2014.05.13 Tuesday
パウロとテモテの関係に学ぶ「潰さないつもりで迎えて下さい」
今日は、昨日の記事のフォローとして予定していた記事をアップします。昨日は若い教職者という遣わされる側への「潰れるつもりで来てください」でしたが、今日は受け止める側への「潰さないつもりで迎えて下さい」というアピールです。
胃も弱ければ、気も弱く、信徒とうまくいかなかったのか?純粋な信仰を持ちながらも、賜物をくすぶらせていた若く未熟さも目立ったテモテ。そのテモテが潰れることなく、賜物を再度燃え立たせ、後に、パウロの一番弟子のようになった転機の一つは、第2テモテ1:3−8が記すパウロの励ましにあると私は想像しています。理解の助けになるように、新改訳第三版で本文を引用しておきます。
3.私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
4.私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。
5.私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。
6.それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
7.神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
8.ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
石打ちにあっても立ち上がって伝道旅行を継続するパウロは、無理やりたとえるなら、「昭和ど根性系伝道者」で、純粋ながら、臆病で今や賜物をくすぶらせているテモテは「平成ヘタレ系伝道者」に相当すると思うのです。パウロは、自分の基準からすれば、随分テモテが弱々しく見えたことでしょう。真理からそれていると判断すれば、先輩格のペテロもバルナバにも遠慮のなかったパウロですが、後輩格の弱さや未熟さについては、大変寛容であったことが分かります。この姿勢は、見習いたいものです。このところで、パウロのテモテへの言葉には、五つのことがあるように観察します。
(1)感謝と愛での開始
3,4節では、祈りの中でテモテの存在を感謝し、会って喜びたいと愛を伝えて、注意を開始しています。
(2)先行する長所の指摘
5節において、課題や欠点を示すより先に、テモテの長所である信仰の純粋さを示し、それを次の課題指摘につなげている。
(3)お願いモードでの注意
6節では、パウロは長所があるからこそ、期待して、注意するのだと宣言します。しかし、その注意の言葉は、否定やダメ出しでなく、「お願い」でした。大伝道者からお願いされたら、テモテはどう受け止めるでしょう?
(4)課題克服の指針の提示
7節では、課題指摘にとどまらず、課題克服のための指針をとして、臆病な自分ではなく、愛と力と慎みの霊である聖霊に信頼するように勧めています。
(5)大きな期待の伝達
最後に8節では、臆病なテモテに恥じることなく大胆であるように勧めるばかりか、大伝道者パウロと福音の苦しみを共有するまでの成長を期待します。大伝道者に「福音の苦しみを共に」と期待されたテモテの心中はいかに?
以上をまとめるなら、パウロのテモテへのアプローチはこうなるでしょう。
「感謝と愛を示し→先に長所を指摘した上で、→お願いモードで注意。→それだけでなく克服の指針を示し、→最後に大きな期待を伝えて励ます。」
これが臆病で、賜物くすぶらせ、潰れかけのテモテを、一線で用いられる伝道者へとV字回復させたパウロの言葉です。これは、今で言えば、「潰れかけの平成ヘタレ系伝道者を活かす言葉」に相当するでしょう。
残念ながら、それとは正反対のアプローチがあります。それは・・・
(1)感謝と愛でなく、失望と責めで始まります。
(2)長所の指摘よりも欠点の指摘が先行します。
(3)「お願いモード」ではなく、「否定・ダメ出し」による注意です。
(4)課題克服のための霊的指針を示さず、「信仰」や「がんばり」との名目の「根性論」「精神論」に終始します。
(5)最後に、期待を伝えて励ますのでなく、失望を伝えて意気消沈させます。
これら五つのことを第二テモテ1:3−8と対比して、例文にするならこうなるでしょう。
「私は祈りの中で、あなたを思い起こしては、がっかりしている。先輩伝道者として本当に情けない。いったい、信仰があるのか?賜物をくすぶらせてどうするんだ?そんな臆病じゃ、伝道者失格だぞ。純粋な信仰なんか、何の役にも立たないだろう。伝道者に召されているなら、信仰持って、がんばらないでどうする?本当にがっかりだよ。福音の苦しみを先輩牧師と共にしてこそ、一人前の伝道者!今のままじゃ、とても、福音の苦しみを私と共にすることはないだろうよ。」
うわー、「キツイわ」、「上から目線だわ」、「一方的だわ」の三重苦!この言葉をパウロが手紙に書いていたら、きっとテモテは潰れていたでしょう。
きっと、私自身も含めて、すべてのベテランクリスチャンはこの第二テモテ4:3−8の前に自らが問われるのでしょう。
クリスチャンとして、先輩教職としてお互いは、若く未熟さを持つ伝道者に対して、パウロのように接してきただろうか?それとも正反対の接し方をしてきたろうか?潰れかけていた伝道者を活かしてきただろうか?それとも、自覚もないままに、若く未熟な伝道者を潰すような接し方をしてこなかったか?場合によっては、潰れかけの伝道者にとどめを刺すかのような言葉を発してこなかったか?と。
また、伝道者だけではありません。一先輩クリスチャンとして教会内の青年や学生、子どもたちに、クリスチャンホームの親として、子どもたちにどう接してきたでしょう?弱く未熟なのが当然の者たちを、パウロのように理解し、受け止め、活かしてきたでしょうか?それとも、成長の度合いも考慮せず、過剰な要求を突きつけ、それができなければダメ出しをして、潰すようなことはしてこなかったでしょうか?「聖書的正論」や「あなたのため」という名目で、将来ある者たちを潰すようなことはなかったでしょうか?
