2014.11.14 Friday
育てよう健全信徒(38)〜専守防衛クリスチャン
集団的自衛権などが問題となっている昨今ですが、昔からキリスト教会には「専守防衛クリスチャン」たちが存在しております。それは、他者の攻撃や傷つくことから、自らを守ることを主眼として生活を送るクリスチャンです。
イエス様は「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12)とおっしゃいましたが、専守防衛クリスチャンにはそうした「聖なる攻撃性」はありません。「自己防衛」こそが、信仰生活の最優先課題なのです。
専守防衛クリスチャンの体質は、説教の受け止めや応答に如実に現されます。礼拝メッセージを聞いても、決して、み言葉に刺されたり、問われたりして、自らが傷つくことがないようにと、それを最優先で説教を聞くのです。おのずと、説教に対して、第三者的、評論家的立場で聴くようになります。まるで、説教者が、会衆に語っているのを、観客席から見物しているかのような姿勢なのです。
当然、その受け止め方は、客観的で、応答も評論家的です。「今日の説教はよかった、わるかった」と、まず「評価」を下します。「この解釈はどうか?」「このことはどうなるのか?」と説教者の問い掛けやアピールへの応答を見事にスルーして、説教テキストへの「お勉強的アプローチ」を始めます。
「専守防衛クリスチャン」は、決して「私のために神様が語られた」「心が刺された」「自分のあり方が問われた」「悔い改めます」とは言いません。自分を守ることが主眼ですから、み言葉に動かされることはありません。み言葉が正しく愛をもってて説きあかされても、自分は一ミリも動かされません。自分を固定して、逆に、み言葉や説教者や教会を動かそうとさえします。
聖書の言葉も、神様からの人格的な語り掛けとしては受け止めません。神様からの人格的な語り掛けとして受け止めてしまうと、受け止めきれない自分のプライドが傷ついてしまうからです。語り掛けられた基準に生きていない自分が明らかにされてみじめな思いをするからです。応答責任を果たすのがストレスとなってしまうからです。ですから、自分防衛のために、聖書の言葉を自らへの語り掛けとしてではなく、客観的情報として処理していくのです。
そうです。「語り掛け」でなく「情報」として受け止めて、「人格的応答」でなく「機械的処理」をするのです。それによって、自分のクリスチャンとしてのプライドを守ります。確立してしまった独りよがり信仰スタイルを守ります。他者の批判からも自分を守るのです。
女性に比べて男性の方が客観性もプライドも高いからでしょう。私の経験では、「専守防衛クリスチャン」は、圧倒的に男性が多いです。と言いますか、男性牧師である私自身が、ともすれば、この手の落とし穴にはまりやすいように感じています。恥ずかしながら、自分が、説教者の立場ですと、「専守防衛クリスチャン」に、むかついたり、がっかりしたりのトホホぶりです。そのくせ、自分が聴衆ですと、自己防衛心理が生じて、「専守防衛クリスチャン」に傾いていく自分を見つけて、悔い改めることもあるというスーパートホホぶりであります。
私たち罪人は誰でも、神様の語り掛けに対して心をかたくなにして、自己防衛的となりやすいものです。それだけなら、「専守防衛クリスチャン」ではないというのが、私なりの定義です。自己防衛的なのは、残念ですが、罪人の普遍的性質なのでしょう。選手防衛クリスチャンの問題は、自己防衛的であることではなく、自己防衛を最優先していることにあるのです。そのために、神様からの「語り掛け」を「情報提供」に、神様への「人格的応答」を「機械的処理」に置き換えてしまっていることに、問題があると思うのですがどうでしょう?この置き換えを無意識にしているかどうか?が、選手防衛クリスチャンか否かの境目のように考えるのです。
防衛問題の方はさておき、信仰生活においては、「専守防衛」は卒業していただきたいものです。そうした信仰姿勢は、語り掛け給う神様にしてみれば「おい、無視かよ!」に近いように思うのです。み言葉を「語り掛け」として受け止め「人格的応答」をする交わりこそ、「み言葉による礼拝」でありましょう。そう考えますと、「専守防衛クリスチャン」は礼拝をささげながらも、礼拝を失っているのかもしれません。
