命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
<< 自己愛性信仰障害の時代(5)〜自尊心に仕える教会生活 | main | 自己愛性信仰障害の時代(7)〜霊的リーダーにおける不健全自己愛の現われ >>
自己愛性信仰障害の時代(6)傷つきやすさに現われる潜在的自己愛
0
     ずっと取り上げている著書「満たされない自己愛」によれば、自己愛者は必ずしも尊大で、わがままな要求をして、周囲を困惑させるとは限りません。同著は、自己愛には大きく二つのタイプが存在するとするP.ウィンクという心理学者の見解を紹介しています。その二つのタイプと言うのが、「自己愛顕在タイプ」と「自己愛潜在タイプ」です。実はこれまで取り上げてきたのは、前者だけでした。後者は自己愛が潜在的で、外からは、自己愛者には見えないタイプです。

     大渕先生の説明によれば、潜在タイプは、自己顕示や尊大さはなく、むしろ、大人しく控え目で傷つきやすく、そのため人付き合いを避ける傾向があるそうです。一見、自己愛的に見えないのですが、深く付き合うと強い自己愛の持ち主であることが判明するのだとか。特徴としては、自分にとらわれすぎなことと、強過ぎる自己関心が上げられます。

     実は、内向的なのは、自尊心が傷つけされるのを避けるため。傷つきやすさも、自意識が強いためで、他者の言動を自分の評価が含まれているものとして解釈することによるのだそうです。たとえば、上司が自分以外の部下を褒めれば、自分はけなされていると感じ、友人がファッションの話をすれば、自分のセンスが問われているように受け取ります。自己愛潜在的タイプの場合も、隠された自尊心は、常に満たされることを願い、それが自意識過剰や他者の言動への過敏さに現われているのだそうです。

     内向的で傷つきやすい人間に実は、強い自己愛が宿っていることは、不勉強な私にはちょっとした「眼からウロコ」でした。これまで、ずっと疑問に思っていた二つのことで、解決を見出したからです。一つは若い世代に見られる極端な「傷つき回避傾向」です。拒否されて傷つくのが怖いから、愛する女性に告白しようとしない男性たち、不合格が怖いので就活も大学院の受験もせぬまま、大学を卒業する学生たち、結婚後の濃密な関係で傷つけあうことや結婚破綻で深く傷つくことを恐れて、結婚を先延ばしにする青年たち・・・・。

     この傷つきやすさを、私は「弱さ」「未熟さ」「繊細さ」「純粋さ」だと考えていたので、納得できなかったのです。この傾向の背後に自己愛の影響があると仮定すると、大いに納得がいったのです。自己愛が強く、自分にこだわりすぎて、自尊心に最高の優先順位を置くからこそ、傷つ回避が、他のすべてに勝るのでしょう。最重要の自尊心を傷つけるくらいなら、「彼女なし、社会参加なし、結婚相手なし」の惨めさや劣等感や寂しさの方を選ぶのでは?と考えたのです。また、実態以上に肥大した自尊心を満たすような、就職先、異性でなければ、傷つくリスクを犯してまでチャレンジはしないのでしょう。

     もう一つは、「傷つけられること」に関して、これまで多く見聞きしてきた現象が解明できたのです。それは、「傷ついた」とよく言う人に限って、人を平気で傷つける言動をするという意外な現象です。これが、なぜなのか?納得できる解釈がなかったのですが、この自己愛潜在タイプで知って一件落着となりました。傷ついたとよく言う人は、極めて自己愛が強いのです。その本質は弱さや繊細さではなく、自己愛の強さなのです。そして、自己愛の強い人は自己関心も強すぎるあまり、他者への共感が乏しいのが特徴です。相手の心情を想像しての言動が困難なのです。そこで、自分がされたら、傷つくような言動を平気で他者にしてしまうのだろうと納得できました。

     考えてみれば、「やさしく内向的で傷つきやすい人物は、背後にナイフを隠し持っている」などの表現で、これまでも同様のことが指摘されていたことに気がつきました。秘められた自己愛の強さはきっと、顕在タイプと大差はないのでしょう。傷つきやすいのは、心の弱さどこから、自己愛の強さであり、隠されている自尊心は、かなり尊大なのでしょう。実績も根拠もなく、自分はもっと賞賛され、認められ、価値が認められるべきとの思いとそうならないことへの怒りや憎しみが蓄積され、ナイフを隠し持つに至っているのでしょうか?