正直に言えば、私には悔い改めるべきことは山ほどあります。教職や神学生に対しての自覚はないのですが、若くて未熟に思えた信徒については身に覚えがあり過ぎです。特に30代の頃はひどかったと思います。神様の前に悔い改めることはできても、もはや償うことも、取り返すこともできない事例が頭をよぎります。「主よ、私はこれまで何人ものテモテを潰してきたと思えてなりません。」と罪を言い表さざるを得ないのです。
深刻な教職者不足や教会の少子高齢化については、若い世代当人や教会全体にも、責任や原因はあるでしょう。しかし、その責任や原因を論ずる前に、、自分がテモテを活かしたパウロのようであったか?それともテモテのような人物を潰しかねない言動をしてきたかを自問し、思い当たるなら悔い改める必要があるでしょう。
その悔い改めもないままで、先輩クリスチャンたちが、教職者不足、少子高齢化、信仰継承破たんを、嘆き、他者批判するなど、神様の目の前には愚の骨頂だと思うのです。教会が抱えるそれらの課題の被害者のように自分を位置づけるだけで、加害者である自らを省み、悔い改めることを拒み続けるなら、神様の恵みは日本の教会を去りかねないだろうと私は本気で危惧をしています。
本当に危機的なことは、「何人ものテモテを潰してきたその罪」ではなく、「その罪を考えようともしない無自覚さと高慢さ」「その罪を認めず悔い改めを拒否する頑なさ」でありましょう。「罪を犯すから滅びるのではなく、その罪を悔い改めないから滅びに向かうのだ」と後進に語る先輩たちこそが、その語った言葉に生きる責任があるはずです。
お互いは、たとえ若きテモテが、「潰れるつもりで来ていた」としても、「絶対に潰さないつもりで迎える」のパウロでありたいと願うのです。神様が教会やクリスチャンホームに委ねて下さっているテモテを活かすも潰すも、指導者、親、そして先輩クリスチャン次第となる傾向は否めません。
教職であれ、信徒であれ、CS生徒であれ、我が子であれ、若く未熟なクリスチャンを嘆き、その課題を論じるより前に、パウロのテモテへの言葉を前に、自らの課題と責任を省みるお互いでありたいと願います。
胃も弱ければ、気も弱く、信徒とうまくいかなかったのか?純粋な信仰を持ちながらも、賜物をくすぶらせていた若く未熟さも目立ったテモテ。そのテモテが潰れることなく、賜物を再度燃え立たせ、後に、パウロの一番弟子のようになった転機の一つは、第2テモテ1:3−8が記すパウロの励ましにあると私は想像しています。理解の助けになるように、新改訳第三版で本文を引用しておきます。
3.私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
4.私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。
5.私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。
6.それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
7.神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
8.ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
石打ちにあっても立ち上がって伝道旅行を継続するパウロは、無理やりたとえるなら、「昭和ど根性系伝道者」で、純粋ながら、臆病で今や賜物をくすぶらせているテモテは「平成ヘタレ系伝道者」に相当すると思うのです。パウロは、自分の基準からすれば、随分テモテが弱々しく見えたことでしょう。真理からそれていると判断すれば、先輩格のペテロもバルナバにも遠慮のなかったパウロですが、後輩格の弱さや未熟さについては、大変寛容であったことが分かります。この姿勢は、見習いたいものです。このところで、パウロのテモテへの言葉には、五つのことがあるように観察します。
(1)感謝と愛での開始
3,4節では、祈りの中でテモテの存在を感謝し、会って喜びたいと愛を伝えて、注意を開始しています。
(2)先行する長所の指摘
5節において、課題や欠点を示すより先に、テモテの長所である信仰の純粋さを示し、それを次の課題指摘につなげている。
(3)お願いモードでの注意
6節では、パウロは長所があるからこそ、期待して、注意するのだと宣言します。しかし、その注意の言葉は、否定やダメ出しでなく、「お願い」でした。大伝道者からお願いされたら、テモテはどう受け止めるでしょう?
(4)課題克服の指針の提示
7節では、課題指摘にとどまらず、課題克服のための指針をとして、臆病な自分ではなく、愛と力と慎みの霊である聖霊に信頼するように勧めています。
(5)大きな期待の伝達
最後に8節では、臆病なテモテに恥じることなく大胆であるように勧めるばかりか、大伝道者パウロと福音の苦しみを共有するまでの成長を期待します。大伝道者に「福音の苦しみを共に」と期待されたテモテの心中はいかに?
