命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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育てよう健全信徒(32)〜期待過剰・攻撃過激派クリスチャン
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      「過剰な期待とそれが裏切られた際の攻撃の過激さ」という「セットメニュー」は、今日、社会の多くの分野で見聞きしているように思います。まずは、オリンピックであります。今回のソチにおいては、圧倒的な実績を誇る金メダル最有力候補が、何人も、メダルを逃しています。それ程、メダル獲得は困難なのでしょう。それなのに、メダルへの過剰な期待を持つ人々がいます。その過剰な期待への反動は、それが裏切られた際の攻撃の過激さです。「まず、謝れ」とか「税金返せ」どころか韓国では「死ね」まで登場する過激さです。

     熱狂的なファンのいるスポーツも同様です。本田選手が移籍したサッカークラブやマー君の移籍先となった球団のファン達も同様なのだとか。活躍すれば絶賛ですが、期待を裏切れば容赦のないバッシングが待っています。

     このメンタリティーは、どうも人類に共通の罪に由来するのでしょう。それがまだ、スポーツの世界だけならよいのですが、政治の世界にまで、及んでしまうと国家の将来と国民の生活に直結してしまいます。日本の有権者の中には、「従来の規制や現状を打破して、日本社会を短期間で変えてくれるリーダー」と言うありえない期待を本気でいだく方も少なく内容です。特定の支持政党がないなら、投票行動は、「よりよい方」や「まだ、ましな方」を選ぶのが、現実的でしょう。しかし、「ありえない期待を持って」投票する有権者も少なくないようにお見受けします。
     
     しかし、過剰な期待は、それが裏切られるなら、攻撃の過激さとなって帰ってきます。あれほどまで支持された小泉政権の評価はどうでしょう?そこから、格差社会が始まったと攻撃され、他の要素もあって、自民党への不信感は急速に深まっての民主党政権誕生となりました。規制政治家とは異なる期待を抱かせた橋下氏は、しばらくは絶大な支持を集めましたが、期待に反しての言動があれば、手の平を返したようなバッシングであります。また、政権奪取時の民主党への過大な期待は言うまでもありません。政権担当能力不足は明らかなのにありえない期待度だったと記憶します。その期待は、想定外の裏切り方をされると、攻撃へと姿を変え、民主党を崩壊状態にまで至らせました。

     もちろん、国民が政治家に期待をしたり、言動によっては批判をするのは当然です。また、マスコミが客観的視点から、政治家を評価したり批判したりするのも当然でしょう。期待と批判自体は正常で健全なのです。しかし、近年は、その期待の「過剰さ」と、それが裏切られた際の攻撃の「過激さ」が異常だと思うのです。ギャップありすぎです。いいえ、幼稚すぎると思うのです。理性を働かせ判断した上での期待と批判でなく、理性を失ったかのような直感的な期待と直情的な攻撃に触れるたびに「みんなもっと大人になろうよ」と言いたくなります。

     この政治状況は、長い歴史と文化と社会構造から生まれてきたもので、様々なしがらみに縛られているのですから、一人のリーダーがヒーローのように状況を打破したり、劇的な展開をもたらすことなど、ありえないのです。間違った過剰な期待は裏切られるに決まっているのですから、手の平を返したような過激な攻撃も、最初から決まっているようなものです。そう、「期待過剰」と「攻撃過激性」は表裏一体なのです。同じコインの裏と表のようなもの。

     スポーツや政治の世界に見られるこの大衆のメンタリティーを、聖書的価値転換を経ずに、そのまま信仰生活に持ち込んでしまったのが、「期待過剰・攻撃過激派クリスチャン」であります。このクリスチャンたちは、伴侶であれ、牧師であれ、役員や先輩クリスチャンたちに、ありえないような過剰な期待をします。正確には、「量的に過剰」と言うよりは、「質的に非聖書的」と表現した方が、正しいでしょう。

