命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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佐村河内問題から考える音楽の純粋価値、歴史的価値、付加価値
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     今日は、佐村河内氏の謝罪会見が予定されているとか、いないとか。佐村河内問題について、純粋に音楽論で記事を書いてみます。音楽には、大別して三つの価値基準があると思うのです。

     一つ目は、「純粋価値」です。つまり、純粋に優れた音楽であることです。もちろん、何を持って優れているかは音楽のジャンルによって異なるでしょう。大衆音楽の場合は、多数派に感動を与え、大衆の支持と音源購買が一つの基準でしょう。ただ、コアなものは、優れていても大衆に知られず、売れずに終わっていきます。しかし、クラッシクの世界では、どうしても次に記す歴史的価値が問われます。この21世紀に古典派やロマン派の名曲を書いても、価値はありません。ただ、優れて大衆性のある作品なら、映画音楽やゲーム音楽としてヒットしたり、今回のように「売れるクラッシク」として商業的成功を収めることはあるわけです。


    二つ目は、歴史的価値です。クラッシクの世界では、過去の音楽の焼き直しをしても、価値はありません。従来の美意識や音楽表現を乗り超えて、新たな手法や理念や美意識を開拓提示することで初めて価値があります。ポピュラー音楽なら、60年代ビートルズ風でも70年代ディスコ風でも、過去の音楽スタイルで表現しても、大衆に支持されて売れたら価値があるのですが、クラッシクでは、そうではありません。

     現代音楽というと一般の方には馴染みがないのでしょうが、オノ・ヨーコの最初の夫である一柳彗氏やテレビに登場する黛敏郎氏三枝成彰氏などは第一線の現代音楽作曲家であります。そして、クラッシク音楽の宿命とも言える歴史的な価値を捨てて、大成功した現代音楽家は、坂本龍一氏と久石譲氏であります。

     今回のゴーストライターである新垣氏のように無調音楽を作曲できる者にとっては、過去の作曲家の業績の上に立った調性音楽を作曲するのは、難しいことではないようです。坂本氏も久石氏師もそうした世界にいたのですから、優れた作曲能力を持っており、ロックや黒人音楽はダメでしょうが、大衆を魅了するクラッシク風調性音楽を作曲する事は、それ程困難ではないと思われます。実際に坂本氏のピアノ曲には、サティやドビュッシーに倣った優れた音楽だと思います。

      しかし、クラッシックの世界では、現代において、そうした作品を作曲することに多くの場合、意味はないのです。クラッシク音楽は、ある時点から、調性を捨てて、さらなる自由な表現を目指して、発展したので、調性音楽を作曲することは、歴史的進歩に対しての逆行になるわけです。調性の放棄は、クラッシク音楽を一部の理解者にしか理解されない音楽として表現上も袋小路に導いたのかもしれませんが、よくもあしくも歴史的価値をもって評価されるのが、現状であります。実際に、現代の日本において、調性音楽を書いて、一定の評価を受けているクラシックの作曲家は、吉松隆氏くらいでしょう。

     ですから、私自身は佐村河内氏の名前で書かれた作品には、全く興味がありませんでした。世間は騒いでいましたが、日本の現代音楽としての価値とは、別の価値によるものであろうと思っていました。私はクラッシク音楽の雑誌を全く読みませんが、もし、専門誌で一連の作品を日本の現代音楽として、高い評価をしている音楽評論家がいたら、かなり恥ずかしいことだろうと思います。逆に、過去の音楽の焼き直しであることを勇気をもって(障害者に対してのマイナス評価は勇気が必要でしょう)指摘し、現代音楽としての価値は疑わしいとした評論家には、拍手喝さいであります。


     三つ目は付加価値です。多くの場合は、作曲者や背景、あるいは表現内容に、「物語」があるのです。たとえば、1970年代あたりまではショスタコーヴィッチの「革命」や「森の歌」は、日本において名曲とされよく演奏、歌唱されていたように記憶します。今思えば、これは社会主義に一定の評価や期待があった時代に、この曲の思想性という付加価値が、左翼系知識人を中心に支持されて、二つの作品の価値を過大評価させていたのだと思います。

