命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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育てよう健全信徒(37)〜フェルトニーズ一直線クリスチャン
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     キリスト教会では、よく「フェルトニーズ」と「リアルニーズ」で、物事が区別されたり、整理されたりすることが多いです。フェルトニーズは"Felt Needs"でありまして、「その人自身が感じている必要」です。リアルニーズは"Real Needs"で「その人にとっての本当の必要」です。特にクリスチャンにとっては、「神様がその人に必要だと判断している本当の必要」と言えるでしょう。

     両者が同じならいいのですが、そうでないことも多くあります。たとえば、アルコール依存症の方のフェルトニーズはお酒ですが、リアルニーズはアルコール依存症の治療です。ある既婚者のフェルトニーズは「結婚相手が変わること」ですが、リアルニーズは「自分が変わること」だったりします。あるクリスチャンのフェルトニーズは、「もっと神様に祝福されること」でしょうが、神様が願うリアルニーズは「自らを省みて、罪を認めて、悔い改めること」というケースも。

     もう、お分かりでしょう。フェルトニーズとリアルニーズが異なるなる場合、当人は間違ったもので必要を満たしますから、その努力は問題解決やその人の成長や祝福につながらず終わってしまいます。あるいは、誰かが、愛をもってその人の訴える必要を満たしても、その人の問題は解決せず、成長もしなかえれば、祝福されることもありません。リアルニーズを見過ごして、フェルトニーズを満たそうとするなら、結局うまくいかず、当人の労は他者批判に、周囲の者の愛は徒労感に行きつきます。これはクリスチャンの成長問題、牧会、交わりなどでよくあることでしょう。


     そこで、今回取り上げますのは、「フェルトニーズ一直線クリスチャン」です。イエス様は、「狭き門」から入り、「狭き道」を歩み、「いのち」に至るようにと勧られめましたが、このタイプのクリスチャンは、「フェルトニーズの門」から入り、「フェルトニーズの道」を歩き、クリスチャン本来の「豊かないのちに至る」ことなく、信仰生活を歩んでいるクリスチャンのこと。

     フェルトニーズ一直線クリスチャンは、信仰決心や洗礼などの「入門時」の時点で、そもそもフェルトニーズ一直線であります。信仰生活に、「フェルトニーズの門」から入るのですから。異論はあるでしょうが、私は「リアルニーズの門」から入るのが、健全なクリスチャンだと思います。

     神様や真理や救いを求める最初の動機は、多くの場合は、フェルトニーズが中心でしょう。求道の動機は、大抵、フェルトニーズかと思うのです。幸福、平安、満足感、問題の解決などを求めることが動機でしょう。人間疎外的な現代社会では、「あるがままで愛されたい」「自分の価値を実感したい」などが、大きな動機になってきています。これらがすべてリアルニーズではないとは言いませんし、リアルニーズに転じていく大切な必要感でもあります。しかし、これらは、基本的に自分の側が感じているフェルトニーズです。


     一方、健全なクリスチャンは、求道中にニーズの移行が生じます。フェルトニーズが生じたり、それが満たされない原因自分の罪にあると分かるからです。そして、「罪を赦されて、救われること」がリアルニーズだと悟り、罪を悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れます。そうして、健全なクリスチャンは「リアルニーズの門」から入るのです。

     一方、「フェルトニーズ一直線クリスチャン」は、「あるがままで愛されたい」「自分の価値を実感したい」などの「自己感情の満たし」や「自己価値確認欲求」が中心のままで求道生活を継続します。そして、聖書が示す十字架の愛や教会で語られる神の愛は、そのフェルトニーズを満たします。自分の人生の中で、また、この世で初めて、自分の本源的なフェルトーズが満たされるのですから、それは大感激です。その結果、これからも、フェルトニーズが満たされ続けていくことを願って、信仰決心をして、洗礼を受けます。