     どうも、近年の自己愛傾向の現れは、仮想優越感や愛されたがりだけでなく、内向性と傷つきやすさも、もう片方の現われだったのだと気がつきました。もし、そうだとすれば、顕在タイプに潜在タイプを加えなくてはならず、若い世代の自己愛傾向の浸透度は、予想される二倍に及んでしまうことになります。どうも、問題は一般に思われているより深刻化しているのでは?

     ここで、誤解がないように断っておきます。性格の一部としての傷つきやすさは、「繊細さ」「感受性の強さ」「純粋さ」など、よい性格の裏側かと私は考えています。ですから、傷つくようなことに普通の人より傷つきやすいのは、正常であって、自己愛の強さによるものではないでしょう。この記事で取り上げているのは、本来傷つく原因にならないようなものにまで、過剰に傷つき、円満な人間関係や深い信頼関係を構築できないレベルの傷つきやすさとして、受け止めていただければと願います。


      さて、この自己愛潜在タイプが教会生活を送るとなると、どのような自己愛性信仰障害の症状が予想されるでしょうか?

     教会生活で他者の言動を、自分と関係ないのに、自分のことと受け止めて傷つくことが起こります。例えば、牧師が公の場で、優れた奉仕をした信徒個人を褒めたとします。すると、潜在タイプの自己愛者は、自分は教会で正当に評価されていないと解釈し、自尊心が傷つきます。牧師が説教中に聖書箇所に沿って、あくまで一般論として、ある罪を取り上げて、悔い改めを勧めても、潜在タイプの自己愛者は、自分個人へのあてつけと受け止めかねません。

     周囲はそのクリスチャンに何ら悪い事はしてないのに、当人は一方的に傷ついていきます。兄弟姉妹に少し心情を漏らすと、「そんなので、傷つくのはおかしい」と言われて、その言葉にさらに傷つくことも。勝手に「教会の人たちは自分を理解せず、傷つけ続ける」と的外れな評価を下します。あるいは牧師の耳に、人づてに、その信徒さんが「説教で傷ついた」と言っているとの情報が入ります。そこで、牧師は、当人に対して、「そうした意図はなかったが、結果的に傷つけて申し訳なかった赦して下さい」と謝罪したとしましょう。 そして、表面上は赦しと和解が成立したかのように見えます。

     するとある牧師は、また、傷つけてはいけないと過剰に配慮をします。よい奉仕をした信徒を励ませなくなり、聖書から大胆に罪を示し悔い改めを勧めることができなくなります。この時点で既に牧師は、自尊心にコントロールを受けています。

     また、別の牧師は、赦しと和解が成立したので、大丈夫と判断して、以前と同じ言動をします。しかし、自己愛体質は何ら変化していないので再度、傷つきます。そして「この牧師は謝罪しておきながら、同じことを繰り返し何度も自分を傷つける」という誤解による一方的判断をしかねません。そうして傷つけられるたびに怒りと憎しみを蓄積し、背中にナイフを装備していくのです。

     時が満ちて、大人しく静かな信徒が突如、ナイフを牧師の胸に突き刺すような言動に至る場合もあるようです。それは、ネットへの匿名の書き込みやある日突然送られてくる一方的かつ主観的な批判メールかもしれません。大人しく内向的な信徒からのいわれのない誹謗中傷。そこに至って牧師夫妻はようやくその信徒の本質を知り、大ショックを受けたりします。

     言うまでもなく、同じようなことは信徒間の交わりにも起こります。傷つきやすいクリスチャンを、周囲は自己愛者だと思わないので、配慮します。自己愛者も交わりを避けたがるので、当然、その人物の交わりは表面的にならざるを得ません。そうなると、自分の本当の問題や悩みを打ち上けて祈り合うことはありませんから、教会の交わりの中にあっても孤軍奮闘状態となります。教会生活は団体競技でなく個人競技となり、教会生活継続は困難に。ただでさえ、教会生活のなかで、周囲からすれば、いわれのない主観的な傷つき方をし続けるのですから、そもそも教会生活の継続自体が、かなりの苦痛となるのでしょう。

