2014.06.19 Thursday
育てよう健全牧師(59)目黒牧師と目白牧師
今回、論じますのは「目黒牧師」と「目白牧師」。この二人は、何も、この地名に住んでいる牧師ではありません。同名の山手線駅を愛する鉄道マニアでもありません。東京都内に限らず、全国各地にこの二種類の牧師は散在し、その生存とご活躍が確認されております。
では、この二種類の牧師とは、どのような牧師でしょうか?「目黒牧師」とは、ご自分の「目の黒いうち」が、すべてであるかのように働かれる牧師であります。それに対して「目白牧師」は、「目の黒いうち」を超えて、「目が白くなってから」も展望して、今の働きを積み上げてゆく牧師です。つまり、ご自分の転任や引退どころか、死後までを展望して、働いている牧師のことです。
現時点で、プロテスタント日本宣教150年を超えておりますが、福音派や聖霊派の団体は長くて、60、70年程度の歴史でしょう。創設者から次世代へ、外国人宣教師から日本人牧師に、責任が移行されて間もない教会も、少なくないようです。戦後の外国人宣教師や創始者の尊い働きによって、宣教が開始され、継続されてきました。たとえ、今は、数においては小さくとも、これから、深められ、広げられていけばいいのです。
そのためには牧師などリーダーのスムーズで発展的な世代交代が必須でしょう。地域宣教や教会形成は、50年から100年長期展望で考えなくてはならない面は絶対にあると思うのです。そのためには、「目の黒いうち期間限定」で、宣教や教会形成を考えてはならないでしょう。
目黒牧師のあり方は、ともすれば「一代限りの栄枯盛衰」で教会を終わらせかねません。さらには、「二代目は一からやり直し」あるいは「二代目はマイナスからのスタート」となり、次世代の教会形成に悪影響を与えます。自分の存命中の結実を目指しながら、次世代での結実継続を考えないあり方は、千年は一日のようである神様の目には、どう映るでしょうか?
それに対して目白牧師は自分の目の黒いうちは、大きな実りを見ることができなくても、死後に次の世代が大きな実を結ぶことをねがって、存命中に働きを積み上げていくのです。牧師ではなく、キリストを土台に据えて、しっかりとキリストに根差した信徒を育てるのです。豊かな実を結びうる土壌を作り、苗を成長させ、その後の開花や結実は、次の世代に期待するわけです。
そもそも、自分が目に見える実りを得て、他者から賞賛を受けることは願わず、天において神様からご評価をいただくことを思いながら、地上の生涯を歩むのが、献身者のあるべき姿でしょう。天での報いの約束を信頼し、地上限定の結実をすべてであるかのように思うことなく、地上での報いに執着すべきでないことを聖書から、語っておられるのですから、語ったように、語った者が歩まれるべきだと思うのですが、どうでしょう?残念ながら、語ったように歩まれないのが、目黒牧師で、そのあるべき姿を貫き、語ったように歩まれるのが、目白牧師のように思うのです。
以前「引退牧師、残すべきものと残してはならぬもの」という記事を記しました。
http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3577
今回は、それをアレンジして、目黒牧師と目白牧師に当てはめてみました。
目黒牧師が残すのは、引退後に信徒が維持費で苦労する目に見える教会の会堂、
目白牧師が残すのは、揺るぎなく建て上げられた目に見えぬ教会。
目黒牧師が残すのは、極一部だけが整えられた大会衆、
目白牧師が残すのは、満遍なく主の前に整えられた信徒たち。
目黒牧師が残すのは、牧師依存体質のイエスマンばかりの役員会
目白牧師が残すのは、聖書に立ち主体的判断可能な成熟した役員会
目黒牧師が残すのは、後継者候補の屍、
目白牧師が残すのは、自らが育てた後継者。
目黒牧師が残すのは、私訳聖書、優れた神学論文あるいは立派な施設など目に見えるメモリアル、
目白牧師が残すのは、目には見えぬ後継育成というメモリアル。
目黒牧師が残すのは、生涯現役を貫いた武勇伝、
目白牧師が残すのは、適切な時期に後継を果たした模範事例。
目黒牧師が残すのは、自らの存命中に成し遂げた業と名声という実り、
目白牧師が残すのは、次世代での実りを願って自らを地中に埋葬する「一粒の麦」としての生き様。
古典落語の「目黒のさんま」のオチをご存知でしょうか?殿様への配慮で、油を落とし、骨を抜かれたさんまを食した殿様は、そのさんまが日本橋で求めてきたものと知り、言います。
「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」。