     こうしたプロセスで、クリスチャンとなる場合、洗礼後も、フェルトニーズ中心で、信仰生活を送りやすくなる傾向は否めないように思います。あくまで傾向です。そうした傾向となるのは、ニーズが移行する最初のチャンスを逃しているからです。好意的に解釈すれば、洗礼後にそのチャンスを期待して、多少見切り発車であっても、神様がフォローしてくださると信仰的判断がなされるからです。


     教会が「フェルトニーズの門」からの信仰生活入門を許可すれば、「クリスチャンになるためのハードル」は低くなり、クリスチャンの大量生産?は可能となるかもしれません。しかし、それに伴う「フェルトニーズ一直線クリスチャン」の大量発生もリスクとして覚悟しなくてはならないでしょう。

     もちろん、洗礼後に、罪の認識が深まり、リアルニーズへと移行してゆけばいいでしょう。実際に「愛されていると分かったから」「自分の価値を実感できたから」でスタートして、成熟に向かうクリスチャンは今日、多く存在します。そして、その多くは、愛に満ちた指導者や親、優れた教会教育、幸いな教会の交わり、熱心なとりなしの祈りなどの支えが背景にあってのことでしょう。洗礼後に、ニーズの移行を期待するなら、そうした要素が当人の家族や周囲、あるいは教会にあることが条件かと私は考えています。

     洗礼後もニーズの移行を拒み、自己感情満足と自己価値確認を中心にいきるクリスチャンが、教会外でみ言葉に生き、キリストを証し、教会を建て上げ、神の栄光を現していくことは、到底、期待できません。「フェルトニーズの道」は、豊かないのちに至ることはなく、聖霊の実も救霊の実も結ぶことはないでしょう。

      なぜなら、そうしたクリスチャンの目的は、自分の感じている必要を満たすことだからです。本ブログでも取り上げてきた「自己実現系クリスチャン」や「あるがまま止まりの福音理解」などはその典型です。「フェルトニーズ一直線クリスチャン」に期待できるのは、せいぜい「礼拝出席、奉仕、献金」という「教会組織の維持への協力」くらいでしょう。


     十字架は私たちに「あなたは、ありのままで愛されている」と伝え、「あなたには絶大な価値がある」と教えます。しかし、それらは「十字架が結果的にもたらす私たちへの恵み」であって、「十字架本来の意味・目的」ではないでしょう。十字架の意味目的とは極度に単純化するなら、「罪を赦し、永遠のいのちを与える代償的死」かと思うのです。それが「救い派的」なら、「神の創造の意図に従って生きることための代償的手段」などと言い換えてもいいでしょう。

     そう考えますと、「結果的にもたらされる恵み」が「本来の意味、目的」に優先してしまうのは、どうかと思うわけです。たとえば、求道者が「十字架の意味が分かりました。それは私のため」と言ったとしましょう。しかし、「私のため」の意味が「私の罪の赦しのため」でなく「私が愛され、自己価値を見出すため」というケースは、昨今少なくないように感じています。

     そして、それは、本末転倒のように思うのですがどうでしょう?さらに、そのような信仰生活のスタートが、生涯をフェルトニーズの充足のための信仰に費やすクリスチャンを生み出しているとしたら、心配です。


     「フェルトニーズの門」から入り、「フェルトニーズの道」を歩き、クリスチャン本来の「豊かないのちに至る」ことなく、信仰生活を歩んでいるクリスチャンたち。もしかしたら、今日のキリスト教会にとって深刻な課題の一つは「フェルトニーズ一直線クリスチャン」なのかもしれません。もし、そうであれば、その一因は、求道過程のあり方や洗礼時の判断基準にあると言えそうです。


     求道過程におけるフェルトニーズからリアルニーズへの移行の重要性

     「フェルトニーズの門」からの信仰生活入門を許可することの是非、

     「自己感情の満たし」や「自己価値確認欲求」中心の求道者に洗礼を授けることの可否、


     これらは、従来の日本の宣教や教会形成を省みながら、検討すべきことなのかもしれません。
    | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 21:04 | - | - | - |
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