     同様のことが、ジョン・コルトレーンの「至上の愛」についても言えるでしょう。音楽のフォーマットはジャズですが、表現手法としては、むしろ、ロックに近いですし、表現内容はもはや宗教音楽となっています。これも、「神」「真理」「永遠」などが真剣に論じられた70年代あたりまで過大評価されてきた作品だと思うのです。もちろん、今も感動的を与える音楽ですが、この作品に限ってはジャズではなく「コルトレーンミュージック」というジャンルだと思います。これまた、この曲の持つ「思想性」と「宗教性」が語る「物語」がこの作品に莫大な付加価値を与えているわけです。

     そして、思うのです。佐村河内の名前での作品が売れたのは、まさにこの「付加価値」によるのだろうと。とりわけ作曲者と作品にまつわる「物語」が、一連の作品の価値を高め、「売れるクラッシク」にしてのだろうと。

     実は今回始めて知ったのですが、佐村河内氏のプロデューサーは、かつて、大江光氏をプロデュースした人物と同一なのだそうです。大江光氏は、大江健三郎氏の長男であり、先天的に知的障害を持っています。彼の存在は大江文学を、成長させ、ノーベル賞受賞にまで高めたと言われています。光氏の音楽的才能を発見した大江健三郎氏が、彼の才能を育てるサポートをして、ついにCD発売となります。一枚目はかなり話題となり、売れて、大きな賞も受賞しました。二枚目は、父親のノーベル賞受賞もあり、さらに話題となり売れたと記憶しています。

     つまり、この作品には、純粋な音楽的価値とは別に莫大な「付加価値」があったのです。「障害」「ノーベル賞作家の父」という物語が付随して、話題となり売れた面は否めないでしょう。私もこのCDは聴きました。よい音楽とは思いますが、正直、そこまで評価される音楽とは思えませんでした。また、調性音楽であり、作風はクラッシク音楽として歴史的価値のある音楽ではありません。大江健三郎のノーベル賞受賞があり、知的障害者の作曲者ですから、当時は、誰もマイナス評価をできませんでした。勇気をもって、発言した坂本龍一氏も後日、大江親子に謝罪したと記憶します。

     そして、この時、大江光氏をプロデュースした人物が、佐村河内氏をプロデュースしてきたのです。プロデュース手法が、あまりにも似ていませんか?両者とも「障害者」の要素を持ちます。そして、大江健三郎も被爆二世も「世界に向けての平和メッセージ」です。商業的成功が望めないクラッシク作品に、「障害」「平和」などの「物語」をつけて、その付加価値を高めるのです。

     大衆は、こういう「いい話」が大好きですし、朝日のようなメディアは、体質上、こうした「物語」に乗ってきて、大衆を啓発するわけです。広島市長まで乗せられたので、「80分に及ぶ無調を含む交響曲が18万枚売れる」というありえない現象が起こったのでしょう。多分、音楽作品自体の価値にお金を支払ったのは、1万人未満でしょう。きっと、17万人以上のリスナーは、付随する物語に感動して、お金を払ったに違いありません。平和を願い、被爆者や障害者への尊い思いを込めてこのCDを購入したのでしょう。

     かくして、クラッシク音楽のプロデューサーとしては、大江光作品に続いての商業的成功を収めたわけです。しかし、純粋な音楽表現を評価してではなく、むしろ、虚偽の物語にお金を支払っているだけに、今回の件は問題が大きいと思うのです。

     一連の作品が、今後も、純粋な音楽として親しまれ、評価され続ける可能性はあるでしょう。逆に、マイナスの物語が付随するに至ったので、演奏の機会は激減し、CDも長い目で見れば、売れなくなると予想されます。ただ、そもそもが、クラッシク音楽として、歴史的な価値を持つものでは全くなかったことについてはこれからも変りません。現代音楽とはあくまで、クラッシク音楽の歴史の上に成立する音楽です。過去の偉人の業績の模倣や応用に終始する音楽が評価されることはありません。

     今日は音楽の価値を、 純粋価値」、◆歴史的価値」、「付加価値」に分けて、論じてみました。三つに分類することによって、見えてくることもあるのは?拙い記事が今回の事件の理解を深め、「音楽としてどう評価するか?」について多面的な考察をする助けになれば感謝なことです。
    | ヤンキー牧師 | 音楽 | 10:16 | - | - | - |
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