以上をまとめるなら、パウロのテモテへのアプローチはこうなるでしょう。
「感謝と愛を示し→先に長所を指摘した上で、→お願いモードで注意。→それだけでなく克服の指針を示し、→最後に大きな期待を伝えて励ます。」
これが臆病で、賜物くすぶらせ、潰れかけのテモテを、一線で用いられる伝道者へとV字回復させたパウロの言葉です。これは、今で言えば、「潰れかけの平成ヘタレ系伝道者を活かす言葉」に相当するでしょう。
残念ながら、それとは正反対のアプローチがあります。それは・・・
(1)感謝と愛でなく、失望と責めで始まります。
(2)長所の指摘よりも欠点の指摘が先行します。
(3)「お願いモード」ではなく、「否定・ダメ出し」による注意です。
(4)課題克服のための霊的指針を示さず、「信仰」や「がんばり」との名目の「根性論」「精神論」に終始します。
(5)最後に、期待を伝えて励ますのでなく、失望を伝えて意気消沈させます。
これら五つのことを第二テモテ1:3−8と対比して、例文にするならこうなるでしょう。
「私は祈りの中で、あなたを思い起こしては、がっかりしている。先輩伝道者として本当に情けない。いったい、信仰があるのか?賜物をくすぶらせてどうするんだ?そんな臆病じゃ、伝道者失格だぞ。純粋な信仰なんか、何の役にも立たないだろう。伝道者に召されているなら、信仰持って、がんばらないでどうする?本当にがっかりだよ。福音の苦しみを先輩牧師と共にしてこそ、一人前の伝道者!今のままじゃ、とても、福音の苦しみを私と共にすることはないだろうよ。」
うわー、「キツイわ」、「上から目線だわ」、「一方的だわ」の三重苦!この言葉をパウロが手紙に書いていたら、きっとテモテは潰れていたでしょう。
きっと、私自身も含めて、すべてのベテランクリスチャンはこの第二テモテ4:3−8の前に自らが問われるのでしょう。
クリスチャンとして、先輩教職としてお互いは、若く未熟さを持つ伝道者に対して、パウロのように接してきただろうか?それとも正反対の接し方をしてきたろうか?潰れかけていた伝道者を活かしてきただろうか?それとも、自覚もないままに、若く未熟な伝道者を潰すような接し方をしてこなかったか?場合によっては、潰れかけの伝道者にとどめを刺すかのような言葉を発してこなかったか?と。
また、伝道者だけではありません。一先輩クリスチャンとして教会内の青年や学生、子どもたちに、クリスチャンホームの親として、子どもたちにどう接してきたでしょう?弱く未熟なのが当然の者たちを、パウロのように理解し、受け止め、活かしてきたでしょうか?それとも、成長の度合いも考慮せず、過剰な要求を突きつけ、それができなければダメ出しをして、潰すようなことはしてこなかったでしょうか?「聖書的正論」や「あなたのため」という名目で、将来ある者たちを潰すようなことはなかったでしょうか?
正直に言えば、私には悔い改めるべきことは山ほどあります。教職や神学生に対しての自覚はないのですが、若くて未熟に思えた信徒については身に覚えがあり過ぎです。特に30代の頃はひどかったと思います。神様の前に悔い改めることはできても、もはや償うことも、取り返すこともできない事例が頭をよぎります。「主よ、私はこれまで何人ものテモテを潰してきたと思えてなりません。」と罪を言い表さざるを得ないのです。
深刻な教職者不足や教会の少子高齢化については、若い世代当人や教会全体にも、責任や原因はあるでしょう。しかし、その責任や原因を論ずる前に、、自分がテモテを活かしたパウロのようであったか?それともテモテのような人物を潰しかねない言動をしてきたかを自問し、思い当たるなら悔い改める必要があるでしょう。
その悔い改めもないままで、先輩クリスチャンたちが、教職者不足、少子高齢化、信仰継承破たんを、嘆き、他者批判するなど、神様の目の前には愚の骨頂だと思うのです。教会が抱えるそれらの課題の被害者のように自分を位置づけるだけで、加害者である自らを省み、悔い改めることを拒み続けるなら、神様の恵みは日本の教会を去りかねないだろうと私は本気で危惧をしています。
本当に危機的なことは、「何人ものテモテを潰してきたその罪」ではなく、「その罪を考えようともしない無自覚さと高慢さ」「その罪を認めず悔い改めを拒否する頑なさ」でありましょう。「罪を犯すから滅びるのではなく、その罪を悔い改めないから滅びに向かうのだ」と後進に語る先輩たちこそが、その語った言葉に生きる責任があるはずです。
お互いは、たとえ若きテモテが、「潰れるつもりで来ていた」としても、「絶対に潰さないつもりで迎える」のパウロでありたいと願うのです。神様が教会やクリスチャンホームに委ねて下さっているテモテを活かすも潰すも、指導者、親、そして先輩クリスチャン次第となる傾向は否めません。
教職であれ、信徒であれ、CS生徒であれ、我が子であれ、若く未熟なクリスチャンを嘆き、その課題を論じるより前に、パウロのテモテへの言葉を前に、自らの課題と責任を省みるお互いでありたいと願います。