命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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自己愛性信仰障害の時代(10)〜不健全自己愛を助長する外的要因
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     昨日は不健全自己愛を生み出す内的要因を記しました。今日は、それを助長するような外的要因について記します。

     まずは、この日本社会に浸透している文化自体が、自己愛を助長するものであることを思います。「満たされない自己愛」の中で、大渕先生は、社会学者C・ラッシュの「現代は自己愛の文化」であるとの見解を紹介しています。ラッシュはアメリカ社会を指して、「自己愛文化」と呼んでおり、それは、自由主義と個人主義の浸透した社会の仕組みと価値観を表す言葉とのこと。アメリカ社会のように個人の成功と達成が至上の価値と見なされ、それが推奨され、他者へのいたわりや配慮は無用とする社会では、この社会に適用する自己愛者が増加し、そうした自己愛者が社会的成功者となる確率が高くなるというのです。

     この文化の強い影響下に日本があることは間違いないでしょう。終身雇用が終わり、自由競争はより厳しくなり、勝ち組と負け組みが明確にされてきました。当然、競争激化がすすめば、自分が勝者になるために、他者へのおもいやりは配慮は、切り捨てざるを得なくなります。近年、日本社会に不健全自己愛者が、増加したことと、日本社会の自由主義化と個人主義化は、無関係ではないでしょう。

     さらに、この文化は福音理解にまで影響を与えているのかもしれません。競争社会で個人が、成功し、自己実現を果たすことに貢献する「自由主義的個人主義的福音」は、どうも、アメリカ社会で誕生し、日本にも到来しているようです。ただでさえ、自己愛傾向を強めがちなクリスチャンにとっては、それは自己愛を正当化しかねません。神の栄光や他者の幸福のためでなく、神の御名による個人的自己実現によって、自尊心を満たすような信仰のあり方が、こうした福音理解によって、正当化されてしまってはいないかと危惧しております。

     そうなれば、自分個人が、キリストに似た者と変えられていくこと、そして、キリストの体の一部として、御言葉に生きること、それによって証しすること、宣教と教会形成に励むこと、弱者への愛を注ぐこと、社会正義を実現することなど、聖書が御心として明示する歩みは、個人的自己実現によって、つぎつぎと奪われていきます。これでは、何のために尊い救いに召されているのか分かりません。

     最近の日本文化で、個人的にどうかと思っているのが、「顧客満足度」という言葉です。これは、あくまで商品やサービスを提供する側の論理です「お客様にご満足いただくことが私たちの喜びです。」ということでしょう。この言葉を受けて、自分の側の論理と勘違いして、自己愛を助長している人々は多いのではないでしょうか?「自分は顧客なので、満足を得られるのが当然の権利。お金出してるんだから、なおさらのこと。それができない企業側は失格」との思いが標準化していないでしょうか?ここには「対価にふさわしいサービスや商品を」という契約上の正当な権利意識とは別次元の「自己愛的な高慢さ」や「お客様という特権意識」があるのでは?と心配します。現代人はもしかすると、「消費行為によって自尊心を満たす」という愚行に生きているのかもしれません。

      教会の中では、「自己愛どまりの愛」という閉塞状態が起こっているようも感じます。「君は愛されるために生まれてきた」は大変な名曲だと思います。今の時代に必要なメッセージが込められた賛美であり、愛されて歌われるのは当然のことでしょう。実は、この曲には、続編というか、アンサーソングがあるそうです。その趣旨は、「愛するために生きよう」というものです。つまり、「私たちは、愛されるために生まれ、神と人を愛するために生きるのだ」ということでしょう。でも、その曲が歌われるのを日本の教会で聴いたことがありません。というか、私自身もその曲のタイトルを知らないというトホホ振りです。

     この現象が、「愛されるために生まれてきたが、愛するためには生きてない」クリスチャンの多さを意味しなければよいのだがと、心配しています。名曲「君は愛されるために生まれてきた」を自己愛正当化ソングで終わらせてはならないでしょう。神様の願いは、間違いなく、愛されるために生まれてきた者が、神と人を愛して生きることでしょうから。

     日本の教会には、日本人の精神性に由来する自己愛の助長要素もあるでしょう。日本文化では、「愛」と「甘え」がいとも簡単に混同されます。「愛という名の甘え」を根拠に、一般社会では出せないような自己愛が教会で表出されたり、要求されたりします。これが、応答され続けると、教会は愛の交わりでなく、共依存の交わりとなり、クリスチャンが信仰的自立に向かうことがなくなるでしょう。そして、教会は「相手をあるがままで愛する大人の共同体」ではなく、「ずっとこのままで愛してもらえる幼児の共同体」に変質していくのでは?

     こうなると、講壇からは、自己中心の悔改めに導くメッセージ、自分を捨てて神に従う勧めなどは、減少してゆきます。会衆に不評だからです。会衆が望むのは、自己愛を満たし、成長を求めず現状維持を肯定するメッセージだからです。教会に、自尊心を肥大化させるような福音提示のアンバランスさがないかは常に検証されるべきだと思っています。

     現代文化は、自己愛を正当化し、助長するような声で満ちています。教会の交わりや福音理解にさえ、その波は押し寄せているのかもしれません。そうした声を、非聖書的なもの、福音に反するものとして、判断し、排除していく努力をしなければ、自らが染まってしまうほど、自己愛文化の浸透力は強力なように思えてなりません。

     先日「自己愛 聖書」という語句で、検索をしたら、次の記事がヒットしました。以前にも紹介したことのある某牧師のブログ記事です。秋葉原のこの事件は、「満たされない自己愛」でも、自己愛による惨劇として、大渕先生が取り上げています。何より、自己愛についての聖書的考察がなされています。賛否両論あるでしょうが、一読の価値があると判断しています。特に福音が心理学化され、自己愛容認を助長してきたことについては、本ブログより遥かに有意義な考察がなされているように思います。

     この記事を、教会内に押し寄せる自己愛文化に対抗するメッセージとして、お読みいただければと願います。「時流に抗する愚直一筋」との紹介文通りの内容です。日本の教会が取り返しのつかないような自己愛傾向に陥ってしまう前に、こうした愚直なまでの発信が、愛と配慮を持ちながらもなされることの必要を覚えます。

     

    秋葉原無差別殺傷事件−自己愛の果てに 「聖書は何と言っているのか?」 【1】〜【6】

    http://geocities.yahoo.co.jp/gl/mgfchurch/view/20080612

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