係になりやすいのが事実でしょう。まず、この段階で信仰継承をこじらせやすいように思います。

     思春期以降になれば、親の価値観を否定することによって、自我を確立していく段階に入ります。クリスチャンホームの子どもにとっては、自我を確立していくためには、親の中心的な価値観であるキリスト教信仰を否定することが必然となってきます。

     思春期の信仰継承のポイントは「いかに親から離れさせて、神様につなげるか」であります。親が触媒となり、子どもを自分に従わせるより、神に従うよう育てることです。ここで、「親には反抗しても、神様には従おう」「親にむかつくのはしかたないよね、でも、神様は愛していこう」となればいいのですが、どうしても「親への反抗=神への反抗」「親へのむかつき=神への反逆」となりやすいわけです。

     クリスチャンホームの子どもにとって、本来、思春期は親から離れて、神につながることで、「主にある自我」を確立する時期だと私は考えています。残念ですが、それを実現するような中高生への聖書的親子関係の教えや、同じくそれを実現するような思春期の子どもを育てる親への教育が悲しいほど不足していると感じています。信仰継承のために必要なのは、「中高生キャンプ」だけではないだろう、むしろ「中高生の親キャンプ」の方が、必須だろうと個人的に思うほどです。


     野村萬斎さんのように中高生ともなれば、教会生活を送ることがを不自由に感じ、親の思い通りに歩むようで、本当の自分でないようで、嫌でたまらなくなることもあるでしょう。しかし、同じく、野村さんのように、一つのきっかけで、親の意向とは無関係に神にある自分が本当の自分であり、そこにこそ本物の自由があることを発見します。

     聖書の放蕩息子の譬えのように、父なる神を離れることに「親の意向を離れた自由と本当の自分」を求めようとするのが、思春期にあるクリスチャンホームの子どもの経験する誘惑や葛藤でありましょう。その中で、タイプは四つに別れると思うのです。

     まずは、「信仰優等生タイプ」です。神様を離れずに、主にある自我の確立に向かい、本当の自由を体験して喜ぶ「最短距離経由クリスチャン」がいます。

     また、「放蕩息子タイプ」があります。一度神様を離れて、挫折を経験しないと、主にある本当の自分と自由に目が開かれないタイプもいます。神様に立ち返るプロセスとして「豚飼いの自分と自由」が必要なケースもあると思うのです。豚飼いとなった惨めな自分と豚から離れられない不自由を経験しないと、本来の自分と自由に気が付かないのです。これは「豚飼い経由クリスチャン」と呼びたいです。

     さらには、「放蕩息子の兄タイプ」です。ただ、親の意向通りに歩みながら、自我の確立はなく、不自由さにいらだっているのです。外見は優等生のようで、神様とも本当の自分にも出会っておらず、律法的な歩みに不自由を覚えており、主にある信仰の喜びを味わってはいないのです。これは「自立的信仰も喜びもないクリスチャン」であります。

     最後にあげるのは「帰ってこない放蕩息子タイプ」です。親の意向を離れて、自分なりの自由の中を歩みながら、豚飼いにまでは落ちぶれないので、帰ってこないのです。豚の餌を食べたい境遇にまでは至らないのか、放蕩息子のように「我に返る=父のもとに帰る」にならないわけです。これは「喜びのない自立したノンクリスチャン」であります。


     以上を無理やり類型化すると以下のようになるでしょうか?

    (1)「信仰優等生タイプ」=「最短距離経由クリスチャン」

    (2)「放蕩息子タイプ」=「豚飼い経由クリスチャン」

    (3)「放蕩息子のタイプ」=「自立的信仰も喜びもないクリスチャン」

    (4)「帰ってこない放蕩息子タイプ」=「喜びのない自立したノンクリスチャン」


     きっと、世襲制の伝統芸能でも、この四つのタイプに類型化されるのだろうと予想します。野村萬斎さんは、(1)と(2)の間で「プチ放蕩息子タイプ」と言えるのでは?

     上の四つを見て、親であるクリスチャンはどう思われるでしょうか?できれば、(1)が望ましいのでしょうが、(2)でなければ、自立的で喜びのあるクリスチャンに至ることのできないタイプの子どももいるよです。ですから、(1)でないからと言って、失望してはなりません。ましてや、子どもに「教会に行かない自分は親に愛されてない」と思わせるような態度をとってはならないのです。むしろ、放蕩息子の帰りを待つあの父のようでありたいものです。

     また、逆に子どもが教会に来ているから、洗礼を受けたから大丈夫と考えるのも、どうかと思います。わが子が(1)だと思っていたら、実は(3)だったというケースは少なくありません。いいえ、むしろ、クリスチャンホーム育ちのクリスチャンたちの課題は、まさにここにあるようにさえ感じています。

     四つの類型は、「安易な失望をせず希望を持つこと」と「安易な安堵をせず、使命感を継続すべきこと」の両者をクリスチャンである親に対して示しているのでしょう。そう、教会を離れたからと言って失望してはなりません。希望をもって祈り、可能な具体的努力があればチャンレジしましょう。逆に、子どもが洗礼を受けて教会に来ていれば、親の責任を果たしたわけではありません。見守りつつも、自立と成熟に向かってのサポートができればと願うのです。

     「世襲制の古典芸能における芸の継承」と「クリスチャンホームにおける信仰継承」の類似性から、こんなことを考えてみました。読者の皆様、それぞれの立場で、次世代への信仰継承のために、活かして下されば、うれしいです。
     
    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 20:22 | - | - | - |
       1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    2627282930  
    << November 2017 >>
    + SELECTED ENTRIES
    + RECENT COMMENTS
    + RECENT TRACKBACK
    + CATEGORIES
    + ARCHIVES
    + MOBILE
    qrcode
    + LINKS
    + PROFILE