命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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続・自己愛性信仰障害の時代(4)〜自己愛助長要因としての再臨不在の福音提示
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     最近は説教でテサロニケをテキストに選んだり、コリント書から聖餐論をを扱っているせいか、結構、礼拝説教で再臨について語ることが多いです。再臨とは、被造物世界全体の贖いの完成を示すものでしょう。また、キリスト者の歴史観でもあるのでしょう。それ故に再臨は観念的になりやすく「それが今の自分とどんな関係があるの?」となりやすいもの。

     再臨について、大切なことは、「いつくるか?」とか「何が起こるか?」ではなく、「再臨があるなら、今どう生きるか?」であるはず。聖書が再臨を示す理由の一つは地上で敬虔な歩みをさせるためなのですから。そのことを示す代表的な聖句は次のものでしょう。
     

     「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。(競撻謄蹌魁В隠院

     ここでは終末というゴールが、地上生活というプロセスを決定付けるものとして、提示されています。あのパウロも、「上に召してくださる方」「冠を得るために」と再臨の主との出会いをゴールとして見つめながら、地上の壮絶な戦いを戦い抜いてゆきました。ゴールの明確化がプロセスを明確化するのです。天上での報いが明確になれば、地上での犠牲は喜びにさえ転じます。そうです。再臨という厳粛な事実がしっかり語られることは、クリスチャンの地上での自己愛的歩みを、再検討させ、克服させる大きなファクターになるかと思うのです。

     どこかの組織神学の書物で読んだように思うのですが、福音書において、二番目に多く扱われている教理は「再臨」だそうです。あのシュバイツァーは、福音書を研究し、それが非常に終末的であることに目が開かれます。その真理発見は彼の人生を激変させました。彼は医師、学者、オルガニストとしての名声を捨てて、アフリカに向かったのです。ゴール明示されたので、プロセス変更したのです。終末から逆算して、地上生涯の歩みを決めたのです。

     実はかく言う私も、献身の決め手は再臨でした。フルタイム献身の召しから逃げられないかと思案する私に最終的に示されたのは、救い主なるキリストではなく、「再臨のさばき主なるキリスト」でした。このまま、召しを聞かなかったことにして一生をごまかし続けて、キリストに前にとても立てないと思ったとき、主の召しに応答する決断をさせていただきました。

     興味深いことに、再臨が含まれている説教をしたり、再臨をテーマとする賛美を選曲すると、「再臨の説教は何年ぶり」「前に再臨の賛美を歌ったのはいつだろう?」などの声をお聞きします。全く触れられていないわけではないでしょうが、会衆の側の意識としては、再臨を覚えて地上を歩むというところまでは達していない方が多いのではないかと予想します。

     クリスチャンたちが、再臨をただの教理、観念的な歴史観とだけ受け止めているとしたらどうでしょう?まるで再臨がないかのような地上の歩みになりやすいでしょう。それは、具体的には、自己充足的な生き方、自分の快適さや平安、目の前の快楽、損得などを、神に従うことより優先しての現実生活となって現されるのでしょう。

     ある方がおっしゃいました。「最電で帰宅する酔っ払いを見たことありますか?ついさっきまで楽しそうに盛り上がっていたのが嘘のように空しい顔で、憔悴した表情でシートに座っているでしょう?そういう人生と決別するようにクリスチャンは召されているのですよ。」

     「永遠や終末」が繰り返し示されなければ、クリスチャンも、自己愛が活性化し、この世が全てのせつな的な生き方になりかねません。被造物全体の贖いの完成という壮大なスケールで福音が提示されなければ、クリスチャンの自己愛は、福音を自分とその半径3メートル以内セコイ慰めにまで、縮小しかねないでしょう。そして、そのような現世と個人中心の福音理解がもたらすのは、さらなる自己愛の増長と、自己愛的な信仰生活となるわけです。

     このことを図示するとこうなるでしょうか。

    「永遠と被造物全体を示す再臨不在の福音提示」→「地上生涯と自分でほぼ全てとする福音理解(福音の個人現世化)」→「現世での自己実現と個人的幸福を目指す信仰生活」→「自己愛傾向の増長永遠と世界への無関心

     たびたび本ブログで使ってきた喩えですが、「人類の滅亡まであと3分、果たしてオレの作りかけのカップラーメンはどうなるか?」のような福音理解と信仰生活へと自己愛は私たちを導くのでしょう。

     私自身もそうだったのですが、神に従わずに歩もうとする自己愛傾向を克服するものの一つは再臨、終末だろうと思うのです。それが、聖書のバランスで講壇から語られなくなってきたこと、あるいはそれをストレートに厳粛な事実として語ることに躊躇を覚えてるようになってきたことが、もしかすると、教会全体の自己愛傾向を助長しているのかもしれません。「再臨」が語られることと「自己愛」の関係を一度考えてみはどうでしょう?

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