私たちの自己防衛が、他者との人格関係を乏しいものとするだけでなく、神様との交わりを破壊しかねないものであることを深く覚えたいものです。
イエス様は「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12)とおっしゃいましたが、専守防衛クリスチャンにはそうした「聖なる攻撃性」はありません。「自己防衛」こそが、信仰生活の最優先課題なのです。
専守防衛クリスチャンの体質は、説教の受け止めや応答に如実に現されます。礼拝メッセージを聞いても、決して、み言葉に刺されたり、問われたりして、自らが傷つくことがないようにと、それを最優先で説教を聞くのです。おのずと、説教に対して、第三者的、評論家的立場で聴くようになります。まるで、説教者が、会衆に語っているのを、観客席から見物しているかのような姿勢なのです。
当然、その受け止め方は、客観的で、応答も評論家的です。「今日の説教はよかった、わるかった」と、まず「評価」を下します。「この解釈はどうか?」「このことはどうなるのか?」と説教者の問い掛けやアピールへの応答を見事にスルーして、説教テキストへの「お勉強的アプローチ」を始めます。
「専守防衛クリスチャン」は、決して「私のために神様が語られた」「心が刺された」「自分のあり方が問われた」「悔い改めます」とは言いません。自分を守ることが主眼ですから、み言葉に動かされることはありません。み言葉が正しく愛をもってて説きあかされても、自分は一ミリも動かされません。自分を固定して、逆に、み言葉や説教者や教会を動かそうとさえします。
聖書の言葉も、神様からの人格的な語り掛けとしては受け止めません。神様からの人格的な語り掛けとして受け止めてしまうと、受け止めきれない自分のプライドが傷ついてしまうからです。語り掛けられた基準に生きていない自分が明らかにされてみじめな思いをするからです。応答責任を果たすのがストレスとなってしまうからです。ですから、自分防衛のために、聖書の言葉を自らへの語り掛けとしてではなく、客観的情報として処理していくのです。
そうです。「語り掛け」でなく「情報」として受け止めて、「人格的応答」でなく「機械的処理」をするのです。それによって、自分のクリスチャンとしてのプライドを守ります。確立してしまった独りよがり信仰スタイルを守ります。他者の批判からも自分を守るのです。
女性に比べて男性の方が客観性もプライドも高いからでしょう。私の経験では、「専守防衛クリスチャン」は、圧倒的に男性が多いです。と言いますか、男性牧師である私自身が、ともすれば、この手の落とし穴にはまりやすいように感じています。恥ずかしながら、自分が、説教者の立場ですと、「専守防衛クリスチャン」に、むかついたり、がっかりしたりのトホホぶりです。そのくせ、自分が聴衆ですと、自己防衛心理が生じて、「専守防衛クリスチャン」に傾いていく自分を見つけて、悔い改めることもあるというスーパートホホぶりであります。
私たち罪人は誰でも、神様の語り掛けに対して心をかたくなにして、自己防衛的となりやすいものです。それだけなら、「専守防衛クリスチャン」ではないというのが、私なりの定義です。自己防衛的なのは、残念ですが、罪人の普遍的性質なのでしょう。選手防衛クリスチャンの問題は、自己防衛的であることではなく、自己防衛を最優先していることにあるのです。そのために、神様からの「語り掛け」を「情報提供」に、神様への「人格的応答」を「機械的処理」に置き換えてしまっていることに、問題があると思うのですがどうでしょう?この置き換えを無意識にしているかどうか?が、選手防衛クリスチャンか否かの境目のように考えるのです。
防衛問題の方はさておき、信仰生活においては、「専守防衛」は卒業していただきたいものです。そうした信仰姿勢は、語り掛け給う神様にしてみれば「おい、無視かよ!」に近いように思うのです。み言葉を「語り掛け」として受け止め「人格的応答」をする交わりこそ、「み言葉による礼拝」でありましょう。そう考えますと、「専守防衛クリスチャン」は礼拝をささげながらも、礼拝を失っているのかもしれません。
私たちの自己防衛が、他者との人格関係を乏しいものとするだけでなく、神様との交わりを破壊しかねないものであることを深く覚えたいものです。