命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
<< 続・自己愛性信仰障害の時代(2)〜罪の神話化、自己愛の絶対化? | main | 「愛」を「愛ならざるもの」に変換する名人 >>
続・自己愛性信仰障害の時代(3)〜みことばの自己充足・他者操作目的利用
0

     今日、多くの成熟したクリスチャン、健全な信仰者は、強い自己愛傾向がクリスチャンに見られるようになってきたとの認識と危機感をもっておられます。先日も、そのことを実感しました。クリスチャンが自己愛的になっているのは、問題ですが、その問題を認識し、危機感をもっているクリスチャンもまた、多くいることは、闇の中に光を見る思いがします。

     先日、ある教会で「慰めと励ましの人となる」と題して、使徒の働きの三箇所から、バルナバの慰めと励ましについて説教。畑を売った多額の献金で失望の中にあったエルサレム教会を励まし慰めたバルナバ。迫害者の前歴の故に孤立し、孤独の中にあったパウロを周囲の反対を覚悟で、異邦人伝道のリーダーにスカウトしたバルナバ。前回の伝道旅行で挫折したマルコを、パウロと決裂してまで、慰め励まし、後にパウロも認める伝道者に育てたバルナバ。

      そのように、お互いの周囲にいる失望、孤独、挫折の中にいる方々に対してのバルナバでありましょう。それらの方々を慰めと励ます教会の交わりを、作る発信源になりましょうとの趣旨のメッセージでした。


    そのメッセージの最後に、私は一つの「注意事項」をお伝えしました。

     

    「今日のメッセージを受けとって、自分にはバルナバがいないと嘆くこともできるでしょう。教会の交わりの中には慰め励ましがないと教会批判をすることもできるでしょう。人に慰め励ましを与えるなど冗談ではない、この私こそがそれを必要としている野々田と反発することできるでしょう。しかし、この朝、そのように受け止めるだけなら、お互いは今日取り次がれた聖書の言葉を取り違えているのです。

     

      この朝、聖書の御言葉を通して私たちに語り掛けておられること。それは『あなたがバルナバとなりなさい、慰めと励ましの人となりなさい』ということです。自らがバルナバになることなしに誰かにバルナバを求めるなら、そこからは何も始まりません。それでは、お互いは励ましと慰めのない世界に生きざるを得ないのです。自らがバルナバになる事なしに慰めと励ましの交わりは始まらないのです。」

     説教後の分かち合いや食事の交わりの中で、三名の方から、この注意事項がよかったとのご評価をいただきました。不正確ながら、再現するとこんな言葉でした。


    「自分が慰められたい、励まされたいと思ってしまうのですが、そうじゃないって、よく分かりました」

    「慰め、励ましも受けるより与えるですね。自分の慰め励ましだけを願う人がいますからね。」


    「最後がよかったです。聖書の言葉を自分が受け止めず、他者が従うことだけを考えるクリスチャンが最近は多いですからね。」


     「バルナバになりましょう」「慰めと励ましの人となりましょう」と説教中に何度もアピールしているのです。それでも、やはり最後の「注意事項」が必要だと私は判断しましたし、成熟した会衆は、同様の判断をしておられました。気がついており、危機感を持ち、問題視している方々はちゃんとおられるのです。

     「バルナバになりましょう」と聞けばなぜか「私にはバルナバはいない」と応答し、「慰めと励ましの人になりましょう」とアピールしているのに、湧き上がるのは、「慰められたい、励ましが欲しい」との思いです。普遍化すれば、聖書から「あなたは〇〇しましょう」と語られたら、「自分は〇〇しているか」は無意識にスルーして「あの人は〇〇していない」と他者批判。逆に「自分は〇〇して欲しい、教会は私に〇〇すべきだ」と自己充足を願います。

     つまり、明白に聖書の言葉から、当人に語りかけても、呆れるまでにその言葉を自己変革の言葉としては受け止めず、他者がその言葉に従うようにと御言葉による他者操作を願い、その他者が、その御言葉に従い自分によくしてくれるという自己充足のための言葉として聞くのです。さらに言い換えるなら「御言葉の自己充足・他者操作目的利用」であります。

     自己愛性信仰障害の特徴は、「自己充足目的」とそれを果たすための「他者操作」です。すべてをその目的にあわせて、受け止めるので、何とも残念なことですが、普通に正しく明確なメッセージが為されたとしても、なかなか、御言葉が、当人の心に届いていないのです。まるで心臓めがけて射た御言葉の矢が、透明人間を通り抜けて、別の人に当たるようです。
     


     私が説教の最後に伝えた「注意事項」は、説教者としては、「会衆を信頼していない」「御言葉とともに働かれるご聖霊を軽視している」とお叱りを受けるべき行為なのかもしれません。正しく取り次がれた聖書の言葉は人間的説得力を遥かに超えたご聖霊の働きによって、人の心の奥底に届き、人を造り変えると私は本気で信じています。しかし、同時に、自己愛の強さは、それさえも無力化するほどの罪の力を持っているのだとも私は、本気で考えています。

     会衆と聖霊を信頼するだけで、会衆の側の罪の力を想定しないのは、一種の「会衆性善説」ではないかと思うのです。それは、おめでた過ぎなのかもしれません。十戒を授かったモーセが下山して見たのは、偶像礼拝と性的乱交に興ずる神の民でした。人間の罪を甘く見るなら、御言葉の取次ぎの失敗原因を一つ増やすことになりかねないと説教現場主義の私は考えています。決して、会衆を見下しているのではありません。自らの内にもある「御言葉さえ捻じ曲げる自己愛」という罪を、説教者として、甘く見てはならないと考えているのです。

     御言葉を正しく適切に取り次いでも、なお正常に受け止められぬ現実。そうした徒労感や無力感を与える現実に向き合うのも、説教者の使命でありましょう。また、説教の分かち合い御言葉の学びや御言葉を中心とした交わりによって、その問題の克服に一歩でも近づけばよいのだろうと現時点では、考えています。特に成熟したクリスチャンの中には、近年の自己愛傾向を認識し、危機意識を持ち、問題視している方もおられるのですから、孤軍奮闘せず、団体戦でこの問題には対処するのがよいだろうと先日は思わされました。

    | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 20:11 | - | - | - |
       1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    2627282930  
    << November 2017 >>
    + SELECTED ENTRIES
    + RECENT COMMENTS
    + RECENT TRACKBACK
    + CATEGORIES
    + ARCHIVES
    + MOBILE
    qrcode
    + LINKS
    + PROFILE