二千年の間、世界宣教と教会形成を導き、見守ってこられた神様は、目黒牧師たちの存在をご覧になり、きっとこうおっしゃるでしょう。
「ううむ。それはいかん。牧師は目白に限る」。
お後がよろしい?ようで・・・・。
では、この二種類の牧師とは、どのような牧師でしょうか?「目黒牧師」とは、ご自分の「目の黒いうち」が、すべてであるかのように働かれる牧師であります。それに対して「目白牧師」は、「目の黒いうち」を超えて、「目が白くなってから」も展望して、今の働きを積み上げてゆく牧師です。つまり、ご自分の転任や引退どころか、死後までを展望して、働いている牧師のことです。
現時点で、プロテスタント日本宣教150年を超えておりますが、福音派や聖霊派の団体は長くて、60、70年程度の歴史でしょう。創設者から次世代へ、外国人宣教師から日本人牧師に、責任が移行されて間もない教会も、少なくないようです。戦後の外国人宣教師や創始者の尊い働きによって、宣教が開始され、継続されてきました。たとえ、今は、数においては小さくとも、これから、深められ、広げられていけばいいのです。
そのためには牧師などリーダーのスムーズで発展的な世代交代が必須でしょう。地域宣教や教会形成は、50年から100年長期展望で考えなくてはならない面は絶対にあると思うのです。そのためには、「目の黒いうち期間限定」で、宣教や教会形成を考えてはならないでしょう。
目黒牧師のあり方は、ともすれば「一代限りの栄枯盛衰」で教会を終わらせかねません。さらには、「二代目は一からやり直し」あるいは「二代目はマイナスからのスタート」となり、次世代の教会形成に悪影響を与えます。自分の存命中の結実を目指しながら、次世代での結実継続を考えないあり方は、千年は一日のようである神様の目には、どう映るでしょうか?
それに対して目白牧師は自分の目の黒いうちは、大きな実りを見ることができなくても、死後に次の世代が大きな実を結ぶことをねがって、存命中に働きを積み上げていくのです。牧師ではなく、キリストを土台に据えて、しっかりとキリストに根差した信徒を育てるのです。豊かな実を結びうる土壌を作り、苗を成長させ、その後の開花や結実は、次の世代に期待するわけです。
そもそも、自分が目に見える実りを得て、他者から賞賛を受けることは願わず、天において神様からご評価をいただくことを思いながら、地上の生涯を歩むのが、献身者のあるべき姿でしょう。天での報いの約束を信頼し、地上限定の結実をすべてであるかのように思うことなく、地上での報いに執着すべきでないことを聖書から、語っておられるのですから、語ったように、語った者が歩まれるべきだと思うのですが、どうでしょう?残念ながら、語ったように歩まれないのが、目黒牧師で、そのあるべき姿を貫き、語ったように歩まれるのが、目白牧師のように思うのです。
以前「引退牧師、残すべきものと残してはならぬもの」という記事を記しました。
http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3577
今回は、それをアレンジして、目黒牧師と目白牧師に当てはめてみました。
目黒牧師が残すのは、引退後に信徒が維持費で苦労する目に見える教会の会堂、
目白牧師が残すのは、揺るぎなく建て上げられた目に見えぬ教会。
目黒牧師が残すのは、極一部だけが整えられた大会衆、
目白牧師が残すのは、満遍なく主の前に整えられた信徒たち。
目黒牧師が残すのは、牧師依存体質のイエスマンばかりの役員会
目白牧師が残すのは、聖書に立ち主体的判断可能な成熟した役員会
目黒牧師が残すのは、後継者候補の屍、
目白牧師が残すのは、自らが育てた後継者。
目黒牧師が残すのは、私訳聖書、優れた神学論文あるいは立派な施設など目に見えるメモリアル、
目白牧師が残すのは、目には見えぬ後継育成というメモリアル。
目黒牧師が残すのは、生涯現役を貫いた武勇伝、
目白牧師が残すのは、適切な時期に後継を果たした模範事例。
目黒牧師が残すのは、自らの存命中に成し遂げた業と名声という実り、
目白牧師が残すのは、次世代での実りを願って自らを地中に埋葬する「一粒の麦」としての生き様。
古典落語の「目黒のさんま」のオチをご存知でしょうか?殿様への配慮で、油を落とし、骨を抜かれたさんまを食した殿様は、そのさんまが日本橋で求めてきたものと知り、言います。
「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」。
二千年の間、世界宣教と教会形成を導き、見守ってこられた神様は、目黒牧師たちの存在をご覧になり、きっとこうおっしゃるでしょう。
「ううむ。それはいかん。牧師は目白に限る」。
お後がよろしい?ようで・・・・。