命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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育てよう健全牧師(58)May.J牧師
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     このシリーズも58回目となりました。今回は、「南国のブログ王子」である久保木牧師が期待をしておられたと知って、数日考えて、思いつたことを記します。

     まずは、久保木牧師のブログ記事をお読みください。

    「May J牧師??」
    http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/64677702.html

     我が家でも「アナ雪」を鑑賞した妻と娘に聞けば、二人とも、松たか子への評価は高く、May.Jへの評価はかなり厳しいものでした。音楽的にもこの記事の通りのようです。妻も「音を外して多少不正確でも、心に届く松たか子の歌唱に対して、May.Jは正確だが、つまらない」というもの。

     久保木牧師の指摘のように、私も、松たか子が、登場人物の声優である故に、また、優れた女優であるが故に楽曲の再現を超える感情移入やほとばしる思いが歌に込められているのだろうと思います。それに対して、May.Jは歌唱力は高いが表現力に欠ける歌手だと思うのです。

     譜面に記された楽曲をほぼ完璧に再現しているのですが、歌い手の自己表現がなされていないように感じます。「優れた歌唱力ともう一つの表現力」「ほぼ完ぺきな再現だが、不満を感じさせる表現」「表現のために正確さと形を犠牲にできない表現者」、May.Jのファンには申し訳ないのですが、それが私なりの評価です。

     
     さて、そこで、May.J牧師です。基本的に音楽は表現で、説教は伝達だと私は考えています。「説教はみことばの取り次ぎであるべき」というのが、私の説教観です。説教行為には、表現芸術に共通する要素はあるでしょうが、間違っても説教は説教者の自己表現であってはならないと考えています。

     しかし、だからといって、研究者が研究対象を扱うように、第三者として、聖書のテキストを扱い、そこに込められている情報を正確に伝達するだけとなれば、多分、May.J牧師になりかねません。松たか子がそうであるように、自らがテキストの登場人物になり、書簡の受け取り手となり、テキストの中から、みずみずしい恵みを、いきいきと取り次ぐなら、それは、会衆の心に届くものとなるのでしょう。

     少なくとも、第二者?として、神様の語り掛けを受け、それに応答し、み言葉に従い、生きようとする中で、説教が作られなければ、説教は「聖書研究発表」や「聖書解説」になりかねないのでは?「取り次ぎ=第三者的伝達行為」ではないと思うのです。

     正しく取り次ぐとは、言葉持つ深いの意味やテキストが語っている内容を正確に伝達することだけではないでしょう。それを語り掛ける神様の御思いや深い感情をも伝えることだろうと思っています。つまり、説教は情報交流ではなく、感情交流の面もあり、全体として人格交流だと考えるわけです。そして、優れた説教者は、正確な意味と内容と共にテキストの込められている深い御思いを読みとなるのだろうと予想します。自分はそのレベルの説教者でないので、予想になってしまうのが情けないのですが。

     そもそも、礼拝自体が、神とその民との人格的交わりなわけです。礼拝説教の場合は、その現場で神から民への語り掛けを取り次ぐのですから、説教行為は、人格交流でありましょう。説教者と会衆との人格交流の面はありますが、説教者があくまで通訳であろうとするなら、最終的には、説教は神と民の人格交流になるのだと私は考えています。

     また、そうなることが、説教の成功を意味すると思っています。礼拝という神と民の交わりの中での説教は、神の語り掛けに民が応答することによって成功と言えるのだろうと考えるのです。逆に言えば、神と民との人格交流となるために、言葉や意味の誤解があってはいけないので、言葉の正確な意味確定やテキストに込められたメッセージの正しい読み取りが必要となるのでしょう。正確かつ優れた説教というのは、そのレベルなのだろうと想像します。

     いかに正しい取り次ぎがなされていても、語り掛けられる神様の人格や情緒を排除した情報伝達や思想伝達に終始していたら、説教は神と民との交わりでなくなってしまうのでは?

     つまり、皮肉にも、礼拝の中で、説教中の時間において、礼拝が礼拝でなくなってしまうわけです。特に、どんなに正確な解き明かしであっても、会衆が理解できない専門用語連発で、テキストからの分析的な思想伝達がなされてしまうと、会衆は受け止めることも応答もできず、まさに礼拝の中で、神と民との交わりが説教者によって遮断されてしまうことになるのでは?神と民の交わりを遮断する説教というのはどうかと思うのです。特に、礼拝説教は、どこまでも礼拝の一部であることを、忘れてはならないでしょう。

     これは歌唱力(楽譜再現能力)は高いが、心に届かないと評価されるMay.Jと、確かによく似ています。テキストの解き明かしとしては完璧だが、人格的存在としての神の語り掛けとならないので、会衆の心に届かないということです。テキストが本来持っているはず、あるいはもたらずはずのみずみずしく生き生きとした感動や背後にある神様の人格性が、人格としての会衆に届かないわけです。他にも、説教者と会衆の意識や関心の際、生活実感の違いなども、説教者をMay.J状態にしかねません。

     当然ながら正確さは必要です。というかある程度の正しさは大前提でしょう。神と民との正常な人格的交わりのためには、言葉の誤解があってはなりません。説教が取り次ぎであるなら、正確さは必須です。しかし、正確さ自体の追求が人格交流を妨げてしまっては、本末転倒でしょう。

     優れた説教能力があるほど、正確さの追求が自己目的化してしまい、会衆理解の努力を忘れ、「説教者の自己評価は高いが、会衆の心に届かない説教」になってしまうのかな?と想像するわけです。聖書原語に詳しく優れた説教力を持ちながら、会衆からMay.J牧師と評価されることがあるとすれば、こうしたことがその一因なのでしょうか?

     正確さにおいてはかなり怪しい説教者である私なので、正確さを追求する説教者については、その程度の想像しか及びません。邪推であったら失礼をお赦し下さい。はてさて、久保木牧師の期待に沿えたかどうか・・・。
    | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 16:21 | - | - | - |
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