2007.09.03 Monday
平等化装置としての暴力
イコライザーという装置をご存知でしょうか?楽器や音響機器に詳しい方は、周波数を帯域別にコントロールするエフェクターのことだと思われるでしょう。それはもちろん、正解。しかし、もう一つアメリカ社会でかつて「イコライザー」と呼ばれた装置があります。それは何だと思いますか?
正解を発表しましょう。「イコライザー」とは、実は銃のことなのです。開拓のスピードに警察制度や司法制度が追いつかない時代があったアメリカ社会では、どうしても自衛の必要がありました。そのために最も有効なのが銃でした。
銃を持っていれば、弱者であっても、強者を倒せます。一方的に弱者が強者の暴力の被害を受けなくて済むわけです。つまり、銃は社会における強者と弱者の力関係を均等化する機能を果たします。そこで銃はイコライザー、つまりEqual(均等に)ize(する)er(もの)と呼ばれ、肯定的な評価を受けることになります。つまり、銃は、アメリカの開拓期と開拓地域にあっては平等化装置だったのです。
つまり、暴力からわが身を守るためには、銃という暴力手段に依存せざるをえなかったわけです。言わば銃は「平等化装置としての暴力かつ必要悪」だったのかもしれません。
刀狩など、権力側に武器所有を禁止され、警察によって世界有数の治安が保たれてきた日本の社会とは正反対なのです。アメリカの銃社会を批判することは簡単ですが、このような歴史認識なしに批判することは控えるべきだと思います。
アメリカの課題は、未だに、自衛のために、警察でなく銃に依存せざるを得ない点でしょう。銃という手段によって、一旦、平等化を確立してしまうと、他の手段に移行することは困難です。一旦、暴力に依存して、平等や安全を造ってしまうと、近隣住民と信頼関係を作るというベストの手段にシフトすることは並大抵のことではありません。
今回の私なりの主張は、「一旦、ある手段に依存して社会的システムを構築してしまうと、よりよい手段に変更することは極めて困難である」ということです。
特に暴力という手段はその傾向が強いと思います。暴力ほど、即効性に富む手段はありません。すぐに相手を意のままにコントロールできてしまいます。一旦この手段を用いてしまうと、別の正しい手段にシフトすることは極めて困難です。そう考えますと暴力は依存性があるようです。
今回は分りやすくするためにアメリカの銃社会を取り上げましたが、このシリーズの目的は、同様の構造的な暴力問題が日本の社会や私たちの日常にあることに気づきを与え、暴力について考えることです。
ですから今回のシリーズを通じての主張は「一旦、暴力手段に依存して社会的システムや個人のライフスタイルを構築してしまうと、よりよい手段に変更することは極めて困難である」ということです。言い換えますと「暴力という手段の選択は好ましいと思える他の手段への移行を極めて困難にする」ということです。そして、その例示をいくつか示したいと願っています。
「暴力について聖書がどういっているか?」まで責任もって論ずる力量は私にはありませんし、ましてや「正当な実力行使」と「不当な暴力」の聖書的境界線など、私には示しえません。ですから、十分に聖書的に論ずることはできないでしょうが、拙い記事が、暴力を新たな視点から考えるきっかけになればと願います。
正解を発表しましょう。「イコライザー」とは、実は銃のことなのです。開拓のスピードに警察制度や司法制度が追いつかない時代があったアメリカ社会では、どうしても自衛の必要がありました。そのために最も有効なのが銃でした。
銃を持っていれば、弱者であっても、強者を倒せます。一方的に弱者が強者の暴力の被害を受けなくて済むわけです。つまり、銃は社会における強者と弱者の力関係を均等化する機能を果たします。そこで銃はイコライザー、つまりEqual(均等に)ize(する)er(もの)と呼ばれ、肯定的な評価を受けることになります。つまり、銃は、アメリカの開拓期と開拓地域にあっては平等化装置だったのです。
つまり、暴力からわが身を守るためには、銃という暴力手段に依存せざるをえなかったわけです。言わば銃は「平等化装置としての暴力かつ必要悪」だったのかもしれません。
刀狩など、権力側に武器所有を禁止され、警察によって世界有数の治安が保たれてきた日本の社会とは正反対なのです。アメリカの銃社会を批判することは簡単ですが、このような歴史認識なしに批判することは控えるべきだと思います。
アメリカの課題は、未だに、自衛のために、警察でなく銃に依存せざるを得ない点でしょう。銃という手段によって、一旦、平等化を確立してしまうと、他の手段に移行することは困難です。一旦、暴力に依存して、平等や安全を造ってしまうと、近隣住民と信頼関係を作るというベストの手段にシフトすることは並大抵のことではありません。
今回の私なりの主張は、「一旦、ある手段に依存して社会的システムを構築してしまうと、よりよい手段に変更することは極めて困難である」ということです。
特に暴力という手段はその傾向が強いと思います。暴力ほど、即効性に富む手段はありません。すぐに相手を意のままにコントロールできてしまいます。一旦この手段を用いてしまうと、別の正しい手段にシフトすることは極めて困難です。そう考えますと暴力は依存性があるようです。
今回は分りやすくするためにアメリカの銃社会を取り上げましたが、このシリーズの目的は、同様の構造的な暴力問題が日本の社会や私たちの日常にあることに気づきを与え、暴力について考えることです。
ですから今回のシリーズを通じての主張は「一旦、暴力手段に依存して社会的システムや個人のライフスタイルを構築してしまうと、よりよい手段に変更することは極めて困難である」ということです。言い換えますと「暴力という手段の選択は好ましいと思える他の手段への移行を極めて困難にする」ということです。そして、その例示をいくつか示したいと願っています。
「暴力について聖書がどういっているか?」まで責任もって論ずる力量は私にはありませんし、ましてや「正当な実力行使」と「不当な暴力」の聖書的境界線など、私には示しえません。ですから、十分に聖書的に論ずることはできないでしょうが、拙い記事が、暴力を新たな視点から考えるきっかけになればと願います。