     常に自分の感情を満足させてくれるような伴侶、自分の願う教会を実現してくれるような牧師などを、期待します。その一方で、自分の期待が自己中心で肉的であることの自覚はありません。ましてや自分が神様の喜ばれる結婚者、キリスト者であるかは真剣には自問しません。その結果、自分に対しての謙遜さも、他者に対しての寛容さも持ち得ないのです。

     「期待過剰・攻撃過激派クリスチャン」は結婚すれば、不一致調性や自己成長の努力をしなくても、自動的に相手が自分を満足させてくれると考え違いをしています。教会生活のおいては、自分は、それなりに真面目な教会生活を送ればOKで、牧師には短期間で教勢を向上させることや自分に感情的な満足を与えることを期待します。言うまでもなく、結婚生活は相互の努力で向上し、教会はキリストの体の各器官の働きで建てあがります。これらの期待は過剰であり、同時に自己中心で非聖書的な期待なのです。

     やがて、結婚生活においても、教会生活においても、過剰な期待に反する言動や現象が起こります。それが度重なれば、「期待過剰・攻撃過激派クリスチャン」過激な攻撃に転じます。「この結婚はみこころでなかった」との短絡的宣言をしたり、伴侶が人格否定言動を受け傷ついたりします。牧師が過剰な期待に沿えなければ、様々なかたちで攻撃をしかけます。それは指導への不従順、牧師批判の言いふらし、牧師夫人への陰湿ないじめだったりします。

     私は思うのです。これは、暴力的な過激派ですから、公安の出番であると。もし、天使界に「公安」があれば、この手のクリスチャンは、「監視対象」となるのでしょう。夫婦の一致と教会の一致を願う神様は、こうしたクリスチャンが、「結婚破壊防止法」や「教会破壊防止法」に抵触するのではないかと心配し、公安担当天使に監視を命じるのではないかと想像したりします。

     しかし、現実には、そうした公安機関は天使界にはないようです。当人が、聖書や祈りを通じて、自らの罪と過ちを認めて悔改めること、聖書が示すように指導者からの戒めや信徒相互の戒めによって、問題が解決されることを神様が願っているからなのでしょう。天からの公安ではなく、地上の夫婦間や教会内での解決努力が基本であります。きっとそうした努力を、神様から委ねられているという自己責任も自覚せず、他者に期待と要求ばかりをしている子どもじみた姿勢自体が問題なのでしょう。

     よく考えてみれば、メシアに対して、祖国復興という過剰な期待を抱き、それが裏切られたら死刑にしたのは、何を隠そう信仰者たちでありました。聖書とは異なる期待を救い主に勝手に負わせ、負いきれないと判断すれば手の平を返したように死に渡したのは、まさに信仰者共同体だったのです。群集と化した信仰者の行動は、今も昔も変らないようです。いつの時代も、神を離れた信仰者は、自らの努力や課題には目を背け、過剰で自己中心な期待を他者に抱き、やがて、期待に沿えないと判断すれば、傷つけ、人格的に刺殺し、社会的に抹殺するのです。今日のクリスチャンたちも、結婚生活や教会で自らの責任を忘れる時に、同じ事をしてしまうことを、肝に銘じたいものです。

     スポーツ、政治から教会に至るまで、「過剰な期待とそれが裏切られた際の攻撃の過激さ」という「セットメニュー」が普及し深く浸透している時代と社会です。実際に、自分のことは棚にあげて、呆れるような過剰な期待を結婚相手に求めるクリスチャン、自分のありようを問うことなく牧師にだけありえない期待を一方的に抱いているクリスチャンに、出会うことは近年珍しくなくなってきたように感じています。それが夫婦や教会の一致を破壊していくケースも増加しているように観察しています。

     その中にあって、期待過剰・攻撃過激派クリスチャンを生み出さないこと、該当者を罪の自覚と悔改めに導くことは、今日の教会において、非常に困難なチャレンジであるとともに、もはや逃げてはならないチャレンジになっているように思えてなりません。
     

    | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 18:10 | - | - | - |
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