命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
<< ♪最多、最多、山井の花が | main | 自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もないキリスト者の神への愛 >>
自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もないキリスト者の他者愛
0
     昨日の記事にフェイスブックの方で、非常に考えさせられるコメントをいただきました。「自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もない」との姿勢が、キリスト者にとっても共通課題であることを示して下さったのです。以下にそのコメントを転載します。(太字は私の編集によります)

     特に教師が…と書かれていますので、教員をしている私も自戒します。今大切なこととして強調されているのは、これまでのようなこちらの言い分を押し通す技術よりも(そういうのも流行ではありますが)、むしろ異なる他者の理解や関係づくりのための教育であるはずです。自分と異なる者の話を聞き、せめて相手側が何を言おうとしているのかを理解しようと格闘する、出来れば自分の側のものの考えを相対化するてこにもする、実はそこに己の限界の突破口もあるかもしれない、という点もとても大事だと思います。そうでなければ、いわば究極の他者でもある神というわけのわからん相手と向き合うこともおぼつかないだろうと思います。「自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もない熱心な信者の信仰」なんて、シャレにもなりません(が、ありがちなのかもしれない、と自戒します)。

     
     このコメントには多くの示唆をいただきましたが、触発を受けて二つのことを記したいと思います。一つ目は、キリスト者の他者愛について、このコメントが伝えるような課題があるのではないか?という問いかけです。それは今日の記事で書いてみます。そして、二つ目は、「究極の他者である神」とあるように、神様に対しての愛についても、同じ課題があるのではないか?を考えてみます。



     では、さっそくキリスト者の他者愛について記します。そもそも、聖書が命じる愛は「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とあるように、「自分本位」から「相手本位」への転換であります。また、「隔ての壁を取り除き、ふたつのものをひとつに」とあるように、「関係断絶」から「関係構築」への転換なのです。

     ですから、「自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もない」という現実があるとすれば、その愛は、聖書の愛に真っ向から反する愛でありましょう。また、そのような愛であるにもかかららず、自分は他者を愛していると信じて、問題の自覚がないなら、それは、神様の目からも他者の目からも、かなり痛い状態と言えるでしょう。

     しかし、罪びとである私たちは、「相手本位で関係構築的な愛」を「自分本位で関係破壊的な愛」に取り換えてしまい、その反聖書的な愛で、他者を愛しながら、自分はキリスト者として愛を実践していると思いがちなのではないでしょうか?そして「自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もない」という状態に陥ったままで、自分の異常さに気が付かぬまま過ごしてしまうことは珍しくないように思うのです。

     
     以前、ネット上で、クリスチャンのSNSに参加したが、嫌気がさして退会したとの話を読んだことがあります。どうも、そこで、行われていたのは、教派間での論争とも言えないような罵り合いだったと思われます。上のコメントに即して言えば、「こちらの言い分を押し通す」ばかりで、「異なる他者の理解や関係づくり」はしようとせず、「自分と異なる者の話を聞き、せめて相手側が何を言おうとしているのかを理解しようと格闘する」努力を放棄していたのでしょう。

     そこには自分の信仰理解を絶対化し、相手の間違いを訂正しようとの「」があったのかもしれません。これは、正しい信仰から迷い出ている兄弟姉妹を、正しい信仰に立ち返らせようとのある意味の「愛」なのでしょう。しかし、その愛は、実は対話をする前から、自分を絶対化し、相手の声を聴こうとしない点で、自分本位です。相手の信仰理解を聞いて、理解しようと格闘せず、相手を安易に否定するなら、それは「関係破壊的」と言えるでしょう。

     異なる信仰理解の相手の意見を理解して、それに同意できなくても、その違いを違いとして、認めることはできるはずです。たとえば、「相手本位」とはそういうことでしょう。また、一致や同意はできなくても、違ったまま対話をして、お互いが相手から学び合い、両者が成長できる関係は持てるはずです。これも「関係構築的」なあり方の一例でしょう。

     残念ながら、異なる信仰理解を持つ相手との関係の中で、愛ならざる愛で、兄弟姉妹を愛するということがあるように感じています。「自分本位で関係破壊的な愛」で相手を愛しているのに、自分は、聖書的な愛で、相手を正しい信仰に導こうとしていると信じているので、自覚症状がないわけです。


     しかし、自戒を込めて思うのですが、クリスチャンがこうした状態に陥りながら、自覚できず、そこにとどまってしまうというケースは、多々あるのではないでしょうか?特に未信者の救いを願う場合に、これは、陥りがちな落とし穴になっていると感じています。いくつか典型的な例を挙げてみましょう。


    親を愛し、親の救いを願うと言いながら、親の誕生日を祝うことをしない学生クリスチャン。

    友を愛し、救いを願い、自分の信仰を語るが、友の考えや心の思いを聞こうとしない青年クリスチャン。

    結婚相手を愛し、その救いを願い教会に行くように勧めるが、夫婦が向き合っての心の対話を避けている既婚者クリスチャン。

    子どもの救いを願いながら、親子の会話は、親からの一方的な指示と命令ばかりで、子どもの心の声を聴こうとしない親。

    相手を愛し、「クリスチャンになること」を願うばかりで、その相手の深い心の思いを聴くなど考えもしないクリスチャンたち。 


     こうして列挙すると、私も身に覚えがありすぎて、痛いです。ここには「愛」と言いながら自分が相手に影響を与えて自分のテリトリーに相手を率いれようという「」があるように感じます。愛すると言いながら、相手との人格的関係を作ろうとせず、相手が変化することばかりを願っているかのような姿勢があります。

     改めて、自分がいかに聖書が示す「相手本位で関係構築的な愛」とは異なる「自分本位で関係破壊的な愛」で相手を愛してきたかを振り返って、悔い改めるばかりです。神様のあわれみで、自覚させていただけたことを感謝しなくてはならないでしょう。

     上に列挙したようなクリスチャンの愛を受けた時、未信者はどう思うでしょう?「これが、神様の愛なら、自分はいらない」「これがクリスチャンの愛なら、自分はクリスチャンになりたくない」とさえ、思いかねません。多くの場合、未信者はその思いを口にすることなく、「信仰の逆決心」をしているのかもしれません。


     私たち人間は、イエス様が死んで下さり、神との和解を実現されたほどの「相手本位で、関係構築的な愛」を神様から受けながら、相手を正反対の「自分本位で関係破壊的な愛」で愛してしまうどうしようもない罪人なのでしょう。それなのに、自分は相手を神様の愛で愛していると思い込み、自分の愛の致命的間違いを自覚でないほど、決定的に愚かな者なのでしょう。


     そう考えますと、お互いは、神様が自分を愛したようには、他者を愛しきれていないという現実認識や自覚から、スタートする必要があるのかもしれません。


     「自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もないキリスト者の他者愛


     愛において絶望的なほど乏しい罪人は、まず、この絶望的な自分の現状認識から始めるべきだと思うのですが、どうでしょう?そのスタートラインの向こうにこそ、「相手本位で、関係構築的な愛」に生きる歩みがあるのだと思うのです。愛についての自己への絶望というスタートがあって、初めて、愛における成熟というコースを走っているように考えるのです。真っ暗なスタートラインの向こうにこそ、明るい希望の光があるように私は信じていますが、どうでしょう?

     今日のこの記事がそのスタートやその後の歩みの助けになれば、幸いです。
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 14:27 | - | - | - |
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    + SELECTED ENTRIES
    + RECENT COMMENTS
    + RECENT TRACKBACK
    + CATEGORIES
    + ARCHIVES
    + MOBILE
    qrcode
    + LINKS
    + PROFILE