     最も牧会上で困難を覚えることは、こうした自己愛潜在タイプは、傷つきやすさを用いて、自己防衛をしてしまうことです。周囲はどうしても、傷つけないようにと願うあまりに、罪の指摘や悔改めの勧めを躊躇せざるを得ません。以前に記したように自尊心が傷つくので、不健全自己愛者は、どうしても、自らの罪を認め悔改めて回復と成長に向かうことが困難です。さらに、周囲がそれを躊躇してしまうのですから、当人は、罪を犯しながら自覚できず、悔改めもできず、罪の結果として様々な恵みを失っていきます。

    コロサイ3:16はこう記しています。
     「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
     このように聖書は、励まし合いだけでなく、互いに戒め合う交わりをも命じています。

     また、ヤコブ5:16はこう教えています。
    「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
     同じく聖書は、赦し合いだけでなく、互いに罪を告白する交わりをも命じています。この文脈では、癒しの恵みを受けるためですが、他の恵みも同様で、それを受けるためには、罪の告白と悔改めは必須であるはずです。

     こうして、傷つきやすさによって、人を牽制し、罪や本当の問題に触れないように周囲をコントロールするのに成功するわけです。こうなると、聖書が命じる「罪を告白しあい、戒めあう交わり」はどこへやらですコントロールを受けてしまった周囲は、「弱いから仕方ないよね」「神様赦してくれるよ」で、終わり、後は放置です。教会の交わりが、罪と課題については、「傷の舐めあい体質」「あたらずさわらずの無難路線」に変質します。そうなれば、当人は罪の自覚も、悔改めも、回復もなく同じ歩みが続くのは当然でしょう。結局は、逆切れして攻撃してくる自己愛顕在タイプと同様の結果となります。

     せめて、傷つきやすい心に寄り添いながら、「弱さを理解してくださる神様のところへ持って行こう」とか「赦してくださるからこそ、悔い改めましょう」とやさしく語りかけるチャレンジくらいは、したいものだと私は常々考えております。指導者として兄弟姉妹として、傷つきやすく接し方に迷う方を愛していくとは、具体的にはこういうアプローチもその一つかと思うのです。

     ある程度、自己愛が強く、傷つきやすく、自己防衛的なのは、現代人には一般的な傾向でしょう。それは、教会生活では、マイナスに作用するので、気をつけるべきしょうが、自己愛性信仰障害には該当しないと思うのです。ポイントは、「客観性と必然性のある傷つき方かどうか?」です。言い換えれば、第三者から「それは傷つくよね」と言ってもらえるかどうかです。「そんなので傷つくのはおかしい」と言われて傷つくことがよくある方は、それが強すぎる自己愛、自己関心、肥大した自意識、過剰な自尊心によるものではないかを、ぜひ内省し、御検討いただければと願います。

     長々と記してきましたが、今回は、「傷つきやすさに現される潜在的自己愛」についての問いかけで終わります。

    〈教会の交わりに関して〉
     大人しく傷つきやすいクリスチャンの「傷ついた」に自分は、支配コントロールされていないだろうか?
     その人の発する「傷ついた」は客観的な必然性や因果関係を持つものだろうか?「言った者勝ち」になっていないだろうか?
     その自己防衛によって、示すべき罪や向き合うべき課題を扱えないまま、放置せざるを得なくなってはいないだろうか?
     そのことは当人の問題に留まらず、教会全体の交わりから、罪の告白と悔改めを喪失させ、教会の聖さを損なわせていないだろうか?
     いつのまにか自分もそうした不健全な交わりを形成する一人になってしまってはいないだろうか?

    〈自分自身について〉
     自分の傷つきやすさは「それは傷つくよね」と他の人にも同意してもらえる性質のものだろうか?
     相手の立場からは、「どうして?」「ありえない」と応答されるいわれなのない主観的で一方的な傷つき方となっていないだろうか?
     心の中には、自分はもっと尊重され、認められるべきという強い思い、そうでない現実への怒りがないだろうか?
     傷つくことを恐れるあまり、正直に問題を話せないまま、教会生活の中で、さらに傷ついてばかりになっていないだろうか?
     その結果、自分を傷つけた信徒、指導者、教会全体に対して、怒りや憎しみを蓄積してはいないだろうか?

      これらの問いかけが、課題の自覚につながり、為すべき対処につながれば感謝なことです。
    | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 22:04 | - | - | - |
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    28293031   
    << January 2018 >>
    + SELECTED ENTRIES
    + RECENT COMMENTS
    + RECENT TRACKBACK
    + CATEGORIES
    + ARCHIVES
    + MOBILE
    qrcode
    + LINKS
    + PROFILE