命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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自己愛性信仰障害の時代(11)〜理解すれども、妥協せず!
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     このシリーズ、長々とお付き合いをいただきましたが、今回で最終回とさせていただきます。今日の午前は、某教会で奉仕。集会の中で、新聖歌の227番「キリストの愛、我に迫れり」を歌い、主を賛美しました。改めて折り返しの歌詞に感動して、歌ったのです。

    「キリストの愛、我に迫れば、我がいのち、君に献げて、ひたすらに主のために生く」

    これは、まさに「神に愛される自己執着からの解放→神への献身主のための人生」との「信仰勝利の方程式」であります。

     同じ趣旨の賛美で、個人的な感性にピッタリ来るのは、「今こそ、キリストの愛に応えて」です。これを礼拝やキャンプ歌うと、恥ずかしながら、80%の確率で涙が出ます。「単純」と笑われることなどお構いなく、素直に泣けてしまうのです。一番の歌詞は以下の通り。

    「私が神の子とされた 罪人の私が 無限の愛の大きさに ただ感謝をしよう
    こんな私のためにさえ 命まで与えた 十字架の愛の大きさに ただ感謝をしよう
     <おり返し>
    今こそキリストの愛に応えて 命をすべてを 献げよう」

     これまた、「信仰勝利の方程式」であります。神の愛への応答として、いのちをすべてを献げるのは、理に適っているのです。あるいは、正常な人格的応答なのであります。

     ところが、自己愛性信仰障害の場合は歌詞が変更となります。

    変更前「キリストの愛、我に迫れば、我がいのち、君に献げて、ひたすらに主のために生く」
    →変更後「キリストの愛、我に迫れば、我がいのち、君に献げず、ひたすらに我がために生く

    変更前「今こそキリストの愛に応えて 命をすべてを 献げよう」
    →変更後「今なお、キリストの愛に応えず、命も何も献げない

     これでは「キリスト無駄死にソング」であります。

     渇くことなき水をいただいたサマリヤの女は、人目をはばかる日陰の女であったわが身も忘れ、人々に堂々とキリストを伝え、サマリヤのリバイバルの発火点として用いられました。しかし、いまどきの自己愛性サマリヤの女は、渇くことなき水をいただいた後も、人目を避けて男性と同棲生活を続けるのでしょうか?昔のサマリヤの女は、渇かぬ水を得て、満たされ、やがて溢れ出したようです。水がめを置いて町へ出て行きました。いまどきの自己愛性サマリヤの女は、渇かぬ水を得ながらも、水は溢れ出さず、自分の水がめにしがみついているのでしょうか?

     一粒の麦は死んで多くの実を結びます。土葬のように地面に埋められ、自らが隠されてこそ、種は発芽をして、やがて多くの結実を得ます。しかし、いまどきの自己愛性麦は、自己表現と自己実現志向で、自らを地に埋めることを嫌い、神の眼からは、何の実も結んでいないことにも気がつかず、自己満足の実を結び続けるのでしょうか?

     パウロが手紙の読者に、土下座をするようにして懇願していることがあります。それは礼拝についてです。クリスチャンが自らを神に受け入れられる聖い生きた供え物としてささげるようパウロは懇願をしています。そして、それがこそ霊的な礼拝であり、神の愛に対しての理にかなった応答なのです。これが「真実の礼拝者」です。ならば、いまどきの自己愛性礼拝者は、神の愛への応答として自らをささげることもせず、教会が決めたプログラムをこなすだけの「不真実な礼拝者」ということになるのでしょうか?

     そう考えますと、自己愛性信仰障害の伝染がもたらすのは、キリスト無駄死にソングを歌い、イエス様と出会っても水がめを抱えて男性と同棲するサマリヤの女たち、自己満足の実だけを結ぶ、発芽しない麦、自らをささげない不真実な礼拝者の増加であります。このような状況を思い描くだけで、悲しくてたまりません。ひとり子をも惜しまず与えられた神様の愛が、ここまで、無視され、踏みにじられていいものでしょうか?こうなると、教会はもはや神の家族ではなく、神の機能不全家庭でありましょう。そこで育つの霊の子どもが健全で自立した成人に育つことは極めて困難となるでしょう。そして、この神の家族の家庭病理世代を超えて続くのでしょう。

     私は思うのです。今、この世代で、この神の家庭の家族病理を、福音によって、断ち切らねばと。自己愛性によって、病みかけている神の家族の歪みを次の世代に負の遺産として残してはならないと。

     そこで、私なりに思い至った結論は、「理解すれども、妥協せず」「人間理解は変えても、福音は変えず」であります。

     現代人が自己愛的で、神の愛に応答できず、献身の歩みに迎えない現実は、理解すべきでしょう。だからと言って、自己に執着し、自分のために生きる信仰姿勢を容認するような妥協はしないのです。不評でも、反発があっても、神の愛に応えて、自らをささげる歩みを呼びかけていくのです。あるいは、信徒教職に関係なく、自らがその歩みをして、模範を示しながら、共に歩みように励ますのです。

     変化の激しい現代社会においては、ほんの十年足らずで、人間理解を変えなくてはいけないのかもしれません。一昔のようには神の愛に応答できない人々が増えてきたなら、人間理解は変更が必要でしょう。だからと言って、「神の愛に応答できないバージョンの福音」に変更する必要はないはずです。なぜなら、聖書は、明らかに神の愛への応答を求めているからです。神の愛に応答できないバージョンの福音は、もはや福音たりえないのです。

     恐れるべきは、信徒が正しい福音に逆切れし、教会を離れていくことではありません。恐れるべきは、福音から、愛への応答や自己執着の放棄や献身への招きが削除され、福音が福音でなくなることです。追求すべきは、自己愛的な風潮に応じた福音理解ではなく、変ることなき福音理解のままで、福音が、自己愛的な魂に届くような愛、祈り、交わり、熱意、労、聖霊の働き・・・・・。何でしょう?残念ながら、私にはまだ、見えてきていません。

     「時がよくても悪くても」というのは、教会外部の未信者に福音を語る際だけではないでしょう。教会内部のクリスチャンたちに、福音を語るときも同様のはず。たとえ、時が悪くても、自己愛の時代であったとしても、変ることのない福音を伝え続けたいものです。「キリストの愛に応えて自らをささげること」「水がめを置く歩み」「死んで実を結ぶ麦」「自らを供え物とする礼拝」を含む本物の福音を、語り続けてゆきたいものです。

     その結果として起こるクリスチャンの数の増減は、再臨のキリストの前では、それほど重要評価対象ではないように予想します。神様は「よい忠実なしもべだ」とご評価くださる方、実績より姿勢、数より忠実さをご評価下さる方だからです。ですから、お互いが再臨のキリストの前で問われることは、「本物の福音を語ってきたか?」「本物の福音に生きようとしてきたか?」であって、「いかにうまいこと福音を説いて、何人導いたか?」「時代に応じた福音理解によって、どれだけ教会を大きくできたか?」ではないだろうと思うのですが、どうでしょう?

     明確な解答も出せずに、課題の指摘だけに終わったようなこのシリーズでしたが、読者の皆さんが、今日の教会に起こっている深刻な一課題を自覚され、それに向き合っていく助けや参考になればと願っています。11回にわたる連載をお読みいただき、感謝します。
    | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 16:38 | - | - | - |
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