命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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一般用語としての「ドS」「ドM」、プラトニックSMとしての「春琴抄」
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     昨日まで、山形で奉仕、昨日は記事のアップができせんでした。先ほど、帰宅しました。書き溜めてあった記事をアップします。

     数年ほど前でしょうか?テレビ歌番組を見ていてビックリしました。人気アイドルユニットのメンバーが「私はドSだからー」とか、別のメンバーのことを「あの子はドM」とか、発言しているのです。これを聞いた瞬間、愚かにも「えーっ!人気アイドルが自分やメンバーの特殊な性癖をカミングアウト?」と思ったのです。でも、すぐにそれが、「性癖」ではなく「精神的傾向」を意味することがわかり、一安心でした。

     「」とか「」という言葉自体が「口にするのも汚らわしい」とされた昭和に育った私にとっては、人気女性アイドルが、たとえそれが、精神的傾向を表現するだけにしても、「ドS」とか「ドM」という言葉を発するのは、カルチャーショックだったわけです。最近は、教会の青年男女も、同様の表現をするのを聞くのですが、正直言えば「できれば、別の表現にして欲しいなー」と思ってしまう年代の私です。

     そのように最近は、SMが、抽象化、観念化、精神化されてきたように思います。それは、現実のSM行為を想起させることはなく、生理的嫌悪感を感じさせません。昨日も記したように、昭和から平成にかけて、SMは「倒錯→特殊性癖→性欲の一形態」、「ありえない→ありかも→ありだよね」と社会通念が変遷してきた流れとこの抽象化リンクしているように思います。

     「性癖を示す特殊な用語」が「一般的な精神傾向」を表現する言葉となるのは、極めて異例なことだとも言えるでしょう。この現象の背景には、性における「正常と異常」の境界の曖昧化、あるいは崩壊があるように感じています。


     「SMの抽象化、観念化、精神化」ということで、もう一つ。サマージャンボ宝くじのCMをご存知でしょうか?お嬢様(米倉涼子)とは下男(原田泰造)が演ずるあのCMです。ドSの米倉とドMの泰三のコンビは、まさに、はまり役です。この設定は、谷崎潤一郎の「春琴抄」がモデルだと推測しています。あの春琴と佐助が、米倉と泰三のモデルというわけです。何度も映画化をされていますが、「春琴抄」をご存知ない方はこちらを参照して下さい。

     wikipedia「春琴抄」

     やけどを負い美貌を失った春琴を見ないようにと自ら両眼を針で刺し盲目となり、結婚もせずに仕え続ける佐助の愛を「究極の愛」「献身愛」「純愛」と考える読者もいるでしょうが、それでは、漫画の「愛と誠」レベルで、任期恋愛小説にはなっても、文学にはなりません。
     
     wikipediaは、「マゾヒズム超越した本質的な耽美主義」と評価をしています。「悪でも、不道徳でも、反社会的でも、倒錯でも、美しければよい」と、「美」を表現上の最優先目的とするのが、耽美主義であります。「美」という高尚なものを表現しているので、この作品は、ポルノ小説でなく文学、エロでなくアートとされるのでしょう。

     でも、私は思うのです。この作品は「マゾヒズムを超越した耽美主義」ではなく「マゾヒズムを極めた耽美主義」だと。究極のマゾヒズムは自分の性欲や身体性の否定に至るのでは?と考えるからです。春琴が、肉体的暴力を振るうことに快感を覚えるわけでも、佐助が肉体的攻撃を受けて性的興奮を持つわけでもないので、これは「プラトニック・SM」だと私は解釈しています。そして、身体性をも放棄した性愛が、「最高の美」とされているように受け止めています。

     聖書の性は、身体性を有する性です。結婚を通じて、体を一つとして、共に生きる性です。むしろ、身体は必須です。いいえ、聖書によれば、身体を一つにすることによって、霊が一つになるのです。ですから、谷崎が描いた「身体性なき性」は、純粋なように見えて、最大の逸脱にして最高の倒錯であります。

     また、昨日記した通り、聖書の基準では、SMは「性の邪道」と考えられますので、「春琴抄」が描く二人の「プラトニックSM」は、究極的な逸脱美、倒錯美であろうと思うのです。

     
     というわけで、SMの精神化は、ある意味、「春琴抄」のように、昔から文学や芸術の世界ではあったのです。(正確に言えば、SMとは、本来は精神性であって、それが性行為に現れたというのが、正しいのでしょう)。それが今やアイドルの発言にあるように、大衆文化にまで、降りてきたということのようです。

     性的な概念を持つ言葉が、抽象化、精神化される時に、その生々しく具体的なイメージとそれに伴う生理的嫌悪感は取り除かれ、大衆が受け入れやすいものへと変質します。一旦、その概念が大衆に受け入れられ、社会的認知を得るなら、今度は、本来の生々しい具体的な性のあり方が、社会的に受容されていくのだと私は考えています。つまり、こういうことが起こっていると思うのです。

     性的言語の抽象化→具体的イメージと嫌悪感の消失→大衆による受容→本来の具体的な性のあり方に対する社会的認知
     

    口にするのも汚らわしい」と本ブログが、読者に言われてはならないので、SMの話題はこれで終わりとしましょう。そもそも、SMを論じたいわけではありません。それを通じて、近年の日本社会における性について一般的な傾向を考えたかったのです。

     現代はそのようにして、昭和には、倒錯とされた性のあり方が、社会的に受容され、それに対して聖書を基準に是非を言おうものなら、「人権侵害」、「人格否定」、「少数者差別」と社会的非難を受けかねない時代となっているようです。性については、倫理や医学での是非、正常・異常の尺度自体が無効となりつつあるように感じています。聖書を基準に是非を発信すると同時に、多様な性に生きる人々を愛し、その人格を尊重することの両立を、いよいよ日本の教会も求められる段階に移りつつあるのかもしれません。
    | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 16:12 | - | - | - |
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